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長谷部信連(はせべのぶつら)(?〜1218)
〜平家物語「信連合戦」で讃えられた武者〜

(2005年3月3加筆修正)

 平安・鎌倉時代前期の武士。通称長兵衛尉という。清和源氏で、信連の4代前の季頼(すえより)の時、朝廷から長谷部姓を賜ったと伝えられています。父は右馬允長谷部為連で、為連は、三河国(愛知県)長馬を領して長馬新大夫と称しました。

 久安3年(1147)正月16日、遠江国長邑(現在の静岡県浜松市付近)で生まれました。のち大和に移住。やがて近衛・後白河天皇(法王)に仕えました。16歳の頃から滝口の武士となり、院に侵入した強盗を、1人で4人まで討ち取り、2人を生け捕りにしたことで、武名をあげまし。また、その功により左兵衛尉に任じられたといいます。のち以仁(もちひと)王(三条高倉宮:後白河法王第二皇子)に仕え、「三条宮侍」として称されます。『源平盛衰記』に、「高倉みやへ仕へ奉れる侍に長谷部信連あり、長兵衛尉と称す」とあるのがこれであります。また、以仁王は、源三位(げんさんみ)頼政の勧めで平氏討伐の令旨を諸国の源氏に送り、源平の争乱のきっかけを作った人物であります。

 治承4年(1180)5月、以仁王は、源三位頼政と謀ってクーデターを企てましたが、その平氏追討計画が発覚するや、信連は宮をいち早く近江国の園城寺(通称三井寺(みいでら))に逃がし、自らは御所(高倉院)に踏み止(とど)まって討手を待ち、時間稼ぎをはかりました。その時の様子を「空き家に、のぶといつら(面)で待っている」と詠んだ面白い川柳が残っています。
 
 やがて300余騎の追手と一人で戦うのですが、何分にも多勢に無勢のこととて、一人で何人も斬り捨てたが遂に太刀が折れ、さしもの信連も、検非違使藤原光長によって生け捕りてしまいました。その後、信連は平清盛の六波羅邸に連行され、平宗盛の厳しい詮議を受けましたが、光長廃下の5、6人に対し、刃傷に及んだ理由についての申し開きはしたものの、以仁王の行方などについては、頑として口を割りませんでした。(斬り伏せた人数に関しては、本によって14,5人とも三十余人とも書かれています)

 信連の死をも恐れぬ侍らしい堂々とした態度が、平氏方に感銘を与え、清盛も一命を助け禁獄したといいます。その後の足取りは定かではありませんが、一説では、伯耆国日野郷(鳥取県日野郡日野町)に配流(治承4年(1180))されたといいます。平氏が源氏に追われて没落すると、信連は赦免され、寿永2年(1183)、知人の金持左衛門尉を頼って伯耆国日野郡黒田に住みます。この辺のことは「平家物語」諸本の「信連合戦」の項にも出てくるので有名であります。

 平氏滅亡の後、信連は、梶原景時を通じて源頼朝のもとに参向しました。文治2年(1186)4月、頼朝は、以仁王の遺臣である信連を探し出し、旧功を賞して特に御家人に列し、あわせて安芸国検非違所ならびに荘公を安堵したと『吾妻鏡』は記しています。しかし、荘公を安堵した」と書かれてあることのその詳細は不明であります。ただ荘公の中には、信連死没地、能登国大屋荘河原田(石川県輪島市大和町付近から現在の鳳至郡穴水町付近)も含まれるか、と推測される程度であります

 他の資料としては、頼朝下文といわれる写しがあり、信連が、そこに能登郡九郷を賜り、地頭職に補任され、のちさらに鳳至郡も加領されたことについての文書があるだけであります。平家物語では「源氏の世になって、鎌倉殿(源頼朝)神妙なりと感じおぼしめして、能登國に御恩かうぶりけりとぞきこしめす」と書いてあります。 有名な話だが、頼朝は、全国に御家人を派遣する口実・大義名分を得て政権を確保するために、源義経追討の命を利用したのであります。

 
 文治2年(1186)信連は大屋荘に入ります。はじめ熊木に住まいしますが、のち穴水に移り、さらに河原田に移ります。
建久年間に、建久元年幕府の命令で、加賀国江沼郡加藤成光を討ち、その功により同郡塚谷保(山中町)を加増されました。建仁元年に(1201)に、信連が、大屋荘南志見村に西光寺(真言宗、輪島市西院内町)を建立し、南志見の人々の狼藉を禁じたこともわかっています。外来地頭であった長谷部氏は、この寺を拠点に在地領主化していったようです。

 加賀では信連が、山中温泉を開いたという話もあります。建保6年10月27日、河原田(現輪島市山岸町)で死去。明治5年山中温泉(山中町)に長谷部神社が創建されました。


 能登には、信連の死後、二代目は朝連、三代目政連の時に姓を「長」と改め、居所も奥能登の入口穴水へ移して、穴水城を築いたと伝えらています。長氏発展の基礎に置かれた大屋荘は、文治5年(1185)の立券で、現輪島市河原田川の上・中流域一帯から穴水町・旧能都町(現能登町)の一部を含む広い荘園域を持っていました。古代の小屋郷を継承したとみられ、崇徳院(すとくいん)(後白河天皇の兄)御影堂領でありました。

 信連の後、嫡流の朝連(ともつら)・政連父子は、同族と見られる秀連・義連らとともに、鎌倉御家人として将軍に仕えていました。一方、信連の庶子達は、大屋荘内の此木(くのぎ)・上野(うわの)・宇留地(うるち)(以上穴水町)・山田(能登町)、そして隣接する櫛比荘阿岸(くしひのしょう・あぎし)の地頭となり、この5家は後に「家子(いえのこ)」と呼ばれる重臣として、宗家を支えたと長氏の『系図』では伝えています。 そして南北朝の内乱期(14世紀)には、長氏は南志見や櫛比の各地に庶流を分置し、正連一族は惣持寺(曹洞宗、門前町)の外護者となりましたが、やがて宗家は穴水に居館を移して戦国時代を迎えることになるのでした。

 少し信連自身からは話が逸れましたが、このように長氏が大いに発展したこともあって、信連にかかわる遺跡・伝承が今なお多く残ります。(「長」姓に関しては一説では、長信連が、出生地の遠江国(静岡県)長邑に因んで長を称したというものもあるが、伝承の域を出ません)。

 鳳至郡誌には、その居宅は輪島市宅田町の上野台だと記してあります。ここは「親の湊」(現輪島の市街地)が一望できる台地で、後方には気勝山(けかちやま)が聳え、門前、穴水街道が台地左右の脇を走る極めて重要な場所でありましたので、信連の子孫はやがて能登の各地に勢力を伸長したようです。

 居館跡と伝わる地は、石川県江沼郡山中町塚谷町に残りますが(信連から五代目の長盛連の時のものと思われる)、輪島にもあり、輪島市域の河原田川下流近辺には墓所も存するといいます。また鳳至郡穴水町の長谷部神社では、信連の肖像と伝えられるもの(信連公が健保(けんぽ)6年に逝去に先立ち自作の肖像を刻んだと伝えられている)が御神体として祀られています。

 由緒では、長谷部神社は、その肖像を信連自身が穴水町字大町・ 来迎寺(らいこうじ) の御影堂(みえいどう)に安置したのが、その起こりとなっています。江戸時代には武健大明神と称し、昭和10年、縁の深い穴水城の麓の現在地に移しました。寛永21年(1644)建立の本殿は神社建築に特異な禅宗様で、殿内の宮殿は漆塗りに極彩色を施した唐破風(からはふう)の精緻なものであります。7月の例大祭(長谷部まつり)は、多彩な行事で賑わいます。

 繰り返しになるが、そういうことで、長谷部信連は、建保6年(1218)10月27日河原田において没しました。先にも述べたように現在輪島市山岸町(輪島病院の隣接地)に信連の墓と伝えられる塚があります。「吾妻鏡」健保6年10月27日の条(くだり)に、「今日、左兵衛尉長谷部信連法師、能登國大屋庄河原田村において卒す。享年七十二才。」と書かれている墓がこれだと(輪島では)伝えられています。

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