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白山信仰とその歴史

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白山の祭神 白山修験道のはじまり 菊理媛神と白山比咩神 白山修験道の発展
白山衆徒 白山宮の祭礼と神人 白山宮の神領 参考図書、引用図書他
三馬場の争いとその裁定以降の加賀側の情況 明治以降の白山

  白山の祭神
 白山様をおまつりする神社は全国で2,717社(神社本庁「祭礼データ」の祭神名検索の結果のデータでは2,693社)
あります。現在のご本社は、加賀(石川県鶴来町)の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)とされており(註:文明12の大火までは白山山頂の奥宮が本宮とされていた)、一般に、菊理媛神(くくりひめのかみ or きくりひめのかみ)(白山比咩大神・妙理大権現)を主祭神とし、伊邪那岐神(伊弉諾神)(いざなぎのかみ)伊邪那美神(伊弉冉神)(いざなみのかみ)の3柱をお祀りしています。その信仰が最盛期の頃は、「上がり千人、下り千人」と言われるほどの賑わいをみせていました。
 この神社の末社は、その山峰が見える範囲の石川県、新潟県、愛知県、岐阜県にやはり多いようです。
白山とは、加賀・越前・美濃国境に位置する御前峰(ごぜんがみね:2707m大汝峰(おおなんじみね:2684m別山(べつさん:2399mを総称しての呼称で、古くから天下の名山として聞こえ、平安期の和歌集(『千載集』)に、「おしなべて山の白雪つもれどもしるきは越の高根なりけり」と詠われほどの山峰でした。御前峰の奥宮には菊理媛命(くくりひめのみこと)を、大汝峰の大汝神社には大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)を、別山の別山神社には白山の地主神である大山祇神(おおやまつみのかみ)をお祀りしています。大己貴神(または大男知神)(おおなむちのかみ)は、阿弥陀如来の垂迹神といわれています。大山祇神は聖観音(しょうかんのん)の垂迹神といわれています。『白山之記(しらやまのき)』(一般に「白山縁起」白山比咩神社蔵では本来の地主神が白山権現に、御前峰を譲って別山にお鎮(しず)まりになったとされています。
 この地に生活していた人々は、この山を、古くは「しらやま」と呼び、神聖な存在として信仰してきました。もともとは、加賀・越前・飛騨・美濃の4ヶ国にまたがって聳え、河川の水源で白山を御神体として仰いだのであり、農業 に従事する人にとっては、農耕に不可欠な水を供給する神の山ところから水神・龍神や祖霊がこもる山として、また漁業に従事する人や日本海を行き来する船に従事する人に とっては海上の指標となる事などから航海の神さまとして信仰していました。加賀や越前の漁民は、白山の前を漁船で通るときは、帆をおろし船を一度停め白山に向かって遥拝してから通過する習わしになっていたといいます。現在でも、信仰は厚く日本海の多くの漁船は大漁旗に白山比咩神社の名を記したりします。

白山修験道のはじまり
 もともと白山は霊峰でしたが、
白山の神に対する山岳信仰が起こると、修験道の発展により、立山などとともに、北陸の修験道の一大聖地となり、登拝する者も沢山現れました。白山之記』(白山比咩神社蔵)も、その頃作成されたといいます。詳しいい研究では、白山中宮吏・隆厳(りゅうげん)が長寛元年(1163)に千妙聖人の撰述に注記を加えて成立したと推定されています。(ただ、ここでことわっておきますと、修験者達の山岳宗教の対象になったからといって、白山の信仰のあり方が全てそうなったというのではなくて、庶民にとって白山という山に対する自然神崇拝は、長く続きました。)
 白山を開山した人物は、役(えん)の行者につぐ修験者として有名な泰澄大師と言われています。泰澄は、白鳳11年(682)に越前福井の麻生津(現在の福井市38社町の泰澄寺の辺り)で生まれたと言われています。彼は子供の頃より信仰厚く、14歳で越智山で修行を重ね、そのため若いころから法力によって石や物を飛ばしたり、自分自身も自由に飛行したり瞬間移動することができたといいます。実際にいた人物であることは分かっていますが、上記の様にその生涯は伝説めいていて、信じかねる記述も多々見受けられるので、縁起もそのつもり読んだらいいでしょう。
 泰澄大師は、養老元年(717)に妙理大菩薩を感得して、白山妙理大権現と称して祀ったのが、霊峰白山を神仏混交的な菩薩信仰の対象として崇めることの始まりといわれています。白山妙理大権現の本地(垂迹つまり化身する前の姿)は、十一面観音といわれています。山頂の池の西方にある千歳谷は、万年雪に覆われた深い渓谷で、その南の竜尾の麓に、泰澄大師の行道(ぎょうどう)の跡があります。参詣道には白山七社と呼ばれる社があり、『白山之記』や白山参詣曼荼羅図(はく さんさんけいまんだらず)などによってご利益を説いたため参詣者が増え、馬場には 参詣者のための宿泊施設も整ってゆきました。また、白山の信仰を伝える御師(お し)の活躍などにより、崇敬者の講組織も形成され、信仰は全国に広まってゆきました。中世の記録などを見ると、木曾義仲、源頼朝、義経、北条頼時などの崇敬が篤く、土地や神馬などを寄進したことが書かれているといいます。
 その参詣登山道は禅定道(ぜんじょうどう)
とよばれ、養老3年(719)7月3日、神霊の託宣によって白山が開かれて以降、天長9年(832)に至り、加賀・越前・美濃の3ケ所に馬場(ばんば)が設けられたといいます。馬場とは、登山口のことで、それぞれに加賀馬場、越前馬場、美濃馬場と呼ばれ、白山登山道の拠点であるだけでなく、里宮=遥拝所の所在地でもありました。禅定とは、ここでは、標高2,702mの御前峰の山頂のことです。各馬場には、白山を祀る寺社がそれぞれにあり、加賀には白山比咩神社、美濃には長龍寺、越前には平泉寺があります。
  白山之記』によれば、禅定道を加賀へと下る道筋には、地蔵菩薩を本地とする檜新宮(ひのしんぐう)や、虚空菩薩の垂迹神を祀る加宝宮(かほうのみや)があり、尾添(おうぞ)川の葛籠渡(かこのわたし)を越えて、笥笠(すがさ・けかさ)の中宮(吉野谷村)にいたる、とあります。次に、中宮の下にある「一橋」や「酒殿(さかどの)」と称する大瓶の跡、「濁澄橋」、「佐羅大明神の宮」(吉野谷村)、「禅頂の別宮」(鳥越村)を説明し、加賀馬場の中心である「白山本宮(白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ))については、三宮(現在の白山比咩神社)・金釼宮・岩本宮など周辺の末社に触れた後、その配下に連なる「神仏・仏閣は越後・能登・加賀の3国に充満せり」と記しています。そして、北陸道6ヶ国は白山の敷地であり、なかでも加賀国は敷地の中の敷地と記しています。

菊理媛神と白山比咩神
 ところで、ここで疑問が生じます。白山神が白山妙理大権現であり、その本地が十一面観音であることはいいとして、どこに(いつ)菊理媛神が出てくるのでしょうか。一説には、養老3年(719)に泰澄大師が白山山頂で祀ったのは、高句麗媛(こうくりひめ)という話があります。つまり、時代を経て、理知的な鎌倉仏教やの影響などを受けるようになると、白山において泰澄大師が祀った高句麗媛は、(音などが似ていることからと思うが)日本書紀における菊理媛神と同一であるとされた、とするものです。そして本地垂迹説的に説明され、菊理媛神は、十一面観音の垂迹身であり、白山比咩神はすなわち菊理媛神である、と説明されるようになったというのです。
 しかし実際に調べた人の話しでは、中世の所説である『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』や先述の『白山之記』などには、伊邪那岐神・伊邪那美神を祭神とする記述は見えますが、菊理媛神の名は登場しません。ところが、近世になると、『諸神記』、『諸国神名帳』、『本朝神社』になると、明瞭に白山神(白山権現、白山明神、白山比咩神)=菊理媛神とされるようになっているということです。いずれにしても、菊理媛神と白山比咩神が同一とされた経緯は今でははっきりしません。まー信仰の世界では、こういうことはどうでもいい事なのかもしれません。
 菊理理姫の話が出てきたついでにちょっと、説明しておきましょう。『日本書紀』の1巻のいわゆる伊弉諾命の冥府下りの中に菊理媛神は出てきます(登場は、この一箇所のみである)。伊弉冉命は、天津神(あまつかみ)の命令で、伊弉諾と結婚し、国生みを行ないます。さらに35の神々を生みます。最後に生んだのが火の神で、彼女はそのため、火傷を負い、死んでしまいます。死んだ伊弉冉命は黄泉の国に埋葬されますが、伊弉諾命は妻を恋しく思い、会いたさのため黄泉の国へ赴きます。ところが伊弉冉命は「すでに黄泉国の食物を食べてしまったので、もう帰れない」と答えます。しかし、「せっかく迎えに来てくれたことは恐れ多いことでありますので、黄泉神(よもつかみ)と相談してみます。けれど、その間、決して私を見ないで欲しい」と約束させました。
 ところが、伊弉諾
はしばらくすると我慢できなくなり、明かりを点して見ると、彼女の死体の周りを蛆虫がはいまわるという変わり果てた姿でした。伊弉諾命は驚いて逃げようとすると、伊弉冉命が「私に恥をかかせましたね!」と言って、沢山の恐ろしい黄泉の神々に追わせました。
 伊弉諾命が葦原中つ国(あしはらなかつくに)に逃げ帰ろうとしたところ、泉津平坂(よもつひらさか)で
伊弉冉命と口論となった。この時、菊理媛神が現れ、両者の主張を聞いて助言をし、和解の成立に貢献したとある。しかし、菊理媛神がどこから現れたのか、どのような系譜に繋がる神であるのか、何を助言したのか、肝心な点は全然書かれておらず謎であります。一説に、神名の「くくり」は、2柱の神の主張を聞きいれて助言したという神話にちなむ「聞き入れる」が語源だとも言います。
 

白山修験道の発展
 白山本宮は、平安初期の仁寿3年(853)10月、『文徳天皇実録』に従三位に叙せられているのが、文献の初見ですが、貞観元年(859)には、正三位に進んでいます。しかし、『延喜式』神名帳では、加賀国石川郡の中に、小社として「白山比咩神社」と見えるのみです。これは、北陸道の諸国の一宮となる諸社と比較すると一段と低い神位であります。
 にもかかわらず、白山比咩神社は、この後白山修験道の発展を通して、地方の有力寺社勢力として発展していきます。平安時代後期の久安3年(1147)には、比叡山延暦寺の別院(末寺)となります。白山加賀馬場では、11世紀後期以降、その頃、加賀国一宮として国鎮守的な立場にあった白山姫神社と別当白山寺が中心に据えられました。特に白山寺の代表者である本宮長吏は、白山七社惣長吏を兼ね、加賀馬場全体を統率する立場となっていました。白山七社とは、白山麓と南加賀を基盤に発展を遂げてきた中宮三社(中宮・佐羅宮・別宮)と、石川平野を中心に北加賀に基盤を持つ本宮四社(本宮・金剱宮・三宮・岩本宮)の勢力が、加賀馬場の叡山末寺化を契機に、統一的に再編されたのでありました。中宮三社の寺社勢力については、笥笠神宮寺の中宮執行(ちゅうぐうしぎょう)や中宮三社の神主らが主導的立場にあり、能美郡の「中宮八宮」や江沼郡の「白山五院」「三カ寺」など、南加賀を中心に末寺(社)や神領(御供田(ごくでん))を分布させており、それらの支配をめぐって、能美郡に所在していた加賀の国衙や荘園とも深く関わっていました。

白山本宮の神領(免田)の所在確認地
味知郷河内荘上林郷中林郷下林郷・大桑荘米丸保田上保興保倉月荘
富積保横江荘安田保北安田保宮丸保笠間東保朝屋荘比楽村小塩浦
白山水引神人の所在地名
森下大野宿山崎凹市宮腰津押野野市福留寺井安宅

 また、『白山之記』によれば、本宮の惣門は、海岸に近い北国街道筋の神領である手取川河口の小河(おがわ)(現・松任市小川町)の地に建っており、北陸を往来する旅人たちは、前に書いた海の漁民達の習わしと同様、その前で下馬して、白山に向かって遙拝するのを常としたといいます。
 本宮の古い境外末社としては、加賀の不動天・弓の原・志津原(しずはら)明神・佐那武社(さなたけしゃ)の他、能登の高峅(たかくら)(珠洲市三崎町雲津)、越後の能生白山社(新潟県能生町)などが知られていますが、これらはいずれも、加賀から能登・越後にかけての北東日本海沿岸地域における白山信仰の地域的拠点でありました。


白山衆徒
 白山比咩神社は、後の項でも述べますが、多くの神人・
衆徒を擁し、中世においては「馬の鼻もむかぬ白山権現」と恐れられていました。ここでは、その白山衆徒がその力を見せつけた安元年間の事件を見ていこうと思います。
 安元2年(1176)8月、目代藤原師経は、国府近くの中宮八院の1つ鵜川湧泉寺(うかわゆうせんじ)に立ち寄った。湧泉寺には、境内に温泉が湧き出ていたが、師経がここで馬を洗ったことから事件が起こった。この時の加賀守は藤原師高で、師高は後白河法皇の近臣・西光法師(藤原師光)の子であり、師経はその弟であった。安元元年12月に、師高は加賀守となったが、この兄弟の評判は良くなかった。中宮側にすれば、これまで認められていた免田が収公され、仏事・神事に影響が出るという状態に陥ったということもあって、中宮3社(中宮・佐羅宮・別宮)惣長吏・智積房を張本として、師経の愛馬の尾を切り落としてしまった。これに驚いた師経は
湧泉寺を焼き払ってしまったのである。この事は、こののち師経の立場を悪くこととなるが、師経はこれで中宮側が謝罪すると考えての仕業であった。しかし衆徒側は一層反発し、国府を取り囲んだところ、師経は京へ逃げ帰ったが、あくまで師経の罷免を要求するために、まず本寺である延暦寺に御輿を奉じて訴えることにした。
 安元3年2月、衆徒は延暦寺に向かって出立したが、天台座主明雲は後白河法皇が熊野詣ということで足留めを命じた。しかし衆徒は納得せず、御輿を日吉社客人(まろうど)宮(祭神は白山権現)に安置し、延暦寺衆徒を説得した。延暦寺衆徒はこれに合意し、師経の罷免を後白河法皇に要求することになったが、この時点から比叡山VS院(法皇)という対立に変化していった。
 法皇は師経に非はないとしながらも、とうとう要求を入れ、師経を備前国に配流とした。この時、法皇が、「賀茂の水、雙六(すごろく)の賽(さい)、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたことは有名である。
 なお衆徒はそれでも収まらず、国守師高の
配流を要求して、官兵との間に合戦に及んだ。ついに官兵が射た矢が御輿に命中するという事態に至って、法皇も結局要求を受け容れざるをえず、師経は尾張国へ配流となった。おりしも、この年の夏は冷涼な日々が続き、京の人々は白山神の所為と噂したといいます。

白山宮の祭礼と神人(しんじん)
 中世の加賀馬場における祭礼行事としては、恒例の本宮の「二季の祭礼」があげられる。この祭礼は、4月と11月の上旬の「午日(うまのひ)」で白山の惣神(そうしん)五四柱を祀り、神饌(しんせん)として魚・和布(わかめ)・餅などを供えた。魚は古例として、鰤(ぶり)・ユクヒ・フクラギ・鱈(たら)・アマサキ・鮴(ごり)などを供えることが忌避されており、和布は、江沼郡の小塩浦(おしおうら)から貢納されたものを供えるのが慣例であった。
 また国衙(地方の行政府、現在の県庁にあたる)では、この日は一宮の祭礼日とあって、国司は早朝から沐浴潔斎し、白山の社例に従い、鳥兎の類を一切食することを禁じている。当日は、神社の境内で、神子による神楽や、本宮所属の猿楽神人が後宴の猿楽を奉納しながら、その上演の場所は、南北朝時代の貞治2年(正平18年、1363)以後は、従来の彼岸所前から大講堂の前に移っている。
 祭礼の経費は、神領から治められる。「祭礼御供米」によって賄われていたが、それが滞納された場合、白山の神人たちが、大挙武装して在所に押しかけ、厳しく取りたてることがしばしばであった。
 神人とは、社家の支配下にあり、神社の祭礼その他の雑事をつとめる俗体の人々で、鎌倉時代以降は、課役免除などの特権を得るため、特定の神社の神人となって、座(寺社などに隷属する商手工業の同業者組合)を組織する商手工業者や農民も多かった。白山本宮においても、水引(紺掻座)・油・競馬などの貢納や祭礼役を務める神人の存在が知られる。この他、寺家方に属するもので、白山の門前に居住する商手工業者の「公人(くにん)」と呼ばれる人々もいた。南北朝期の観応3年(正平7年、1352)の白山の神輿振り事件は、この年の年の4月祭礼の御供米未進に関わるものであった。怠納した本宮に近い石川郡上林郷(かんばやしごう)の地頭である大桑玄猶に対し、本宮の神人たちが神鉾を奉じて玄猶の居館を取り囲み、叱責に及んだところ、玄猶の家人が逆に神人に殺傷を加えたのである。怒った本宮の僧兵達は、八幡・三宮・大宮三社の神輿をかついで、大挙して上林郷に乱入し、所々を焼き払った後、郷主支配の進展を図ろうとする場合、国内に多くの神領を持つ白山宮との衝突は、避け難いものであった。

◆白山宮の神領◆
 白山宮の経済基盤である神領は、米丸保や河内荘などの一円的神領を除けば、大半が神位田(しんいでん)(封戸など)の系統をひくもので、12世紀頃に、国司から国役免除の承認を受け、国免田となっていました。したがってその多くは、国衙領のうち散在的に分布し、加賀の国内各所に所在が知られるが、殊に本宮の鎮座する味智嚢(味知郷:みちのう)を中心に、石川平野で濃密な分布を見せていました。
 またこれらの神領は、仏神事用途料や寺家・社寺の給分と設置されており、個々の徳分収得者と百姓の間には、年貢・公事などの収取関係を通して、双方の内に人格的・身分的従属関係が生まれ易く、それが白山の神人や公人を作り出す基盤となっていました。
 白山加賀馬場では、本宮の「二季の祭礼」の他に、「臨時祭礼」も催されていました。これは本宮・金剱宮・岩本宮の三社による合同祭礼で、鎌倉から南北朝にかけて、たびたび催されている。この祭礼の催物は極めて多彩で、神輿の御屋への渡御(とぎょ)の他、競馬・流鏑馬・獅子舞・相撲・田楽や後宴の猿楽などの芸能が、白山の神子や神人らによって行われていたようです。
 しかし、この臨時祭礼も、本来白山三社の結束の強化を目的に企てられたにも拘わらず、結果的には、本宮と金剱宮の対立抗争を深めることになり、南北朝時代中期の文和2年(正平8年、1353)の臨時祭礼を最後に、中断されることとなりました。

◆三馬場の争いとその裁定以降の加賀側の情況◆
 ところで、加賀・越前・美濃の3ヶ所の馬場は不思議なことに、ほぼ同時発生的に設けられたようです。そのためかお互い競争心が強くて、我こそが本家と、名乗りあいをしていたようです。泰澄の縁起や、開基の古さの主張はそのような競争もあって主張されたものであり、ちょっと疑わしいものも多々あります。三馬場は江戸記以降、勢力争いを激化させ、禅定の祠の造営を巡り、寺社奉行に訴えるなどたびたびもめたようです。それには、木山取権(木を伐り出す権利)なども絡んでいました。それで、江戸幕府は、寛政8年(1688)、牛首(白峰村)、尾添(尾口村)他白山麓18ヶ村を天領(幕府直轄地)とし、山頂一帯を平泉寺のものと裁定を下しました。これにより、祭祀の中心問題である頂上(禅定)では、加賀側は、劣位に立ちますが、その理由には、近世期頃に、加賀側が相当弱体化していたらしいことが背景にあるようです。その大きな一因は、中世後期の一向一揆でした。文明12年(1480)の一揆では白山本宮が戦火で焼失したりしています。
 このような山僧の跋扈に懲りた加賀藩主前田家は、神仏分離政策をとり、明治期に入る以前から神仏分離が進んでいったようです。白山本宮は、「下白山」(後の「白山比咩神社」)という神社の形で、復興されました。それでも、同神社本殿周囲に護摩堂や地蔵堂、長吏屋敷、露仏の地蔵尊像が建ち並んでいたり、山頂や山腹の堂祠に本地仏が祀られていたりしていたようです。しかしそれ以外では神仏分離は「厳重を極め、神社に於ける仏教関係の事実は、極力排毀に努め」られました。よって、江戸時代以降、他の修験道の山と違い、もはや修験道呼べないほど白山は神道化が進んで行ったようです。

◆明治以降の白山◆  
 明治になると、廃藩置県が行われ現在の県の範囲はなかなか定まりませんでしたが、白山山頂の帰属も同様で、明治5年(1874)ようやく決まり、白山麓18ヶ村は石川県となり現在に至っています。白山本宮・白山寺は白山比咩神社として、白山を奉祀するようになります。また、越前馬場は白山神社と平泉寺に、美濃馬場は長滝白山神社と長滝寺に分離されました。明治期、神仏分離−廃仏毀釈で幾多の仏像が破壊されましたが、石川県では、当初は白山比咩神社周辺の仏教関係事物の撤去だけをおこなっていましたが、明治7年(1874)になると、石川県令は、前年白山比咩神社の本社と指定された山頂の三社から、仏体仏器を取り除き、下山さすよう通達を出しました。この仏体下山作業に際して、山頂や、かつての信仰登拝のための登山道であった禅定道周辺に多く奉納されていた無名の石仏が、ただちに破壊されたようです。そして山上にあった本尊は白峰の林西寺や、尾添の白山社に下山仏として安置されることになりました。
 こうした廃仏毀釈運動の先頭に立って実行したのは、石川県の場合、神社係で、急進的廃仏論者で、白山信仰など考証論的な郷土史の先駆者の一人である森田平次という人のようです。これも1つの信仰の厚さゆえに、他宗教を排他しようとする一例といえましょう。ただ森田平次氏は、その急進的神仏分離論から、一時期取り上げられることが敬遠される時期もあったようですが、近年、白山信仰の縁起、本来の姿など、その地域史的研究の成果はあらためて評価されてきたようです。

<参考図書、引用図書他>
(参考図書)
『図説石川県の歴史』(河出書房新社)
『石川県の歴史』(山川出版社)
『羽咋の神々』(林忠雄著)
『日本の神々の事典』(学研)
『日本神話と古代国家』(直木孝次郎著:講談社学術文庫)

(参考ホームページ)

 
「六郎光明の屋形」 のホームページの  『中世加賀の群像/(序章)白山本宮勢威編』 が非常に、白山衆徒のことが詳しく書かれている。 

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