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伊掛山の歴史
伊掛山は、七尾市の北東の崎山半島の中央部にある標高252.3mの山である。古くは、居掛山・木綿懸山・笈掛宇山・笊籬山・鋳掛山などと記した。伝説によれば、光仁天皇の宝亀年中(770年代)に山麓の富山湾側の海岸(現在の白鳥海岸(七尾市白鳥町))に流れついた白鳥の亡骸が、笊籬で掬いあげたところ薬師如来に姿を変えた。そしてその薬師如来を標高240mの山上に寺を建て安置し、その寺を医王寺と号した(現在、伊掛山神社には、社殿がありません。昔は山頂付近に祀られていたようである)。その後、天明年中この薬師如来を少彦名(少名彦)命(すくなひこのみこと)と号したことが記録にみえ伊影山神社(神社の名は伊掛山神社でなく伊影山神社)の祭神となった。
医王寺は能登畠山氏の居城・七尾城城主である畠山義慶の時、七尾城の鬼門鎮護の祈願所となり、諸堂の建立と五町四方の境内の寄進がありこの頃が伊掛山の全盛時代であった。
伊掛山を取り巻く能登の歴史、すなわち上杉謙信の能登侵攻から前田氏の支配までの歴史を簡単ぬい触れておこう。
上洛を狙う上杉謙信は、天正4年(1576)その途次にあって信長と同盟を結んでいた畠山氏の領国・能登に侵攻しの居城である七尾城を包囲した。しかし畠山方は必死に耐えた。そのうちに(天正5年3月)関東で北条氏が越後へ出兵したという報を受けて謙信は、急ぎ引き返さねばならなくなり、一度目の包囲戦は失敗に終わった。そのため謙信は少数の残留隊を残しは越後に一旦引き揚げた。畠山方は、失った熊木城(中島町)や富木城(富来町)などを奪い返したが、謙信は7月にまた能登へ侵攻し、また七尾城を包囲した。篭城をつづけ抵抗を続ける畠山方であったが、内部の寝返りを誘う上杉方の謀略により9月15日七尾城はついにあっけなく陥落した。なお後に伊掛山と深い関わりを持つ石動山はこのとき上杉方の本陣となり、謙信が作成したといわれるあの有名な「霜は軍営に満ちて〜」ではじまる歌は、落城間近の旧暦九月十三夜に石動山にて作られたといわれています。
(参考ページ)
「霜は軍営に満ちて秋気清し・・・」
、
「石動山の歴史」
最後まで抵抗を見せたのは重臣達の中では長氏だけで、遊佐氏は、温井氏、三宅氏など他の有力家臣を誘って謙信に降伏した。謙信はその後、畠山の援軍としてきた織田方の軍勢と加賀の手取川で戦い大勝し、天下は統一できると思ったのか一旦越後へ引き揚げた。謀略によりほとんど無傷で手に入れた七尾城へは家臣の鯵坂長実を城代として置き、謙信に寝返った旧畠山家家臣達のそれを協力させ、能登を治めさせることにした。
しかし謙信は翌天正6年3月、突然なくなった。今の病名で言えば脳卒中であったと考えられている。援軍要請のため七尾城落城前に抜け出て、落城時には織田方の援軍を先導していた長連龍は、謙信死すという情報に接すると能登奪回作戦と展開し、信長もそれを支援した。この頃になると、一旦は上杉方についた温井氏、三宅氏などの旧畠山家臣達は、城代の鯵坂長実を追い七尾城を手にして、今度は織田方につこうとした。信長はこれを認めたが、連龍は父兄を殺した元凶は彼らだと、彼らとの和解を拒み、双方の間に何度も戦いが繰り返された。
天正9年(1581)信長は、前田利家に能登一国を与えた。しかし翌天正10年(1582)6月はじめ、今度は信長が、本能寺の変で亡くなると、石動山の衆徒は、上杉に与し、旧畠山氏重臣の温井景隆・三宅長盛兄弟などとともに抵抗した。天正11年(1583)富山湾側から上杉勢が上陸して石動山。温井・三宅の連合軍と合同すると、まもなく石動山の合戦が行われた。その結果温井・三宅ら主な武将は討ち取られ、石動山側は敗戦となり、上杉方に与した主戦派は処分された。360余坊という寺社で当時一大勢力を誇った石動山も灰燼に帰してしまった。
(参考ページ)
「上杉氏の能登支配〜信長の支配まで」
この時、上杉方に与せず、五社権現を奉じて伊掛山に避難したものも72坊あったと伝えられます。利家はこれを追求せず、伊掛山の麓に近い沢野の禄50石を寄進してこれを維持せしめた。 史料によると天正11年1月23日、庵の土豪高橋氏と芝草屋五郎左衛門尉の両人が庵のうちの「いかけ山」の管理を命じられており(「前田利家黒印状」高橋文書)、これは石動山衆徒の監視を強める意味もあったといいます。
石動山天平寺の衆徒らは、旧地に復帰しようとして何度も朝廷に懇願した。天正10月17日には、ついに正親町天皇の石動山再興の綸旨(伊須流岐比古神社文書)が出された。これにより前田家に一山の復帰再興を託せられ、15年を経た慶長2年(1597)には堂舎が竣功した。それにより五社権現は、石動山に還住することができた(「前田利家還住印判状」伊須流岐比古神社文書)。この間前後16年である。その後、伊掛山には、僅か3院が残り、その中の真言宗仙蔵院が医王寺の別当職として長く続き、今日に至っている。しかしその他2院は、絶えたまま事蹟不明となってしまった。医王寺は仙蔵寺が別当職となって以来、石動山五智院の末寺として明治まで続いた。別当職伊掛氏は、明治2年復職して伊影山神社の社掌として祭祀に当たり現職はその後裔である。社名は、同6年現社名に改称した。伊影山神社は、明治以前には、薬師・少名彦社・天神宮と呼ばれていたようである。
境内の大銀杏は高さ45.6m、幹周り10.6mで県の天然記念物にしていされています。県内最大のイチョウで、神木として地域住民が保護してきました。秋の紅葉の際には、漁師の目標になるといいます。富山県氷見市の大銀杏と夫婦銀杏といわれ、氷見は男銀杏、これは女銀杏ということである。また、山頂にある小さな石柱は、日露戦争当時に建てられた海軍の展望台跡の標識ということだそうである。
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