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旧「北陸歴史ねっと」にしていたコンテンツ

《10月のコンテンツ「私が選ぶ北陸の重大事件」》(1999年10月20日作成)

畝源三郎が選んだテーマ「蓮如の浄土真宗の(北陸での)布教」

《目次》
1.浄土真宗の成立
2.時宗・遊行聖の足跡
3.蓮如の登場
4.浄土真宗の普及とその影響
5.まとめ

<浄土真宗の成立>
「蓮如の北陸における浄土真宗の布教」をテーマとして述べるのだが、蓮如だけ述べたのでは真宗の影響を説明する際、真宗そのものを理解しないことには影響力もわからないと感じたことと、歴史的事件の理解にはその前史の理解が不可欠と考えたので、まずは浄土真宗の成立から述べたいと思います(ただし浄土宗と浄土真宗の違い等、詳しい宗教的教義からの説明は、私は真宗門徒ですが、熱心な門徒でも専門家でもないので、正確に述べられません。これから述べる事は、歴史的理解に必要な事象のみにとどめますこと、ご了承願います)
浄土真宗を開基したのは勿論親鸞であります。浄土三部経を所依とし、自力経を排して、他力念仏によって極楽往生することを目的とする浄土宗(法然開祖)の本来は一派でありました。
 親鸞は、法然坊源空のもとで建仁元年(1201)自力聖道教を脱却して他力浄土教に帰依しました。以来、親鸞は、源空によって明らかにされた専修念仏を開信し、みずから一宗派をひらく意図はなかったのです。浄土真宗とは、源空の樹立した宗旨に親鸞が名付けた呼称でありました。源空から受け継いだ教えではありますが、親鸞は、自身の宗教的立場を著書『教行信証』『歎異抄』で開陳しました。たとえば、有名な『歎異抄』の言葉、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」など悪人正機の趣旨を説くことによって、親鸞の諸説と人格を中心に集まった念仏者は次第に増加して教団形成の胎動は始まりました。それでも親鸞は、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と師匠と弟子の関係を否定し、自分にとっては、共に念仏を唱えるものは同行同朋であると称し、子弟上下関係による教団構成には否定的でありました。ところが親鸞の晩年に、その後継者と目された息男善鸞が教えにそむき東国教団を大混乱に陥れる事件が発生しました。親鸞はこれを契機に念仏者は正法を守る為に連帯を強化するよう提唱しました。以来正統信仰の保持と他教団の批判への対応などから次第に教団体制を整えるにいたります。
親鸞は越後流罪赦免(専修念仏の弾圧が厳しくなったことから、承元元年(1207)に、源空が土佐国(実は讃岐)に流された際、親鸞も越後国分(現上越市)に流され、建暦元年(1211)許された)の後は関東へ移動し、常陸国を中心に20年の間伝道に従いました。そのため親鸞の教えを受けた念仏者は東国地方に多くいました。直接教えを受けた門弟の数は百人近くになり、その人たちはまたそれぞれ数十人の門徒を持ち、それらを合わせるとかなりの多人数になりました。親鸞が東国伝道を終えて京都に帰った後は、東国の念仏者達は有力門弟を中心に結集し、やがてその所在地に名を付けた門徒名によって呼ばれました。例えば、下野国高田の真仏・顕智を中心とする集団は高田門徒と称しました。親鸞没後、親鸞の末娘覚信尼が、東国門弟などと共に、京都東山に親鸞の遺骨を納める御堂(墓所大谷廟堂)を建てました。廟堂の第三代留守職覚如は、廟堂を本願寺と称して寺院化し、ここを中心に教団の統括を図りました。しかし各地門徒は覚如の企図に反対し、それぞれ親鸞以後の独自の法脈系譜をたて、自立教団的色彩が濃くなってゆきました。そうした地方教団のうち高田門徒(専修寺派)は最も有力で、のちに武蔵国荒木門徒や三河国和田門徒を分岐させています。和田門徒は信寂・寂静を中心に結集していましたが、ここから如道が出て越前国へ念仏を伝えました(山本派・三門徒派・誠照寺派)。また荒木門徒の系譜をひく了源は京都山科に一寺を造立して仏光寺派の基を開き、この教団は近畿から中国・四国に発展した。同じ頃、近江国木辺の慈空の錦織寺(木辺派)も、近江から大和国にかけて展開しました。
<時宗・遊行聖の足跡>
時代は前後しますが、北陸に浄土真宗が深く浸透し飛躍的に発展するその土壌を築き上げる一因として、鎌倉時代の一遍上人が開基した時宗の遊行聖の影響が挙げられます。浄土真宗を組織化し大きくした蓮如は、その教団組織の拡大にあたり同じ阿弥陀信仰であった時衆をどんどん浄土真宗に取り込んで行くことになりますが、北陸の地に布教の根拠地を置いたのも最初からそのような狙いがあったものと思われます。
鎌倉時代も末期の頃、一遍上人の高弟・他阿は、3年間にわたり、越前国を中心に、加賀国や越後国を遊行し、北陸地域における布教に努めました。時宗も浄土真宗と同様に「心を一にして(一向)阿弥陀仏を念ずれば浄土に往生(この世を去って後極楽浄土で生まれ変わることが)できる」とする浄土系の念仏宗で、名号(みょうごう)(南無阿弥陀仏)至上主義を説くものであった。一生不住を原則とし、諸国を行脚して、踊念仏や遊行賦算によって念仏の教えを広めており、「捨家棄欲(しゃかきよく)」の徹底と「知識帰命(ちしききみょう)」(入信後は師の教えを守り、戒律を破らないこと)を勧めるものでありました。賦算とは、道行く人や結縁する人々に「南無阿弥陀仏<決定(けつじょう)往生六十万人」と書いた算札(さんさつ)を配るもので、これを得れば、極楽往生間違いなしといわれました。その後、南北朝時代に、加賀の地からは遊行上人三祖の量阿をはじめ、九祖・界阿、十祖・唯阿を生み、室町時代にも梅田光摂寺(うめだこうせつじ)・潮津西光寺(うしおづさいこうじ)など多くの道場や信徒(時衆)の存在が知られました。加賀では、他阿の布教以来、北国街道沿いの宿場や市場・湊町などを中心に、時宗の濃密な信仰地域が形成されるようになりました。
能登の時宗については、主要道場として鹿島郡矢田(現七尾市)の金台寺(こんだいじ)があり、時衆として鳳至郡大屋湊(現在の輪島市中心部)を基盤とする河井一族や、能登の有力国人長一族にその存在が知られます。また鹿島郡中島町町屋地内にある永和3年(1377)造立の「南無阿弥陀仏」「日課六万遍念仏」と刻んだ名号板碑も、時宗信仰の遺跡であります。
<蓮如の登場>
15世紀後半の時代は、全国的に異常気象に見舞われまし。人々の生活を根底から脅かす天災や飢饉が頻繁に起こり、大きな社会不安を引き起こしていました。加えて、応仁・文明の乱で、室町幕府の将軍の権威は失墜し、下克上の動きも顕在化しつつありました。
そうした中で、文明3年(1471)6月、本願寺八世の蓮如兼寿が、加賀・越前国の境の吉崎(現・福井県金津町)に下向して坊舎を構え、北陸布教を開始します。これがその後の浄土真宗の全国的拡大と北陸における浄土真宗の浸透化の大きなキーポイントとなるのですが、その前に蓮如のそれまでの経歴についても少し詳しく述べておきます。
蓮如は、父は本願寺七世・存知で、応永22年生まれる。母は不詳で西国、豊後の人とも備後靹(とも)の人ともいわれ、6歳で生別しました。17歳で中納言広橋兼郷の猶子として青蓮院で出家。父に就学し貧困中に青年期を過ごします。嘉吉2年(1442)28歳前に如了尼と結婚したが、やがて死別、以後、蓮祐尼(如了の妹)・宗如尼(前参議藤原昌家女)・蓮能尼(治部大輔源政栄女)と各々死別し、順次結婚した。長禄元年(1457)6月18日存知没し、叔父越中瑞泉寺如乗の周旋で、43歳で継職、本願寺八世となります。以後、近江・摂津・三河などに活発な布教活動を展開しました。ために寛正6年(1465)正月10日延暦寺衆徒に東山大谷の堂舎を襲われ、門弟近江堅田の法住、三河佐々木の如光らの奔走で西塔院末寺として毎年礼銭三千疋を納め落着したが、3月20日再来襲し全て破棄されました。以後蓮如は南近江を遍歴し、応仁2年(1468)3月山徒の堅田襲撃(堅田大責)を避けて大津近松に移り、翌年坊舎を建て祖像を移しました。
そして文明3年(1471)4月越前吉崎へ移り坊舎(吉崎御坊)や多屋を建てると、北陸の門徒や蓮如の教えを慕う新たな信者が数多く参集し、2年ほどの間に御坊の周りに200軒もの家が建ち並ぶありさまでした。以来、同7年8月に、蓮如が吉崎を去るまでの4ヶ年の間に、蓮如による浄土真宗本願寺派の教えが、北陸地域の武士や民衆の間に急速に広まっていきました。真宗教団での念仏者集団における同朋精神(弥陀の前では念仏者は全て平等であるという考え)の強調を通して、「阿弥陀仏」の救いを説く蓮如の厳正な宗教家としての態度と、「御文(おふみ)」と呼ばれる、蓮如の教えを分かり易く書き記した消息(手紙)の発行による布教方法が、遠くにいる人々にも教えを広めるのに大きな効果がありました。特に今まで恵まれなかった農民や手工業者、行商人など、いわゆる下層階級の人々には、この教えは分かりやすく有り難い教えと受け取られました。時宗の信者(下層階級が多かった)なども、もうその頃は時宗の力も弱まっていたことや、その宗旨の性格から定住して指導していくような強力な指導者を輩出できないことから深く教線が浸透していたとは言え、蓮如が創出したような組織力はなかったため、次第に同じ阿弥陀如来を信ずる浄土系の浄土真宗に吸収されていきました。僧侶などの宗教の専門家から見れば宗旨の細かな違いが宗派を作り相互に排斥しがちになるところですが、、一般大衆から見れば同じ阿弥陀信仰をする、それも以前よりわかりやすく宗旨を説き、自分らを強く指導してくれる者がやってきたという程度であまり宗派を変えたという意識は薄かったのではないでしょうか。たとえ宗派を変えたと自覚していても、当時一般民衆を真宗ほど組織的にまとめていた宗派などあまりなかったので(少なくとも時宗はそういった力は弱かった)どんどん真宗に吸収されていったと思われます(私の考え)。同様にして、浄土真宗は、これ以降、全国へと大きく発展していきました。そしてその教線(きょうせん)の全国波及とともに、浄土真宗諸派はまた本願寺派へと統合される事ともなりました。
本願寺派は、蓮如以前において、すでに教線を北陸に伸ばしていました。加賀でも、室町期に、宗祖親鸞の絵伝や聖教(しょうぎょう)・影像(えいぞう)の授与を通して、門徒の確保に努めている。七世存如の弟・如乗(蓮如の叔父)の開いた河北郡二俣の本泉寺をはじめ、石川郡吉藤(よしふじ)の専光寺、河北郡木越の光徳寺、江沼郡河崎の専称寺など、門末寺院も少なからず存在しました。
しかし、北陸における真宗諸派の中では高田専修寺・渋谷(しぶたに)仏光寺・越前三門徒などの各派に比べ、劣勢でありました。また鎌倉末期以来、同じ阿弥陀信仰を説く踊念仏の時宗の教線も深く及んでいました。蓮如の吉崎布教は、こうした北陸の念仏教団の勢力均衡を逆転させたのでした。
それから、これは私の考えですが、浄土真宗本願寺派がこれほどまでに成長したのは、蓮如のそれまでの過酷な人生も大きく影響したと思われます。権威だけで権力を振るっていた守護大名が苛酷な闘争の中で実力を貯えた者に下克上によって、追い払われていったのと同様に、蓮如の不幸な生立ちや、比叡山など他教団からの迫害、戦乱の中(応仁の乱・文明の乱など)での対応などが彼を鍛え、組織化による教団の結束強化の方途を他教団以上に合理的に行わせしめたと思わずにいられないのである。
(参考) 浄土真宗の組織化については私の別のページ(「源平の戦い〜一向一揆」)でも述べられています。

<浄土真宗の普及とその影響>
①加賀一向一揆
文明の一揆(文明6年(1474):加賀守護富樫一族の内紛に関与し、兄・守護富樫政親(まさちか)を支援して、真宗高田専修寺門徒と結ぶ弟・幸千代を打倒)にはじまる一向一揆で、門徒(一向衆)はその力を示し、自信を深めました。このことはかえって政親に本願寺門徒に対する警戒心を抱かせる結果となり、翌年には政親による弾圧を招く結果となる。京にいる蓮如は争いを避けるよう戒めるが、石川郡の本泉寺にいた蓮如の子蓮悟は攻撃的でありました。加賀では一向一揆の勢いは弱まらず、長享2年(1488)6月には、加賀守護富樫政親が、本願寺派の坊主・門徒を含む反政親派の国人・土豪約20万人に攻められ、石川郡の高尾城(現・金沢市高尾町)で自害して果てるという事件が起こりました。この結果、加賀では富樫政親の大叔父(祖父教家(のりいえ)の弟)にあたる泰高が、守護の地位に返り咲いたが、守護の権威の失墜は、もはや覆うべくもありませんでした。この一揆(長享の一揆)は、やがて加賀に一向一揆の国を樹立する契機となったことは改めて言うまでもありません。この「百姓の持ちたる国」の成立は加賀の中世最大の事件であるのみならず、山城の国一揆とともに日本史上希にみる一時的に成功した庶民革命であり、これ以降明治期まで日本史においては、自治が行われたのは、堺の町人による自治組織という局地的なものしかなかったのです。また、その後の加賀国に与えた影響を考えた場合、浄土真宗(または一向一揆)の影響は、前田家支配の影響と双璧をなすと思われうのです。
②能登畠山氏の戦国大名への脱皮
加賀一向一揆が始まった頃は、能登では畠山義統の時代にあたり、義統は幕府の命令で長享2年加賀に出兵したりしている。能登でも一向宗の広がりが見られ、蓮悟の叱咤のもと、「能登でも百姓の持ちたる国」にしようとの動きが見られましたが、義統は弾圧し、一向一揆は起こりませんでした。義統の子、義元の時、能登畠山で内訌が起き、一時義元が国外へ出奔し義統の次男・慶致が守護に就いたりしましたが、永正3年(1506)、先に前将軍足利義材を越中に追放した管領細川政元が、義材支持派の多い北陸の守護勢力を脅かす目的から、本願寺実如と結んで一向一揆の一斉蜂起を図ると、能登畠山氏の政治的基盤も動揺し、内訌をやっている場合ではないと、義元・慶致両派が講和工作を行い、義元に再度家督を渡し(即ち守護に据え)、将来、慶致の子・次郎義総を後継者に立てるという条件で和解しました。これにより、能登畠山家は、戦国移行期の難局を切り抜けることに成功し、次の畠山義総の時代に安定期(能登畠山家にあっては全盛時代)を迎えることになります。しかし、能登は「百姓の持ちたる国」になりませんでしたが、その後の影響を考えると住民の(寺院の)7、8割が真宗となり、畠山義総の頃には、融和政策をとらざるをえなくなります。勿論、現在でも真宗の割合は変わらず、俗に真宗王国といわれている。
③越中への影響
応仁の乱後も、畠山家の内紛は近畿を中心に続くが、将軍足利義材を伴って河内に出陣した畠山政長(越中守護でもある)は、明応2年(1493)の細川政元のクーデターにより敗死しました。この時期、畠山政長の家臣・神保長誠は中風にかかって越中で療養していましたが、細川方に捕らえられた足利義材を京都から脱出させ、自分のいる越中・放生津に迎えた。永正3年(1506)春、足利義材・畠山尚順(政長の子)方が体制を立て直し細川政元への攻撃を強化すると、細川方は本願寺・加賀一向一揆を引き入れて対抗しました。3月、加賀一揆は越中を急襲し、神保氏ら越中衆を追放した。越中衆は越後守護代長尾能景に援軍を要請し、反撃した。9月能景は礪波郡で討死にしたが、神保・椎名氏は旧領を回復し、一揆方と和睦したようである。ただし、遊佐氏は以降、復帰できなかったと思われ、礪波郡は一揆方が実質的に支配した。このため、長尾能景の子長尾為景は、一向一揆を敵として再征の機をうかがうとともに、神保慶宗らに反感を覚えたようである。その後、ことに永正13年に長尾為景が出兵した際、越中衆が為景軍を排したことにいかった長尾為景は、
神保慶宗の指図によるものとみて、永正16年親の仇を討つ為と称して、神保氏討伐の為、越中に攻め込んだ。為景は畠山尚順、能登の畠山義総と同盟し、さらには細川高国も味方として神保方を攻めました。翌年も攻め、ついに永正17年12月21日の新庄城(富山市)の合戦の結果、神保慶宗は敗北自害し、越中守護代の神保氏は一度滅ぶのであります。天文年間、神保長職により復興しましたが、一向一揆との、再度の抗争の過程で重臣の小嶋職鎮に主導権を奪われ、神保家臣団はその後上杉氏に吸収されることとなります。

余談・越中の不幸
テーマとは関係ないが、神保氏や佐々氏などの歴史をたどるといつも思うのは、越中の歴史的不幸ということである。それは何かというと、守護(または守護代)にしても、戦国の実力者にしても、はたまた江戸封建時代の統治者にしろ、越中では在国の者が、国の統治の主導権をなかなか取れなかったことである。越中の歴史を見ていると、私はヨーロッパのポーランドを想起してしまう。では、このような越中の不幸のはじまりは、いつからか、と考えてみると、私が思うにそれは、
康暦2年(1380)畠山基国(もとくに)が管領斯波義将の提案により、越前と越中を交換し、越中守となったときからではないか。同じ畠山家の所領である能登はその後、能登畠山氏が庶流として支配し、3代義統の時代からは守護代の統治ではなく、守護が在国して統治したのに対して、越中は畠山宗家の所領のままとどまった。畠山宗家の他の所領が近畿に集中していたのに対して、越中は畠山家の支配下にありながら、宗家の力を示すことや宗家からのコントロールがうまくできず、絶えず周りの国から干渉をうけることとなる。例えば永正年間より前にも、すでに能登畠山氏3代の畠山義統の干渉をうけたりしている。この戦国期に、守護代しかいない国は、下克上などにより守護代が実力者となったりして実質上の領主と変貌した所が多いのだが、越中では、実力者として戦国大名に変貌する前に、周りの国々(越中、加賀、能登)の干渉を受けたため、在国の守護代や国人が十分に実力を付けられず、上記の永正年間の神保氏滅亡が決定的なダメージとなり、その後、佐々成政などの一時的な支配もあるが、また隣国前田家の支配を受けることとなる。明治期になっても、当初石川県(又は金沢県)に組み入れられたり、西部が七尾県に組み入れられたりと越中単独の自治権をなかなかもてずにいたが、明治16年2月にやっと旧越中国域とほぼ同じ範囲で富山県が成立し、現在にいたるのである。
④越前への影響
越前への影響はまだ詳しく調べていないが、一応述べておく。長禄3年(1459)の守護斯波氏との守護代甲斐氏の内紛で活躍した朝倉孝景が守護代以上の実力を持つと、斯波義敏が退けられた後、支族の斯波義廉を守護に据えて権勢を誇りました。また応仁の乱では西軍として活躍していましたが、文明3年(1471)越前守護掌握を条件に東軍の細川方に寝返り、以後越前平定に乗り出し、朝倉貞景の時、正式に越前守護と認められました。守護大名でありながら、半分下克上でのしあがったと言える、そうのような朝倉氏でありましたが、朝倉孝景の頃から何度も隣国加賀から越前への一向一揆の侵攻があり、やはり朝倉氏の一番悩みの種であったようです。特に朝倉貞景(1428〜1481:後の有名な朝倉孝景は3代後の当主である)の頃、明応3年(1494)10月、永正元年(1504)7月と8月の侵攻は大規模であった。永正元年7月の侵攻時には、なんと30万もの大軍が攻め入ったが、朝倉軍は何とかこれを退けた。このようにして、越前でも、一向一揆との抗争を通して実力を付け、有名な朝倉孝景(1493〜1546)の頃には逆に、加賀の内紛にまで働きかけるようになり、その後、織田氏に滅ぼされるまで栄華を誇るのであります。

<まとめ>
鎌倉期に親鸞により浄土真宗が開基され、室町期の蓮如の時、迫害を乗り越えて北陸に来国し、越前・加賀の国境の吉崎に坊舎が建てられ普及活動が行われると、その教えは北陸地方に急速に普及し、また教団も強力に組織化され全国に波及します。そしてその明解で実行し易い教えは、他の浄土真宗諸派や浄土系諸派の吸収し、他宗信者の改宗し、組織としても講を基本にした他宗に見られない強力な教団を作り上げていきます。蓮如が京都へ帰ったあと、加賀では最初の一向一揆である文明の一揆が起こります。これで実力を示した一向宗は守護の富樫氏から弾圧を受けるが屈しないで、逆に長享2年に守護富樫政親を攻め自害に追い込み、その後富樫氏を追放し、一向宗による国を樹立します。この一向一揆の影響は周りの国々にも大きな影響を及ぼしました。能登では能登畠山氏が、一向一揆との抗争の中で、内訌などの内部的弱点も和解などにより克服し戦国大名として脱皮する。越中では、加賀からの一向一揆の侵攻をきっかけに国が大きく混乱し、強力な在国領主を育てる時期を逸し、その後明治期に至るまで越中として独立した統治を行えませんでした。また、越前では、朝倉氏が実力を付けはじめた時期に起きたのが、この一向一揆であり、何度もその侵攻に悩まされながも、その抗争を通して、さらに実力をつけ北陸の有力な戦国大名として歴史に登場することとなります。
以上のように、私は北陸の歴史を振り返った場合、浄土真宗の影響は非常に甚大なものだと思うのであり、こういった上記の政治的な影響以外にも、私は文化・民俗的にも、非常に大きな影響を与えていると考えており、それはここで同時に述べるにはとても長くなりすぎ、まとまりがつかなくなるので、別の機会に述べることとしたい。
最後に、どうも簡潔な文章を書くのが下手なので、長々となってしまったが、ここまで読みとおしてくれた方、どうも有り難うございます。まだ勉強不足で稚拙文章ですが、今後も、「北陸歴史ねっと」の他のテーマでも、頑張りたいと思いますので、乞うご期待ください!

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