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(2004年1月7日一部削除・加筆修正)
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能登の歴史(利家公入城〜廃藩置県) |
能登畠山氏・七尾の歴史 (畠山義綱氏のホームページ) |
加賀一向一揆のホームページ (管理人・林六郎光明) |
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1.能登の武士 | 2.荘園と村 | 3.日本海の廻船と湊町 |
4.地頭御家人の時代 | 5.守護代飯河氏の登場 | 6.民衆と信仰 |
7.蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播 |
北国武士 | ||||||||||
「平家にあらずんば人にあらず」といって憚らなかった平家一門を心よく思わなかった後白河法皇の皇子、以仁王(もちひとおう)は、平氏討伐を源氏などに呼びかけました。それに応じて治承4年(1180)5月まず、源頼朝が挙兵し、やや遅れて同年9月、源義仲が挙兵した。源(木曾)義仲は、市原の戦いで緒戦を飾り、信州に勢力をのばし、明けて養和元年(1181)6月北陸最大の平家方である越後の城助茂(じょうのすけもち)を、信濃横田河原(長野県更級郡)の合戦で破り、北陸道経由の上洛作戦を開始します。これに伴い、北陸武士の多くが相次いで義仲方に呼応し、越中・加賀・能登・越前の北陸小武士団も続続と見方に付きました。 | ||||||||||
倶梨伽羅峠(くりからとうげ)の戦い(寿永3年(1184)5月11日) | ||||||||||
平家の大軍は二手に分かれ、平維盛は本隊を引き連れて、森本津幡の北陸街道を倶梨伽羅峠に向かって進撃した。平通盛(みちもり)を将とする一隊は、内灘から能登に入り、志雄山に陣を敷く。維盛の本隊が砺波山に到着した時は、既に義仲の軍は迎撃準備を終えていた。小競り合いのうちに日が暮れて、両陣営がそれぞれの陣屋へ帰った。 | ||||||||||
義仲の滅亡 | ||||||||||
京都に上った義仲は、元暦元年(1184)に征夷大将軍に就き、旭将軍と呼ばれその名の如く旭日昇天の勢いでしたが、家来の乱暴が多くなり、京都の町民に嫌われました。それで後白河法王は、鎌倉を中心に勢力を伸ばしてきた源頼朝に木曽義仲追討を命じました(院宣(いんぜん)を与えました)。頼朝は弟・源義経を派遣して、それにより義仲は京を追われます。元暦元年正月20日、義仲は近江の粟津ヶ原(大津市)で、田圃の泥で馬が足をとられているところを弓で射られ、戦死しました。 | ||||||||||
長谷部信連(はせべのぶつら) | ||||||||||
平氏を壇ノ浦で滅ぼした源頼朝は、建久3年(1192)征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開き、武家政治を始めました。これより先、頼朝は文治元年(1185)、朝廷の許しを得て、主だった御家人(家来)、守護(地方を治める役人)、地頭(荘園の管理人)を任命し地方を治めさせました。長谷部信連も地頭として能登に着た一人です。信連は大和出身で、はじめ院の御所を警護する北面の武士として後白河法王に仕え、やがてその武勇が認められ、法王の第二皇子である高倉宮以仁王(もちひとおう)の侍長となった人です。以仁王は源頼政の勧めで平氏打倒の令旨を諸国の源氏に送り、平家打倒の烽火をあげ、宇治で戦死しました。 | ||||||||||
畠山氏が能登に来るまでの支配者は? | ||||||||||
鎌倉幕府は、一国に一人の守護と、国衙領と荘園に地頭を任命しました。能登の初代守護は、比企朝宗(ともむね)で、ついで北条朝時が知られ、吉見為頼が北条朝時を輔佐したと思われます。吉見氏は、源頼朝の弟・範頼(のりより)を祖とします。範頼は義経と共に一の谷で平家を破るなどの活躍をしますが、建久4年(1193)に伊豆で殺害されます。幸い次男・範円などが難を逃れ、武州吉見に住まいし、吉見氏を名乗り、その子為頼が守護補佐として、建久8年に能登に入国したと伝えています。 もともと、国司と郡司の支配地域であったところへ、新たに守護と地頭とを任命したのですから国司と守護、郡司と地頭の間で、土地の収益権など支配権をめぐって紛争がしばしば起きました。 朝廷と幕府は、対立を深め、承久3年(1221)に承久の乱がおこります。執権だった北条氏の勢力を封じるために後鳥羽上皇を中心とする朝廷勢力が、北条義時追放の兵をあげましたが、幕府側の勝利に終わりました。この乱の結果、鎌倉を中心とする北条氏の執権政治ができあがります。そして、南北朝の動乱をへて、足利尊氏が政権を握り、室町幕府を作ることになります。南北朝動乱期には、国衙領や荘園に勢力をもっていた守護が、国衙領や荘園を自分のものにし、支配するようになり強力化していきます。これらの守護が、守護大名なのです。 能登でも、建武2年(1335)に、足利尊氏が新政権に対抗するや、 吉見宗寂 が尊氏に組して能登の守護に任命されました。その後、同じ吉見氏の 吉見頼顕、吉見頼隆、吉見氏頼 と吉見氏の能登守護が続きます。このため、口能登の武士団はほとんど尊氏派となりますが、南朝方の富来氏や越中の井上氏との間に戦乱が続くこととなります。 観応元年(1350)に尊氏の弟・直義(ただよし)が尊氏に離反するや越中守護・桃井直常が井上氏や富来氏とともに弟側につき、吉見氏を破り、能登守護に桃井盛義が任命されます。しかし直義の死によって吉見氏が盛り返し、吉見氏頼が再度能登の守護になっています。この南北朝の内乱は、石動山、能登部、富来、赤倉山、向田等が激戦地とされています。赤倉山の戦いでは、能登守護・吉見氏頼と越中守護の一族桃井直信との戦いが行われましたが、赤蔵山の僧兵が吉見方に味方した為、吉見方の勝利に終わっています。これらの戦いは単なる尊氏派VS直義派の戦いではなく、能登の支配権、特に七尾湾の地域をめぐっての戦いであったと考えられます。なお、吉見氏の居城は、能登部城と金丸城とされてますが、吉見頼隆の時に、守護所は(現在の七尾の)「府中」に移されました。 | ||||||||||
能登国の政治行政の拠点である国衙は、鹿島郡八田郷府中に所在した。八田郷は、現在の七尾市域の市街地に比定でき、市内の国下(こくが)町や府中町の地名は、その名残りである。 | ||||||||||
3.日本海の廻船と湊町 | ||||||||||
国家への貢納物や荘園年貢の輸送が中心であった水運に、鎌倉後期以降、隔地間交易の商品輸送が加わるようになりました。廻船ルートが新たに開かれ、北陸の日本海沿岸部では、小型のテント船が盛んに行き交い、若狭の小浜湊と越前の敦賀津を基点に、越前三国湊(福井県)・加賀大野荘湊(宮腰・金沢市)・能登
小屋湊(おやみなと)
(輪島市)・越中放生津(ほうしょうづ)(富山県新湊市)・越後直江津。同柏崎・佐渡国津などが主要な湊として繁栄し、さらには東北の出羽酒田保(山形県)・津軽十三湊(青森県)へと広がっていきました。 能登の主な湊としては、日本海に面した外浦では、羽咋郡の羽咋湊・竹津(羽咋市)・直海(のうみ)保北浦(福浦・富来町)や鳳至郡の櫛比川尻・志津良(しつら)(門前町)・曽々木浦(輪島市)、珠洲郡の高屋浦・塩津(珠洲市)がありました。また富山湾・七尾湾岸の能登の内浦には、珠洲郡の正院(しょういん)湊・直(ただ)湊(珠洲市)・小木湊(内浦町)、鳳至郡の宇出津(能都町)・甲浦・中居浦・穴水湊(以上、穴水町)、鹿島郡の熊来(くまき)浦(中島町)・大津(田鶴浜町)・所口湊(七尾市)などが知られています。 長い海岸線を持つ能登では、日々の暮らしにおいて船運は必要不可欠でしたが、日本海の航行は、秋口から春先までは波が荒く困難であったのに対して、内浦では一年を通じて、磯伝いの船運は可能でありました。内浦からは、越後と結ぶ航路も開かれていたらしく、戦国時代前期の永正15年(1518)3月、能登に下向していた公家の冷泉為広は、信濃善光寺に参詣に赴くのに際し、戦国城下町七尾の外港にあたる所口湊から乗船し、湾内経由でいったん小木浦に向かい、そこで船に乗り継ぎ直江津に着いている。つまり、奥能登から富山湾へ横断する航路が既に出来ていたらしいのである。 | ||||||||||
4.地頭御家人の時代 | ||||||||||
七尾市域の荘園・公領を名字の地とし、そこを在地領主的基盤とした鎌倉武士に、飯川三郎資光(いがわさぶろうすけみつ)・三階七郎三郎家秀(みかいしちろうさぶろういえひで)・三室判官代入道某・万行又五郎胤成(まんぎょうまたごろうたねなり)らがいた。南北朝期に公家の洞院家が編纂した系図集『尊卑分脈』によれば、鎌倉時代中頃に、加賀の林一族の豊田次郎光広の嫡男豊田弥次郎光忠・次男飯河資光・六男藤井六郎光基の三人が、能登国鹿島郡内の豊田保(中島町)・飯河保(七尾市)・藤井村(鹿島町)に居住したとある。 その理由は定かではないが、飯河氏には、資光の嫡男景光・次男左衛門尉光政のほか、建武元年(1334)8月には、その後裔である飯河播磨房光瑜が、後醍醐親政の雑訴決断所で、北陸道を担当する四番方の職員として見えている。三階家秀は、南北朝前期の鹿島郡酒井保の禅刹永光寺(曹洞宗)の檀越として知られ、弟の無底良韶(むていりょうしょう)は、峨山(がざん)門下の禅傑で、陸奥国黒石(現岩手県水沢市)の正法寺として著名である。兄弟には、羽咋郡の湊保にも所領を確認できるが、母の尼性韶は、酒井保の地頭酒井章長の曾孫で、「三階池崎後家」と称されていたから、三階氏は鹿島郡の三階良川保(現七尾市高階地区)を本貫地とした鎌倉武士で、保内の池崎に居館があったらしい。 三室氏は、近年明らかになった建治元年(1275)5月の京都六条八幡官(源氏の鎮守神)の造営用途支配注文に、能登在国の御家人役として、銭五貫文を負担した。「三室判官代入道跡」の記事が載せられていたことで、初めてその存在が確認され武士である。 「跡」の記載は、かつて地頭三室氏の惣領であった判官代入道の所領を分割相続した者達の負担分を、建治元年に当時の三室氏の惣領が、まとめて進納していた状況を意味しており、このことから判官代入道は、建治元年以前の地頭御家人であったことになる。三室氏の本貫地は、国衙周辺の公領の中で2番目に公田数(13町5反)の多い、鹿島郡三室村であり、小口瀬戸を隔てて富山湾に通ずる、七尾南湾頭の要地であった。 また、万行胤成は、建暦元年(1211)に公領から荘園となった万行保(市内万行町付近)の御家人である。永仁6年、万行保の地頭職をめぐって、一族の万行五郎成資(なりすけ)の御家(尼宝蓮)及び子息亀鶴との間で、訴人(原告)の立場から訴訟に及んでおり、嘉元3年(1305)5月の北条宗方の謀反事件の際には、遠路鎌倉に馳せ参じ、執権北条師時から着到状に、証判を受けていた。 | ||||||||||
5.守護代飯河(いがわ)氏の登場 | ||||||||||
元弘3年(1333)、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇のもとに、再び天皇を中心とする政治が行われました(建武の新政)。このとき能登国司に、村上源氏である中院定平(なかのいんさだひら)が補任された。鎌倉幕府を倒した武士は公家政治を望んだのではなく、新しい武家政権を期待したのであり、公家を優遇する新政府に多くの武士がすぐに反抗した。その中の中心であった足利尊氏は、光明天皇を立てて、建武3年(1336)室町幕府を開きました。後醍醐天皇の側を南朝、足利尊氏の側を北朝といいます。 南北朝時代、能登国は吉見氏が守護として分国の経営にあたっていた。この守護のもとで、その経営の一翼を担ったのが、守護代の飯河氏である。飯河氏は、鹿島郡飯川保(現在の七尾市飯川町)を本貫とし、『尊卑分脈』によれば、加賀の有力武士・林氏の一族である飯河三郎資光(すけみつ)を始祖としている。 飯河氏が守護の被官として初めて登場するのは観応3年(1352)に、守護吉見氏頼が越中の桃井直常を討伐した際の軍奉行(いくさぶぎょう)として、飯河五郎左衛門尉(めしかわごろうさえもんのじょう)の名が見えることである。さらに実際に発給された文書を見ると、応安元年(1368)7月2日に、守護吉見氏頼(道源)が得江八郎次郎に本知行地を返付するにあたり、飯河左近将監(家光)と共に遵行(じゅんぎょう)(守護の命令を下達)することを、守護代である飯河左近将監家光・飯河左衛門藤光の連署で打渡状(うちわたしじょう)(当事者に伝達する為の文書)が出されている。飯河家光は、守護代のもとで実務を担当する守護使であろう。このように、飯河氏は一族で守護吉見氏の分国経営の重要な位置を占める被官人であった。吉見氏にとっても、在地の有力な領主と手を組むことが、得策であったことは容易に理解できる。 その後、飯河氏は、室町期においては守護畠山氏の被官としての名が見られ、やがては戦国の動乱に巻き込まれていくのである。 | ||||||||||
6.民衆と信仰 | ||||||||||
能登の霊山 | ||||||||||
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板碑文化 | ||||||||||
道端に、寺・神社の境内や墓地に、梵字や仏像を彫刻した割合小さい石碑を、板碑といいます。板碑は鎌倉時代の初め、関東地方に現れ、その終わりに能登に伝わっています。そして、室町時代の中頃から近畿地方からも伝えられ、江戸時代の初めに終わりをつげています。七尾は石川県の中で、比較的に板碑の多い所です。徳田地区に82基、東湊地区に13基など各地区に点在しております。殆どは自然石を使用しており、時には岩層から切り出した石を割って形を整えた割石(かっせき)にしたものもあります。
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7.蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播 | ||||||||||
この一向一揆関係の頁は、この頁から分離独立したので、そちらの頁を見て下さい。 「蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播」 (その他、浄土真宗関係の他の頁) 蓮如の浄土真宗の(北陸での)布教 山の寺と能登真宗寺院の中核 |
参考図書: | 「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、 「七尾市ものしりガイド・観光100問百答」(七尾市観光協会) 「七尾市史」(旧版)(七尾市史編纂専門委員会)、 「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)、 「図説石川県の歴史」(河出書房新社)、 「半島国の中世史」(東四柳史明著・北国新聞社) 「石川県の歴史」(山川出版社) 「石川県大百科事典」(北國新聞社) 「石川県の地名(日本歴史地名体系17)」(平凡社) 「広辞苑」(岩波書店) |
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