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〜「英国外交官の見た幕末維新・リーズデイル卿回想録(Memories)」(Algernon B・Mitford著)の石川県関係抜粋〜
(2000年9月1日作成)
このページは、イギリスの幕末・明治維新の有名な外交官のA・B・ミットフォード(リーズデイル卿)の著書『英国外交官が見た幕末維新』(講談社学術文庫)から、石川県関係の箇所である第3章「加賀から大坂への冒険旅行」を抜粋した。石川県の記述の箇所は、慶応3年、明治改元の一年前の話である。七尾に上陸した目的は、七尾を新潟の代港として、加賀藩に開港してもらう為の外交交渉であった。幕末明治維新を記述した書物の中では、外国人の書いた貴重な資料である。私は、前に、彼の同僚であるサー・アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』のやはり、石川県関係の抜粋を転記紹介した。この本の冒頭の萩原延壽氏の寄稿文等にも書いてあるのだが、ミットフォードは同僚であったアーネスト・サトウの日記を借用したり、サトウの協力を得てこの書を書いたようだ。それゆえに、サトウの
『一外交官の見た明治維新』
とこの書は姉妹本と読んでもいいかもしれない。幕末明治の外国人の目から見た日本を知るには、必携の本だと思うので、興味のある人は、これを機会に一度全文を読んでみることをお勧めする。文中、一部分かりくするため、カッコ書きなどで、私が註を加えた箇所もあるが、ご容赦願いたい。
《以下石川県関係の文章》
第3章「加賀から大坂への冒険旅行」
我々は江戸へ戻って、次の数週間は暑さと蚊を呪いながら、日常業務を処理していつものように平凡に過ごしていたが、7月になって私とパークス公使は、蝦夷島(北海道)へ出かけることになった。私は、サー・ヘンリー・ケッペルと彼の指揮するサラミス号に乗り組み、公使はバジリスク号に乗船した。その旅は大変楽しい航海であったが、なかでも特に興味があったのはアイヌ民族を初めて見たことである。この航海の業務上の目的は日本の西海岸の商業について調査をすることにあり、特に外国貿易に適した港を見つけたいということであった。こうして8月7日に、サラミス号と、ヒューイット艦長が指揮するバジリスク号には、サトウが乗り組み、さらにブロック艦長の指揮する調査船サーペント号の合計3隻が能登の港、七尾湾に勢揃いした。七尾の港のある加賀の国は日本で一番裕福な貴族と言われる加賀侯が支配していた。
七尾湾は小さな島で一部がふさがれているので、パークス公使は開けた停泊地と油断できない砂州がある新潟よりはるかに役に立ち、外国貿易する港として価値がある港と考えた。彼が加賀藩との話し合いを切に要望したので、藩の首都である金沢から2人の重役が来て会議を開くことになっていた。これは少し予定より遅れて、8月9日金曜日に会議が行なわれた。
パークス公使は加賀侯の代表者に、薩摩や土佐や宇和島の諸藩のように外国人と親交を結ぶことによっていかに望ましいかを印象づけようと、あらゆる努力をしたが、彼の議論は大して役に立たなかった。加賀藩は差し迫った政争で、どちらの側に味方しようかか、まだ明らかに決心がつきかねていたのである。使者たちが七尾の港を外国貿易の門戸として開けない理由として訴えたのは、もしそうすれば大君の政府がそれに襲いかかって、昔から加賀藩の領地だったものを奪い取るに違いないということであった。使者たちは可能な限り反対を繰り返したが、彼らが反対すればするほど、パークス公使は何とか説き伏せようと決意を固めた。ついに彼は言葉を荒くして、彼の場合は特にそれが激しかったのだが、使者たちがそんな非友好的なら、自分の部下を2人、すなわちサトウと私を金沢へ派遣しなければならないと言った。それで、我々は内陸を通って公使とは大坂で出会うことになったのである。この申し出は、想像されたように、しぶしぶながら受理されることになった。このようにして会見は表面的には礼儀を外れない形で終わったのである。
ブロック艦長の調査旅行を助けるために派遣されていた大君の役人たちが、我々が内陸旅行を続けると聞いて大騒ぎし、とてもそんな事は不可能だと断言した。彼らの言い分は、我々の生命を保証できないし、政府の代理人として全ての責任を負いかねるということだった。大君の令書は、我々がこれから通らなければならない加賀や越前の地方には通用しないことが明らかであった。しかし、これらの事柄も公使の決意を変えさせることができなかった。
しかし、彼はまだ外国人が踏み入れたことのない西海岸の地方の知識を少しでも得ようとし、できうれば、そこの藩の人々と関係を保とうと決心していたのであったが、明らかに少し神経質になっていたようだ。というのは、我々が彼の所へ暇乞いに行った時、ケッペル提督とヒュ−イット艦長が我々が直面するであろう危険について、非常に心配していたし、いたわりの言葉さえかけてくれたのだが、彼はこの計画を思い付いたのは我々の無鉄砲さが原因だと主張しようとしたのである。これに対して私は、反駁して、我々は義務の問題として、その件について彼の命令に従うのはやぶさかでないが、単なる気まぐれからの旅行の計画など、決してすべきでないと思うし、それは本国にいる我々の身内に対しても正しいことではないと言った。公使はただ笑っただけであった。彼を正確に評価すれば、こういう旅行は彼自信が喜んでやりたい種類のものであたにすぎず、彼の今までの生涯はスペードのエースのように大きな賭けの連続だったのである。
我々は午後に上陸した。サラミス号は蒸気を上げて出航して行った。続いてバジリスク号も出航した。サーペント号だけがのんびりと錨を下ろしていた。その晩は、翌朝の出発の準備をして過ごした。大君の役人たちは何とかして我々を説き伏せて随行しようとしたが、我々は頑強に反対した。彼らは役に立たないばかりか、逆に有害な存在になったに違いない。彼らは下っ端役人にすぎず、我々の護衛の役に立たないばかりか、単なるスパイとして、我々が地方の人々と友誼を結ばないように、それを阻止するつもりであったのだろう。
我々は現在、彼らがその指揮下に入っているブロック艦長と一緒に残るのが彼らの義務だと指摘した。彼らは、もし何か悪いことが我々の上に起これば困った立場に違いなると色々泣き言を並べた揚句、結局、我々が彼らに決して責任を負わせないという条件でそのまま出発することに同意した。こうして最後に加賀藩の役人から、我々の身柄引き渡しに際して五体満足で無事引き渡したいという正式な受取文書を受け取って、サーペント号に戻って行った。
我々は8月10日に出発した。加賀藩の役人は前日に公使から受けた叱責で、まだ不機嫌な、怒った顔をしていたので、出発は意気揚々という訳にはいかなかった。しかし、日本人の性質として、いつまでも気難しい顔でいられる訳はなく、そのうえ、サトウの陽気で愛想の良い態度に悪感情も長くは抵抗できずに、我々と案内役とは期待以上に早く友好的な間柄になった。
我々2人には上等な籠が用意してあり、サトウの従者野口と私の中国人の召使リン・フーには普通の籠が用意されていた。両刀を差して長い棒を持ち、前田家の定紋である互い違いになった櫂の旗印を持った20人ほどの兵士が、我々の護衛を務めることになったが、それは見せかけだけなのか、本当の護衛なのか、見当がつかなかった。しかし、少なくとも町とか村や、家の集落のある所では、不思議な野獣(彼ら外国人を指す=訳者)をj一目見ようとして押しかける群衆を整理して我々を通らせる役には立ったのである。暑い日であたが、町をはずれて間もなく、籠の窮屈さに、我慢しきれなくなったので、籠から下りて南西の方向に向かう美しい谷に沿って歩くことにした。景色はすばらしかった。こちらに浅い入り江があるかと思えば、あちらには長く延びた浜辺がある。特に一番の絶景は、東にそびえる越中の山々で、1万フィートの高さがあるということだが、本当に「天にも届く山の頂」という表現そのものであった。どこもかしこも日本独特の緑の濃い森や林が広がっていた。こんなに絵のように美しい森や林が他のどこの国にあるだろうか。
我々は、空の色と同じように青い小波(さざなみ)が戯れる海際の砂浜沿いを歩いていったが、そこはちょうど日本人が好む昔の古い物語の背景にそっくりだった。それは一弦の琴の物語で、弓で弾く楽器ではないが、パガニーニのようなバイオリンの名人が喜びそうな話である。本当は、その話の舞台は遠く他の地なのだが、この場所にぴったりに思えたのは、このロマンチックな浜辺を歩いていた時、その話が私の心に浮かんできたからである。
ずっと昔のある時に、京都の宮廷にある公家がいたが、彼は天使様から大変寵愛を受けていた。しかし、彼が「宮廷連中をあまり信用してはいけない。彼らは女性のように気が変わり易いから」と言ったのはもっともなことだった。一時の気紛れから寵愛を失った公家は追放されて、須磨という遠く離れた貧しい漁師たちの住む寂しい村に住むことになった。来る日も来る日も彼は海辺で幸福は永遠に去ってしまったと思って悲しんでいた。ある日のこと、彼は浜辺で上げ潮が砂の上に運んできた難破船の投げ荷の一部と思われる海水で摩滅した板切れを見つけた。彼は熟達した芸術家であったので、それを見るなり不思議に思って、自分にこう問いかけたのである。「もし、私にそれだけの技術があれば、この壊れた板切れに生命を与えて、音楽を奏でることができるかもしれない」。それから彼はじっくりと思案し、知恵を絞って、どうしたら一本の弦と駒で音階をうまく調節することができるか、長いこと考えた。彼が考えに没頭していた時、突然、数羽の磯鴫(いそしぎ)が飛んできて、彼の目の前の波打ち際に止まったのである。その形は、彼に天啓のような啓示を与えた。もし、その形を、この板切れの上に写せば問題が解決するかもしれないと思った。彼がその通りに作って、試しに弾いてみると、嬉しいことに一弦の琴は立派に鳴ったのである。これが今日、須磨琴と言われているものの起こりである。
琴の美しい旋律は、彼の久しい孤独な生活の無聊さをこよなく慰めてくれた。みすぼらしい漁師小屋の生活は厳しかったが、小屋の中は清潔できちんとしており、藁葺き屋根には濃い青色の菖蒲(あやめ)が沢山の花をつけていた。年取った漁師の夫婦と落ちぶれた貴族は親しくなって、その16歳の娘は彼の甘美な音楽に魅せられて、何時間でもそばに座って耳を傾けていた。彼らは愛し合うようになって結婚し、彼女の美しさと優雅さのお陰で、彼の惨めな追放の生活は一転して幸福な生活となった。こうして数ヶ月が過ぎたある日、宮廷からの使者が来て、天子様が彼のことを哀れと思って許され、公家を昔の地位に戻すことになったと告げた。しかし、彼は彼女を深く愛していたので、身分卑しい妻を伴って京都へ行った。そこで、彼女は、立派な奥方になり、2人は、それからずっと幸せに暮らした。これが須磨の琴の物語である。(畝源三郎註:平安時代の歌人・在原業平が須磨に流された時の故事である。謡曲『松風』は、これを題材としたもの)
余談はさておき、本題へ戻ろう。ひどい暑さの中を我々はてくてくと歩いて、時々小奇麗な茶屋の気持ちよく涼しい座敷で休んで、この地方の名物である香りの良い西瓜や美味しいリンゴでもてなされた。いくつかの旅篭(はたご)は非常に感じが良く、人々は親切で好意的であった。加賀での我々の応対については、何ら不平を言う理由はない。加賀の侍は薩摩や土佐の侍のように、猛々しい戦士ではなく、また長州の指導者のように抜け目のない策略家でもない。我々の会った加賀の侍は、大人しくて穏やかのように見えたが、おそらく少しのろまなのかもしれないが、富裕の身分なのだろう。一方、加賀の藩主は私が言ったように、どちらかと言うと日和見主義の傾向があったが、その巨大な富のゆえに、この国で重要な位置を占めていた。
2日目の旅行は非常に景色のよい所を通って、高松を過ぎ、海岸に沿った絵のように美しい漁村で、宿場町として繁栄していた津幡に着いた。そこには上等な旅館があったので、一夜を過ごすことになり、すばらしい日本料理を味わうことができた。
8月12日月曜日の朝7時45分、3日目の徒歩旅行に出発したが、目的地は加賀の首都である金沢であった。我々は森本という村の、ある寺で、いつものように西瓜とリンゴでもてなされた。群集は、益々増える一方なので、案内者は我々が金沢へは入れるかどうか心配していた。1マイルばかり先の濃い松林の群落の間から白い城壁が見え隠れしていた。
我々は大坂やその他の場所で、見世物になるのはもう飽き飽きしていた上に、みすぼらしい旅行用の服を着ていたので、威厳のある体裁を整えることはとてもできないことがわかっていたため、花嫁のように慎み深く駕籠に乗ることにした。大勢の見物人が沿道を埋め、我々のために用意された、すこぶる美しい休憩所がよく見える蓮池のあたりも、右往左往する人で一杯であった。見物人は、あらゆる年代にわたり、そして様々な階層の人々であった。彼らの中には、かなり多くの顔立ちのよい娘たちが見られたが、加賀の女性は器量が良いことで有名である。曲がりくねった道を通って宿屋に着くと、そこで我々は日本の典型的なもてなし方で迎えられたのであるが、それは極めてもったいぶって、礼儀正しく丁重な歓待であった。居間には毛羽のあるビロードの絨毯が敷いてあり、どこからの寺から持ってきた赤い漆塗りの椅子が我々のために用意されてあったが、接待する側としては我々が日本に長く滞在して畳の上に座る習慣に慣れていることを知らなかったのだろう。間もなく藩主の使者が到着して、ひどい暑さなので藩主は我々の健康を案じていると見舞いの言葉を述べ、体が悪いので直接お目にかかれないのが残念であるとの挨拶を伝えた。私は、ハリー・パークス公使の代理として、日本と、特に加賀藩と永遠の友情を誓うものであると答えた。使者が主人役となってご馳走が運び込まれ、そのうち、見かけは良いが、大変座り心地の悪い椅子が届けられて、日本風の作法に従って酒を酌み交わした。しばらくするうちに、我々が医療や薬を必要とするかもしれない場合に備えて、藩公の侍医数名が現れた。
当時は、まだ漢方の医学が全盛の頃なので、なかでも鍼療法や灸治療が痛いけれどよく効くとされていたのだが、我々としては、その治療を敢えて受ける覚悟は出来ていなかった。そこで我々は、謝意を表し、治療を受けない口実として健康には全く心配ないと申し立てた。続いて話題は政治的なことに移ったが、完全に極秘の事項と思われるのに、誰でも入ってきて聞けるような状態で話が進められたので、重要な秘密を保つことは、まず期待できなかった。
しかし、それは我々の感知しないことである。大君の政府は、我々の訪問の目的が何なのか、そして我々が七尾を外国貿易のために開港させようとあらゆる力を尽くすだろうということをよく知っていたので、我々としては何も隠すことはなかったのである。加賀藩の役人の言うのは、昔からの議論の繰り返しであった。彼らは外国貿易を受け容れる準備は完全に出来ているが、彼らの港が貨物の荷揚げのための投錨地以上のものになることには賛成できない、きっとそれだけで済まなくなるからということだった。一番恐れているのは、もしそうなったら、大君がそれを召し上げようとすることなのだと何度も繰り返した。彼らが帰る頃には我々はすっかり親密になり、サトウは、これからも江戸から金沢と連絡をとるようにしようと約束した。加賀藩は前にも述べたように、当てにできる藩の1つであったから、これは大きな成果であった。サトウは、加賀藩から2人の藩士を弟子にしようとさえ申し出た。我々の聞いた話では、すでに2名の藩士が英国に留学中とのことであった。
公式会見が終わると、すぐに街の見物に出かけたが、大きな町で、丘があり、美しい樹木が植えられていて、その大きさは決して誇張ではなかった。人口は5万という話であった。絹織物や漆器や扇を売っている立派な店あったが、値段は途方もなく高かった。やっとのことで非常に古い漆器を1つと、その他2、3の貴重な品物を手に入れたが、この漆器は今まで私が手に入れたいくつかの名品の1つである。九谷は金沢の近くにあったので、我々も当然のこととして、そこの名産である変わった赤色をした焼き物を1つ、2つを買わざるを得なかった。立派な本屋も何件か見つけた。我々の会った藩の役人たちは、このうえなく丁寧で親切であった。夜になって、町奉行の方から滞在を延ばして近隣の土地へ遠出することを要請してきた。この招待は、大変強い懇願であったので、断りきれなかった。そして翌日、少しばかりの口銭を稼ごうとする誘惑に抗しきれなかった宿の召使の仲介で、高い買い物をした後で、4マイルばかり離れた金石(かないわ)という停泊地に向けて馬に乗って出発した。鞍は西洋風だったが、紙でできた模造革で作ってあり、馬勒は信じられないほどお粗末な代物であった。蹄鉄を打ってない小馬は、相変わらず乗り心地が悪かったが、日本は馬好きの国とは言えないので、仕方のないことであった。
この5マイルの行程には、途中2ヶ所の休み場所が設けてあり、最後の1つは、金石に作ってあった。目的地についても、大して見るべきものがなく、砂浜と開けた海とそこに流れ込んでいる小さな流れしかなかった。我々の親切な主人役が、なぜあれほど熱心にこんな場所に案内したのか、推量に苦しんだ次第である。暗くならないうちに金沢に帰り着いた。夜になって2人の藩士が夕食後の雑談にやって来た。彼らは七尾を外国貿易の港として開港する可能性を再び始め、思慮深い言い方で、密貿易と見られるようなやり方をするのは好ましいことではなく、外国船を入港させれば、かなりの量の物資交換が行われる見通しであると幕府(原註=大君の政府)に話すのが最善だと言った。我々は、江戸にそういう趣旨の書状を出すよう彼らに依頼した。次いで、一般的な政治の話になった。彼らの意見は現状では幕府は原則として支持されなければならないが、その権限は一定の範囲に制限されるべきだろうということにあった。我々は遅くまで話し込んだが、加賀藩は、その頃まだ確固たる方針を持っていなかったと確信している。加賀藩には、我々が他の藩で知り合ったような影響力のある指導者が一人もいなかったことは明らかであった。我々の受けた歓待に対して、サトウが日本語に訳した感謝状を私から手渡した。彼らは大変丁寧に別れを告げて去って行った。
翌8月14日の朝、再来を請う人々の声に送られて、名残を惜しみながら別れを告げ、再び旅の途についた。宿の主人は自分の義父がやっている薬屋に立ち寄って、あらゆる病気に効く万能薬で、硝石と麝香(じゃこう)から作った紫石(しせき)という素晴らしい薬を買うよう勧めた。物見高い見物人が、相変わらず大勢いたが、その中には器量の良い若い婦人も多く見られた。最初の休み場所から我々が心から親切に歓待された大きな都を振り返って眺めてみると、今や終焉間際の封建制度の象徴である城が、小高い地面の上に高く白い天守閣を見せて、下に広がる市民の家々を威圧するかのように、一面に植えられた松の木の間に堂々とそびえ立っていた。それは絵のような感動的な光景であり、幸せな思いであった。それは時代を経るに従って、ますますその価値を増していき、時の流れはすべての美しいものを包み込んでいくのである。
加賀の地方を通った残りの旅は、色々な出来事があった。いく先々で、金沢での滞在をあれほど楽しいものにしてくれた時と同じように、どこでも愛想よく期待以上の親切さでもてなしを受けた。この地方が非常に豊かであることに驚きの念を禁じ得なかった。人口2千の松任や、人口2千5百の小松の町を通ったが、どの町も加賀侯の温かい治世に恵まれて、人々は余所では見られないほど幸せそうであった。
15日に越前の国境に達したが、そこで出迎えたのは、一緒に来た加賀藩士が率直な怒りを表して言ったのだが、ただの下っ端役人に過ぎなかった。ここでも、加賀の役人は、越前の役人に、我々の身柄の受取書を書かせたのである。それは何と書いてあったのか、疑問に思っている。「1つ、英国人役人2人、身体に異常なく、受け取り申し候」とでも書いてあったのだろうか。その文章を見たいものだと思った。
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