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羽咋の歴史と史跡
<概略史・気多大社・妙成寺・永光寺など>
2000年11月3日一部加筆修正。
なお、羽咋の話題だけでなく、近辺の町(羽咋郡)の話題も含んでおります。
好きな項目にジャンプ! 地名の由来 羽咋君 羽咋の簡略史 羽咋神社と唐戸山相撲場 妙成寺と平(たいら)家
永光寺と豊財院 気多大社 2つの十村役宅 散田金谷古墳 博物館など
(別頁の特集) 北陸最古級の弥生遺跡/吉崎・次場遺跡
<地名の由来>
 JR羽咋駅で電車を降り、駅前から真っ直ぐ商店街に進むと、右側に羽咋神社が大きな前方後円墳の南側に鎮座しています。祭神は、石撞別命(いわつくわけのみこと)です。磐衝別命とも書きます。
 羽咋の地名の由来については、 「第11代垂仁天皇の頃、滝崎に悪鳥が棲み、領民を苦しめた。これを聞いた天皇は、皇子磐衝別命(いわつきわけのみこと)を派遣され、皇子は首尾よく悪鳥を射落した。この時、命の3犬が悪鳥の羽を食い破ったことから羽咋の地名が起こった」とあります。 これは羽咋神社「社記」にもとづいてのいい伝えです。
 一方「羽咋郡誌」には、「往古、気多大社祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)が、悪者平定のために矢を積み置いていたところ、ねずみが矢の羽を食ったことから、羽咋の地名ができた」旨の記述があります。能登一の宮である気多大社の祭神は大己貴命は大国主命のことです。気多大社の主要な祭礼である「平国祭り(別名:おいで祭り)」をはじめ、能登には今でもあちこちに大国主命の能登平定に纏わる伝説や祭りが数多くあります。
 羽咋神社「社記」及び「羽咋郡誌」、そのどちらにも「羽」「食い」の言葉が出てきます。現在の羽咋の「咋」(くい)の字は、辞書でも容易に見当たらない字ですが、古事記にもすでに「羽咋君」が登場しています。その意味はやはり「食う」「噛む」となっています。

<羽咋君>
 古代の羽咋地方において勢力をはった首長層は、その名も羽咋君(はくいのきみ)となっている。『古事記』によれば、その祖は、垂仁天皇の皇子・石衝別(いわつくわけ)王、また『新撰姓氏録』によれば、羽咋神社の「社記」にも出てくる垂仁天皇の皇子・磐衝別命(いわつきわけのみこと)の後裔となっている。となると石衝別王と磐衝別命は同一人物の事を指しているのであろう。『古事記』や「国造本記」では、羽咋君は継体天皇擁立の際、重要な役割を果たした近江の三尾(みお)君と同祖の氏族と記されている。また『釈日本紀』所引の「上宮記」によれば、垂仁天皇の皇子・偉波都久和希(石衝別)の子孫が余奴臣(江沼臣)の祖を娶って、継体天皇の母、比布利比売命(振媛(ふりひめ))を生んだと記しており、継体天皇の出自伝承にも明記されていないが、羽咋君が影を落としている。しかし、羽咋君の動向に関する文献史料は少なく、不明な点が多い。奈良時代に入ると、羽咋郡の郡司としては擬主帳に能登臣乙美が記されるのみで、羽咋君の名は見えない。平安時代に、延暦21年(802)に、強盗の罪で土佐へ流罪となった羽咋弥公(はくいいやきみ)の名が『類従国史』に記されているという。また従五位上まで昇進し、天長3年(826)明経博士となった人物で羽咋吉正がいる。さらに『典薬頭補任次第によると、寛平8年(896)に、羽咋公世が典薬頭に就任している。羽咋公世は阿保常世とも称したらしく、『伏見宮御記録』巻9(紀家集)によると、典薬頭在任中の898(昌泰元)宇多天皇の京都南郊への狩猟に薬を携えて随行していることが記されている。いずれにしても、8世紀以降は、もう在地の勢力としてはふるわなかったようだ。
 (羽咋市)滝大塚古墳(円墳・径70m)をはじめ、柴垣観音山古墳(円墳・径50m)、柳田山伏穴古墳(前方後円墳・全長49m)、 散田金谷古墳 (羽咋郡志雄町、円墳)など5世紀から6世紀にかけて連綿と造られた古墳群が羽咋一族の墓域と見られています。

<羽咋の簡略史>
羽咋には、弥生遺跡が多く、吉崎・次場(すば)遺跡、寺家遺跡などがあり、能登の中で早くから開拓が進んでいた地域の1つだったことがわかる。大和時代には、国造に羽咋君の姓が与えられ、養老2年(718)に、羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡が越前国から独立して能登国となった。しかし、天平13年(741)には、越中国に併合されている。天平20年越中国守 大伴家持 が能登巡視の際に詠んだ歌が「之乎路からただ超えくれば羽咋の海朝なぎしたり船楫もがも」であります。平安時代の承和元年(834)に、羽咋に郡家(ぐうけ)が置かれる。寿永2年(1183)礪波山での 源平合戦(世に有名な倶梨伽羅峠の合戦) の際、「志雄山」「飯山(いのやま)戦場端」にも戦いがあったとされています。永仁2年(1294)日像とその弟子・日乗によって日蓮宗妙成寺を甘田保滝谷に、正和2年(1313)加賀大乗寺2世瑩山が曹洞宗永光寺を鹿島郡酒井保(現在の羽咋市酒井町)にそれぞれ開基した。寛文11年(1671)羽喰を羽咋に改める。十村による郷村支配体制が確立し、邑知潟干拓や砂丘地の植林なども行われる。明治33年(1900) 七尾鉄道 、大正14年(1925)、大正14年(1925)能登鉄道の開通によって、口能登の中心地に発展する。(※注:能登鉄道は、現在の「のと鉄道」ではなく、旧国鉄能登線で、羽咋駅に接続しており、羽咋から志賀町三明(さんみょう)まで走っていた。)昭和40年代には、能登有料道路も次々と延び、金沢まで自動車で1時間未満で行けるようになった。現在は、このような交通網を活用し、能登巡りの入り口の観光地として発達している。千里浜とともに、以下に書かれた史跡の幾つかを、能登を訪ねたことがある人なら1つは訪ねたことがあるのでは。

<羽咋神社と唐戸山相撲場>
羽咋神社は、
垂仁天皇(BC29〜AD70)の皇子で、羽咋市を平定した磐衝別命(いわつきわけのみこと)と、その子で羽咋国造(はくいくにのみやっこ)だった磐城別命(いわきわけのみこと)を祀っている。すなわち磐衝別命(いわつきわけのみこと)を主神とし、相殿(あいどの)に、その皇子・磐城別命並びに御母・弟刈幡刀弁命(おとかりはたとべのみこと)と明治42年に合併した道反大神を祀っている。
 羽咋神社「社記」では、垂仁天皇の時代、石衝別命が勅命を受けて下向し、この地方の鎮撫にあたり、ついに没した。住民が御陵を築くとともに、その恩徳に報謝し石衝別命を祀ったのが本社の起源だといわれ、皇子の磐城別命をはじめ後裔は羽咋国造(はくいこくぞう)となった。
境内には磐衝別命の御陵とされる前方後円墳(東西63m、南北100m)があり、背後にはうっそうとした緑の御陵山を仰ぐ。近くには(羽咋神社から約600m)、唐戸山相撲場がある。毎年9月25日羽咋神社例祭に、神事相撲の行われる日本最古の相撲場としても有名である。この相撲場は約直径150m擂り鉢状になっており、陵を掘った時の跡だといわれている。神事相撲は、いわゆる「塩なし水なし待ったなし」の日本古式のやり方を採る。相撲場の周りは、力士の石碑でいっぱいである。(羽咋市川原町。羽咋駅から徒歩3分、入場料不要)

 
<妙成寺(みょうじょうじ)と平家(たいらけ)>
妙成寺は日蓮上人の孫弟子・日像上人(と 日乗上人 )が永仁2年(1294)に開基した寺で、日蓮宗総本山の1つである。日像が佐渡の祖師(日蓮)の霊跡を巡拝して京都に上る途次、能登に向かう船中で石動山天平寺の座主・満蔵法院(乗微)と法論に及び、祈伏教化の後、乗微は日乗と改め、叔父の羽咋郡滝谷の領主・柴原法光の助力を得て法華堂を造立したと伝える。金栄山と号する。この日像は能登での布教は決し順調に行われた訳ではないらしく石動山の衆徒に命を狙われて命を危うく落しかけた時もあったようです。
(その辺の事は「鹿島郡誌」の鹿西町の本土寺の由来などに書かれています。私の能登の民話伝説の 「日像の石」 も参考になるかと思います。)
 中世北陸における日蓮宗弘通の拠点で、応永22年(1415)外護者であった羽咋郡得田保地頭の得田章光が願主となり、「妙法華経」(版木64枚、県歴資料館保管)を開版した。寺蔵の「日乗上人画像」「涅槃図」(県文化財)は後年、桃山画壇の巨匠として知られる能登府中(七尾)の法華信徒であった 長谷川信春(等伯) が戦国末期、その上洛以前の若き日に描いた作品である。天正10年(1582)、能登の太守となった 前田利家 がは羽咋郡土田荘のうち13俵を寺領として寄進した。慶長8年(1603)利家の側室・寿福院(3代藩主前田利常の生母)の帰依を受けて、その菩提寺となった。3代利常の伽藍の整備以来、現在ある本堂などが次々建てられたようである。寛永8年(1631)年には、加賀能登越中の3ヶ国の日蓮宗の総録所(触頭(ふれがしら))となった。伽藍の多くは、加賀藩御用大工の山上・坂上一門の手にかかるものである。元和4年建立の五重塔他、現在、本堂を含め、祖師堂、二王門、五重塔(北陸唯一)など14棟中10棟が重要文化財に指定されている。現在、日蓮宗の七堂伽藍が古建築で完全に保存されているのは、日本で唯一である。また能登における現在の寺院の中でも、ここが一番大きい。
(羽咋駅前からバスで18分(滝谷口下車)→徒歩15分、自動車なら国道249号線滝谷口を東に入り1分)
羽咋から30分くらいの今では海水浴場・キャンプ場として地元では有名な志賀町・大島に、日乗上人の生家である平家(たいらけ)がある。平家は、平維盛の重臣だった平式部太夫の子孫と伝えられている。日乗上人の後、室町期に能登畠山家の家臣となり、平尭知、平総知など重臣を出している。江戸時代には、天領地13ヶ村の大庄屋を務めた家柄である。1万3200㎡の屋敷に池泉回遊式の前庭と枯山水の後庭があり、参観できるようになっている。前庭は、江戸前期、後庭は大正後期の作庭である。
 (参考) 妙成寺の風景

<永光寺(ようこうじ)と豊財院(ぶざいいん)>
どちらも曹洞宗の瑩山紹瑾(けいざんしょうきん)禅師が開いたお寺である。
瑩山紹瑾禅師は、 奥能登の総持寺 を開基したことでも知られている。
まず永光寺であるが、洞谷山(どうこくざん)と号する。本尊は釈迦如来。草創年次は不確定だが応仁2年(1294)羽咋中川の地頭酒匂頼親の嫡女・祖忍と夫・海野信直が、大乗寺の
瑩山紹瑾を招き、正和2年(1313)酒井保山中に茅屋を結んだのがはじまりとされる。文保元年(1317)頼親の住居を移し、瑩山が住持となった。文保2年には、祖忍が酒井保の山野・田畑を寄進しており、鎌倉末期から寺基が整備され、南北朝末期には、永光寺の伽藍様式がほぼ完成したようである。元応元年(1319)瑩山と祖忍によって洞谷山尽未来置文が作成され、曹洞宗における同寺の位置づけがなされた。瑩山の門下には明峰素哲(みょうほうそてつ)や峨山韶碩(がざんしょうせき)が出て、両門流による曹洞宗が全国的に拡大する(参考: 曹洞宗の発展と瑩山派の広がり )が、永光寺の住持については、明峰、無涯、峨山、坪庵の4派の輪番制が敷かれた。南北朝期には、 能登守護の吉見氏 が有力檀越(だんおつ)となった。また室町幕府によって暦応2年(1339)頃、利生塔が築かれ、能登守護畠山氏とも師弟関係を結び、室町期には守護勢力の影響を受けるようになった。一方では祈願所となり、教団内での地位が高まった。天正7年(1579)の戦火により、五老峰を焼失したが、天正10年(1582)能登の太守となった前田利家により再興された。近世には、看坊料20石があてがわれた。現在の伽藍は明治16年(1883)に建立されたものである。山門と法堂を結ぶ線の右側に庫裏、書院、方丈、浴室、左側には僧堂、東司を配し、回廊で結ぶ。(羽咋駅からバスで15分、寺境下車徒歩15分)
豊財院
であるが、
別名“般若寺”と呼ばれ瑩山紹瑾禅師が開いた曹洞宗の寺である。寺宝として国指定重要文化財、藤原時代初期の木造馬頭観音立像、木造聖観音立像、木造十二面観音像が安置されている。この他、月澗和尚が延宝7年(1679)に願を発し、自らの血で書いた紙本血書般若経300巻が残されている。その完成までに60年あまりの際月を要したといわれている。(羽咋駅からバスで15分、飯山下車徒歩15分。入場料要)

<気多大社>
正しくは気多神社であるが、気多大社と呼び習わされてきた。能登一宮として知られ、かつての国幣大社であり、日本4社の1つに数えられる。祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)で、能登開発の大神と仰がれている。創立の年代は明らかでないが、社伝では神代あるいは崇神天皇の時代とする。祭神は初め、今の七尾市の鹿渡島に来着して地方を平定し所口より現在地に移って鎮座したという伝説もある。早くから能登の大社として聞こえ、奈良時代より名を表している。天平20年(748)越中国守だった大伴家持も、出挙(すいこ)のため能登を巡視し、羽咋を通った時、本社に立ち寄り参詣している。斉衡2年(855)に、神宮寺(現在の正覚院。明治の神仏分離までは大社の神宮寺だった。平安後期作の重要文化財・阿弥陀如来像などがある)に、常住僧が置かれた。神階は累進して貞観元年(859)正二位勲一等により従一位になった。このような処遇になったのは、能登は当時にあって東北経営あるいは対外関係の要地だったため、能登の大社として神威が阿木仰がれたためであろう。延喜式では他の名神大社に列して祈念の国幣に入れられた。名神大社は能登・加賀で、ここ(気多大社)のみである。加賀の白山比咩神社は、気多大社と比べると全国に分祀した社は多いが、残念ながら名神大社ではない。気多大社の分祀した社は今ではほとんどないが、その分祀や苗裔神は、平安初期頃には、越中、加賀、越前、飛騨に存在していた。中世には武門の崇敬を受け、建保5年(1217)に鎌倉将軍より社領の寄進があり、能登守護畠山氏も社殿の造営・社領の寄進などを行った。永禄5年(1562) 畠山義綱 は、正親町(おおぎまち)天皇の勅許のもとに本殿を造営した。また畠山氏を滅ぼした上杉謙信、菅屋長頼、土肥親真も社領の安堵や寄進を行っている。中世後期の社領は羽咋・鹿島両郡の広範囲にわたっていたことが知られる。前田利家が能登に入ると、天正10年(1582)社領400俵、修理田300俵を寄進したのをはじめとして社領の保護・神事の尊重や社殿の造営などから、前田家でも尊崇があつかったことがわかる。以来、歴代の藩主も崇敬し、社領の寄進や社殿の造営を続けた。
気多大社の背後には、‘入らずの森’といわれる社叢林(1万坪)が広がる。神職さえも年に一度大晦日の夜に松明を灯して入り、神事を行うのみという。またその社叢林は、国の天然記念物にも指定されている。(羽咋駅からバスで12分、能登一の宮下車、徒歩3分)


<2つの十村役宅>
岡部家と喜多家が現在、加賀藩の十村の役宅として公開されている。十村とは加賀藩の制度で、簡単に言えば、大庄屋と代官を兼ねた役職のことで、多くの農村(10の村とは限らない)を管理し、年貢収納などの役目を「こなしました。

岡部家は源義経の臣下(岡部六弥太忠澄)の子孫といわれる家柄で、この地に豪農として生きてきました。藩政時代には、加賀藩の十村役を任じられ(元禄7年(1694))、一時贅沢を疑われ家主の流刑などもあったようですが、幕末まで十村を務めたようです。2000石を有したといわれています。一度火事で焼失したので、建てて直しており、今の建物は、元文元年(1736)の建築で、茅葺入母屋造りとなっています。藩主などが貴賓用の玄関や、部屋、風呂場、・・・は、別になっています。幕末には、13代藩主前田斉泰の本陣ともなりました。古文書が多く保存され、近世能登の様子をうかがう格好の史料となっている。また書院の庭園も見事である。母屋は1972年、県指定文化財になりました。指定を契機に、同家に伝わる豊富な古文書類と一緒に公開を始め、今では石川県の江戸時代の暮らしを知る貴重な資料館の役割を果たしています。
公開は9:00〜18:00。
住所:羽咋郡志雄町荻谷42 TEL(0767)29-3497
交通:JR敷浪駅から徒歩20分

喜多家は、こちらは源氏の新田義貞を祖としている家柄である。屋敷林に囲まれた、岡部家と同じく十村役宅である。2300石余りを有したといわれています。藩主・武士・十村・家族用の玄関を持つ珍しい構えだといえます。美術館も併設されている。重厚な門構えを持つことなどから、屋敷は国指定重要文化財となっています。道具倉なども重要文化財に指定されています。
開館時間   8:30〜17:30(年中無休)
お問い合わせ TEL 0767−28−2546
        FAX 0767−28−3199
住所:羽咋郡押水町北川尻 TEL(0767)28-2546、交通:JR免田駅から徒歩15分。

<散田金谷古墳>
 6世紀後半の古墳時代末期に造られた地元豪族の墓といわれ、子浦川に臨む丘陵端に営まれた能登で最大級の古墳です。明治36(0903)に地元の人に発掘あれた。墳丘の上に置いてある家型石棺は、この時に搬出されたものである。墳丘は、21×18.5mの略円形を呈し、高さは4.7mを測る
円墳であります。周溝は、墳丘の尾根側に幅3m・深さ0.5mの規模で馬蹄形に巡っています。埋葬施設は南西側に開口部を持つ横穴式石室で、全長9.85m、玄室の長さ5.72m、同幅2.65m、同高さ2.76m、玄門部の幅0.88m、同高さ1.7mを測る。石室の用材は花崗岩を主とし、一部に安山岩が用いられている。中には9.85mの横穴式石室があります。指定面積は633.97㎡。国指定史跡である。主な副葬品には、須恵器の杯・高杯・台付直口壺・提瓶、馬具、直刀、鏃などがある。出土品の一部は、東京国立博物館に所蔵されている。
町教育委員会に申し込めば見学できます。もっと詳しい内容や写真をみたい人は ここ をクリック!
志雄町教育委員会 TEL0767-29-8330

<博物館など>
羽咋市歴史民俗資料館(羽咋市鶴多町)

収蔵品)寺家遺跡、吉崎次場遺跡などの遺跡の出土品。十村文書や天領文書などの近世農政史料、北前船関係資料、生産生活用具や唐戸山神事相撲などの民俗資料など多数展示。
 

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