このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
中世の奥能登の荘園・若山荘
(1999年10月28日作成)
若山荘の成立は、11世紀後半に、郡司・郷士層らが、奥能登珠洲郡の富山湾側の川尻・松波・鵜飼・若山の各河川流域の河谷で、国衙の援助で大規模な開発・再開発をすすめ、やがてその所領が、当時の能登守・源俊兼(みなもとのとしかね)のもとに寄せられたことによる。俊兼は能登国の公田確保の目的から寄進された開発地に旧来からの公田を加え、「珠洲院」のうちに「若山保」を設定して、これを公領とした。しかし、やがて国守を退くにあたり、それを私領化して、子の季兼に相伝した。
したがって、康治2年(1143)になって(※1)立券荘号(若山荘)を得たのは、季兼がその領有をより確実なものとする為であり、源季兼(みなもとのすえかね)は、知行権留保のまま皇嘉門院を本家と仰いで保護を求めた。これにより、それまで受領層(下級貴族)の私領にすぎなかった若山松荘は、当時、膨大な荘園群の集積を図っていた鳥羽院領(皇室領)の中に加えられることになる。荘園の領域は、その後も拡大が図られ、鎌倉期には木郎郷(もくろうごう)・若山郷・飯田郷・直郷と西海浦(馬緤(まつなぎ)・大谷両浦)からなる、四郷一浦で構成された。鎌倉時代前期の承久3年(1221)の「能登国大田文(のとのくにおおたぶみ)」によれば、公田数五百町で、能登最大の規模とされ、鳥羽院政期の康治2年に成立したとある。大田文とは、一国の荘園・公領の田数を書き上げた土地台帳で、、公田は、国衙が一国平均役(いっこくへいきんのやく)を賦課する場合に対象となる田地をさしている。
以後若山荘の(※2)本家職(ほんけしき)は、皇嘉門院から養子の九条良通(くじょうよしみち)に譲られ、実質的には良通の実父・九条兼実(くじょうかねざね)の領掌するところとなった。そして、やがてそれは、兼実によって娘の宜秋門院任子(ぎしゅうもんいんにんし)(後鳥羽天皇の后)に譲与され、ついで九条道家(兼実の嫡孫)・九条忠実(くじょうただざね)(道家の嫡孫)へと相伝された。鎌倉時代以降、若山荘は、摂関家九条家の主な家領の1つと数えられるようになった。
また、本家職の(※3)得分としては、本家給田18町3反4畝が、荘園内に設定されている。鎌倉時代後期には、119石7斗の所当米(しょうとうまい:年貢)が、100文(もん)=1斗4升の割合で換算され、荘園内の伴国次(とものくにつぐ)なる百姓が請負人となって代銭納していた。他に、本家分の雑公事(ぞうくじ)として、荘園内で生産されていた綿200両が納められており、夫役などの負担もあった。
一方、領有権の上では本家職の下位に置かれながらも、実質的な荘務権(しょうむけん)(荘園支配権)をともなう本所(領家職(りょうけしき))の地位は、はじめ源季兼の娘(日野兼光(ひのかねみつ)の母)に譲られ、のち日野兼光からその子・日野資実(すけざね)へと伝領され、能登最大の荘園である若山荘は、日野家領となっていく。
日野氏の若山荘の経営は、在地の領主層を荘官に登用する一方、古刹の法住寺(ほうじゅうじ)の祈祷寺化や、荘園領主の九条・日野両家(藤原氏)の氏神大和春日社の分霊勧請などを通じて、着実に図られていった。鎌倉期には、預所(あずかっそ)(荘務執行の現地責任者)に打波右衛門尉(うちなみえもんのじょう)の存在が知られる他、康元元年(1256)には、田所(たどころ)(荘官)の本庄宗光(ほんじょうむねみつ)が知られる。宗光が荘務のために上洛するにあたり、その経費負担は、荘内に夫役・草手(山手役)を賦課して充てるよう、荘園領主(領家)の日野資宣(ひのすけのぶ)が若山荘の番頭・百姓に、下文をもって命じている。
この他、日野家は、荘園内で盛んに行われていた窯業(珠洲古陶)や製塩業の生産・流通にも深く関わっていたと思われる。
ところで、若山荘の領家が日野家であった事は、荘園内の武士(荘官層)達の政治的立場に、以後大きな影響を及ぼすことになる。それは南北朝期に、日野時光の娘・業子が、室町幕府の3代将軍足利義満の正室となって以来、代々日野家が室町将軍家と姻戚関係を結んでおり、公家でありながら幕閣のうちで権勢を誇るようになていた為である。
若山荘の田所職を相伝していた本庄氏は、のち打波氏に代わって預所となり、荘務の実権を握っていたが、南北朝期に登場する本庄宗成(ほんじょうむねしげ)は、在京して日野資教(すけのり)の青侍(公家に仕える六位の侍)となった。やがて宗成は、資教の妹業子の乳父(めのと)であった縁故を足がかりに、検非違使に補任され、南北朝末期になって、能登国の守護も手に入れることになる。宗成の子・満宗(みつむね)もまた、室町期に若山荘の雑掌(荘務担当者)を勤める一方、室町幕府の奉公衆(将軍の親衛隊)に列していた。
この他、荘園内の有力武士である松波氏・久能利(くのり)氏・山方(やまがた)氏の諸氏についても、本庄氏と同様、荘園領主の日野氏と結んでいた。
全国の多くの荘園で、地頭をはじめとする在地武士たちの押領(おうりょう)が進行する中で、若山荘の場合は他と異なっていた。それは日野家が室町将軍家の外戚であったことから、荘園領主優位の特異なケースを生んだことである。また、若山荘の地頭は、はじめ下野(しもつけ)の有力御家人である茂木(もてぎ)氏であったが、地頭代を派遣しての在地支配は下野から遠すぎた為かいっこうに進展しなかった。そのため鎌倉幕府の滅亡後は、茂木氏のもとから地頭職が離れて、荘園領主の日野家のもとに得分権として帰属するようになった。
室町時代中期以降の若山荘にはついては、能登守護畠山氏の代官請負(守護請(しゅごうけ))となり、
守護代・遊佐氏
がその管理を行うようになっていった。その結果、戦国期には、遊佐氏が若山荘で在地領主的基盤を形成するようになっていた。
※1:立券荘号:荘園に不輸租の特権を認め荘園を立てる手続き。太政官符・民部省符による立荘が正規のもので、これによって成立した荘園を官省符荘という。
※2:本家職:本家職は領家職の上位にある名目上の荘園所有者。もっとも、領家職は必ず置かれるが、本家職は常置ではなかった。)
※3:得分:荘園の領主・荘官・地頭などが、その権利に応じて収得する利益のこと。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |