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光徳寺と冨樫家
と一向一揆

(2003年7月10日(旧暦6月9日)作成) 7月14日一部加筆修正 またトガ氏の冨の字を富ではなく、冨に統一。
2004年7月10日 4章:「その後の光徳寺」に、「信長公記」及び「長家家譜」の記述なども参考に追記した。

目 次(下をクリックすると目的の章へジャンプします!)
1 光徳寺の建立と隆起
2 繰り返される冨樫家の盛衰・内部抗争
3 文明の一揆と一向一揆の隆盛
4 高尾城の戦い(長享の一揆)と冨樫家の滅亡
5 その後の光徳寺(信長勢による攻略他)

 光徳寺の建立と隆起
 光徳寺といえば、今では七尾市街地の小丸山公園下にある浄土真宗本願寺(西)派の大寺として地元では知られています。また毎年11月3日の文化の日には、大市(お斉市)が門前の一本杉通りにでき、多くの屋台が並び人々でにぎわっています。しかし、何となく由緒ある寺であることはしっているが、この寺が昔、金沢の木越町にあり、一向一揆の嵐が、加賀一帯を吹き荒れた時、その中心をなす寺の1つとして一大勢力をなし、加賀一向一揆の歴史では、光徳寺の事を書かずしては語れないほど重要な役割を果たした寺であることは、地元七尾でも、ほとんど知られていません。光徳寺本堂

 加賀国鞍月庄木越村(現在の金沢市木越町)に真言宗の光徳寺が建立されたのは、「越登賀三州志」や「亀尾記」によると明徳3年(1392)に冨樫泰家によるとされています。また七尾市の馬出町にある光徳寺の寺伝によると「文永11(1274)年富樫入道仏誓の孫光徳寺宗性と号し、河北郡木越に坊社を建立」とあります。明徳3年では、冨樫泰家が250歳までも生きたことになりこれでは仙人であり、ありえない話です。おそらく寺伝の方が正しいか、そうでなくとも冨樫家ゆかりの者が建立したということでしょう。富樫家ゆかりの寺といえば、14代冨樫介家尚が、弘長元年に建立した大乗寺(当初真言宗)もあります(一時は大乗寺は永平寺に次ぐ曹洞宗の第2の寺として仰がれていました)。今七尾にあるこの光徳寺は、今でも住職の苗字は富樫(ただし冨樫でなく、現在では、ウ冠の冨樫)さんです。

 冨樫家ゆかりの寺であることを考えると長享2年(1488)の高尾城の戦いで、冨樫政親光徳寺が戦うことになったのは、何とも因縁深い話であります。「越登賀三州志」や「亀尾記」が冨樫泰家を持ってきたのは、彼が謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」で一番一族の中で名前が知られていたことや、建立年などあまりこだわらなかった江戸時代の庶民に由緒を述べるには都合が良かったからでありましょう。

 真言宗であった光徳寺が、浄土真宗に改宗したのは、宝徳元年(文安6年(1449))の本願寺8世蓮如が北陸地方を教化のため巡錫した時であります。その時、蓮如は、ついていた杖を光徳寺に庭に挿し、「この地に、わが宗派が栄えるならば、この杖が芽をふくことであろう」と告げ、予言どおり芽が出て、薄紅の梅の花を咲かせたという伝説があります。木越にあった時には、実際に地元の名物となっていた梅の木があったようであります。また蓮如はこの年、父存如の祐筆として書写した「三帖和讃」を、在京中の光徳寺・性乗に与えています。また宝徳3年(1451)8月16日、性乗存如から「六要鈔」(同寺所蔵)を与えられています。

光徳寺の門 実は、蓮如が北陸に来るまでは、真宗諸派の中では蓮如の本願寺派は、高田専修寺・渋谷仏光寺・越前3門徒などの各宗派に比較すると劣勢でありました。しかし、彼が、文明3年(1471)越前の加賀との境界に近い吉崎に坊舎を構え布教をはじめると、北陸地域の武士や民衆の間に急速に普及しました。そして真宗諸派との間で勢力の逆転を起こし、さらに踊念仏で有名な時宗などの宗徒も吸収していきました。光徳寺・乗誓は、この蓮如が吉崎に入る少し前、蓮如から「親鸞聖人絵伝」(4幅)を下付されてもいます(西光寺蔵絵伝裏書による)。こうして、勢いを得た本願寺派ですが、それに浄土真宗に改宗した光徳寺もその波に乗ったかのように急速に門徒を獲得していきました。そして同派の中でも宗徒の多い有力寺院として、若松の本泉寺、鳥越の弘願寺、磯部の勝願寺などとともに、大坊主と呼ばれ、河北郡内でも常に上席を占め羽振りを振るう程になっていました。

繰り返される冨樫家の盛衰・内部抗争
 室町時代、冨樫氏は、能登の畠山氏とは違い、足利との繋がりは血縁ではなく、平安後期から鎌倉期にかけて、着々と在地領主的地盤を固めてきた武士であったため、幕閣内部の勢力争いの影響も大きく受けていました。建武2年(1335)9月、冨樫高は、足利高氏からその勲功を大いに賞され、「加賀国守護職」に補任されたのであり、その後、観応の擾乱の時も、直義でなく高氏側に終始ついたので、守護家であり続けたのでした。しかし、南北朝末期の至徳4年(1387)4月の冨樫昌家の死後、斯波義将が、細川頼之との確執に勝利し、幕府の管領に就任すると、冨樫家は加賀守護職を罷免され、かわって、斯波義将の実弟・義種が、守護に補任されました。

 それから27年経った応永21年(1414)守護職・斯波満家が罷免され、南加賀のを冨樫嫡家の冨樫満春と、北加賀を、庶家で4代将軍足利義持の近習となっていた冨樫満成が、それぞれ加賀の半国守護に補任されました。これまた、斯波義将の死による斯波氏の退潮と細川・畠山両氏の勢力拡大が影響し、細川満元の支持を得て復帰が図られたのでした。そして、応永25年(1418)12月、冨樫満成が姦通の廉で義持の怒りに触れ、紀伊の高野山に逐電すると、南加賀も、冨樫満春に与えられ、ここに32年ぶりに加賀一国の守護が冨樫嫡家によって掌握されることになったのです。満春の子、冨樫持春も守護となると、外様ながら「御相伴衆(みしょうばんしゅう)」という最高権力機関の一員に列するなど一時は権勢を誇りました。

 持春には子供がいなかったので、彼の死後、弟の冨樫教家(満春の次男)が、家督を継いで守護となりますが、嘉吉元年(1441)6月18日、突然、教家が6代将軍足利義教の怒りに触れ、失踪してしまいました。教家の弟で醍醐寺三宝院に入寺して稚児となっていた慶千代丸(満春)の三男が、還俗して富樫泰高と改め、加賀守護の地位に就きました。しかし、その6日後、嘉吉の変で、将軍義教が、赤松満祐に暗殺されると、管領細川持之が、義教が剥奪した公家・武家の役職などを還付する幕府の方針を打ち出しました。それを機に、失踪していた義教が、畠山持国を後ろ盾として、守護職の返還を要求しました。

 翌年嘉吉2年(1442)になると、畠山持国は、ライバル細川持之が死去すると、冨樫教家の子・亀幢丸(かめどうまる)(冨樫成春)を加賀守護に就かせる事を企て、翌年正月には教家の代官本折某を加賀に送り、多数派工作を行わせました。しかし、成功せずに、泰高と教家の両冨樫家による抗争が深刻化しました。文安2年(1445)細川勝元が管領になると、泰高側も勢力を盛り返し、ここに和議が持ち上がり、8月、冨樫泰高が南加賀(江沼郡・能美郡)、富樫成春が北加賀(石川郡・河北郡)のそれぞれ半国守護になることで、いったん合意しました。

 ところが、長享2年(1458)北加賀の半国の守護職が赤松政則に移り、成春が失意のうちに亡くなりました。寛正5年(1464)赤松氏への対抗上、泰高と冨樫政親(成春の嫡子)の提携が成立し、泰高の隠居と政親の家督相続(北加賀半国守護就任)による一門も一本化が細川勝元の画策によって成功し、23年続いた富樫一族内部の抗争はいったん終止符を打ちました。

 北加賀守護赤松氏に一門が一致して対抗していくことでは合意を得ましたが、冨樫成春には庶子・幸千代(こうちよ)がおり、冨政親が中央に出かけて工作などしている間に勢力をつけ、彼を守護にと推す物が出てきました。応仁の乱(1467)が起こると、冨樫政親は朝倉敏景との同盟などから西軍の山名方について戦い、赤松氏がつく東軍の細川側と戦います。このとき、赤松勢力はもともと播磨を地盤とする勢力であり嘉吉の変で失墜し、失った播磨の守護職を奪還しようと続々と加賀を抜け出て播磨に向かってしまいます。また冨樫泰高は、嫡子泰成に先立たれ意気消沈し、勢力が弱まっていました。

文明の一揆と一向一揆の隆盛
 ここにおいて、加賀の守護職争いは、冨樫政親と
弟の幸千代(こうちよ)の兄弟の争いとなり、加賀統一を目指して戦うことになりました。幸千代が、冨樫家の積年の法敵であった高田専修寺門徒と結んだのに対して、政親は越前の朝倉敏景らと手を結び、光徳をはじめとした本願寺派の援助を受けました。文明6年(1467)の戦い(文明の一揆)で大勝し、冨樫政親は、北加賀の守護となりました。これにより一向一揆は、加賀での宗勢を強め、今度は、守護や寺社への年貢を納めず、ついには政親と対立、争うことになりました。しかし一向一揆方は破れ、本願寺門徒の指導者達は、いったん越中の方へ逃れました。

 文明6年の7月、蓮如が木越山・光徳寺に、同寺門徒の乱妨停止とその成敗を命じ、光徳寺門徒と吉藤専光寺門徒らに対しては、その行動を悪行と決めつけ、厳しく譴責を加えています。この時蓮如が書き送った書状は、世に「お叱り御文」と呼ばれ、文明7年に本願寺門徒が、守護方と戦った時のものとされており、河北・石川両郡(北加賀)の門徒土豪が、その主力を構成していたようです。殊に河北郡の坊主・門徒は、早くから本願寺と強く結びついており、河北郡を代表する大坊主に成長していた光徳寺は、加賀教団の形成過程において、主導的役割を果たしていました。

 当時、本願寺の門徒たちは「一向宗」と自称・他称されていました。しかし蓮如は、一般に民間信仰の呪術を指すこの呼称を、門徒が名乗るのを戒め、「浄土真宗」と唱え、門徒の他宗攻撃及び、守護・地頭への反抗や年貢・公事の懈怠(けたい)を、厳しく譴責しています。しかし、加賀の門徒たちの現実の行動は、蓮如が危惧した姿のようであったらしい。文明6、7年頃、故国加賀に滞在していた臨済宗の僧・伯升禅師は、ここで争乱に遭遇し、一向宗徒が、諸宗を排撃して徒党を組み、領主を殺戮して諸物を略奪する情景は、中国の元末に、平民等が起こした「蓮社」(紅布の乱を起こした白蓮教徒の結社)の行動と同類であると語っています。

 加賀の本願寺門徒の勢力はその後も伸張し、文明13年(1481)頃には、守護冨樫氏の支配は次第に形骸化し、すでに加賀は「無主の国土」の状態だとも言われていました。文明14年(1482)に、幕府は、北加賀守護冨樫政親が祇園社領軽賀野村(現宇ノ気町)を押妨したとき、光徳寺と河北一向一揆中に対して、守護方の阻止行為退け、社家雑掌に所務を行わせるように命じています。このことから光徳寺は在地秩序維持の調停者として期待されていたことがわかります。

 文明16年(1484)に越中国二上荘(富山県高岡市)の年貢が、「国質(くにじち)」(債権者の私的差し押さえ行為)と号して加賀の門徒に途中で押領される事件があり、翌17年10月には、門徒土豪の頭目である洲崎右衛門入道慶覚が、北加賀の要・宮腰(みやのこし)に、強引に入部する動きも見られました。この他、同19年になると、石川郡一揆の河合藤左衛門・山本円正(えんしょう)らが、質物の債券をめぐって、河北郡の井上荘に押し寄せ、濫坊狼藉を働き、荘内の堂舎を取り壊し放火に及んだため、百姓らが逃参したこともありました。

 こうした加賀国の状況のもとで室町幕府は、本来守護の権限に属する荘園押領の停止沙汰の遵行や年貢の収納請負を、本願寺派であった本覚寺や、加賀に在住する蓮如の次男の能美郡波佐谷(小松市)の松岡寺蓮綱(しょうこうじれんこう)と七男の二俣本泉寺蓮悟(ほんせんじれんご)に命じています。また荘園領主の側でも、本願寺蓮如に依頼し、未進年貢の収納を在地の門徒に働きかけており、加賀の在地支配の上で、本願寺教団は今や守護権力を脅かす存在となっていたのです。


高尾城の戦い(長享の一揆)と冨樫家の滅亡
 文明18年(1486)に、冨樫政親は将軍・足利義尚(よしひさ)に味方し、近江守護六角氏を攻めました。その時、農民から食料や人夫を出させたので、一揆は反抗しました。長享元年(1487)政親は急いで帰国し、一向宗退治に乗り出し、その年の暮れからその拠点として、冨樫館のある野々市の郊外の高尾城の戦備をはじめました。これに対して光徳寺など本願寺派の坊主・門徒に率いられた加賀の一向宗徒たちは、政親の大叔父にあたる泰高一派と結び、また越中・能登・越前の一向宗徒ら支援を受け、「仏敵征伐」や「南無阿弥陀仏」と書いたの旗印を掲げて、百姓・武士たちを集めて、政親の立て篭る高尾城(石川郡)を包囲し、国守との決戦の態勢を固めました。

 政親は、越中や能登からの援軍を期待してしばらく篭城で頑張りましたが、高尾城を包囲する一向軍はついに8万4千人にのぼりました。特に木越の光徳寺、光願寺、磯辺の勝願寺の河北郡の3つ大坊主と、石川郡の吉藤の専光寺はを加え、総勢4万余と全軍の約半数で、伏見、山科、浅野、大衆免の線に陣を敷いていた。一方、これを迎え撃つ冨樫方は、1万余騎に過ぎず、わずかに将軍足利義尚が命じてくれた越前守護朝倉敏景や越中の代官松原信次らが救援軍に駆けつけてくれるのが頼みでありました。

 こうして、ついに合戦の火蓋が切られたのは、5月10日のことであります。戦いは一進一退を繰り返し6月に入りました。能登の畠山氏も援軍に駆けつけることになりましたが、越中、越前、能登全ての援軍が、一向宗徒に途中で阻まれている間に、城兵は日毎に減り、敗北の色が高尾城に濃く垂れ込みはじめました。

 6月6日、一向宗徒に乗っ取られた野々市の大乗寺で、宗徒側の軍評定が開かれました。最初、讃山の洲崎泉入道慶覚が高尾城が難攻不落の寺であることから、力攻めをやめ、糧道を断って兵糧攻めを行うことを主張しました。能美郡河合村の河合藤左衛門宣久も同意を示し、決まりかけそうになったその時、光徳寺が、異議を挟みました。光徳寺は、兵糧攻めが徒(いたずら)に日々を費やし、越前・越中などの援軍が到着した場合、挟み撃ちに会うとして、総力戦で攻め落とすことを主張しました。光徳寺が冨樫家と俗縁に繋がっていることは周知の事実だけに、その声は感動を持って一同を揺さぶったといいます。この日の評定は一転して光徳寺の唱える即戦論に一決しました。

 翌6月7日の卯の刻(午前6時)から総攻撃が始まり、日暮れまで戦い、両軍がやっと引きました後に、2000を超える死体が残されていました。8日は一時休戦で両軍ともに、死体の収容に過ごし、最後の一戦は9日に持ち越されました。その夜遅く高尾城から光徳寺の伏見の陣所に、密使が送られました。光徳寺と勝願寺に宛てた手紙で政親の妻・巴(尾張熱田神宮宮司友平氏の娘)と姫を越中に逃がすことを頼みました。両寺は受け入れ、高尾城の搦め手から、政親の妻と姫を乗せた輿を守る女房の一群が、光徳寺方の僧兵に警護されて、落ちました。伏見の光徳寺陣所に入った後、輿を受け取り、若松本泉寺に移した後、一時休憩し、このあと光徳寺のお供で倶梨伽羅御坊まで見送り、その後越中の方へ落ちていったといいます。

 高尾城には、この落城間近になっても、光徳寺と血縁の者がまだ1人居ました。光徳寺の妻の弟で、槻橋近江守重能で、彼は月橋村(現石川郡鶴来町)一帯を所領して冨樫家に従っていた槻橋氏の一族で、少年時代から文武両道に優れ、8歳の時、政親の近習となっていました。政親の信任厚く、月橋に近い荒屋村に地所を与えられ、冨樫の館へもフリーパスで入れた人物でありました。主君について高尾城に入ったのは20歳になったばかりの時でした。光徳寺は、政親の返書の際、
重能へも一書を認(したため)め光徳寺の陣に落ちてくるよう、使者に託しましたが、使者へは光徳寺への返書を託したのみで自分は落ちることはしませんでした。そして手紙には、ただ一首、歌が書かれていました。
「思いきる道ばかりなり、武士(もののふ)の命よりなお名こそ惜しけれ」

 長享2年6月9日、朝卯の刻から、高尾城最後の攻防戦が繰り広げられました。城方は、門を開け放ち、将を先頭に打って出ました。包囲方の一揆方も、四方から鬨の声をあげて押し寄せました。半時ほどあまり壮絶な死闘を戦った後、政親は傷ついた姿で城へ引き上げて、城門を堅く閉ざしました。そして生き残った部下30名ほどの者で、政親を中心に円陣を作り、今生の別れの酒を酌み交わした後、次々と自刃していきました。政親は、享年34歳でした。その中に、槻橋近江守重能もいたといいます。

 以後、加賀の国は、南加賀の守護だった富樫泰高が形だけの加賀一国の守護になりましたが、実際の政治は、坊主・土豪・長衆(大百姓)などが共同して行ったので、「百姓の持ちたる国」と言われるようになり、約100年も続きました。また河北郡は堅固な本願寺の門徒組織を形成し、加賀一向一揆の中で、重要な役割を担い続けました。 
 

その後の光徳寺
 その後、光徳寺は永正年間に同じ一向宗徒ながら本願寺派と勢力を争う高田専修時派の門徒の迫害を受け、いったん七尾へ移りました(光徳寺の寺伝ではこの時、能登黒島(門前町)に一宇を建て移ったとあります。)そして天正の初めになって再び木越へ戻りました。天文6年(1537)の若松騒動の後、本願寺の加賀教団への統制が強められていく中で、八田(現金沢市)の賢正、岸川(現金沢市)の了願など、光徳寺門下(木越衆)から本願寺の直参門徒に召し上げられた者も少なくなかったことが記録からわかります(天文日記)。

 同じ頃、河北郡内の本願寺門徒組織である五番組や金津庄(現か北郡)など郷村の成敗沙汰を仕切る一方で、本願寺との交渉も深めており、天文7年(1538)1月2日、木越光徳寺・乗順が本願寺に出仕して謡初めに列席した他、同13年(1544)7月26日には、光徳寺・乗賢が三十日番衆を勤仕するなど、しばしば本願寺証如の「天文日記」に登場しています。

 光徳寺は、このようにして光琳寺、観行坊、光専寺、般若院、大楽坊などの坊主や河北郡の郷士小竹三郎、石黒覚左衛門、車丹後などを集めて威勢をほしいままにしていました。また寺の周囲には、河北潟からの湖水を導きいれ、堡を築いて軍備を固め、百姓の持ちたる国の一城を担って河北郡に君臨していました。
小丸山公園愛宕山相撲場からみた光徳寺の屋根

 しかしまもなく天正8年(1580)、天下府武をとなえ全国統一をめざす織田信長が、加賀の一向一揆退治の軍を進めました。『信長公記』によると、閏3月9日、加賀に入った信長軍は、手取川を越え、宮の越(現金沢市金石(かないわ)町付近)に陣を敷き、そこから野々市に立てこもる一向一揆軍を攻めて数多の一向衆を切り捨て、さらに数百艘の船に兵糧を積んで、川沿いに奥地に進みながら焼き討ちを行い、越中に進んで白山麓から能登境に至るまで放火しまわり、さらに山越し、能登を通り、現在の金沢市木越町付近にあった光徳寺を攻め、一揆勢を多数切り捨てたことが記されています。この光徳寺攻略時の信長の将は、命を受けた柴田勝家の先手佐久間玄藩允盛正と、おなじく信長の命に奉じる 長九郎左衛門連龍 でした。ここに長九郎左衛門連龍の名があるように、『長家家譜』にも、この時のことが載っていますので、原文を参考に抜粋し紹介します。
 「同年(天正8年:1580)閏三月十四日軍事を柴田勝家・佐久間盛政に相議すべきため尾山へ出で候ところ、盛政木越の一揆一向宗光徳寺 退治のため発向。 則ち盛政と一緒に木越へ赴き、大浦口より搦め手に押し詰める。 不意の事ゆえ御手の士卒大半素肌にて俄攻めにせむ。 故に後面最前に攻め敗り、光徳寺戦死しついに落居す。 家人各武功を顕わす。 既にして福水へ帰陣。
 この時玄蕃武具を長持ちに入れ常体にて出立、何方へと尋ね有りけれども包みて言わず。 強いて御尋ねのところ、木越の一揆光徳寺を討つべくため罷し向かうのよしにつき、幸いに候間加勢申すべき旨仰せ  入れければ、玄蕃に達して止められるといえども、是非とこれ有り搦め手大浦口より押し寄せ、前面の寄せ手色めく  ところを後より責め入るところ、観光坊進みて加藤将監と槍を合わせ、小原十郎左衛門(この時勝家の方へ使いに遣わし越前にこれ有り、玄蕃方より勝家方へ木越の一揆討つべき由案内これあるを聞き、金沢へ来たり申すところ、 柳橋にて連龍玄蕃と仰せ合わせ加勢につきそのまま素肌にて御供申す。)小竹十郎と槍を合わせ討ち死に。 上野甚七郎銃丸に中たり死す。 浦野孫右衛門よく戦い傷を被る。 守兵防戦はなはだしといえども、連龍しきりに兵士を励まし、各奮戦武力を尽くし後面を責め破り城内に乱入す。 これにより大手共に破れ、光徳寺与党の兵士ことごとく死亡す。 盛政大いに連龍の軍労を謝す。 」
 佐久間盛政と長連龍の2人は、このように力を合わせ、攻め、ここに明徳以来200年の一向宗の大寺の堂舎は焼け落ちたのでありました。
 
 ただしこの信長勢による光徳寺攻略の際は、光徳寺は、どうも代坊主が籠城(『信長公記による)』して守っていたらしく、坊主本人は逃げ延びたらしい(寺伝の時期ではなく、この時期に能州黒島に一宇を建てて移ったのがどうも本当のところであるらしい)。 前田利家 が能登に入封すると、本七尾へ移して寺所を授けられ珠洲郡を除く能登3郡の真宗西院の触頭の寺院になることを命じられたといいます。その後移転して府中村(現在通称違堀りといわれているあたり)で3石4斗を与えられ、重ねて前田利常から五斗3升余の地所を与えられています。しかし同地は海岸に近く風波も甚だしいため、天保12年に(1841)所口町の4石5升余の現在地へ移転したとあります。

 また金沢にも光徳寺というのが玉川町と八田町にあるが、玉川町の光徳寺は40余年前、六枚町にあったものが現住所に移ったもので、明徳元年に観行坊が木越に建立し、6代玄順の時に同郡二日市村へ、7代慶順の時、六枚町へ移ったことになっている。両光徳寺はともに井上姓を名乗っているが、玉川町の光徳寺の住職の話では、七尾の光徳寺とは同祖で、三兄弟から出たものとのこと。

<参考>
「冨樫物語」(冨樫卿奉賛会)、「続・冨樫物語 落窪集」(冨樫卿奉賛会)、
「図説・七尾の歴史と文化」(七尾市)、「図説 石川県の歴史」(河出書房新社)、
 「加能史料」(石川県)、「信長公記」(太田牛一著・角川書店)、「長家家譜」他

小説類 「北辰の旗」(戸部新十郎著・徳間文庫)

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