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石動山縁起

 石動山(標高565m)は、能登では宝達山(637m、宝達志水町)、高洲山(567m、輪島市)についで高く、その頂上大御前または御前山と呼ばれ、雲を呼ぶ峰として、船乗りたちにとっても海の指標となることなどから、古くから拝されてきたことが想像されます。漁師にとっても、魚網をおろす時の魚だめの森として拝されてきたことでしょう。
 またこの山からは、二宮川、長曾川、熊野川、宇波川など、その他幾筋かの川が流れ下り、山嶺から放射状に海いでいます。これらの流れは、山麓の人々の生活を潤し、この山の四季の移り変わりは、里人たちの生活の暦となっていた。このようなことを考えると、修験道の山として、拝される前から石動山は、山麓の人々から信仰され拝されてきたのではないでしょうか。伊須流岐比古神社縁起書(石動山新縁起)

 石動山の縁起を書いた書としては、しばしば「石動山縁起」という名が使われますが、これは通称で、しかも石動山の謂れを書いた縁起書は実は新旧二つあります

 新縁起は巻頭に「伊須流岐比古神社縁起書」とあるもので、承応3年(1653)加賀藩藩主前田利常の命によって儒者・林道春(羅山)の筆になるもので、全文漢文で書かれ同年8月石動山に納められています。右の写真が石動山資料館に展示されている新縁起の巻物の実物です。
 新縁起では、「北陸道能登国能登郡石動山、昔聞星墜為三石、象天有三光也、或曰此石自天漢流下、故曰石動山、延喜式所載能登国伊須流岐比古神社是也、石動此云伊須流岐、此山者泰澄法師之所開也、蓋与白山霊神同一体也・・・」と書かれています。天から星が墜落して、石となり、それが由縁で石動山となったことが書かれ、開山したのは 白山を開基 したのと同じ泰澄となっています。泰澄は越前国越知の出身で、養老元年(717)石動山に登り、法道の衣鉢を受けて壇を弘め、天平8年(736)には泰澄が疱瘡流行につき祈祷して霊験を現したといいます。そして天平勝宝8年(756)泰澄が講堂を建立し、石動寺を改めて天平勝宝寺となしたと・・・。ただしこの泰澄に関しては古縁起では一切書かれていません。これは白山の教線というか勢力の伸張の影響でしょうか。

 古縁起は、巻頭に「金剛證大宝満宮縁起」とあるもので、元和9年(1623)西塔院時慶とその子・時興の父子が、一山の旧記をもとに若干の修正を加え転写筆録清書したものです。中世の古縁起は、石動山の本山にあたる真言宗勧修寺(かじゅうじ、京都府山科区)に残されており、昭和57年の町史編さんの際に行われた調査で発見されています。それによると、同縁起は文明11年(1479)に書写された写本を大宮坊の灯下で転写したとあり、現存する写本では最古のものとなります。
動字石
 この古縁起も、新縁起同様、漢文で書かれております。私畝が訳出して、ここにその訳文を載せることも考えてみたのですが、漢文の素養の他、宗教的慣用句・用語など知らねばとても訳せそうにないので、諦めました。(自信の有る方は、『鹿島町史 資料編』に新・古縁起書の全文が掲載されていますから、そちらをご覧になられるのがいいでしょう)
 よって「能登石動山」(北国出版社)などの本の説明を引用させてもらいながら、以下述べたいと思います。
 「むかし・・・・万物の生命をつかさどる星が流れて落ち、この山に鎮まりて三千世界を護り給う。この護命の石を動字という。故にこの山の名を「いするぎ」といい、動字護命の徳を護って天目一箇尊が当山を鎮(まも)りたまう。
 こうして第10代崇神天皇の御代になり、天目一箇尊の裔孫が勅を奉じて宝剣を納め、ここに宝満宮、すなわち伊須流岐比古神社が創建されたのである。
 この宝満宮を方道という仙人が護り、それに神威参というものが従ったという。」
 この方道仙人は、ガイド本などでは、関西の諸寺を開基したことで有名な播磨国出身といわれる法道仙人と同一人物としているものもあります。写本の際、「方」と「法」の字を間違えたのであろうか。それとも別な仙人なのであろうか。

 また石動山の神威について、この古縁起書には次のような話が載せられています。
 第12代垂仁天皇第一皇子である誉津別尊は、30歳になられるのに、未だ言葉を発せられなかった。そこで天皇は何とか発言できるようにと諸国の霊場を尋ねられて、方道仙人に祈願を求められました。
 勅を奉じた方道仙人は、宝満宮において祈祷したところ、皇子は空を飛ぶ鵠(くぐい)を見て、「あれは何や」と初めて言葉を発せられたといいます。そして皇子はその神恩に感じて、当山で生涯を終えられたといい、皇子の行在所が大宮坊であるといいます。
 一山の所伝によると皇子の死後、供奉してきた12人のものは、石動山焼尾の地に墓を築き、誉津石権現と称えて皇子の墓を守り、そこに住みついたと伝えられています。
 その後、方道仙人が去られると、智徳上人が元正天皇より太朝大師の号を賜り、石動山に登って虚空蔵求聞持頭巾の法を勤修されたといい、その後40年を経て天平勝宝8年(756)に大礼堂が建立され、天平宝字元年(757)には孝謙天皇の勅使として左大臣藤原家通の登拝があって、大宮坊に宿泊されたといいます。こうして勅使参向のもとに求聞持頭巾の法が勤修されたところ、効験あって神霊たちまち虚空蔵菩薩となって現れたまい、勅奏によって四方九里の神地が定められたといいます。
 次いで天平宝字7年(763)、孝謙天皇の宣旨によって二位の宮、三の宮が造営され、重祚の祈願は宝満宮で行われました。
 そしてそして天平神護元年(765)、天皇が重祚されるや一山の寿命として六句偈が授けられたといいます。
 こうして石動山の名声いよいよ高く、霊験あらたかにして道俗の集まり来ること、あたかも熊野山の如く、山伏の行念はますます盛んになったといいます。 

 なお別当・大宮坊を中心とする一山の寺号を天平寺と称することについて、近世の関係記録hの多くは天平勝宝8年(756)に大講堂が建立されてより、天平勝宝寺と改め、後に天平寺と略称するようになったといいます。しかしながら近世以前に天平寺と称したき禄は確認されていないそうです。
 南北朝時代の拾芥抄・諸寺部に「石動寺、在能登国・・・・・虚空蔵」とあり、近世中期の和漢三才図絵にも「石動寺、在能登郡・・・・・在二宮上」とあります。従って、天平寺の名称が使用されるようになったのは、近世になってからと考えられています

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