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輪島の歴史 |
(2005年3月3日一部加筆修正)
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<輪島市の地勢>
石川県の北部、能登半島の北岸部に位置し、奥能登の(鳳至郡の)古くからの中心地です。また能登は富山湾や七尾湾に面した地域を内浦というのに対して、それ以外の地域を外浦といいますが、輪島市は内浦地区がなく海岸地帯は全て外浦地区になります。東は珠洲市・(旧柳田村の)能登町、南は穴水町・(旧能都町の)能登町、西は門前町(輪島市と合併予定)に接し、北は日本海に面し、沖合いに七ッ島、 舳倉島 があります。東部には、 岩倉山 (357m)、 宝立山 (ほうりゅうざん)(468.6m)、舞谷御前山(まいたにごぜんやま)(367.8m)などが連なり、中央には高洲山(567m)、鉢伏山(543.6m)、南部には100〜200mの三井丘陵、西部には三蛇(さんじゃ)山(372m)、佐比野山(さびややま)(387.8m)など、市域の大部分は山地です。中央部を北流する河原田川、鳳至川が合流して輪島川となり、海に注いでおり、この川の河口域に開けた輪島平野に輪島の市街地があります。また輪島川河口に輪島港があります。東部には、町野川流域に町野平野が開けています。
<序章:原始時代から江戸時代に至る迄の輪島の概略史>
1)原始時代〜古墳時代の輪島
輪島市の縄文時代の集落としては、山間部にあるものでは河原田川上流の三井新保(みいしんぼ)遺跡(縄文前期後葉)があり、海岸寄りには宅田上の山(たくだうわのやま)遺跡(縄文後期・晩期)や大型石棒を出土した大沢遺跡が知られています。
弥生時代に入ると、舳倉島に深湾洞遺跡(芝山出村式期)が出現し、もうすでにこの頃から初期弥生人が漁労活動を行うために60kmも離れた舳倉島に渡り、小集落を営んだことを示しています。他に、三井美登里ヶ丘(みいみどりがおか)遺跡(弥生時代末期〜古墳時代初期)はこの時代の集落跡です。釜屋谷の丘陵尾根筋に築かれた四ッ塚古墳群(方墳・円墳)は、古相を帯びており重要であります。
古墳時代後期になると、稲舟や大川の丘陵斜面に横穴墓群が現れます。稲舟1号横穴からは直刀・玉類などが出土し、稲舟8号横穴からは3体分の人骨や玉類・金属などが出土しています。
奈良・平安時代には稲舟や 洲衛の丘陵斜面で須恵器生産が始まり、稲舟古窯跡(7C末頃)では須恵器の他に陶硯や布目瓦も製作されています。当時の集落跡では、畠田遺跡(鳳至町、8〜9c)、三井・小泉遺跡(8c前半)があり、掘立柱建物跡や、井戸跡、土杭跡、溝跡などを検出しています。
(参考) 「先史〜古墳時代の能登」
2)古代の輪島
太古・古墳時代の頃、日本は中国などから倭と称されていました。能登半島は日本海に大きく突き出した地形のため、古来、大陸からの多くの者が、渡来者として、あるいは漂流者として能登にやってきました。渤海交流史などを見ても、渤海国は、何度も荒波を超えて日本へ使節を派遣していますが、その中でも石川県にたどり着いた回数が一番多いのです。その大陸の者たちが、輪島を能登半島の先端に見つけたとき、倭の半島という意味だろうか、それとも島と勘違いしたのでしょうか、倭島と呼びました。これが、現在の輪島の名に由来です。
初め越前国に属していた鳳至郡は、養老2年(718)能登国立国により、能登国鳳至郡となりました。これがまた鳳至郡の初見でもあります。現在の輪島市域は、「和名類聚抄」の同郡・大屋郷・待野(蒔野)郷域に比定されます。なお同郡男心(なじみ)郷を南志見川流域地域に比定する説があります。正倉院の林邑楽用具の芯に用いられていた古裂銘文に天平勝宝5年(753)越中国鳳至郡大屋郷の住人として、舟木秋麻呂が調を貢納している記載されています。大屋郷は、「和名類聚抄」の小屋郷と考えられ、王朝期のいつごろからか、「大屋郷」という名称が使われだしたことがわかります。また舟木という名前からかつて造船に関わるため置かれた舟木部の居住も知ることが出来ます。大屋郷は鳳至川・河原田川流域を中心とした一帯に比定されます。
なお正倉院の上記と同じ銘文に、郡司大領能登臣智麻呂の名が見え、能登郡に本拠を置く、能登臣の勢力がこの時代に当市域まで及んでいたことがわかります。輪島川河口付近は、海・陸交通の要衝に位置し、古代鳳至郡に置かれた大市駅の比定地で、天平20」年(748)越中守大伴家持が能登巡行をした際の記録にも大市という名も出てきます。家持は、現門前町から鳳至川上流を経て、大市駅、次いで町野川河口付近の待野(町野)駅に至ったと推定されています。輪島は、市と郡家と駅がある町であったようです。なお三井町本江付近に比定される三井駅を含む鳳至郡内の3箇所の駅は、大同3年(808)10月19日不要であるとして廃止されています(日本後記)。大屋郷は平安時代には小屋郷と表記されるようになったようです。
3)中世の輪島
輪島は、中世においては、大屋荘(輪島から穴水にかけての広大な地域)の中の湊町であったことから大屋湊と呼び称され(資料によっては、親の湊となっているものもある)、日本海遠隔地交易の重要な中継基地であり、日本を代表する「三津七湊(さんしんななそう)」の一つに数えられていて、おおいに栄えていました。ちなみに、現在の「輪島」という文字が見いだされるようになるのは、室町時代中期の頃です。
能登半島先端部の小屋湊は、幸若舞曲の『信田』にも登場します。諸国を転々と売られながら加賀の宮腰に辿り着いた信田小太郎は、やがて小屋湊へと流浪します。そこで問丸(といまる)を営む湊の刀祢の女房に救われるが、陸奥国の外ヶ浜(青森県)から小屋湊にやってきた塩商人に、塩と交換されて連れられていく話であります。また室町期に流布した古浄瑠璃の『ゆみづき』には、加賀国菅生里(すごうのさと)(加賀市)の玉つる女という少女が、出奔した兄のあとを追って家を出た後、小屋湊に住む人商人(ひとあきんど)にかどわかされ、筑前国の博多(福岡県)からやってきた、人買船に連れられていくのが描かれています。
(参考)「 能登の民話伝説(奥能登地区-No.5) 」の中の‘腰掛石と小太郎’の話
ともに文芸作品の中に語られたもので、もとより実話ではありません。しかし、これらの内容が成立する室町時代の頃、能登の小屋湊が日本海海運における東西交易の結節点として、繁栄していた情景がうかがわれます。当地には、東北や九州をはじめとする諸国から多くの船舶や商人達が来往し、盛んに賑わっていたことがうかがわれます。
また「今昔物語集」にも輪島地域のことと思われる記述が登場します。同書巻6には、鳳至郡に住む鳳至の孫(そん又はひこ)が、沖合から漂着した通天の犀角という帯を拾得して後、にわかに富裕となり、国守と郎党・眷属ら数百人を4、5ヶ月にわたり饗応したが、国司の態度に困惑して逃亡したとあります。日本海に面した当地は古くから海の幸に恵まれ、また対岸諸地域から人や物資の渡来した地であったことが示唆されます。同じ「今昔物語集」巻26に加賀国の釣り人が猫の島に漂着し、島の蛇に加勢し、蜈(むかで)を倒し、この島(舳倉島)がよく見える地を能登国「大宮」と称したと記されますが、この大宮の地は当市に比定されるという説があります。
(参考)「能登の民話伝説(奥能登地区-No.1)」の中の‘ 鳳至の孫 ’
伝説などはこのくらいにして、少し詳しく見ていきましょう。
鎌倉初期の頃、平家打倒時の旧功により御家人に加えられた 長谷部信連 が、鳳至郡西部と鹿島郡北東部にまたがる地頭として能登に入部し、大屋荘を本願地として居住しました。長谷部信連は、建保6年(1218)に大屋庄河原田で没しています。現山岸町に信連の墓と伝えられる塚があります。「吾妻鏡」健保6年10月27日の条(くだり)に、「今日、左兵衛尉長谷部信連法師、能登國大屋庄河原田村において卒す。享年七十二才。」と書かれている墓がこれだと伝えられています。
能登国田数注文によれば、鳳至郡のうちに、町野庄・大屋庄内の東保・同庄の西保・鳳至院、志津良(しつら)庄・櫛比庄(現門前町)、諸橋保(現穴水町)、鵜川村・矢波村(現能都町)が記されています。この当時は、大屋庄内穴水保・曾山開発(現穴水町)、三井保(現輪島市)は、鹿島郡で、宇出津なども鳳至郡でなく、珠洲郡に属していました。鳳至郡域は、その後徐々に拡大し、戦国時代中頃には、近世の郡域になったものと思われます。現輪島市・鳳至郡にあった庄園のうち、町野庄・下町野庄は久安元年(1145)に立券されていますが、他は鎌倉時代以降の立券とみられます。
町野庄は、町野川の上・中流域に比定され、古代の町野郷を継承すると考えられています。町野庄の地頭に三善氏(のちの町野氏)がなったのは、長谷部氏が能登に入部した頃と同時期と思われます。その後、鎌倉末期には町野庄は、九条家領となります。同庄内八幡寺において元久3年(1206)から建暦2年(1312)にかけて書写された大般若経585帖、応安5年(1372)から康暦2年(1380)にかけて書写された大般若経226帖が現存しています。
大屋庄は、文治5年(1189)崇徳院御影堂領に寄進され、京都・青蓮(しょうれん)院が本家領を継承しました。のち鳳至院・三井保など近隣地を吸収し、室町時代初期には、西保(河原田保)・東保・南志見村・三井保・鳳至院・深見保・光浦・穴水村・内浦村(現能都町)・山田村(現能都町)の庄内10ヶ村として把握されております。長谷部信連は、大屋庄に地頭職を得て入部していますが、彼の後裔は、 長氏 を名乗って、櫛比庄(現門前町)など周辺の能登4郡に入部し、勢力を伸長し、奥能登屈指の在地領主となりました。町野氏の名が鎌倉時代の途中から消える理由も、町野庄が長氏の勢力に入ったからのようです(長氏は、室町時代には、幕府将軍家の奉公衆(後の旗本のようなもの)となりました。戦国期には、能登守護家畠山氏に仕える重臣として活躍しています)。
4)室町時代の輪島
南北朝の頃から、地元有力国人・ 温井氏 が勢力を伸ばしはじめ、その後、大屋湊の南東・奥能登の要(かなめ)に、主城・ 天堂城 (別所谷町)を築き、さらに盛んに勢力拡張を図りました。温井氏の他にも、大屋湊西方の海岸の大沢村(輪島市大沢)地頭の系譜をひく弥郡氏がいた事もわかっていますが、志津良庄城を主城として活躍していましたが、その後どうなったか、詳細不明(調査不足)です。長氏は、鎌倉時代から中央にて仕えていましたが、室町期になってからも、能登守護吉見氏などの下につこうとはせず、足利氏との関係から直接、奉公衆となって中央との繋がりを保とうとしました。それに対して、温井氏は、畠山氏が能登守護となると、いち早く畠山氏の傘下に入り、有力家臣団となりました。長氏(少なくとも頭首)は一時、ほとんど鎌倉住まいで、管理が疎かになった長氏などの領地を、温井氏は侵食しながら大きく勢力を伸長していったようです。温井氏は、畠山重臣に成長してから、京都東福寺栗棘(りっきょく)庵と結んで、畠山氏の対京都外交に重要な役割を果たしたようです。
室町末期の文明8年(1476)6月6日の重蔵宮講堂立棟札(拓本)によれば、当地の領主であった地頭の温井俊宗(ぬくいとしむね)と神保光保(じんぼみつやす)を中心に、温井代官の温井為宗(ぬくいためむね)と神保代官の江口信能(えぐちのぶよし)の両人が造営を指揮しているのがみえます。河井村(輪島川河口の東側)に鎮座する重蔵宮(権現)は、鳳至郡の郡鎮守的立場にあり、神主・神人(じにん)の他に社僧の座主観音寺・別当神林寺らがいて、かつて大屋荘に属した近在の郷村からは「河井寺社役(かわいじしゃやく)」として、年間を通じた仏神事に、それぞれ供物の進納もはかられるような宮でありました。その造営には、重蔵番匠(ばんしょう)の兵衛次郎藤栄と鳳至山岸の与次郎吉久の両大工の他、鍛冶大工である河井の法円や塗師の三郎次郎定吉が知られていました。造営にかかわる職人の大半は、いずれも輪島町とその周辺部に住む人々でありました。また戦国期には、鳳至郡の鍛冶屋たちは、同業者組合(座)を組織して、領主から諸役皆免の特権的待遇措置を受けており、舳倉島産の「嶋海苔」と並んで当地の名物である「輪島素麺(りんとうそうめん)」の河井・鳳至両町の生産業者も、素麺座を結んで、製造販売の独占権を領主から保証されていました(輪島素麺については、後で詳述)。
応任の乱以降、将軍権力の失墜を目にした長氏も、その後、畠山氏の傘下に加わりますが、室町中期の15世紀末頃には、温井氏が長氏にかわり、完全に形成を逆転し、大屋荘を勢力下におさめてしまったようです。温井氏は、先輩格の長氏の勢力を追い抜く形で、能登畠山氏の中でも有力な家臣団として仕え、一族の中には執事など近臣も何人か出し、畠山氏入部前からの守護代家・ 遊佐氏 に迫る勢いでありました。
長氏、温井氏、弥郡氏のほかにも、町野庄内に平家末流と伝える 時国家 が室町中期以降有力在地土豪として成長してきます。
5)戦国時代の輪島
温井氏は、室町後期までは、まだ完全に輪島を領有しておらず、同じ畠山氏の有力被官(近臣)の神保氏と分け合う形でありましたが、戦国期になると完全に単独領有となってしまいました。大永4年(1524)4月18日の記録では、温井孝宗(ぬくいたかむね)が願主となり、重蔵宮の本殿造営を行なったことが書かれています(その際の温井氏の代官は玉蔵坊英性(ぎょくぞうぼうえいしょう)でありました)。
重蔵宮についてですが、享禄4年(1531)6月重蔵宮の神輿の再興では、輪島の刀禰をはじめ、50人以上の多くの地元の住人たちが、その奉加に応じていました。しかし、この時、神輿の再興を発願し、勧進活動を行なった聖は、その頃、河井町に来住していた美濃国の住僧・西圓寺裕春蔵主(さいえんじゆうしゅうんぞうず)であります。当時の輪島湊には、廻国遍歴の途次に来遊する旅の僧が多く見られ、彼らが勧進聖となって、地元の寺社造営を推進することもしばしばありました(参考: 岩倉山の歴史 )。
重蔵宮では、以前にも鳥居の再建奉加のために、時宗念仏系の十穀上人(じゅっこくしょうにん)某が、奥能登各地を勧進していました。同じ年(享禄4年(1531))、温井孝宗は、加賀の一向一揆の内乱に、能登畠山軍の武将として支援に赴き、河北郡太田(津幡町)で戦死をとげています。天文4年(1535)3月の温井孝宗追悼のために作成された肖像賛によれば、温井氏は桃井氏の一族(能登守護温井頼義の子孫?)で、輪島の領主であると見えています。
温井氏は、16世紀の中頃、能登畠山氏の晩期には、一時、いわゆる 畠山七人衆 の筆頭として、能登の政治を牛耳りました。その背景には、天文年間に能登畠山氏の内乱を鎮圧した実力がありますが、その武力の背景をさらにたどると、大屋湊の繁栄があったと思われます。また室町期に、温井氏が、輪島塗を重要な産業として保護したのがきっかけで、輪島塗の産地が形成されたということが現在知られており、自領の経営もしっかりやっていたことがわかります。
ただし、温井氏は戦国後期の能登の内乱で、いったん輪島の領主の地位を失います。再び能登に復帰した後はそれらを回復し、天正8年(1580)に能登から没落するまでの間、輪島の領有を維持していました。また温井代官の玉蔵坊は、享禄4年6月、重蔵宮の神輿再興の時、願主温井孝宗の代官筒井孫次郎の小代官としてもみえています。代官にしろ、小代官にしろ、戦国中期の温井氏による輪島町経営の実質的担い手は、玉蔵坊であった(温井家当主は、府中近辺の自分の屋敷に住んでいました)と推定されます。
玉蔵坊の性格は定かではないが、その名乗りからして、武士ではなく輪島の地で金融や海運業に関わりを持つ商人的な山伏ではなかったか、と想像されます。温井一族の反乱である能登の 弘治・永禄の内乱 においては、温井氏との戦いで七尾篭城を続けていた大名 畠山義綱 に、玉蔵坊が支援を送った恩賞として、梶馬千代分知行の安堵を得ており、ここでは温井氏と対立する政治的立場をとっています。その事は先の領主温井氏と代官玉蔵坊の組み合せが、元からの被官関係に基づくものではなく、寧ろ湊町支配に才能を発揮する玉蔵坊を、契約的代官として、温井氏が登用していた可能性をうかがわせます。
天正5年(1577)、能登畠山氏が上杉謙信に滅ぼされます。温井氏は、落城時の寝返りの首謀者・遊佐氏などと共に、 上杉氏の家臣となる 。この時、畠山残党退治に名舟(輪島市名船町)まで遠征してきた上杉軍を、村人達が鬼面や海草を付け陣太鼓を鳴らして驚かせ追い払ったといわれる伝説を起源とするのが、有名な御陣乗太鼓です。
翌年3月謙信が卒中で急死すると、温井景隆・三宅長盛兄弟は、同年8月七尾城を預かる上杉派遣将である鯵坂長実を追い払い、今度は織田信長に帰服しました。
しかし、内部の裏切りにより父兄など家族をを殺された長連龍は、裏切り組(つまり遊佐氏・温井氏・三宅氏など)を許さず、信長の再三の制止も聞かず、温井・遊佐兄弟と戦い続けました(その度、長連龍が勝つ)。そして前田氏が能登に入部すると、長連龍は、信長の家臣として利家に与力として付く形となりました。温井氏・三宅氏が、能登奪回を企てて荒山城(鹿島町)に拠って、反撃をこころみますが、援軍の佐久間盛政に攻められ敗死しました(長氏は、その後まもなく、本能寺の変で信長も亡くなっせいもあり、前田家の重臣となり、その家系は現在まで続いています)。
このように、温井氏が、その後百万石の祖となった前田利家に最後まで、抵抗したという経緯があったので、加賀藩は、温井氏関係の資料を焼却・破棄し抹消しため、殆ど資料は残されていません。その為、温井氏時代の詳しい町の様子は、現在あまりわかっていません。また、こののち能登は前田家の所領となりますが、鳳至・大屋の民は、江戸時代を通じて加賀藩から冷遇されるという憂き目を見たのです。政(まつりごと=政治)では、冷遇などというものは、政治の公平性から、公に口にしない(または否定する)ものですが、こういう冷遇というものは数字に一目瞭然と表れるものなのです。輪島地域の寺社や有力百姓達は、前田家から密に温井方に通じていたものとみなされたらしく、以後の利家による寺社領の寄進や扶持百姓の登用などの恩典に、ほとんどあずかることがなかったことからもそれを証明しているといえましょう。
この後で、江戸期の輪島を述べますが、三津七湊にも数えられていた輪島が、江戸時代初期に、その湊の有様は無惨なほどわびしいものとなっています。私は、ここに加賀藩の冷遇の具体的影響を感じずにはいられません。
最近の新聞記事報道によると今後、石川県各地で中世以前の城跡や史跡が順次発掘調査されるようである。それを後押しするためにも、石川県の歴史家には、近世以降の歴史しか見るべきものが殆どない(つまり本当は石川県の都市の中でかなり歴史が浅い方に属する)金沢だけをやたら強調し、金沢の歴史で石川県の歴史の大半の記述を費やすという今までの叙述形式を改め、歴史を歪めず公平に見る意味でも能登の歴史にも注目してもらいたいものです。
最後にもう少しだけ温井氏に関わることがらを記しておきましょう。温井氏は、輪島湊の湾頭にあたる輪島崎の地に、臨済宗栗棘門派(りっきょくもんは)の末寺である聖光寺(しょうこうじ)(現在曹洞宗)を建立し、氏寺としました。栗棘庵は京都東福寺の塔頭で、室町時代の初期に、能登の温井氏(実名不詳・覚山空性(かくざんくうしょう))が再興した禅院であります。その後、同庵が能登守護畠山氏を檀越(だんおつ)に迎えたことから、室町・戦国期の能登における臨済宗の展開は、栗棘庵の門流によって図られました。その拠点は、鎌倉末期に開かれた古刹の鹿島郡熊来荘の定林寺であり、温井氏の氏寺である輪島崎聖光寺でありました。
戦国中期の聖光寺へは、京都から下向した栗棘門流の重鎮で前・東福寺住持を務めた彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)がたびたび訪れ(参考: 「畠山文芸」 )、温井一門のために、天文16年(1547)10月、温井孝宗17回忌の法会(ほうえ)にあたって香語(こうご)を認(したた)め、同年閏7月、逝去した温井総貞室(法名・桃溪宗仙(とうけいそうせん)、吉良氏出身)の霊前に追悼の禅詩を奉じています。また天文9年には、温井氏の有力被官である荻野宗忠(おぎのむねただ)に、亀年栄椿(きねんえいちん)の戒名と偈(げ)を与え、近くの風光明媚な常田寺に遊んで、漢詩文を一篇を草していた。当時常田寺には、恵蔵主(えぞうず)・恵慶(えけい)の禅傑がおり、尼僧としては桂秀尼(けいしゅうに)や崇丘比丘尼(すうきゅうびくに)らがいました。
なお平家末流で、室町期に在地土豪として成長していた時国氏は、上杉謙信による能登侵攻の時、畠山側について戦っていますが、戦国時代末期には、曽々木浦を利用した廻船業を始めており、江戸期にかけて活躍することになります。
6)江戸時代の輪島
江戸時代の輪島町(現、輪島市)は、鳳至郡の河原田川の西岸の鳳至町と東岸の河井町からなり、寛文10年(1670)には、町として格付けされたが、実際には、823石を村高を持ち、年貢を納める村でもありました。町は海運業が盛んで、寛文10年の頃には、雑税のうち、34.2%を占めていた。この他に鍛冶・そうめん業・紺屋・室屋(麹の製造・販売)・漆器業・漁業などがあげられる。初期の海運業については、詳細は不明だが、税の大小からいくと宮越町(現、金沢市金石町)・安宅村(現、小松市安宅町)・放生津(ほうしょうづ)村(現、富山県新湊町)・輪島の順になります。
幕末の安政4年に輪島湊に入った船隻は、600艘余であったといいますが、町が成立した寛文の頃の輪島の船主は少なく、鳳至町では350石積・270石積・150石積・50石積・25石積が各一艘、河井町では50石積が、一艘で、宮越町・本吉(現、石川県美川町)にくらべ、きわめて小規模でありました。これらの船は、能登産の材木・枚木・小羽板(こばいた)(屋根葺用の薄板)・木炭・魚類などを運ぶ近距離運送でありました。では、どうして、後の隆盛になったかというと、それは、輪島の特産品の推移と関係があるようです。
そういう訳で、まず、江戸時代の中期以降盛んになった素麺製造と、その衰退後、盛んになった輪島塗りについて、見ていきましょう。
<輪島素麺>
1)江戸時代、輪島素麺の繁盛
輪島町産のそうめんは、輪島そうめんと言われていました。輪島素麺は、かなり古くから作られていたらしいことがわかっています。戦国時代の初期頃には、都人は輪島をワジマとは読まずに、リントウと読んで、輪島素麺の事も「リントウソウメン」と読んでいた事がわかっています。よって素の事から、中央にも名を知られたブランドであった事もわかります。
元禄4年(1691)には、輪島町のみで原料の小麦1300石余りを消費したといい、幕末には、珠洲郡飯田村でも生産され、輪島町と合わせると能登産の小麦では足りず、越後より3000石を移入したといいます。文化7年(1810)には、鳳至町でそうめん生産にたずさわっていた家が75軒を数え、また同時期、能登の特産品集散商業都市として賑わっていた七尾で、素麺関係に携わる商人の家、48軒となっています。
このように盛んだった輪島素麺は、白髭素麺(しらがそうめん)といわれる部類の素麺で、美味しい上に見た目がきれいでもあったため、輪島素麺は、加賀藩の御用素麺となっていました。その後、素麺を生産する村や町が増えた影響で、鳳至町では天保14年(1843)に52軒に減りました。
2)輪島素麺と氷見うどん、大門(おおかど)素麺の関係
ところで、現在、石川県には、素麺業者や干麺業者は、皆無となってしまったが、お隣富山県では、氷見に手延べ製法による干うどん・氷見うどんがあり、また礪波市に大門(おおかど)素麺があります。私は、以前数年、富山に住んでいた事があるが、富山の隠れた名物だと思います。非常に腰があり、煮込みうどんなんかには最高です。
氷見に現在のようなうどんの製法が伝えられたのは、江戸時代は宝暦元年(1751)のことで、初代高岡屋弥三右衛門さんが、輪島から取り入れたと伝えられています。つまり、それは輪島素麺だったと考えられます。また、この氷見うどんがさらに礪波に伝えられて大門素麺(おおかどそうめん)となったということです。
3)輪島素麺の伝来考
では、この輪島素麺の製法は、どこからもたらされたかというと、これには諸説があります。代表的な2説を取り上げると、1つは、禅僧によって能登にもたらされたというものです。昔、現在の素麺にあたるものは、索麺と呼ばれていましたが、鎌倉時代、中国に渡った禅僧がその製法を各地に伝えたとするものです。
中世の禅僧は、幕末維新時の留学生と同じようなものであり、仏教だけでなく、さまざまな知識を日本に輸入してきました。また、そうした当時の最新の技能を民衆に示すことにより、信者獲得にも利用していったのです(かなり話が脱線してきたが、私はこの禅僧の役割が、西欧中世の修道院僧とも非常に似ており、将来できれば、比較歴史論的なものも書きたいと考えています)。
話は、本題に戻るがつまり、奥能登には、曹洞宗の福井の永平寺と同じくらい末寺を持つ 総持寺 が(現、門前町に)あり、そこにはもちろん、沢山の禅僧が詰め掛け、今日の筑波学園都市のような状態だった訳で、素麺はそこから広まったものの一つだと言うのです。
2つ目のの説は、奈良時代に、遣随使・遣唐使によって、もたらされたとするもので、後年、北前船で各地にその製法が伝えられたとするものです。今日では国内遠距離輸送というと、相当な量の荷物でない限り、トラック・鉄道を使うのが主流でありますが、近世以前の遠距離輸送は、船による輸送が普通でありました。人間の旅も同じです。そこで、江戸時代の日本各地の手延べうどん・素麺の産地をみてみると、うどんでは長崎県・五島列島の五島うどん、氷見うどん、秋田の稲庭うどん、讃岐うどん、素麺では、河内、備前岡山、長門長府、伊予松山、能登輪島、越前丸岡、雲集出雲、播州播磨、備州福山、筑前博多、備州三原、阿州小豆島、など、北前船の航路の湊近辺が多いのです(「山科家礼記」、「多聞院日記」、「和漢三才図会」他)。(※あくまで、北前船の寄港町近辺にある、といっているのであり、今述べた地域のうどんや素麺が、すべて北前船によって伝えられたと断定する訳ではありません。讃岐うどんなどは、空海が伝えたとい伝説もあります)
ここで、自分なりに再考してみる。中国から日本に最初に麺のようなものがもたらされたのは、やはり奈良時代の遣随使でありましょう。しかし、その製法というか形態を調べてみると、それは最初は唐菓子(からがし)の中の餅菓子の一つで食昆飩(こんとん)といわれ、法典「延喜式」にも紹介されています。要は餡入りの団子でありました。名前はその後、饂飩(温めた食昆飩ということらしい、温かい食べ物をあらわす饂が付く)と変わるのでありますが、実際は、今日のワンタン(雲呑)とほぼ同じで、平らに丸く延した小麦粉の皮に野菜や肉の餡を包んで丸めて水煮し、肉のスープに浮かして食べるというものでありました。だから、これが伝わったとするのは、あまり輪島素麺の場合、当てはまらないような気がします。
それに対して、鎌倉時代に禅僧によって中国から移入した新しい麺の製法は、碾き臼で挽かれた細かい小麦粉のみで作る索麺であり、麺のスジに植物油を塗って引き伸ばす方法まで、今日のそうめんと良く似ています。こう考えてくると、私の判定としては、やはり総持寺かどこかの奥能登の禅僧が庶民に広めた(か、あるいは庶民が好奇心から禅僧の料理を見よう見真似で覚えたか?)のではないかと思われます。
余談ですが、門前町の総持寺には、現在でも四九日(四と九の付く日は、僧侶が座禅を休む日)には、うどんを食べる習慣があり、この様子を見た周辺庶民が真似たのではという想像を、さらに強く抱かせます。
4)「麦屋節」
民謡「麦屋節(むぎやぶし)」と言えば、越中五箇山を思い出すが、鳳至郡門前町暮坂(七浦地区)にも、同様な唄が残っており、今日まで歌い継がれています。おそらく、輪島素麺の原料を作る“麦屋”が、この地にあって、歌われていたものと思われます。もともとは、輪島の素麺屋で、石臼で小麦を挽く時の唄として謡われ、それがここで働いていた奉公人が村々へ持ち帰りました。そして輪島周辺で麦屋ができると、やはり粉挽唄として謡われたものと思われます。
確実に素麺作りとともに麦屋節も周辺の村々に根付きます。能登では、素麺作りか盛んになると小麦が地元生産だけでは足らなくなり、越中から小麦を移入するようになりました。よって能登と越中を麦を持って往来した商人や、また輪島素麺の技法を習得した職人などによって、唄はさらに越中及び飛騨へも伝えられました。現在の定説では、能登麦屋節が、越中の礪波平野を遡り、城端に入り、さらに五箇山へ入って、越中麦屋節、さらに飛騨白川に入って、白川輪島、になったものと考えられています。
私は、今から6、7年前、某大手電気メーカーの営業マンとして富山にいた頃、五箇山の西赤尾(現、上平村西赤尾)のとある工事の電気設備を受注したので、何度も五箇山に通った事があります。その集落にかかっていた国道156号線の平橋には、柱にボタンが3つついており、そのボタンを押すと、地元の民謡が流れるしくみでありました。その民謡の1つが麦屋節(残りは「こきりこ節」と「越中おわら節?」)でありました。それだけにあの唄を聞くと懐かしいものがります。
「能登麦屋節」(門前町七浦地区) | ||
記録に残る「能登麦屋節」 | (現在の節まわし) 2つ揚げたのは書物によって、中身が違うのでどれが正しいのか分からないから! 誰か正調な麦屋節しってましたら、教えてください! | |
輪島み町の麦屋を(麦挽き)やめて いつか小伊勢の橋渡ろ 輪島名所と連れては来たが、 何が名所や麦挽きや 麦は小麦2年で孕む 米はお禄で年ばらみ 能登の志津良(七浦)で竹切る音は 三里聞こえて五里響く | 能登の七浦で 竹切る イナ (チョイト) 音はヤーイナ 三里きこえて イナ (チョイト) 五里サヤー イナ ひびくやー アラチョイト 五里ひびくやーイナ 三里きこえて イナ (チョイト) 五里サヤー イナ ひびくやー 麦や小麦はイナ 二年で イナ (チョイト) 孕むヤーイナ 米屋お六は イナ (チョイト) 年サヤー イナ ばらみやー アラチョイト 年ばらみやーイナ 米屋お六は イナ (チョイト) 年サヤー イナ | 1.麦屋小麦はイナ 2年でイナ 腹はらむイナ 米はおろくでイナ 年さやイナ ばらみや 2.能登の七浦でイナ 竹切るイナ 音サヤイナ 三里聞こえてイナ 五里サヤイナ 響くや 3.竹の丸木橋や すべってころんで あぶないけれど 君となら 渡るヤイナ 落ちて死ぬともイナ もろいサヤイナ ともにヤ アラチョイト もろともにヤイナ 落ちて死ぬともイナ もろいサヤイナ |
「麦屋節」(富山県五箇山) | |
記録に残る麦屋節 | (現在の節まわし) |
麦や菜種は2年で刈るが 麻が刈られうか半土用に 浪の屋島をとく逃れて 薪樵るちょう深山辺に (※)五箇山は平家の落人の集落といわれている。 | ※(ジャーントコイ、ジャーントコイ) 麦や菜種はアイナー 2年でエイナー 刈るにゃーアイナー 麻が刈らりょか アイナー 半土用にイナー (ジャーントコイ、ジャーントコイ) 心淋しや 落ちてゆく 道は、河の鳴る瀬と 鹿の声(※と同じ囃子唄) 河の鳴る瀬に 絹機(きぬはた)たてて、波に織らせて岩に着しょ(※と同じ囃子唄) 烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)脱ぎ打ち棄てて、今は越路の 杣(そま)刀(※と同じ囃子唄) |
「白川輪島」(岐阜県白川村) | |
輪島出てから今年で4年 もとの輪島に帰りたい 山と床とりや木の根が枕 落ちる木の葉が夜具となる |
<輪島塗>
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<時国家>
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<明治以降の輪島市概略史>
明治4年7月、廃藩置県になると、加賀藩は、金沢県となった。そして同11年、能登全域は七尾県となった。さらに翌年9月に七尾県が廃止され、石川県に所属すると、以後石川県自体は、何度かその範囲を変えたが、ずっと石川県として所属し、現在に至っています。
明治4年、一時、輪島町に市長を置いた時期もあったが、翌明治5年2月になると、また市長は廃止されました。
明治9年の区方条例の発布で、石川県大六大区に編入されました。大区には、区長と副区長がおり、小区には戸長がそれぞれおりました。明治11年には大区・小区の制度を改め、区長のかわりに郡長となりました。そして郡に含まれる町村には、戸長が置かれました。その後も区政改廃はたびたび行われ、明治17年1月鳳至郡役所の設置にともない、これが所管に属しました。
明治22年(1889)最後の地方制度の仕上げとして、町村制が施工され、江戸時代から続いてきた村々が大きな村に纏められ、輪島町・鵠巣村・南志見村・河原田村・三井村・大屋村・鳳至谷村・西保村・岩倉村・西町村・町野村の1町10村ができ、町村役場が設置された。
明治41年には、鳳至谷村と大屋村が合併され、新たに大屋村ができ、岩倉村、町野村、西町村が合併して、町野村ができた。町野村は、昭和15年12月には、町制をしき、町野町となります。
そして戦後、町村合併促進法ができると、昭和29年3月31日、その法律に基づき隣接する輪島町・鵠巣村・南志見村・大屋村・河原田村・西保村・三井村の1町6ヶ村が合併して市制を施行した。さらに、昭和31年9月30日には、町野町を合併し現在に至っています。
<輪島関係その他・リンク>
(輪島関係のその他の頁)
岩倉山の歴史
北陸における義経伝説
舳倉島
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