このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

岩倉山の歴史 及び岩倉山探訪記

(2005年7月4日一部加筆修正)

奥能登の霊場・岩倉山       「岩倉山探訪記」を先に読みたい人はココ をクリック
 日本海の沖を漕ぎゆく船人や漁師の多くが、日頃から信仰を寄せていた奥能登の霊場に、岩倉山がありました。この霊山は、能登最大の河川として知られる町野川河口の右岸に位置し、標高は375m、険阻な岩山が曽々木海岸に覆い被さるようにそそり立っています。今から3千万年ほど前、地球は火山活動が活発でしたが、岩倉山も海底噴火によって出来た火山だといわれています。

 急な坂道を登った山の中腹には、真言宗の古刹である白雉山岩倉寺(はくちざんいわくらじ)があり、そこから少しばかり上りつめたところに、※1延喜式内の古社で、下町野郷(しもまちのごう)(荘)の惣社であった岩倉比古神社(いわくらひこじんじゃ)が鎮座します。もとはその名が示すように岩そのものが神体でした。岩倉寺はその別当寺(神宮寺)で、千手観音を本尊とし、古来より奥能登の人々から「岩倉観音」と呼ばれ、幅広い崇敬を集めてきました。

 岩倉寺の由緒が書かれたものによると、  (参考 「能登の民話伝説-No.6」 の「岩倉寺の由来」)
 ・・・・その昔、輪島の光浦の沖に、夜になると何か光るものがあったといいます。光浦の人たちは、それが何なのか不思議に思っていたが、ある時、漁師の新左衛門の網に大きな木の株が引っかかって揚げられました。新左衛門は、棄てるものかどうかと思い、家に持ち帰り庭の隅に置いていましたが、ある晩、霊験新たかな観音様が夢枕に立ち、「わしを岩倉山に安置してくれ」と頼んだといいます。

 はっと、目が覚めた新左衛門は、もしやと思い庭に出てみると、木の株の中がまぶしいほど光り輝いていました。新左衛門は急いで重い木の株を背負い、遠くの岩倉山へ向かいました。どれほど登ったことだろうか、急に木の株が重くなり座り込んで動かなくなってしまいました。
 そこが現在の岩倉寺であり、それは、白雉2年(651)の事と伝えられています。その後、木の株の中から出た千手観音は、ご本尊となったといいます。また何時頃からでしょうか、岩倉寺は、能登三十三観音霊場の三十二番札所として、また北陸三十三観音霊場の十六番札所として、沢山の人々から崇められるようになりました。

 能登の中世の宗教的世界の中では、 石動山 をはじめとする地方霊山が、民間信仰の拠点として大きな位置を占めていましたが、当時の史料から霊山と民衆の具体的な結びつきを探ることは、なかなか困難であります。そうした中で、岩倉山で見る次の事例は、その一端を窺うことができます。
※1平安時代の927年に出来た「延喜式無神名帳」に載っている神社を延喜式内社とか式内社といいます。

 戦国時代前期の永正4年(1507)4月4日、岩倉寺の再興造営が完了し、本尊の開眼供養が催されました。これは明応9年(1500)11月7日に御堂が炎上した後、7年の歳月をかけて再建されたものでありました。御堂の中には、漆塗りの立派な棟札がありますが、それにはびっしりと寄進者の名が刻み付けられています。
 
 開眼供養の導師をつとめた雄鑁は、岩倉山に近い宝立山宝嶺大権現(ほうりゅうざんほうれいだいごんげん)の別当高照寺の住職で、再建の大檀那は、下町野郷の領主 温井藤八郎統永(ぬくいとうはちろうむねなが) でありましたが、造営を助成した奉加衆(ほうがしゅう)の多くは、奥能登各地の土豪・僧侶・有力農民達(長(おとな)衆)でありました。

 二江(にえ)の彦五郎・虎女・友貞・羽浪(波)の飯森、若山の延竹、柳田の法祐入道、藤並(波)の次郎左衛門、牛尾の九郎兵衛、稲舟の助次郎、正院の禅林院、渋田の兵庫、山ノ上の弥八、金蔵の中之坊、川井の九郎左衛門一族などといった者、他に、川井、柳田、小橋、敷戸などの長衆などである。その顔ぶれは、老若男女と多彩であり、彼らの地域分布は、町野平野を中心に、珠洲郡域から鳳至郡の東域にまでおよんでいました。

 ところで、岩倉山の再建にあたり、広く能登の各地を歩きまわって、造営の為の勧進を行ったのは、陸奥国会津の岩峅寺(いわくらじ)の空真(くうしん)であった。彼は、遊行漂白的な生活を営む遍歴の聖でありました。おそらく日本海を船で行き来する途中、たまたま修行のために岩倉山に立ち寄り、御堂炎上後の惨状を目の当たりにし、修造のための勧進を発願したのでありましょう。

 岩倉山の千手観音は、先に由緒で記したように、鳳至郡光浦の磯に夜ごと光を放ち、漁父の網にかかって海から上がったという伝説を持ちます。観音信仰は、観音を念ずれば七難三毒を除き福音を招くという現世利益に加え、六道衆生を救うという来世信仰の色彩も帯びていました。
 観音信仰の普及によって建立された観音堂には、山の中腹・懸崖の高台・海岸の岬などに営まれるものが多く、それは観音浄土の南海の補陀洛山(ふだらくせん)の信仰に基づくものであったといいます。岩倉山の地形は、そうした観音信仰の霊場としての地理的条件を備えており、岩倉寺から眼下にはるか広がる日本海の海原は、当時の人々から補陀洛山への道としてイメージされていたと思われます。

 岩倉寺の境内には、二基の石造五重塔をはじめ、宝篋印塔(ほうきょういんとう)(残欠)・古文書、書籍、黒漆塗陰刻棟札、五輪塔各十数基など、鎌倉後期から室町期にかけての石造遺物が多く、中世を通じて繁栄していたことが知られています。
 同寺が所在する珠洲郡下町野荘(現在の輪島市町野町付近)の地は、当時、京都東岩倉山の観勝寺(真言宗)の寺領であり、そうした関係から、中世にはその末寺となっていた可能性もあります。

 しかし、奥能登の浦や里に住む人々や、沖を行き交う船人たちにとっての岩倉山は、観音の鎮座まします霊山であり、その信仰の普及には、岩倉観音の霊験を説いた、さきの空真に代表される勧進聖たちの活躍によるところが多かったと思われます。岩倉山のある町野川流域は、「町野結集(まちのけちしゅう)」と呼ばれる真言系寺院を中心とした、濃密な信仰地域でもありました。

 戦国末期の永禄−元亀年間頃(1558−1570年代)には、町野郷周辺の武士や百姓達が盛んに岩倉寺の住持十穀坊宥遍上人(じゅっこくぼうゆうへんしょうにん)は、時宗系の勧進聖であったらしいことがわかっていますが、諸国遍歴の後に同寺に住みつき、優れた祈祷の呪法をもって、地域の人々から信仰を寄せられていた傑僧でありました。
 中世奥能登の霊山と民衆。その信仰の接点に、日本海を舞台に宗教的遍歴を重ねる勧進聖たちの活動が、重要な役割を果たしていたことは、注目に値することです。

 岩倉山は最近、登山道も舗装整備され、車で登れるようになりました。そのため、航海安全、大量祈願のほか、病気全快、商売繁盛、試験合格、幸せな結婚など様々な願い事をもった参拝者が沢山訪れるようになったようです。院内や境内は奥能登の霊場に相応しい木々が鬱蒼としげった神々しい雰囲気の場所ですが、そこから、歩いて約30分ほどで頂上となります。そこからの眺めもすばらしいということです。また千体仏(千体地蔵)も近くにあり、海底噴火で噴出された流紋岩が侵食され風化してできたもので、大小数多くの仏像が林立したように見え、訪れた人を感嘆させるといいます。

 最後に岩倉寺にかかる額の歌を紹介して締めくくりとします。
  「後の世の いのりも今に 岩倉寺 峯には いつも さそう松風」(詠み人しらず)
 岩倉山探訪記  (取材日:平成17年7月4日)
 
 この日は梅雨の中休み。車で登る登山道も、あるそうだが、昔の人の大変さを知るため、自分の足で登ることにした。私はよくこういうことをやる。比叡山や岐阜城、宮島の弥山、しずが嶽などなどロープウェイや自動車登山道路があっても、歩いて登るのである。だから岩倉山など大したことなどなかろうと言う気もあった。
 午後1時50分頃、曽々木海岸の窓岩の近くの登山口から登りはじめました。梅雨らしく、登り口に近いあたりに紫陽花が咲いていた。このころはまだ岩倉寺及び岩倉山への道がこれからどのように急になるか、わかっていなかったので、この左上の(写真の)坂を急な坂と思って写真におさめたりしていた。
 5分ほど登ったところで、後ろを振り返ると、当たり前の話だが、(能登の名所で有名な)窓岩が今まで見たことのない角度から見ることができた。そして目を山の方に転ずると、岩倉山の山頂が見えた。
 十数分くらい坂を登ったところで、町野川の河口付近を見渡せる眺望のいい場所があった。そこから数分くらいだろうか、また少し歩くと、やっと岩倉寺の鐘楼が見え始めた。
 境内に着いてから、岩倉寺の本堂の中に一歩ほど入って、浄財したあと、本尊に向かって手を合わせ礼をしてお参りする。お堂の中には色々あるようだったが、暗くてあまり見えなかった。右上の石塔は室町時代に造られたと思われる五重塔である。この寺のあるところまでは、ここまでは麓から約20数分かかっただろうか。
 岩倉寺の参詣が終わったあと、道をほんの少し戻り、山頂を目指すことにした。左上の写真は、途中見つけた千手観音の石仏である。この千手観音の石仏は、他にも3、4体見つけた。探せば、周囲に沢山あるのかもしれない。山頂までの道は、辛かった。場所によっては、45度くらいはあると思う。岩倉寺のあたりから頂上までは、丸太で土止めした階段がほとんどだった。右上の写真は、山頂らしき展望台が木々の間から見えた時、最初に目にしたものである。テレビ関係のアンテナであった。ここまでは岩倉寺から、30分ほどかかったと思う。
 岩倉山の山頂からは、(たぶん)町野川の上流の方を見渡すことができた。この日は、梅雨の中休みであったが、この山頂に立った頃は、今にも雨が降ってきそうな、どんよりとした(しかし蒸し暑い)天気で、さして眺めは綺麗ではなかった。この後、自然が造りだした千体地蔵という奇岩を観にいくことにした。 山頂から急な坂をおりながら、数百メートル引き返し、途中、千体地蔵への道に入り、確か約1.1kmほどまた急な坂道を登ったり、下ったりした。ほんとにこの山のハイキングコースの険しさといったら、今まで経験したことがないくらい急である。ただし途中また見晴らしのいいところが何箇所かあった(ここからは天気のいい日、七つ島なども見えるらしい)。汗をたっぷりかき、ヘトヘトになって40分ほどだろうかい行くと、千体地蔵が見えてきた。
 千体地蔵の場所へは、往きは、坂を下ってから、左横の道に入り、また幾分坂を登りながら東から行くこととなった。左上の写真が千体地蔵と呼ばれる崖の全体像であるが、分かり難いので、拡大すると右上のように見える。確かに崖に仏を刻んでいるように見える。感心しながら、しばらく休んでから「さあ後は下るだけ、帰るぞー」と思い、今度は、来た道ではなく、反対の西へ行く道を通って帰ることにしました。しかし甘かった。途中から、またキツイ登りがあり、数百m進んでやっと、下りとなった。なお千体地蔵の説明は左の写真を見てほしい。
 またまた30分ほどかけて、やっと元の登り口に戻ることが出来た。後で考えてみると、どうも私は一番キツイ、ハイキングコースを選んだらしい。この岩倉山の探訪だけで、2時間以上かけてしまった。ただ救いだったのは、途中雨が降らず、自動車に乗ってしばらくしてから雨が降り出したことであった。30分ほど経つとかなり雨も強くなった。山の中で雨に逢っていたら大変なことだったと思う。ただでさえ急な山道がぬかるめば、怪我することもありえただろう。まあ結果オーライで、苦労は水に流そう。
参考)岩倉寺
住所:石川県輪島市町野町西時国16字8番甲地
アクセス : 国道249号線の北鉄特急バス曽々木口まで行き、曽々木口より徒歩約20分
営業時間 : 拝観自由 (入場料及び拝観無料)です
予約 : 要/食事2日前まで 休業日 : 年中無休  駐車場 : 有(無料)15台

文頭へ
(参考図書)
「輪島ものがたり(巻二)」(輪島商工会議所「語り部会」編)
「(図説)輪島の歴史と文化」(輪島市)
「輪島市史」(輪島市)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市史編纂専門委員会)、
「(図説)石川県の歴史」(河出書房新社)
「日本海世界と北陸」(神奈川大学、日本常民文化研究所)他
「石川県の歴史散歩(全国歴史散歩シリーズ17)」(山川出版社)

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください