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明治期に能登旅行記を著した天文学者
パーシヴァル・ローエル


興味のある項目にジャンプ! 「ローエルの略歴」 「NOTO」旅行の
経路(紀行図)
パーシヴァル・ローエル著「NOTO」の能登関係抜粋のページ
1.荒山峠を越える 2.内海 3.穴水にて
4.ふたたび海へ .能登街道

<はじめに> 
ローエルの「NOTO」旅行だが、彼自身が言っているように、そのきっかけは、たまたま日本地図を見ていて、日本海沿岸の北側に奇妙な形で突き出た能登半島の形を見て、惹き付けられたことによります。 少し「NOTO」の最初の章で、動機など書かれた「見知らぬ土地」の文章をここに転記してみましょう。
 「ある日の夕方、東京の自宅で別に当てもなく、日本地図をあちらこちら、ちょうど誰もがダンスホールに来ている連中を見渡すように眺めているうちに、私の目は西方の海岸に奇妙な形を見せて突き出している1つの半島に惹き付けられてしまった。それは深く入り組んだ内海や、(おそらく南北の七尾湾のことだろう←私・畝の註)たくましい岬のある地形(珠洲の禄剛埼のことだろう←私・畝の註)を見せていたが、地図にはNOTOと記されており、この地名すらも私の心を喜ばせた。
 その母音の持っている音色、子音の響きさえもすっかり気に入ってしまった。流れるようなNの音、確信を暗示するTの音、気まぐれな言い方かもしれないが、女性らしさと男性らしさの2つを同時に現しているのだ。その半島を眺めれば眺めるほど、憧れの心がつのり、足のあたりがむずむずしてき、とうとう能登まで足をのばす破目になってしまった。他人の恋人のことなど誰も分かってくれなくても結構なのだ」

 ローエルもその後正直に「結局、能登は遠い国であったには相違ないが、あまり他の土地と違っていなかったという事実を白状しなければならない」と書いています。しかし、お陰で我々は、欧米人の目から見た貴重な明治維新時の能登の姿を、現在読むことができるのす。
 それに、この「NOTO」は、別に能登だけの記録ではない。東京を出発して、碓氷峠、長野、直江津、親不知子不知を通り、富山県から荒山峠を越えて能登に入り、帰りは、また富山、長野、塩尻峠、諏訪、木曽地方を通って天竜下りをして、浜松に出るというコースを採っているが、そのコースの全てを記録している。能登の記録だけでなく、当時の中部地方の様子を知る貴重な資料とも言えるでしょう。
 ただこの本を読むと、特に能登の人には、彼の植民地人を見下ろす西欧人的見方や、せったくよく宣伝してもらいたいところ、皮肉った表現や酷評をしている箇所が何箇所か見られ、不機嫌にさせるかもしれない。この点は、同じく七尾を訪れた有名な英国外交官 アーネスト・サトウミットフォード などと比べると、いくらハーバードを出たとは言え、人格的に劣るのであろう。またアメリカ人という開拓者の子孫だけに、洗練された英国人以上に、そういう態度が出るのかもしれません。
 最後に、明治期の日本に興味のある人には、ここに書いてある抜粋だけでなく、実際に入手して読むことをお勧めします。きっと明治に対する新しい視野が開けることと思います(参考:能登の図書館には大体この本が置いてあります)。

<ローエルの略歴>
 「人類がいままでに確認できなかった太陽系の惑星の中で、もっとも外側にある冥王星の数学的計算による予知発見者として、またユニークな火星の研究によって世界の天文学者に不滅の業績を残したパーシヴァル・ローエルは、1855年3月13日に、アメリカ合衆国、マサチューセッツ州、ボストン市に、オーガスタス・ローエル(1830-1900)の長男として誕生した。」(『NOTO』の訳者・宮崎正明氏の解説から)
パーシヴァルは、ボストンの旧家ローエル家の父祖から(彼と同名で1639年英国ブリストルから米国マサチューセッツ州に渡来した)数えて十代目であった。彼の一家は、いわゆる学者を多く輩出した家で、父親はハーバード大学出身の富裕な実業家だが、弟のアボット・ローレンス・ローエルは、後にハーバード大学の総長になっているし、妹のエミイ・ローエルは、20世紀初頭のイマジズム詩の代表的詩人として知られている。また叔父方のジェームズ・ラッセル・ローエルは、19世紀後半のアメリカ文壇の大御所的存在で、ハーバード大学教授、詩人、文芸評論家、アトランティック・マンスリー誌の名編集長であった。
 パーシヴァル・ローエルは、13歳(1868年)の時から天文に興味を持ち始め、口径2インチ4分の1の望遠鏡で、毎夜天空の星を観察するのに熱中し、特に火星の存在に異常なほどの興味を示した。長じて、ハーバード大学に入学し、数学、古典、文学、物理学などを学び、卒業時の論文は「星雲説」であった。彼はまた文才にも恵まれ、在学時代に書いた論文でボードウィン賞をもらったりしている。
1876年に大学を卒業すると、甥でクラスメートでもあった、ハートコート・エモリーと共に、英国からシリアにかけての大旅行を試み、当時、セルビアとトルコの間に勃発していた戦争に参加しようと計画したが、これは失敗に終わった。しかし、この旅行はその後の彼の生涯を通して旅行と、飽くなき冒険心の原動力になった。
 その後、6年間ほど、祖父ジョン・アモリー・ローエルの許にあって綿会社の経営事務に携わるが、退屈な実務には飽き足らなかったらしく、1883年(明治16年)の春、同郷の親友で医者であったスタージス・ビゲロー(1850〜1926)の後を追って、アメリカ大陸を横断し、太平洋を渡って、日本へと渡った。ビゲローは、日本の美術品を約16000点買い集め、アメリカに持ち帰って、ボストン美術館(世界でおそらく最高数の貴重な日本美術品を収蔵する美術館)の日本美術部の基礎を作った人です。
ローエルは日本に着いて以後は、東京で家屋を借り、日本人の召使いを雇い、日本語の学習に専念した。その後、来日して間もないその年の8月、ローエルは在日アメリカ合衆国の公使館から通達を受け、朝鮮国からアメリカの首都ワシントンに派遣される特別外交使節団の随員(外国人秘書官の役職)を依頼された。彼自身は、自分の亊を過少評価しているが、彼の短期間の学習による日本語の習熟ぶりは他のアメリカ人が舌を巻くほどのものだったらしい。使節団と共に8月17日に日本を出航、9月2日には、サンフランシスコに着いている。9月18日、ニューヨークでアーサー大統領に謁見した。そして、首都ワシントンを中心に、6週間滞米した後、日本経由で、12月24日、京城に帰着した。国賓待遇で、京城の城壁内の官邸に居住した。
 1884年(明治17年)2月、約3ヶ月の朝鮮滞在を終えて、日本に帰着。その年の夏には、。シンガポール、インド、欧州という西回りの経由で秋には故郷のボストンに帰っている。1886年(明治19年)には、2年前(1884年)12月始めに京城で起きた甲申の変に関する論文「A Korean Coup d'Etar」を書き、アトラティク・マンスリー誌11月号に掲載している。また朝鮮での見聞記「朝鮮−朝の静けさの国」も出版している。そして翌年には「The Soul of the Far East(極東の魂)」を出版している。
 1889年(明治22年)1月8日、日本着。2月11日、大日本帝国憲法の発布の日に暗殺された森有礼の事件を取り上げ、「The Fate of a Japanese Reformer(ある日本改革者の宿命)」と題する論文を書き、
アトラティク・マンスリー誌の1890年11月号に掲載した。また英吉利法律学校で講演し、「劣悪なる欧米人になるなかれ、優秀なる日本人たれ」と強調した。
 5月能登旅行を決行した。
 6月、帰米し、
ハーバード大学の卒業式に出席した。ザ・ファイ・ベイター・カッパーの詩会に招待され、自作詩「Sakura no saku」朗読を行なった。
 1890年(明治23年)1月末、欧州(スペイン)へ旅行、ロンドンを回り5月帰米した。また冬には、また欧州経由で日本へ向けて出発、インド、ビルマを経由。
 1891年(明治24年)4月1日、日本へ着いた。その年、
「NOTO」をアトラティク・マンスリー誌の1月号から4月号に連載した。そして「NOTO」も出版。5月、チェンバレンの紹介で、1890年に来日し、当時島根県の松江に住んでいたラフカディオ・ハーンと交友関係を結んだ。6月23日、築地の日本アジア協会年会で、「A Comparison of the Japanese and Burmese Languages(日本語とビルマ語の比較論)」と題して講演した。これは後に、印刷されています。8月6日には、アガシイと共に木曾の御岳山に登山した。また神習教官長、芳村正乗につき神道の研究を始めています。10月20日すぎには、日本を出帆。
 1892年(明治25年)12月25日、口径6インチの望遠鏡を携帯して横浜に着く。その後、日本が天文台設置に適するかどうか調査した。
 1893年(明治26年)3月、日本アジア協会誌に、「Esoteric Shinto(秘境的」の連載を始める。4月には、熊本在住のハーンを訪問する計画をたてるが、実現に至らず。8月、箱根宮の下ホテルで、チェンバレンなどと共に過ごす。秋には、「
Esoteric Shinto(秘境的神道)」の連載を完了した。伊勢神宮を参拝、年末、日本を永久に去り、帰米した。
 1894年(明治27年)、「Occult Japan(神秘的な日本)」を出帆した。アリゾナ州、フラグスタッフにローエル天文台を創設し、火星の研究に没頭しはじまる。
 1895年(明治28年)、火星研究の成果である「Mars(火星)」を発表し、火星に高等生物が棲息し、その表面に見える細線状のものは、彼らの構築した運河であるという説を唱えた。(他にローエルの天文学に関する著書は、「Mars as the Abode of Life(生命の居住地としての火星)」(1908)、「The Genesis of the Planet(惑星の起源)」(1916)などがある。これらの書物は、H・G・ウエルズの「宇宙戦争」などその後のSF小説や、宇宙人論に強い影響力を与えた。
 1908(明治41年)、ローエルは52歳にて、コンスタンス・サヴェージ・キイスと結婚した。その後、欧州へ新婚旅行し、ロンドンでは夫妻は気球に乗り、彼は空中から市街を撮影した。また同年、フランスのソルボンヌ大学で講演を行なった。
 1916年(大正5年)数学的計算により、海王星の彼方に惑星Xが存在することを予知確認した。同年11月12日、ローエルはフラグスタッフで死去した(享年61歳)。
 1917年(大正6年)1月24日、日本アジア協会のローエル追悼会で、クレー・マッコーレー(Clay Maccauley)がローエルの追悼の演説をする。
 1930年(昭和5年)1月23日と29日の夜、ローエル天文台のクライド・トムボー(Clyde Tombaugh)は、ローエルの予知に従って観測中、惑星Xを望遠鏡内に捕らえ、写真撮影に成功した。3月13日、ローエルの誕生日に新惑星の発見を公式に発表した。プルートー(冥王星)と命名される。


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