このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

妙成寺の風景
 妙成寺は日蓮上人の孫弟子・日像上人(と日乗上人)が永仁2年(1294)に開基した寺で、日蓮宗総本山の1つ(北陸における本山)である。永仁2年(1294)日蓮聖人の弟子日像聖人が師命により妙法を京都に弘めんとして、佐渡から都上がりの途中、船中で能登石動山天平寺座首満蔵法印(日乗上人)を教化改宗し、一寺を建立したのが当山のはじまりです。元和4年建立の五重塔他、現在、本堂を含め、祖師堂、二王門、五重塔(北陸唯一)など14棟中10棟が重要文化財に指定されている。現在、日蓮宗の七堂伽藍が古建築で完全に保存されているのは、日本で唯一である。また能登における現在の寺院の中でも、ここが一番大きい。詳しいことは、私のHPの 「羽咋の歴史」の妙成寺の項「日像と法華経団」 に書いてあるのでそちらをご覧下さい。
↑妙成寺の南側の方向から見た風景↑妙成寺の入口付近。山号は金栄山です。
↑パンフレットを見ると客殿と書いてありました山門と石段です
阿形の仁王像です。なかなか迫力のある仁王像です。吽形の仁王像です。なかなか迫力のある仁王像です。
五重塔です。露盤下までの高さ27.27m、総高34.18m。元和4年(1618)前田家御用大工坂上越後守嘉紹の手による。江戸時代初期の代表的傑作の一つである。栩(とち)葺の屋根は、五重塔としては全国唯一。↑開山堂。延宝5年(1677)の建立。開山の日像菩薩石塔並びに歴代の供養笠塔姿を安置する(石塔は全部で七基)。
経堂です。寛文10年(1670)に加賀藩4代藩主・前田光高公の遺願によって建立。
天海版一切経を納めるほか、北陸地方最古の法華経版木(応永22年)も所蔵。室町時代の様式の建築。
加賀騒動の大槻伝蔵の墓。六代藩主前田吉徳は小姓上がりの大槻伝蔵を寵用して士に仕立て、遂には累進して禄高3800石を与えるに至る。藩主の死後、たちまち反対派の家老達に睨まれ、藩主謀殺、側室真如院と密通、老女浅尾の置妾説と相次いで罪名が加わって、真如院と浅尾も密殺され、加賀藩領だった越中五箇山に流され配所において自殺。一族も全て断罪となった。このように非業な死を遂げた大槻伝蔵であるが、今日では研究者によって無実とされ、村上元三著「加賀騒動」でもその無実の罪を明かしている。
寿福院(利常公生母)の墓浩妙院(利常公の長女)の墓
鐘楼です。寛永2年(1625)の建立。純和様。袴腰と呼ばれる腰廻りの板囲いは入母屋屋根とよく均衡を保っている。丈六堂。昭和55年9月に解体修理し、建立当時の重層入母屋造のこけら葺の姿に戻す。(それ以前は、寄せ棟造りの瓦葺)
↑丈六堂の中の釈迦牟尼仏。中正院日護聖人作と伝えられる。↑丈六堂の中の毘沙門天像
↑丈六堂の中の持国天像閻魔堂です。丈六堂の向かって右側にあります。
三十番神殿拝殿。明治6年廃物棄釈時に羽咋市円井町に売却されるが、平成3年3月解体修理し、現在地に復す。三十番神堂。内陣に日本の国神三十体を祭祀するので、三十番神堂と称する。
本堂。屋根の上に白いシートが載っているが、平成16年秋、全国に記録的な災害を与えた台風23号の影響でこけらが少しめくれたようだ。
三光堂。元和9年(1623)の建立。屋根大棟両端の鬼瓦は石造り。堂内に、三光天(日天・月天・明星天)が安置されているので、三光堂といわれる。鎮護国家の祈願が行われてきた。↑祖師堂。寛永元年(1624)の建立。坂上一統の手による建物。
↑鐘楼のある回廊の方から庭園と書院の方を撮った。蓬莱式池泉鑑賞庭園で江戸前期の作庭です。↑書院の縁側に腰掛け、ここから庭園と五重塔を眺めるのが一番いいと思う。
↑書院前の庭園の池です・・・・
ただし池らしく撮れていないなー <(^^;;
↑書院です。万治2年(1659)綱紀の代に、建立。前田家代々の菩提と利常公生母寿福院殿、息女浩妙院殿の冥福を祈るための御霊屋を営んで、あわせて参拝の時の御座所として建てられたもの。
↑書院の中です。↑帰り際にもう一度山門をくぐり、境内を見回し(見納め)また山門を出た
←妙成寺のガイドマップ。これを見ると、妙成寺で一番古い建物といわれる庫裏は撮っていなかったようだ。駐車場の横だったのであまり重視しなかった。また妙成寺や法華経(日蓮宗)のことについて、もう少し知りたい方は、 「日像と法華教団」(開基など歴史関係)のページをご覧ください

 なお妙成寺の 公式HPはこちら です。

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