このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

能登の仁王像(前 編)
及びその寺院の紹介

 私の故郷の旧七尾市には、仁王門がある寺が無かったので、私はそのような仁王門のある寺に憧れがありました。先ごろ(2004年11月1日)七尾市が田鶴浜町など3町と合併し、田鶴浜の赤蔵山と東嶺寺が新七尾市に含まれることによってやっと、七尾市にも仁王門のある寺があることになりました。それでこの際、能登の仁王門(仁王像)を取材してこの頁で随時紹介していこうと考えています。まだ全て取材していませんが、乞うご期待!
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(右の寺のリスト名をクリック)
龍翔山・東嶺寺 赤蔵山 妙成寺 洞谷山・永光寺 瑠璃山・法華寺
和住山・平等寺 勅定山・来迎寺 鷹王山・長楽寺 常在山・本土寺   後編の頁へ
これ以降は 後編 の頁です 曹洞宗・粉川寺 醫王山・願成寺 吼木山 法住寺 (中能登町黒氏)
信光寺
龍翔山 東嶺寺  七尾市田鶴浜町
↑東嶺寺の山門↑東嶺寺の本堂
↑東嶺寺の山門の仁王像(吽形)↑東嶺寺の山門の仁王像(阿形)
 七尾市田鶴浜にある古刹です。曹洞宗もと総持寺五院、如意庵(長連龍)の開基、實峯(目三梵朔和尚)が草創の羽咋郡西穂村洒見(富来町)、「竜護寺」の分派で、実相院と号していました。もともとは七尾(旧七尾市)にあったといいます。天正5年(1577:七尾城が落城した年) 長連龍 (長家の21代当主で、中興の祖:如庵君)の母を葬るために、その戒名花渓栄春大姉の中の2文字をもって、花渓寺と改め、連龍が天正八年(1580)鹿島半郡を領して田鶴浜に居を構えた折、田鶴浜に移転したようです。その後、連龍の子・長連頼(長家23代当主)が、連龍の菩提を弔うために、堂宇を改築後で、連龍の33回忌にあたる慶安4年(1649)に連龍の法要をして、その法号「東嶺良■庵主」をとって「東嶺寺」と改称し、龍翔山と山号を付したのです。改称当時、悦叟寺が隣りにあり、両寺併せて、「龍翔山東嶺寺」と号していたようです(ただし後、悦叟寺が移転)。墓所は境内左側の小さいがそれでも、鬱蒼とした樹林の中にあります。
 ところで、慶安3(1650)年、長連頼が東嶺寺を再建した際、尾張の国から二人の指物師を招き戸・障子・欄間などを製作させました。 この二人の優れた技をみた村人たちがその習得に競って弟子入りしたことが、この地域が建具の町となりました(鹿島郡誌)。慶安4年銘の銭九曜文鏡・双耳長頸花瓶ほかが伝来、また正中2年(1325)銘の瑩山紹瑾画像自賛写を所蔵しています。長家の墓地には慶安4年建立の四角形石灯籠2基などがあります。
  
赤蔵山  七尾市三引町
↑赤蔵山の拝殿です↑赤蔵山の仁王門です
↑吽形の仁王像↑阿形の仁王像
  七尾市(旧田鶴浜町)にある、昔霊山として栄えた赤蔵山にある仁王像です。赤蔵山について詳しく知りたい方は ココ をクリックしてください。 赤蔵山の歴史 が書かれています。
 
妙成寺  羽咋市滝谷町
↑妙成寺の山門です
 
↑阿形の仁王像↑吽形の仁王像
 こうして色々比較してみると、阿形と吽形の像の並び方は、山門の向かってどちらというのは特に決まりがないようですね。
 妙成寺について詳しことを知りたい方は、 「羽咋の歴史と史跡」 をご覧下さい。また 「妙成寺の風景」 にはもっと多くの写真があります。
 また妙成寺の 公式HP はこちらです。
洞谷山 永光寺  羽咋市酒井町イ部11
 
↑永光寺(ようこうじ)の山門と石段です。
欅材を用いた白木造りの幕末期らしい山門は名工、柴田新兵衛で慶応2年(1866)に再建されたものです。
↑永光寺の山門1階部分を斜め横から見た。↑永光寺の本堂です
↑永光寺の本堂です
↑僧 堂:勿論、主として座禅を行う場所です。中には、僧形文殊菩薩坐像が安置されています。↑鐘楼です
 永光寺に関しては、私のHPのコンテンツ 「曹洞宗の広がりと瑩山派の発展」 及び 「羽咋の歴史と史跡」 に詳しく説明してありますので、そちらを参照願います。今回の写真では書院、庫裡、伝燈院、開山堂、五老峰など載っていませんが、後日また行く機会があれば撮影してきたいと思ってます。
瑠璃山 法華寺  (旧鳳至郡柳田村)能登町字柳田小字日詰脇(ひづめわき)
↑法華寺を山門の前の方から撮った写真2枚
 ↑山門内の持国天
(山門の向かって左側に安置)
 ↑山門内の多聞天
(山門の向かって右側に安置)
 法華寺は真言宗の古刹です。この寺の護摩堂の厨子には、国の重要文化財に指定されている木造不動明王坐像(座高約87cm・光背高約140cm)が安置されており、彫眼で、檜材の寄木造で、彩色の痕跡もあります。寺伝では平安時代末期の作とのこと。奈良興福寺から伝来したという伝説があります。昭和25年8月29日重要文化財に指定されています。
 「頭頂に花形の莎髻を頂き、弁髪は左頬から首にそって左肩前に垂れる。眉は太くていかめしく、天地眼は上天と下界を看破し、唇は上下に強くかみ合わせ、歯牙を左右上下にむき出すなど、厳しい降魔相である。両肩は強く張って、左手に羂索、右手に宝剣を持ち、右足を上にして岩座の上に結跏趺坐する威容である。頭部は小さめで、体躯や胸・腹のふくらみもひかえめであり、条帛などのひだの彫りもやや浅いが、むだのない迫力感に注目される。作風より、年代は平安時代後期と考えられる。」(昭和60年「石川県の文化財」より)
 この寺は、はじめ瑠璃山・薬師坊(または薬師寺)と称していました。場所も、当目村にあったそうです。日の御前(舞谷)や宝嶺大権現(宝立山)の別当寺であったと伝えられています。栄範を中興として現在地に移り、12世紀はじめには郷内の薬師坊総坊の一面を持つ真言寺院となったと考えられています。その後、火災のため一時廃絶し、大永2年(1522)に範賢が、真言宗寺院として再興SHました。その際、法華寺と改称したと伝えられています。本尊は薬師如来です。この山門は天保13年(1842)、柳田の名工・右近の作といわれています。以前は萱(かや)葺きでしたが、近年、瓦葺き替えられました。山門の仁王像は多聞天と持国天が安置されています。他にも木造十一面観世音菩薩立像、木造聖観世音菩薩立像、孔雀文磬、両界曼荼羅等の仏像・仏画が所蔵されています。
  ◇バス町野線輪島行柳田下車徒歩30分
和住山 平等寺  (旧鳳至郡柳田村)能登町字柳田字寺分2-116
↑平等寺の山門とその坂道です↑山門の1階部分を少し拡大してみました
↑山門内の吽形の仁王像です↑山門内の阿形の仁王像です
↑平等寺の本堂です↑本堂横に見えるのは地蔵堂です
 ←この不動明王にはじまって、13体もの仏が本堂裏を一周する道のあちこちに配置されています。またこの道は、梅雨の紫陽花のシーズンになると、沢山の紫陽花の花が咲き乱れます。そのためこの寺は別名「あじさい寺」と呼ばれているほどです。
↑仁王門を入って左側に見える不動明王
 和住山平等寺は、10世紀の中ごろ荘園の宮寺として開創され、近在近郷の信仰をあつめ法灯が守られてきた高野山真言宗の由緒あるお寺です。本尊は聖観世音菩薩(像高約45㎝の金銅製・室町時代の作)です。もとは寺院6坊あり、寺領もありましたが、平安末期から武士である地頭や、これと結んだ土豪の勢力がのび、荘園の衰退とともに平等寺が和住の本郷(柳田村字上町)を追われ、観応元年(1350)再興したが、上杉謙信の能登侵攻により退転、天正11年(1583)に応清法印が寺分の現在の地に再興されたといわれています。
 安土桃山時代に豊臣秀吉が検地を行ったところ、和住に勢力をもつ本郷五郎左エ門正信が、天正15年(1587)に寺領を一方的に制限した古文書が平等寺に残っています。本郷以外にはみ出した分を五郎左エ門分に、寺領の分を寺分としたことが当地の地名からうかがえます。今では「十三仏と紫陽花の寺」として有名です。境内の高野槙は胸高周り380㎝で、県内一の大きさです。
 文化財としては、般若会本尊(釈迦三尊絵像)画幅は、室町時代のもので、安春寿信の作。また古稀寿の墨跡は、加賀藩主前田斉泰の書道師範橘観斉の書、天保5年(1834)の作です。建造物としては、本堂、鐘楼堂、庫裡、地蔵堂、仁王門があり、その他、柳田村指定文化財9点があります。境内に数基ある五輪塔のうち、大型の一基は鎌倉後期から南北朝期の作と推定されています。
勅定山 来迎寺   穴水町大町ヨ109
 
↑来迎寺の山門と石段↑来迎寺の本堂
 ↑山門内の阿形の仁王像です↑山門内の吽形の仁王像です
↑来迎時の境内です。至る所に石仏・石碑・石塔などがあります↑来迎寺横手の庭
 来迎寺は、穴水町大町にある平安時代は弘仁2年(815)嵯峨天皇の勅願によって「青龍寺」として建立されたと伝えられている、実範の開基による真言宗の古刹です。勅願によって建てられたので、「勅定山」の山号を持ちます。平安時代末期の平家物語にも登場する武将・長谷部信連が、菩提寺として文治2年(1186)本堂を再建、寺号も来迎寺と改められました。長谷部家は、後に長家として豪族化、畠山氏、前田氏につかえ繁栄します。健保4年(1216)7月長谷部信連が、この寺に入道姿の肖像を安置したことから、以後長氏がこれを御影堂として守護していました。しかし長氏が曹洞宗に改宗すると、長谷部家の祈祷寺となりました。
 本尊は、阿弥陀如来で、現在の本尊は戦国時代に一時荒廃したのち、近世初頭に再興された際、近くの宇留地村の関寺阿弥陀堂から移されたもので、平安時代末期の作といわれています。本堂裏手の観音堂の木像薬師如来坐像は穴水町大町の薬師堂より移され、不動堂の木像不動明王立像はもと青龍寺(珠洲市)の本尊であったと伝えられ、これらも平安時代末期の作とされています。また秘仏として、観音堂に安置される十一面観音は、信連が懐に忍ばせていた1寸8分の守り仏で、33年に一度ご開帳されています。その他にも、信連が高倉天皇より賜ったとされる観世音菩薩、嵯峨天皇御親筆勅額など多くの秘宝があるそうです。また梵鐘は万治2年(1659)5月の紀年銘があります。寺の汁器類には、長家の当主及び家臣から寄進されたものもあるようです。
 昔、この寺の境内には、信連堂がありましたが、江戸時代には、武健(ぶけん)霊社と称され、明治初年の神仏分離で、当地の支配を離れ、長谷部神社と改称、昭和10(1953)には川島の現在地(穴水城跡下)に移されました。
 境内には、大小の石仏や石碑・石塔が沢山並んでいます。境内裏山の墓地には、鎌倉末・南北朝期の宝篋(ほうきょう)印塔2基があります。また本堂向かって右側(南側)にある庭園は、約700年前、上総丈助(かずさのじょうすけ)という落武者の作といわれ、山の斜面を切り崩し、池を配置、斜面のちょっと高いところに観音堂があります。観音堂を比叡山延暦寺に、池を琵琶湖に見立てて作られたといわれています。池には今でも立派な錦鯉が泳いでいます。また植物の研究家からも注目されるほどの薬草の宝庫で、100種類以上の薬草が、庭内に生い茂っています。この庭は県の名勝に指定されています。
 また境内には樹齢600年(一説には信連手植えとも)といわれる「ライゴウジキクザクラ(来迎寺菊桜)」と呼ばれる桜木があり、花弁が200〜300枚(それ以上と書くものも)あり、花見のシーズンには多くの観光客がおとずれるそうです。県の天然記念物に指定されています。
 拝観料は、300円(小学生以下無料) 駐車場は30台分 穴水駅から徒歩10分(駅前に案内板があります)
鷹王山・長楽寺  (旧鹿西町)中能登町能登部下
↑長楽寺の山門です。元は石動山の仁王門だったといいます。↑長楽寺の本堂です。
↑上の写真2枚は、仁王門の中の阿形の仁王像↑上の写真2枚は、仁王門の中の吽形の仁王像
↑中に確か金色に輝く三体の仏像があったが。
観音堂かな?残念ながら調べておりません。
↑境内には観音地蔵など沢山の石像があります。資料では52体あるとか。
 真言宗高野派の寺です。長楽寺は、もともとは鳥屋町春木の地に、安楽寺としてありました。寺伝としては泰澄が能登を巡錫した時、日没となり道に迷ったが、暗い中になにか金色に光るところがあり、そこを霊地として一宇を建立し安楽寺と号したとある。つまり泰澄開基となっています。その後、能登畠山氏の祈願所となり七堂伽藍三十三坊を置いて栄えていたが、天正年間に上杉謙信が能登攻略の際、七尾城と同様兵火に罹りわずかに不動堂のみ残し灰燼に帰してしまいました。その後石動山天平寺座主の高僧玄秀阿闍梨が再興し、能登半郡の領主であった長連龍公(連頼公と書かれた本も)の娘が天正10年(1582)眼病平癒を鷹王山の三社権現(不動尊・観世音菩薩・金毘羅尊)に祈願して平癒し、長連龍公が謝恩のため一字を与え、安楽寺から長楽寺と号するようになり(慶安2年10月)、長家の永世祈願所となり、この現在地に移転し興隆するようになりました。
 慶応以前は釈迦を本尊として安置していたが、慶応元年と明治43年2度の火災で、今は石動山権現堂から(廃仏棄釈もあって)移された退蔵界大日如来を本尊としています。またそれ以外にも石動山から厄除大師、仏具、仏類を移転させて安置しています。
 なおこの寺は寛文年間に起きた百姓一揆・ 浦野事件 の首謀者とされた園田道閑の菩提寺です。彼は、久江村(現鹿島町)に在して、加賀藩政下の十村役にあったが、この事件で15村の犠牲となって義民と称され長く人々から思慕され崇められました。この寺の裏山には道閑の遺言により建てられた墓があるといいます。
常在山 本土寺   (旧鹿西町)中能登町西馬場
↑本土寺の仁王門の吽形の仁王像
(石動山の仁王門にあった仁王といわれています)
↑本土寺の仁王門の阿形の仁王像
(石動山の仁王門にあった仁王といわれています)
↑本土寺の本堂↑本土寺の仁王門
この門に向かって左手から雨の宮古墳群へ向かう山道があります。
↑本土寺の鐘楼↑本土寺に入って左側の山を少し登ったあたりに建っている何かの院坊。
開山堂かな?残念ながら調べておりません。
 鎌倉時代に創建された古い日蓮宗の寺院です。仁王像は石動山天平寺から移築されたといいます。つまり石動山にあった仁王門の建物は、長楽寺に移築され、仁王像はこちらに移されたということだろう。本尊は十界曼荼羅。
 開山の由来は、石動山宗徒に追われた日像上人を守って死んだ兄弟を供養して開かれたといいます。私の「能登の民話伝説(中能登地区-No.7)」にも出ていますが、ここで再録します。
 「昔々、日蓮聖人が、佐渡へ流された時、日蓮と一緒についていった弟子に日像上人という人がいます。永仁2年(1294)4月、彼は、佐渡から京へ登ろうとしました。能登七尾に船で上陸し、能登の山岳宗教の中心であった石動山(鹿島郡鹿島町)へ登りました。そして、天平寺衆徒相手に日蓮宗の法談をしました。しかし天平寺をはじめとした石動山の寺坊は皆真言宗に属していました。衆徒たちは、日像はわが宗派の敵だと言って彼を殺そうとしました。日像はそれを察知して石動山から逃げおりました。
 しかし石動山衆徒たちは『日像を成敗しろ』と言って追っ手を差し向けました。この時、日像に帰依した西馬場(にしばんば)の加賀太郎、北太郎という兄弟二人が上人の急を救わんとして追っ手を防ぎ、濁(にご)り川(長曽川上流)土手道の徳前川原で戦いましたが、相手が多勢に無勢で破れ、良川境に近い西馬場の「鉾木(ほこのき)畷(のうて)」まで退却してきて命を落しました。時に北太郎享年32歳、加賀太郎享年35歳でした。一足先に逃げてきた日像上人は、西馬場(鹿西町)に近い『早稲田畷(わせだのうて)』の道端の石に腰掛けて一服され、朗々と法華経を唱えられたということです。その石が今でも良川早稲田畷に残されているといことです。
 上人は加賀太郎兄弟のお陰で逃げ延びることが出来、(羽咋市)滝谷の妙成寺へ入って、その住職であり住持でもあった日常という人の庇護を受けました。
 加賀太郎兄弟の討死の六年後の正安2年(1300)に二人の七回忌の法要を行い、その菩提寺として西馬場に本土寺を建てることになりました。寺の建立には、日像の弟子で乗純という日常の弟にあたる坊さんが担当して開山になりました。」
なお他にも仁王像のある寺があるよ、という情報がありましたら、 メール などでできたら御一報いただければ有難いです。

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