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山の寺と能登真宗寺院の中核
(1999年8月26日作成)
※最初に、このページは七尾市から1999年市制60周年、七尾港開港100周年を記念して発刊した「(図説)七尾の歴史文化」の中の該当個所を、ほぼ書き写したことを、記しておく。七尾市以外の方には、知っていただくことの方が大事だと考えたからだ。ただし私(畝源三郎)の知識が少しづつ増えたら徐々に加筆修正し、将来的には全面改訂を行なうつもりである。
1.山の寺
天正9年(1581)能登一国を領有する大名となった前田利家は、七尾に入り新たな領国の経営にあたった。居城もかつての領主畠山氏の七尾城をもって拠点とすることなく、小丸山に移した。七尾城(小丸山城)の築城は翌天正10年頃より本格化し、城下も同様に整備されていった。利家は能登入りに際し、旧の領地であった越前府中において帰依していた曹洞宗宝円寺の大透和尚を招き、七尾の小島に同寺号の寺を建立した。「山の寺」第1号の寺院である。
天正11年(1583)利家は金沢城に移り、大透和尚も金沢に従い宝円寺を建立するが、大透和尚は文禄3年(1594)隠居して、再び七尾に戻り宝円の寺号を利家の母の院号である長齢にあ改め寺号とした。長齢寺には、利家の父利春、母長齢院、妻芳春院(ほうしゅいん)の位牌が安置され、毎年7月には七尾の町中で墓の掃除をしたという。
小島村への寺院移動は、「高徳公(利家)本七尾より所口へ御引越」を契機として行われ、天正13年(1585)には、龍門寺・徳翁寺などに小島村の地が与えられ、畠山時代よりの寺々が小島村や法華谷に集められ、「山の寺」と通称される寺院群が小丸山城の西方に形成された。
曹洞宗 | 真言宗 | 10 | 西念寺 | 15 | □本延寺 | 21 | ■本興寺 | ||
1 | ○長齢寺 | 6 | ■愛宕寺 | 法華宗・日蓮宗 | 16 | □長寿寺 | ○利家時代の開基 □利家以前の開基 ■同上で当地に現存しない | ||
2 | □恵眼寺 | 7 | □妙観院 | 11 | □本行寺 | 17 | □長興寺 | ||
3 | □徳翁寺 | 浄土宗 | 12 | □印勝寺 | 18 | □成蓮寺 | |||
4 | ■徳林寺 | 8 | □宝憧寺 | 13 | ■長久寺 | 19 | □妙圀寺 | ||
5 | □竜門寺 | 9 | □常通寺 | 14 | □実相寺 | 20 | ■上慶寺 |
「山の寺」は表のように、曹洞宗、真言宗、浄土宗、法華・日蓮宗の寺院によって形成されているが、ここに全ての寺院が集中している訳ではない。「山の寺」寺院群に匹敵する数の寺院が町方にも散在している。町方の寺院は圧倒的に浄土真宗の寺院が占めており、町を囲むように外縁部に位置している。「山の寺」は城と町の小高い場所に位置しており、方位から見ると忌むべき方向とされる鬼門(東北隅)や裏鬼門(西南隅)とは異なり、鬼門除けとして設置されたものとは考えられない。
城下の構成の中で、寺町(寺院群)の存在も軍事的要素の一つとして考え、「山の寺」も、対奥能登防衛のための配置として評価する見方もある。それとともに、七尾湾通航の船を監視する場所としても最高の場所であり、前田氏先祖の菩提寺をはじめ、畠山氏以来の名刹を集めた場所であり、七尾の城も間もなく破棄され、時代は軍事的な要素を必要としなくなり、「山の寺」は七尾の「聖域」の意味合いを持つ地域とも考えられるが、それらに隠された軍事施設でもあった。現在七尾市は、「山の寺瞑想の道」として寺院群とその周辺整備を進め、新たな観光スポットとして「山の寺」の位置づけをしている。
2.能登真宗寺院の中核
北陸地方は中世末期以来真宗が広まり、多くの寺院が建立された。能登国においても例外ではなく特に近世初頭には真宗が広がっていった。これら能登国における真宗寺院の中核をなす寺院が七尾市内に存在する。
天正9年(1581)、前田利家が織田信長から能登国を与えられると、小丸山城を築城したが、この時、利家は真宗寺院に対して府中に寺地を与えて集めた。その中に現在はその地から移転しているが、馬出町の光徳寺と今町の長福寺がある。
光徳寺
は、もともと加賀国木越(現金沢市)に所在した寺であったが、天正8年、織田信長勢の攻撃によって木越を追われ、一旦鳳至郡黒島(現門前町)にあったが、能登に入国した前田利家は、光徳寺の勢力を利用する目的から七尾へ誘致し、光徳寺を核とした領国内における真宗寺院の統制を進めた。
しかし、慶長7年(1602)に本山である京都の本願寺が東西に分派すると、能登国内の真宗寺院もそれぞれ東西にわかれることとなった。これによって光徳寺が西本願寺に属したため、東本願寺側では長福寺が中核寺院としての地位になった。光徳寺と長福寺は、近世の早い段階から能登国内に下寺を多く抱える中本山としての性格にもあり、能登国においては重要な位置にあった。このため、加賀藩が慶安元年(1648)に寺社奉行を設置すると、この2寺は「触頭(ふれかしら)」として、藩から真宗寺院に対する「御触れ」は、それぞれこの2カ寺を通じて伝達されることとなった。以後光徳寺は珠洲郡を除く能登3郡の西本願寺の触頭を、また長福寺は鹿島郡(江戸時代の鹿島郡だから勿論、七尾を含む)の東本願寺の触頭を務めることとなり、江戸時代を通じて両寺は、能登国において中心的な役割を担った。
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