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輪 島 塗
1)輪島塗の起源
 輪島塗の起源については、色々定説があります。鎌倉後期から室町初期、およそ600年くらい前に成立したとする説、戦国時代に成立したという説、中には、縄文時代前期(約5000年前)からあり、現在に至るまで脈々とその伝統を受け継いできたとする大胆なものまであります。ここでは、先史時代の物を輪島塗の起源とするのは、余りにも突飛であり、出土品にそのルーツを求めるのはあまり歴史的に意味がないと思われるので、省きます。では、いくつかその説の内容をご紹介しましょう。
 鎌倉中期から、室町初期とする説は、現存するもの(多分現地の輪島塗の先人となる人物が手がけたのもの)の年代推定から、その頃だろうとするものです。輪島市内にある重蔵神社本殿の内陣の扉(応永4年:1397制作と推定)には、朱塗りの形跡が見られ、それらの証拠から室町初期とするものです。

 
室町時代中期(1400)頃とする説は、紀州の根来寺(ねごろじ)の寺僧が輪島・重蓮寺(じゅうれんじ)(当時は重蔵神社と習合していた)に来て、同寺の家具類を製造し、漆工技術を伝来したというものです。また福蔵(ふくぞう)という土地の人が根来に行き、技術を伝習して返ってきたという説等もあります。先ほど触れた重蔵神社には、その境内にある文明8年(1476)建立の権現講堂の棟札に、塗師・三郎次郎定吉と記名されていました。つまり、すでに分業化した塗師が存在していたという証拠です輪島は、序章に述べたように、中世には三津七湊に数えられるように湊町として賑わっていたようなので、港湾都市として、周辺の木地師たちを吸収し、しだいに分業的生産方法を確立し、海を利用してその販売経路を広げていったと思われます)。

 
その他、市内東山の養覚寺に所蔵されていた黒塗八隅膳と椀一組は、稚拙な製法技術からみて鎌倉後期から室町時代のものと推定されています。また、近郷の柳田村字合鹿、当目、北河内にも、その当時から漆器作りがなされていたと伝えられています。よってこれらの事から、少なくとも、輪島塗の稚拙的なものは、この頃できあがっていたのではないかと
推定されます。15世紀の中頃に出来上がっていた輪島塗の基本的技法というのは、大屋荘の中世の遺跡から出土した漆器でわかっております。

 
また一方、輪島塗の起源を戦国時代とする説ですが(この説は上の説明から、もう起源説としては不適当と思われるが)、天正13年(1585)、根来寺が豊臣秀吉の兵火に遭い、四散した僧によって遠くの会津、輪島などに特技を伝えたという地元の伝承もあります。
伝承関係の説は、いずれにしても日用漆器で最も古いとされている根来塗にその由来を求める共通点が多く、史料的には根来伝来の裏付けは何もないのですが、この根来技法が輪島古来の漆技に加味されて、今に至ったと考えられています。これらの事を生活面から説明すれば、奥能登は、王朝貴族や大名などが、居住したことがないので、輪島塗が最初作られた鎌倉後期から室町初期の頃は、殆どは祭礼などの行事用の神具でしたが、その後、庶民の生活用具として用いられるようになると、素朴ではありますが、丈夫で頑丈な漆器が要求され、品質改良工夫が重ねられてきたようです。つまり、その改良の見本として、根来の技法が、取り入れたれた事があるのではないでしょうか。

 輪島塗が、もし根来漆器の技法に関係あるとすると、
私が考える可能性としての案だが、畠山氏が能登を領国とした事と関係があるのではなかろうか、と想像します。戦国史の好きな人なら、紀伊(和歌山)の根来といえば昔、雑賀孫市(さいかまごいち)に代表される鉄砲武装集団根来衆の出た所と頭に浮かぶことでしょう。しかし、根来衆は、もともとは、根来寺の僧兵を中心とする軍事集団であり、南北朝時代以降活躍していました。今で言う傭兵部隊であります(ただし団体で行動する傭兵部隊)。そしてその根来寺は高野山の僧が移ってきて開基した寺であり、そこで日用品として作りはじめたのが根来塗なのです。畠山宗家の畠山基国は、南北朝末期の明徳2年(1391)に能登を分国に加えました(能登畠山家が成立するのは応永15年(1408)である)。畠山家は、室町幕府の有力家臣であり、能登だけでなく、紀伊など他に数ヶ国を分国として持っていました。

 この頃、まだ守護畠山氏自身は能登に来ていませんが、守護代(畠山基国の時の守護代は神保氏、庶流家能登畠山家ができた時の守護代は遊佐家)が領国経営のため能登に入っています。守護でなくても、地頭などでも、領地を与えられるとその地へよく、技術集団を連れていったものであり、能登が畠山家の分国となった時、同じ畠山家の分国である紀州から、何かの理由で一緒に能登へ入ってきた事は十分考えられることであります。
(参考: 「畠山家の出自〜能登畠山氏の成立」 の中の“足利畠山氏”や“能登畠山氏の成立”をみると良い)では、七尾でなく、輪島に伝わったのは、1つには輪島が漆の産地であったということと、1つには、根来の塗師が、若狭からそのまま輪島まで、船できた可能性などがあるのでは、ないかと思われます。

2)輪島そうめんから輪島塗への移行
 中世において輪島の主要産業は輪島素麺でありましたが、近世中ごろ以降、輪島そうめんが衰退していくに連れて、次第に、輪島の中心産業は輪島塗へと移行していったようです。
 天明7年(1787)には、河井町で50人、鳳至町で12人が漆器生産にあたっていたのが、文化2年には(1805)には、隣接の輪島崎村(現、輪島市)を合わせ98人が従事、文化7年(1810)には、塗師屋11軒・塗師職人35人従事と記録にあります。翌文化8年には、年間銀500〜600貫目の生産額をあげ、半分は領外へ移出されていました。天保14年(1843)になると、木地職人の中に輪島そうめん作りに携わっていた人々からの転向者が増加しました。その販売方式は、越中の売薬の行商方式が採られました。行商人は7〜8月頃、諸国の顧客を訪ね、昨年末の注文品を受け取ると同時に、翌年の注文を取りました。こうして、輪島は町をあげて漆器の生産に係っていました。


3)堅牢かつ華麗な輪島塗への発展

 輪島塗は、多々ある漆塗伝統工芸の中でも、最も華麗で堅牢であると言われています。その理由は、現在受け継がれている工程を見ればわかります。木地作りだけで、約2年をかけ、漆を塗る回数は75回から100回といいます。そして全工程は、124工程(製品により少し工程数が異なる)もあるそうで、その全ての工程が手作りなのです。普通、漆器は、木地に漆を塗り、加飾することで完成します。木地の製作は、木地職人によるが、この木地職人は、木地挽(きじひき)職人木地拵(きじこしらえ)職人に分けられる。木地挽職人は、アテの木や欅(けやき)の木を椀の形に挽き、木地拵職人は、曲物(まげもの)や指物(さしもの)を作った。輪島では、布を貼った木地に、輪島独特の“地の子(下記参照)”という土を漆に混ぜて木地に塗り、下塗り・中塗り・上塗りの順に塗りを重ねました。上塗りには、蒔絵や沈金といった加飾を施すと、輪島塗りの完成となります。

 現在の様な輪島塗に近いものが出来上がったのは、珠洲市飯田町の乗光寺に所蔵されていた四ッ椀揃い八隅膳の調査から、桃山後期から江戸時代初期と推測されています。そして寛文年間(1661〜1673)には、輪島塗の特徴である堅牢な下地が施されるようになってきました。それは、木地の上に、その頃輪島で発見された珪藻土の一種を焼成し粉末にしたもの(地の子)を漆に混入し、それを塗るというものです。これが本堅地(ほんかたじ)の技法で、微細な穴を持つ珪藻殻の粒子に漆の液がよく染込み、科学的にも安定した吸収増量材となることが確認されています。この本堅地は布着せとともに今日の輪島塗の基本的工法となっています。

 ところで、輪島塗に文様などの加飾を施すようになったのは、江戸中期以降であり、それまでは、朱漆で絵付けされたものであり、ほとんど無地でありました。享保年間には、城(たち)五郎兵衛という人によって輪島塗独特の華麗な沈金技法が考案され、その子・城専助(号は雅水)が京都に絵画を学んでそれを大成させました(城専助の代表作と伝えられる「沈金丸盆」は輪島漆器組合に保存され、今日の輪島沈金の基礎を作った作品として、輪島市の文化財に指定されています)。沈金は下地の厚い堅牢な輪島塗に、比較的安価に加飾することができる方法でありましたので、庶民向けの実用漆器に適合した加飾技法として大きく発展しました。

 蒔絵が輪島塗に取り入れられたのは、文政年間(1804〜1829)の頃、会津から着た安吉夫婦によって会津蒔絵が伝えられたのがはじめです。蒔絵は、沈金に比べ豪華な加飾技法なので、全国の各藩にそれぞれのお抱え御用蒔絵師が沢山居ましたが、明治維新の廃藩で、それらの人々が職を失いました。そんな中の他人から多くの人が、輪島へ移り住んできました。特に、京都、加賀、尾張などといったところからが多かったようです。飯田善七という人がその中でも代表的な人で、後にしょの門下から数多くの名工が育って、今日の輪島蒔絵師の祖となっています。そして輪島塗の蒔絵技術は次第に改善され普及し華麗さを加えたのでした。この頃には、沈金の方も段々と緻密さを加えていましたから、蒔絵の技術も加わって、輪島は全国でも有数の高級実用漆器の特産地となっていったのです。

 ところで輪島塗が全国に普及した理由ですが、その非常に巧妙な販売方法にも一因がありました。江戸中期以降、特に文化文政の頃(1804〜1829)、このような華麗な輪島塗は、椀講(わんこう)と呼ばれる
頼母子講(たのもしこう)の普及によって全国的に知られるようになったのでした。江戸中期以降、品種も多様化し、又、現代にも劣らぬ極めて優れた技術を示す職人も現れ、格調の高い名品が作られています。
 また天明年間(1781〜1788)には、笠屋佐次右衛門ら10名が発起人となり「大黒講」を組織し、輪島塗の標準工法を定め価格の抑制を図り、販路の拡大に努めることを申し合わせた。
頼母子講:互助的な金融組合。組合員が一定の掛金をなし、一定の期日に抽選または入札によって、所定の金額を順次に組合員に融通する組織で、鎌倉時代から色々と行われてきた。)

 近代になると、本格的な蒔絵の技法導入及び改善が行われ、さらに華麗さを増し、塗り・加飾とも他地域の漆芸品を凌駕する日本を代表する伝統工芸となりました。英語では、ジャパンというと、日本という意味もありますが、漆器という意味もあります。江戸時代中期以降、輪島塗りは、長崎などを通じて海外にももたらされますが、海外にない漆器という華麗な日用品を見た西欧人が、感嘆のあまり「おお、これこそ日本だ」としてジャパンをその普通名称としたのも肯ける気がします。

 明治18年(1885)には、輪島漆器営業者同盟が結成されて地の粉の管理、漆の木の植栽、職人の技術向上などに様々な努力が続けられました。その結果、明治45年(1910)の同業組合加入の漆器業者が255軒を数える一大漆器の町が出来上がっていました。またこの頃には、橋本雪洲黒川碩舟舟掛宗三郎舟掛貞ニなどの沈金の名工が生まれ、昭和初期の漆芸作家へとバトンタッチされていきます。

 現代の輪島塗の漆芸作家としては、沈金では故・大峰(まえたいほう・本名:前得ニ)氏、蒔絵では故・竹園自耕(たけぞのじこう・本名:耕太郎)をはじめ、多数輩出しております。
 前大峰氏は、明治38年に(1905)に橋本佐助に入門し、藤井観文の弟弟子として、昭和4年の第10回帝展(帝展に工芸部門が新設されたのはこの2年前の昭和2年)に初入選し、以来連続19回の入選に輝きました。昭和30年には重要無形文化財技術保持者(通称:人間国宝)に認定されました。
 竹園自耕氏は、鈴木繁太郎に師事して蒔絵を修行しました。前大峰とともに早くから帝展に出品して、昭和4年に初入選してから、十数回の入選に輝き、中でも「花鳥文飾筥(かちょうもんかざりばこ)」は第13回帝国美術院特選受賞作品で、平成4年に輪島市の文化財に指定されています。

 日展や伝統工芸展など、中央の展示会に常連のように入選する作家は100名以上も居り、九谷焼、加賀友禅、山中漆器などとともに美術工芸王国石川の一角を担っております。そして、輪島塗は全国の漆芸産業の中で唯一、重要無形文化財の指定を受けており、専門の学校なども設立して、漆技術の継承・発展に日夜努力しています。

 元来、漆は朱色と黒色のものしかありませんでしたが、近年、黄色や緑色といった新しい色も出せるようになり、多彩になりました。また、その漆芸品の種類も、椀、皿、箸、重箱、盆、茶箪笥といった伝統的な品物だけでなく、さまざまな家具や、電話器、携帯電話、ゴルフクラブ、天井パネル、アクセサリーなどと色々試作が試みられており、時代に対応する努力も怠っておりません。
皆さんは、輪島塗と言うと、このような手の込んだ作品が多いため高価なイメージが強く、特別な機会でない限りあまり手にしないかも知れません。しかし、地元石川では、
私の家でもそうですが、普段の生活にごく普通に箸や汁椀として使っています(九谷焼なども同様です)。使ってみると、非常に使い心地あよく、長持ちするので、かえって経済的である気がします。考えてみれば、輪島塗は、元来、日用品の一部として長い間作られていたのであり、日本人の生活習慣に合うような工夫が長年にわたってその技法に織り込まれてきたから、至極当然の事と私には思えます。

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