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荘園をめぐる争い

(1999年10月27日作成)

鎌倉時代においては、荘園領主と新たな幕府から補任された地頭との間や、地頭間、あるいはその在地的領主支配の進展とあわせて、その一族間における遺産領分の配分などをめぐり、荘園に関する種々様々な争いごとが起きた。

1.堀松荘(荘園領主の配下と地頭のトラブル)のケース
能登羽咋郡の堀松荘は、外浦沿いの海に臨んだ荘園であるが、文永10年(1273)本家近江の日吉(ひえ)神社の雑掌法橋定盛(ほっきょうじょうせい)と地頭又二郎入道浄信(じょうしん)の間で、漁船をめぐる論争が行われていた。これは秋の彼岸の間に、雑掌の配下として現地の荘園管理にあたっていた預所(あずかっそ)某の下人藤太郎の息子が、禁忌を破って日本海に船を漕ぎ出し、漁を企てたことによる。地頭の浄信がそれを咎め、船を押収して、暴行を加えたのに端を発した事件であった。
雑掌の訴えでに対し、幕府は地頭の違法行為を認め、浄信を禁固に処した。その判決内容によれば、荘園内の漁事支配は、雑掌=預所方に属するものとされている。たとえ預所の下人が、禁忌を破って漁労生産を行ったにしても、荘園内の警察権を担当する地頭には、その船を押収する権限はなく、
浄信の行為は狼藉に値するものだとする。しかし、この背景にお、地頭方がささいな出来事にかこつけ、荘園領主の漁業支配権を、暴力的に掠め取ろうとする動きのあったことがわかる。おそらく、幕府の判決にもかかわらず、その後も執拗に、地頭の横暴が重ねられていたに違いない。この相論(そうろん)の舞台となったのは、堀松荘の浦方の安部屋(あぶや)・町付近(現・羽咋郡志賀町内)であったと推測できる。

2.高畠荘(隣接地頭同士による、田地の用水支配をめぐる相論)のケース
能登邑知潟周辺で、鎌倉時代末期、開発ブームがみられ、潟淵の村々の産土社(うぶすなしゃ)の勧請伝承は、多く13世紀頃に集中しており、興味をひく。こうしたことは、当時、低湿地の開拓に必要な用水路の構築など農業土木の分野で、技術的進歩がはかられるようになっていた結果によるものであろう。
能登国鹿島郡の高畠荘内の小柴(こくぬぎ)村の地頭得田章真(のりざね)と、隣接地の大町保の地頭代重隆(しげたか)の相論は、在地で領主的支配を実現した地頭同士の境界争いで、祖父の代から60年間近くに及ぶ長期のものであった。この相論は、鎌倉時代末期の元亨(げんこう)元年(1321)に両者の和与中分(わよちゅうぶん)(当事者双方の和解により行われた下地の分割契約)という形で決着するが、合意の条件の中に、高畠荘から大町保に流れる地獄谷用水(川)の管理については、今後、大町保と小柴村が一日交代で行う旨が確認されている。双方の農業生産に不可欠な用水の支配が、相論の重要課題の一つとなっていることは明白である。

3.地頭一族の所領争い
地頭の在地領主的支配の進展とあわせて、その一族間において、遺領の配分をめぐり、骨肉の争いもみられた。
能登の地頭・長幸連(ちょうゆきつら)(法名了半)は、晩年中風で病んでいたが、その死去に先立つ正和4年(1315)譲状(ゆずりじょう)をしたため妻と子弟に所領を分割贈与した。
幸連は、2年後の文保元年(1317)12月にこの世を去るが、譲状は翌文保2年(1318)9月、幸連の嫡男幸康(ゆきやす)と後家尼観阿(ごけあまかんあ)の代官兼阿の両人が、足利貞氏(尊氏の父)のもとにおもむき、その安堵(承認)を得て、面々がそれぞれ幸連の遺領を分割相続することになる。貞氏の安堵を受けたのは、幸連はすでにその頃、有力鎌倉御家人で源氏一門の名族足利氏の被官となっており、幸連が分配した遺領の多くは、被官化の見返りに、足利氏から恩給として与えられていた土地でもあったからである。
長氏 は、もともと 長谷部信連 の末裔にあたる能登の有力鎌倉御家人であるが、幸連はその庶流の小地頭で、いつの頃からか、自己の相伝する能登国羽咋郡土田荘上村半分の地頭職を、足利氏に寄進し、かわって自ら地頭代となり、御家人の立場から転じて足利被官となっていた。その関係からか、
幸連の娘は、同じ足利被官で三河国に本領を持つ、設楽(したら)三郎左衛門入道に嫁いでおり、はじめ季連(すえつら)と称した師連(もろつな)の改名も、「師(もろ)」を通字とする足利氏の執事・高(こう)氏と関係するもののようである。
ところが、一族の遺領相論はその後に起こった。幸連の死去から3年後にあたる元応2年(1320)になって、突如、嫡男の
幸康が、さきの幸連の譲状は、義母の観阿と義弟の師連(もろつら)が、自己の都合で偽作した謀書であると暴露し、師連が相伝した能登国羽咋郡土田荘半分以下・下野国足利荘給田1町・相模国愛甲船子屋敷東野畠2反・同給田1町・三河国・富永保内助吉名(とみながほないすけきちみょう)からなる5ヶ所の所領・屋敷・給畠の無効性を訴えている。
これに対し、師連の言い分は、譲状作成当時、父
幸連は中風を病んでおり、譲状は代筆を頼まざるを得なかったが、位署(いしょ)・判形(はんぎょう)(花押)の部分は間違いなく自筆であり、そのことは義兄・幸康も承知済みであること。譲状の代筆者である隆阿(りゅうあ)を、幸康は「放埓の仁」というが、彼は足利被官の黒瀬四郎入道の従兄弟で、常識人物であると抗弁する。
その結果、足利氏の裁判機構である奉行所は、「訴陳三問三答(そちんさんもんさんとう)」の後に「対決」に及ぶという幕府なみの訴訟手続きを経て、裁決の下知状を下付している。内容は、八ヶ条にわたる
幸康の訴えの理非を指摘し、譲状が実書であるのを知りつつ謀書であると訴え、幸連から幸康に充てた譲状の内容を改竄して、自己に有利な画策を企てた事は、「奸訴(かんそ)の科(とが)」と「謀書」を構えたことによる「充捐(じゅうえん)の咎(とが)」に該当するものとし、幸康の相伝分のうちの一ヶ所の所領を没収する処罰を加えている。
幸康
が父幸連から譲与された所領の構成は不明であるが、幸連には、師連に譲与した土地以外にも多くの土地があり、そのうちから幸康や観阿および他の子女たちにも、分割贈与されていた模様である。また、幸康が奸訴を企てた理由は定かではないが、あるいは、継母の観阿が病床の夫を口説いて、本領の土田庄上村半分の地を、次男の師連(観阿の実子)に譲らせたため、幸康が嫡男でありながら、それを相伝できなかったことの恨みに起因していたのかもしれない。
後年、室町幕府の成立後、能登の有力国人の長氏一族で、足利将軍の親衛隊である「奉公衆」に加わる者が多く知られるのは、鎌倉時代末期において、すでに土田長氏のように、足利氏の被官になっていた庶流が存在したという、縁故によるものではなかったか。

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