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  能登の民話伝説  

 
能登の民話伝説(奥能登地区-No.6)
岩倉寺の由来 (参考)「輪島ものがたり(巻二)」(輪島商工会議所「語り部会」編)
 その昔、輪島の光浦の沖の「みなぐり岩」に、なにかが漂着し夜な夜な光を発したといいます。光浦の人たちは、それが何なのか不思議に思って恐ろしがった。
 
 ある時、漁師の新左衛門の網に大きな木の株が引っかかって揚げられました。新左衛門は、棄てるものかどうかと思い、家に持ち帰り庭の隅に置いていましたが、ある晩、霊験新たかな観音様が夢枕に立ち、「わしを岩倉山に安置してくれ」と頼んだといいます。岩倉寺

 はっと、目が覚めた新左衛門は、もしやと思い庭に出てみると、木の株の中がまぶしいほど光り輝いていました。新左衛門は急いで重い木の株を背負い、遠くの岩倉山へ向かいました。どれほど登ったことだろうか、急に木の株が重くなり座り込んで動かなくなってしまいました。

 そこが現在の岩倉寺であり、それは、白雉2年(651)の事と伝えられています。その後、木の株の中から出た千手観音は、ご本尊となったといいます(話によっては、海から引き揚げられた時から千手観音であったというのも多いようです)。また何時頃からでしょうか、岩倉寺は、能登三十三観音霊場の三十二番札所として沢山の人々から崇められるようになったと言い伝えられています。

 ただ実際には、光浦かほど近いところに観音堂がありますが、最初はそこに安置されていて、後に、はるか東方の岩倉寺に移されたということです。新左衛門の家は、光浦の本家の先祖で「本」は光の本から採ったということです。当主は代々新左衛門と名乗ってきました。光浦の地名も、この伝説の、木が放ったという光から採ったといいます。本家は、千手観音が近くの観音堂から岩倉寺に移ったのちも、「鍵撮り」をつとめているそうです。

 また現在光浦近くにある観音堂の場所は、昔真言宗の古刹長徳寺(大永元年鳳至町へ移転、浄土真宗に改宗)があったところだそうです。現在の建物は、明和初年に再建され、同時に千手観音も新しく開眼し、安置されたものだそうです。現在は無住の寺となっています。

(参考)私のHPの「能登の霊山」の中の 「岩倉山の歴史」
粉川のミズシ (参考)「輪島市史」、「図説輪島の歴史」、「輪島ものがたり」(輪島商工会議所「語り部会」編)
 粉川寺昔、横地(輪島市)に蒲田の九郎兵衛という人がいて、いつも神田山へ仕事に行っていました。そこはかつて真言宗の七堂伽藍がありましたが、天正年間の上杉謙信の能登侵攻の際の攻撃で焼失してしまっていました。
 あるとき、九郎兵衛がいつものように神田山へ行くと、焼失を逃れた本尊の観音様(千手観音)が出てきて、
 「わしを連れて行ってくれ」 
と言いました。

 その観音様は六尺(約1.8m)ほどもある大きさだったので、九郎兵衛は、村の者を呼んで皆で運ぼうとしましたが、どんなに動かそうとしても重くて重くて一寸も動かすことができませんでした。ところが、九郎兵衛が、こんどは一人で背中を向けると、こんどはひょいと負われましたそうな。その軽いこと軽いこと、先ほどまでの苦労が嘘のようでした。
 そのまま負ぶって山を下りてきましたら、観音様が途中で、「ここは」と言って、足を降ろしたそうです。そこで、そこにお寺を建ててその観音様を『粉川の観音様』と呼ぶようになったそうです。河原田川

 時代は下って、粉川寺の観音様の下の辺りに、太郎次郎という者が住んでいました。その家には、親子の馬がいましたが、ある夜、太郎次郎が、河原田川の川原へ引き出してを飲ませていました。すると、ミズシ(河童)が、馬の尻尾を餌と間違えて、掴んで水の中へ引っ張り込もうとしました。吃驚した馬は尻尾にミズシがつかまったまま、走りあがり、馬小屋まで戻ってきました。
 家の者は、馬が慌てた様子で嘶き騒ぐので、出てきてみると、河童が馬の尻に繋がったまま腰が抜けたような状態でうずくまっていました。

 主人の太郎次郎が家まで後を追って戻ってきて、河童を見ると
 「わしゃ、ここらの淵に兄弟三匹で棲んどるミズシやわいね。どうか命だけはお助けを!」
河童が命乞いをしました。可愛そうに思った太郎次郎は、ミズシを放免してやると、それからというもの、馬小屋のカギに、魚をいっぱい吊るして置いていくようになったといいます。ところが、やがて木のカギが古くなったので折れたらいかんと思って、鉄(かね)のものに変えたところ、ミズシは金物が大嫌いだったので、それ以来パッタリと、魚がこんようになったということです。

 別伝では太郎次郎が‘これからは餌をやるからもう悪さをするな’と言ったところ、‘好物の甘酒の粕がほしい’といったので、このようになったとするものもある。

 「三匹のミズシが、もう悪さをしないように」
と、横地の人たちは今でも元旦の早暁に粉川寺に集まり、本尊の千手観音を拝み、ミズシ供養をします。
「苞(つと)流し」と云って、白米と糀(こうじ)を1:3の割合で混ぜた甘酒(とうずい)の絞りかすをミズシの一年分の餌としてワラット(藁苞)に入れ、供物として河原田川に流すそうです。苞は写真で見ると1mほどもある細長いものです。
 寺の石段の中ほどから、
 「一つは粉川淵に、一つは犀ガ淵(ガメの淵)に、一つは京田(キョウデン)淵に」と言って放ります。そうするとそのツト(苞)がクルクル周りながら淵に止まれば吉、流れれば凶として、人々はその年の吉凶を占うそうです。

 粉川寺の御堂には、「親子馬とミズシ」の絵馬が掲げられています。ただしミズシは猿として描かれています。「文政二年(1819青玉写」と記されており、輪島市の指定文化財となっています。
乳もらい地蔵 (参考)「輪島市史」
 空熊町の乳もらい地蔵)
 空熊町下地の中舎(なかすな)家所有にある地蔵は、雲光型の光背があり高さ約70cmほど、手に錫杖をもつ延命坐像の姿をしており、室町時代の作と推定されています。俗に「乳もらい地蔵」と称されています。伝承によれば、沖の崎の海底から引き揚げられた尊像であるといいます。また別伝で奥山から運んできたら、ここで動かすことができなくなり、そのまま安置したとも言われています。

 霊験あらたかで、特に母乳不足の母親にお乳を授けるとのことで、昔から信仰が厚く今なお参拝者が絶えないといいます。
 お詣りする人は、煎り菓子と蝋燭・線香を添えて祈ると良いといわれ、乳が出るようになった者は、盆・正月、または年の暮れにお礼詣りをします。その時は珍しい食べ物の他、地蔵様の帽子や前垂を奉納します。

 堂守は中舎家で、「中砂」即ち「なかすな」で乳を授かり充分に赤子に飲ませ、泣かさないようにとの意味を持つ屋号であるとのことです。この家は、中舎庄三郎という人から代々続いています。地蔵様は、一時盗まれたことがあります。しかし、仏のお告げでほどなく犯人がわかりすぐ取り返すことが出来たといいます。昔、この地方の人に家具を貸してくれたという椀貸し伝説と重なって伝えられています。

 稲舟のいりこ地蔵)
 この空熊町の地蔵の他に、乳を授ける地蔵様が稲舟の国道249号線にそってひっそりと安置されています。いりこ(麦の粉)を供えて祈願するので「いりこ地蔵」とも言います。現在小さな祠の中に新旧二体が納められています。旧い方は風化が甚だしいがこれが昔からのものです。霊験あらたかとして、遠近問わず参詣客が後を絶たないということです。 
<門前町の民話伝説>
鬼神大王波平行安〜剱地の刀鍛冶〜
 昔、奥能登の外浦(能登半島の北西から西にかけての海岸地域)ある村に、一人の刀鍛冶の爺様がいました。その爺様には、可愛い一人娘がおり、二人して住んでいました。

 爺様は、刀を鍛えることが何よりもの楽しみでありました。年寄りなのに、疲れを知らないかのように、鍛冶場からいつも槌の音が響いてくるのでありました。娘は、心根優しく、貧乏なために粗末ななりをしているものの、近くで見ると思わずみとれてしまうほど器量よしだったで、村のほとんどの若者が言い寄ってくる有様でした。爺様は、しかしなかなか承知しませんでした。本当は、もう娘も年頃なので、婿をとってやりたいのは山々でした。しかし職人にありがちな頑固一徹な性格でありました。跡を継げるような優秀な刀鍛冶でなければ、婿にする気にはなれなかったのです。それで爺様は村のものには「わしの娘には、一日に何本もの刀を打つ優れた刀鍛冶しか絶対に婿として認めん」といつも言っているのでした。娘は、そんな父親に逆らいもせす、身の回りの世話や農作業をしながら、父親を労(いた)わるのでした。

 そのように毎日父親に尽くしている娘でしたが、近頃何か視線のようなものを感じるような気になるのでした。見回してみても見えるのは、海岸の狭い平地にへばりつくようにある田畑と、家の前に広がる大きな海原、そして家の裏手の山ばかり。人っ子ひとり近くには見えぬのでした。娘は思い過しだろうと思い、また仕事を続けるのでした。

 ある日、このあたりでは見かけぬ一人の若い男が尋ねて来て、娘の婿にしてくれ、と頼みにきました。見るからに筋骨隆々で目にも力のあるしっかりした男でありました。それで聞いてみた「あんた、何ができさっしゃる?」
 男は言いました。「一日のうちに沢山の刀を鍛え上げる業(わざ)を持ってます」
自身ありげに答えるので、爺様は気に入りました。しかし、口先だけということや、なまくら刀しか打てない未熟者という可能性もあります。それで爺様は試してみることにしました。

 「わしの大事な鍛冶場を一日貸してやる。明日の朝、一番鶏が鳴くまでに、刀をできるだけ鍛えてみろ。わしが出来上がりをみてやる」
と爺様は、男にいいました。
 「わかった。その代わりお願いがある。わしが刀を鍛えている間は、鍛冶場を決してみないでくれ」
と男は、頼みました。
 爺様は少し奇異に思いましたが、自分の秘密の業を盗み見られるのを心配しているのだろうと思い
 「承知したわい」と言いました。
 男は、それを聞くと、黙って頷き、井戸へ向かいました。井戸端で、褌一丁の日焼けした筋骨隆々の姿になり、まず体を清めました。精神統一するかのような姿勢をしばらくとってから、また服を着て、鍛冶場の小屋に入りました。そして注意深い様子で、あたりの戸などを一切締め切りました。
 間もなく、刀を打つ音が聞こえてきマシた。トッテンカン、トッテンカン、その音は、天地を轟かすような大きな音で、一晩中聞こえました。爺様も、娘も、その力強い槌音に眠れませんでしたが、男の言葉を守り、鍛冶場を覗くことはしませんでした。

 日の出頃になりました。鍛冶場の隅には、鍛え上げられた刀が山と積み上げられていました。爺様が一番鶏が告げる刻限と同時に、鍛冶場の戸を開けると、それらの刀が朝日を受けて輝き、爺様の眼に飛び込んできました。
 爺様は、刀の脇に立つ男に頷き。それからそれらの刀を手に取り、刃筋をじっくりと検めました。刀の出来栄えは、まさしく秀逸でした。量といい質といい、爺様にはとてもかなわぬ技量でした。爺様は約束通り、男を娘の婿として迎えました。そして鍛冶場を完全に婿に任せ、自分は退き、自慢の婿の刀を売りに出ることに専念しました。

 娘婿となった男は、毎日最初の日と同様、まず井戸端で身を清めてから、朝早くから夜遅くまで、鍛冶場に入りました。それで毎日立派な刀が山と積み上げられ、爺様はそれを運んで売り歩くのに四苦八苦するほどでした。爺様の家は、お陰でたちまち身代持ち(財産家)になりました。

 男が来て幾年月日が経ちました。それでも男は、最初の決め事‘鍛冶場を決して覗くな'ということは守り続けるよう、爺様と娘にいうのでした。男は、厳しい顔をしていますが、鍛冶場にいない時は、とても娘に優しい男でした。心底娘を愛しているようでした。娘も幸せを感じていましたから、約束を破って、幸福な生活をわざわざ台なしにしたくなく、男の言いつけを永く守り続けました。でも毎日とても重労働をしているはずです。それでも夫は疲れや苦情を一切言うこともなく毎日終日働きづめです。時間が経てば経つほど、夫婦の間の信頼が増してはいるものの、あくまで仕事をする姿を隠そうとする夫が、次第に気味悪くなってきました。爺様も、最初のうちは、婿を迎えたことを我家の名誉とばかりに喜んでいましたが、次第に同様に感じると同時に、疑念を感じ始めていました。

 ある晩、いつものように夫は鍛冶場で、トッテンカントッテンカンと刀を鍛えています。まだ当分仕事は続きそうな気配です。娘が、刀の売り歩きから帰ってきてゆっくりしている爺様を前にして言いました。
 「おとと、おら、どうも、気味が悪いげん。うちのおっとぁ何もんじゃろか。」
 爺様は、「なんでいか。あんだけの刀を鍛えるにゃ、並みの人間にできる業じゃないぞ、少しは変わったところもあろうが」と言いました。
 「そんでも、わし、あの人ただもんじゃない気、するげん」
 「・・・・・・・・・そう思うか、実はわしも、ほんとは気味悪うなっとったんや。」
 娘は、「ちょっこし、覗いてみようか」と言いました。
 「やめとけ。絶対覗くなと言うとったがいや」

 「・・・・・・・・・・・・・・」 娘はしばらく考え込んでいましたが、でも決死したような顔つきで立ち上がりました。
 そして「やっぱり覗いてみる」と言うなり鍛冶場の方へ向かいました。娘は、鍛冶場の小屋の近くまでくると、足音をたてないようにして、ゆっくりと壁際まで寄りました。明かりが漏れる節穴を見つけると、屈んで、その穴に眼をあてました。
 娘は、眼を凝らした途端、ハッと息が止まりそうになりました。そこには逞しい赤鬼が、いました。その顔は、とてつもなく恐ろしく、耳まで裂けた大きな口を開け、牙と牙の間から真っ赤な火炎を吐きながら、鉄の塊を熔かしているのでした。そして、その焼けた鉄を手でつかみながら、飴細工でも作るかのように伸ばしたり、縮めたり、あるいは平手で叩いて刀を鍛るのです。それもあっという間に一本の刀が出来上がるのです。娘は、腰を抜かして、叫びそうになった声を手でおさえ、座り込んでしまいました。

 爺様は、しばらくしても娘が帰ってこないので、娘の様子を見に行きました。すると、娘が、鍛冶場の小屋の前で、震えながら唖(おし)のように座り込んでいます。爺様は、娘が覗いていた節穴に、自分も片目をあて、中の様子を覗いてみました。爺様は、そこに赤鬼を認めました。最初のうちこそ恐ろしさを覚えながらも、見つめているうちにあおんなことも忘れ、真剣な鬼の姿とその業の巧みさにただただ見惚れていました。
 でも爺様はそのうちに我に返りました。そして、これは‘ただ事ではない'と思いなおしました。そして、そばの娘の手をとり、そっと支え起こして、住まいの方へ戻りました。

 翌日、爺様が男に言いました。
 「長いこと、よう働いてくれたもんに、こんな事言うのは、誠に気の毒なこっちゃが、どうか今日限り、この家を出て行ってくれんかい。」
 男は驚いて聞き返しました。
 「どうしてかね」
 「その訳は、どうも、言い難て・・・・。お前には感謝しとるし、お前の腕も認めとる。ただ・・・・」
 その時、うろたえた気味の爺様や下を向いたまま何も語らぬ娘の表情を見つめていた男が、ハッとして眼を一層大きく見開きました。‘さては、盗み見されて、正体がばれてしまっな'
 男は、バッと立ち上がると、やにわに鍛冶場に飛び込みました。あたりの刀を全部パッと脇に抱え込むと、海の上を、風が走り抜けるかのように逃げ去りました。

 爺様は、そんな鬼に向かって大声で呼びかけました。
 「おーい、お前も長いことおらの家にいたもんやが。剣でも形見においていったらどうやいか。」
波の上の男が、パッと急に停まると、振り返り刀を一本放ってよこしました。
 波際の砂浜に突き刺さった刀を爺様が抜き取ってみると、銘がありません。それで、もう一度大声で言いました。
 「おーい、この刀にゃ銘が入っとらんぞ」
 鬼は飛ぶように浜辺へ戻ってくると、爺様から刀を取り返し、また海の上を走っていきます。そして走りながら、尖った爪の先で銘を彫りつけて刀をまた投げ返してきました。爺様が、その刀を再び取り寄せて見る頃には、鬼は水平線の彼方へと姿を消してしまいました。
 刀を見るとそこには「鬼神大王波平行安」と銘打ってありました。

 そののち爺様の子孫は常鍛冶と呼ばれ、代々、鍛冶職を営んだそうです。その子孫が、鬼と娘の間の子の血筋なのかどうか、その辺のところは今となっては知りようがありません。
 これが、この話が遺る在所・剱地の地名の由来です。ちなみに鬼が体を清めたという井戸は今でも残っているそうです。またこの井戸の底は、海へ続いているのか、不思議と荒れた日には、水面に海藻が見えるそうです。

(参考:別伝)
 この話も、多くの民話・伝説と同様、別伝が幾種類かあるようです。娘の婿となった訳ではなく、千本の刀を一晩で鍛えあげるのが条件だったという別伝があります。そのあらましは、可愛い娘の婿となる条件が、一日に千本の刀を鍛えあげることを村人に言いふらしていた爺様のもとに、ある日、どこからかやって来て立候補するものがありました。どうせ無理だと思って、一番鶏が鳴くまで期限を条件に試させることにしたところ、誰も覗くなと言って、鍛冶場に入るなり、ものすごい地響きを伴うような槌音を立て、物凄い勢いで刀を打っているらしい気配がする。それで爺様が覗いて見ると、赤鬼が口から火を吹き、鉄の塊を飴細工のよう伸縮させて、あっという間に刀を作っている。恐れさも忘れて見惚れていたが、鬼に娘をやるのはまずいと思った爺様が、鶏が止まる低木の枝に温水を流し、鶏を目覚まさせて鳴かさせる。あと一本の999本まで鍛え上げていた鬼は慌てて、その刀全て引っつかみ鍛冶場から飛び出し、海の上を走って逃げていった。そこで爺様が形見でも置いていけ、と呼びかけ・・・・・あとは、この話と同様である。
賢海法印のまじない 参考:「鳳至郡誌」
 昔、信濃の国に、名は忘れましたが、ともかく国でも指折りの金持ち夫婦がおりました。でも夫婦の間には子供が無く、年をとるにつれ、跡取り息子が欲しくなりました。夫婦は毎日のように、朝夕、仏様にお願いしました。
 すると、効験が現れ、妻はまもなく身重になり、やがて玉のように可愛いらしい男の子を産みました。でも、その息子は、一種の片輪でした。両手とも、握り拳を作ったまま、どうひろげようとしても、頑として開かないのでした。
 またまた夫婦は朝夕、仏様にお願いするのでした。
 ある日、夫婦は善光寺に参詣して
 「どうか、わが子の手を治してくださるようお願いします。」
とお祈りしました。
 すると、善光寺如来は、憐れに思し召して、こうお告げになりました。
 「能登の道下(どうげ)という所に、護摩堂院主賢海法印と申す者がいる。その方に頼んでみるがよかろう。」
 そこで、金持ち夫婦は、息子と従者一人を連れて、能登への旅に出ました。
 能登に入ってから、道々、道下への行き方を尋ね、ようやく賢海法印を探し当てました。丁寧な訪問の礼の後、ここまでやってきた理由と経緯を語りました。そしてあらためて息子の手を治してくださるようお願いしました。
 法印は、恐れ多くも、善光寺如来のお告げでもあり、有難くその願いを受け入れました。そして早速何やら、妙な呪文を唱えはじめました。
 オニヤ ヒノラ カツタトウゲ ネソネソネソ
 最後に、もう一度「ネソネソネソ」と言うと、息子の手の拳を、上からそっと撫でました。
 するとたちまち効能が現れ、息子の指がパッと楓(カエデ)のように開きました。
 夫婦は大層喜びました。従者を信濃へ帰して、信濃の家を処分させ、雇っていたものには充分金を与えて暇をとらせ、残った財は道下へ運び寄せ、残りの生涯をずっと道下で送ったそうです。また恩人である賢海法印のために大きな立派な寺を寄進しました。
 お寺のあるところは、この話に因み善光寺谷と呼ばれています。
神様に見捨てられた村人 参考:「鳳至郡誌」
 皆月から一里たらず行くと、山中に樽見(たるみ)という集落があります。昔は、もっと下の磯部近くに村人が居を構えておりました。
 その頃のある日、大きなハガセ船(越前船)が、沖合いでひどい嵐にあったので、村人に助けを求めました。
 ところが、その村の人は、揃いも揃って、皆薄情で、助けてやるどころか、村の土を一歩も踏ませず、挙句の果ては、疲労で弱りきっている船日とをうち殺してしまいました。そしてその上に、船に積んである荷物を一つ残らず奪い去ったのです。
 神様は大層憤慨しました。こんな奴らをこのまま許しておくわけにはいかん、という訳で、俄かに、山のような大津波を起こして、樽見村をひとのみにしました。
 その後も、たびたび大津波を起こしたので、村人は、山中へ引っ込みました。
 すると、神様は今度は、地崩れを起こして、一軒の漏れも無く、家々をぶち壊してしまいました。
 村人は、そこにもおれなくなったので、村をさらに半里ばかり他所へ移しましたが、そこでも同じ目にあわされるのでした。
 今は仕方なく、隣りの五十洲(いぎす)と皆月の人たちに、住む土地を少し貸してくれと頼むのですが、二つの村では、大津波を恐れて承知しそうにもないということです。
乳房地蔵 参考:「輪島市史」
 東大野村(輪島市)に、乳房地蔵という地蔵がありました。この乳房地蔵は、現在、門前町西円山の旧道の林の中に移されて祀られています。この地蔵には乳房があり、右側が大きいといいます。それで母乳不足んp母親が、ここに詣り、この乳に触りお願いすると、母乳が出るようになる効果があると信じられています。移されたいわれは次のような話です。 

 昔、西円山のある村人が大野を通りかかった時、道端のあたりから
 「おーーい、一緒に連れて行ってくれ」と呼びかけがありました。
 男は不思議に思い、あたりを見回してみましたが人影はありません。
 それでそのまま通り過ぎようとすると、また同じ声がかかりました。
 それで声がしたあたりをよくみると、道端に地蔵さんが立っており、そののあたりから聞こえた事に気付きました。
 それで地蔵様を背負って帰ってきましたが、持ち上げた時、これが地蔵様かなと思うくらい軽かったのが、道の途中で急に重くなり動けなくなりました。それが現在地で、幾度もお堂を建てましたが、建てれば焼け、建てれば焼けするので、今はお堂を建てずに野ざらしにしてあります。

 ところで、この地蔵に詣る時は、村人に見えないようにして、煎り菓子をお供えし、乳をよく撫でるほど、乳の出が良いと言い伝えられています。今でも新しい煎り菓子が供えられている時があるところからすると、まだ信仰者があるようです。 

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