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畠山家の出自

 

(2006年1月28日加筆修正更新)

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桓武平氏畠山氏
足利畠山氏
(畠山家の出自・桓武平氏系畠山氏)
 もともと畠山家は、桓武八平氏の流れをくむ村岡良文の末裔であります。平安中期に、都での猟官運動に見切りをつけて帰国した平将門が、大叔父・平国香(たいらのくにか)・平良兼(たいらのよしかね)・平良正(たいらのよしまさ)をはじめとする親族に、父の遺領を掠め取られたのを怒り、爆発し承平5年(935)戦いを起こし、しまいには新皇と称して朝廷の権威に挑戦するような天慶の乱(天慶2年11月21日:940)を起こし、3ヶ月後、藤原秀郷(俵藤太)に滅ぼされることとなりますが、この時、将門に味方したのが、平良文こと、村岡良文でした。彼は将門の叔父(将門の父良持の1つ下の弟)にあたる家柄の者で武蔵国大里郡村岡(埼玉県熊谷市)を本拠地としており、その地名から村岡良文とも呼ばれておりました。よって、高望王を通じて桓武天皇に繋がる純然たる桓武平氏であります。

 村岡良文は将門と共闘し上野国で戦いましたが、彼らの前に敢然と立ちはだかったのは、やはり将門の伯父で良文の長兄にあたる平国香(平清盛の七代前の先祖)でした。村岡良文は、平将門に従い連戦連勝の立役者の一人となるが、国香との上野国府近くの染谷川の戦いで、苦戦し、自害を覚悟した時に見た奇跡から救われ、「北斗七星」を家紋にするようになりました。(村岡良文の子孫の一つ千葉家が北斗七星を崇めた理由はここにあります。)

 時は移り、村岡良文の子、陸奥介
村岡忠頼は、陸奥の任地より戻り武蔵国村岡の領地に定住しました。村岡忠頼は、父親から譲られた武蔵、上総、下総、常陸に広がるの広大な領地の開拓につとめました。当時、関東平野は平将門の乱を鎮定した平国香系の平氏と藤原秀郷系の藤原氏が強大な勢力を誇っており、過去に対立関係にあった村岡氏とは各地で衝突しておりましたが、再度の大乱を恐れた朝廷は、どちらにも荷担せず調停に努め、表面的には関東は平穏な日々が続きました。

 やがて月日は流れ、代は村岡忠頼から、その子らに移ろうとしていました。長子
村岡将恒は村岡の地(埼玉県熊谷市)を守り、やがてこの子孫からは畠山氏が生まれました。、桓武平氏秩父氏に属し、将恒から4代後の秩父重弘の子重能が武蔵畠山庄司であったことから、畠山氏を名乗るようになりました。忠頼の子、将恒の弟・忠常は千葉氏の祖となる)。将恒の6代後の子孫(重能の子)が、源平の合戦で名をなした畠山重忠である。畠山庄司四郎と称しました。

 畠山重忠は長寛2年(1164)、平氏全盛時代に武蔵の国男衾郡の畠山の館(現在の埼玉県川本町大字畠山)の生まれで、坂東武者の鑑と賞された男です。父は畠山重能、母は三浦義明の娘。武辺者ながら、管楽にも長じていました。

 父重能が平氏に仕えたのに対し、
重忠は
源頼朝が治承4年(1180)に鎌倉で旗揚げした折り、頼朝に従うことを決意しました。しかし、父重能が在京中(つまり平家の手中)だったため平家側にくみしました。彼は、石橋山の合戦に参戦しようと出陣しましたが、頼朝は大庭景親にあっさり破れたため、房総半島に渡って逃れました。(8月24日)重忠は、本拠地に引き返す途中三浦一族(三浦一族は平家一門でしたが、この時源氏に与し、源氏の主力ともいえる勢力でした)の三浦義澄(母方の伯父)・和田義盛(従兄弟)の軍と遭遇して平家に反意なしを証明するため、鎌倉由比ヶ浜で激戦を交えました。

 この合戦では勝敗がつかず、重忠はいったん退き、(8月26日)あらためて河越太郎重頼、江戸重長らとともに三浦一族を相模国衣笠城に攻めてこれを陥れ、重忠の祖父にあたる三浦義明を攻めて自害に追い込んでしまいます(重忠に攻め殺された三浦義明は、子の義澄らを城中から逃がすと、「子孫の栄華のためにこの老命を捧げる」といって死んだといいます。勝者、敗者のどちらにもドラマはあるようです )。

 その後、源頼朝が房総を平定して安房から武蔵に入って来た際、重忠は長井の渡し(現東京台東区)で白旗(源氏の旗)を揚げて頼朝に参会しました。頼朝は重忠に「白旗は源氏が指す旗であるのに平氏のおまえが指しているのは何故か」と咎めました。重忠は「この白旗は四代の祖、武綱が源義家殿に従って奥州征伐に参加し、その武勲により恩賞として戴いたもので、いつもこの旗を揚げて先陣を勤めて参りました。」と答えて頼朝を感心させ、「代々の恒例通り、汝、先陣を勤むべし。」と命じられ、その配下に加わりました。

 その後木曽義仲の追討軍に参加し、続いて 源範頼 指揮下の平氏追討軍にも参加しましたが、
忠勤に励む重忠を頼朝は上辺だけと見て信用せず、何かにつけて疑いました。ついに重忠謀反の噂まで立ってしまい、梶原景時に裏切らぬという誓文をよこせ、と言われていますが、「私に反意のないことは明白。誓文など書く必要はない!」と言って断ったために、かえって頼朝の信任を得ています。頼朝上洛の際には最上の栄誉である先陣を務めました。頼朝側について以降の戦いぶりは見事で、宇治川の戦い、一ノ谷の合戦、屋島の戦い、檀の浦の戦い、奥州藤原氏の討伐と様々な戦いの中で青年武将重忠は数多くの功績を上げ、エピソードも多い(ただし、軍監の梶原景時との折り合いが悪く、途中から源義経のもとへ行きその下についた)。

 特に一の谷の合戦で鵯越(ひよどりごえ)という人馬も通わぬ難所を「このような難所で馬を転落させ てはかわいそうだ親子は互に助け合うというか ら今日は愛馬三日月の日頃の働きを労ってやろう」といって自ら三日月を鎧の上から背負い、椎の木を杖にして降りたという話は特に有名です。また、怪力の持ち主でもあり、義仲との宇治川の合戦では、矢の飛び交うさなか、馬を流されて身動きがとれなくなっていた配下の大串重親を背負って(一説には、対岸まで大串を投げて)、渡河したと言われています。

 その後小衾群菅屋に館を構えました。これが菅谷館跡で、国指定遺跡となっています。重忠の二度目の結婚の相手は北条時政の娘であり、頼朝臨終の際には、嫡男頼家を託されるほどに信頼されていました。よって当時、畠山家の将来は盤石と思われていました。
 しかし、重忠の子重保が、1204年将軍実朝の御台所坊門信清女を迎えるため上洛した際、時の執権北条時政とその後妻牧の方の娘婿で京都守護の平賀親雅と酒宴の席で口論になった時から、その運は傾き始めます。その事件をきっかけに北条時政は畠山討伐計画を画策しました。  

 頼朝の死後、権力の座を狙っていた北条時政は、将軍家に忠誠を誓う重忠を疎ましく思っていましたが、ついに元久2年(1205)謀反人として重忠討伐を北条義時に命じました。義時は反対しましたが、命令に従わざるを得ず、承知したということです。時政は重忠に「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と伝えます。この知らせを受けた重忠は、まず6月19日に嫡子重保を鎌倉に出発させました。重保は22日早朝、時政の謀略によって由比ヶ浜に誘い出されて、三浦義村郎党により殺されてしまいます。

 一方重忠は、次男重秀と郎党134騎を率いて居城である菅谷館を出発し、鎌倉街道の中の道を鎌倉へ向かいました。二俣川にさしかかった時、長男が殺され、牧ヶ原(現在の万騎ヶ原)に北条氏の大軍が待ちかまえているとの報に接します。家臣達はいったん菅谷館にかえったて軍勢を整えるよう進言しましたが、「家を忘れ、肉親を忘れるのが武将の本意である。嫡子重保を討たれたからにはもう家門のことは考えなくとも良い。一時の命を惜しむようなことはないし、かねてより陰謀があったように思われたくもないので、いさぎよく追手を迎え撃つ」と諭し、鶴ヶ峰の麓、川を前にして布陣しました。追討軍は数万騎、正午頃には二俣川をはさんで相対しました。

 激闘4時間、押し寄せる北条軍を相手に重忠軍は熱戦を繰り広げましたが、多勢に無勢、ついに弓の名手愛甲三郎の放った矢に当たり、42歳の生涯をこの地で呆
気ない閉じました。これを知った重秀も自決し、郎党もことごとく戦死した。戦闘の範囲は二俣川を中心に約15平方キロにも及んだと言われています。これにより北条氏は武蔵の国を掌握し、執権として幕府を独占したといいます。ところで、重保と口喧嘩した朝臣・平賀親雅は、これもまた後に、北条氏によって暗殺されることになります。


(足利・畠山氏)
 元久2年(1205)畠山重忠が滅ぼされた後、足利義兼の子・義純(よしずみ)が重忠の後家(北条政子・北条義時の妹、重保の母)と再婚し、その名跡をついで畠山義純となり、(足利一門)源氏姓畠山氏が生まれ室町期にいたります。義純は、清和源氏足利義兼の長男として生まれたが、遊女を母として出生したので、足利氏の家督を継げない状態にありました。しかし、元久2年(1205)上記の様な経緯で畠山家の名跡を継ぐことになります(義兼は、尊氏の六代前、頼朝の亡くなる数年前に家督を継いでいるが、彼の父義康の代から足利氏が始まっています。つまり、足利家ができて3代目のかなり創設期に近い分家である)。官位は従五位下遠江守と伝えるので、北条一族に準じた優遇を受けたと思われる。義純死後は、三男の畠山泰国が家督を継ぎ、北条泰国より偏諱を受け、有力御家人として将軍家に勤仕(ごんじ)しました。泰国の母は北条時政の女であったため優遇され、北条庶流と同等に扱われています。泰国の子のうち、長子の畠山国氏が本宗を継ぎ、二男の義生は、美濃仲北庄の地頭となって本貫を美濃に移し、有力な庶流家の祖となりました。

 国氏以降は、系図類に誤脱があり、正確にはたどれません。
室町幕府が開設されると足利一門の畠山氏は、国氏の子
畠山高国畠山国清を中心に将軍足利尊氏に従って各地で奮戦しました。南北朝初期には、上記のように、国氏の孫または曾孫と推定される畠山高国が家督として登場し、中先代討伐の尊氏に追従し、建武3年(1336)尊氏京都占拠後は、南軍駆逐に功があり、室町幕府成立後は伊勢守護に補任されています。

 この後、康永4年(1345)、高国の子
畠山国氏(2代前の国氏とは別人なので勘違いせぬように)は奥州管領に補任され、多賀城に父子共々下向するが、足利兄弟間の争い(観応の騒乱)に際し、奥州管領・吉良貞家(足利直義派)は岩切城(仙台市岩切)に留守氏・宮城氏らとともに立て篭もる高国・国氏父子(尊氏派)は攻めて自害させました(観応2年(1351)2月12日)。国氏の遺子畠山国詮は一時奥州探題となりましたが、往年の威勢はなく、その子孫は二本松城主として戦国に残りました。

 一方、美濃畠山氏義生の曾孫直顕は尊氏九州下向の時は日向・大隅大将として南九州の軍事を任され、のち日向守護となっています。
しかし、南北朝初期に一族中最も活動著しかったのは、国氏の孫の家国の子・
畠山国清であります。建武2年(1335)11月、足利尊氏追討のため下向した新田義貞の軍を迎撃する為足利直義に従軍して戦功をあげ、翌年正月以降、尊氏の武将として、京都を転戦、九州下向にも追従し、湊川合戦に先立って和泉の国大将として畿内方面に発遣され、続いて和泉・紀伊守護に任ぜられています。観応騒乱の初期には、高師直に属して一時河内守護・引付頭人をも兼ねるが、観応2年(1351)、足利尊氏の弟・直義(尊氏と対立した)の北国落ちに随行したため一切の公職を追われています。

 しかし、変わり身のはやさで程なく尊氏の帰参し、同年末には直義討伐に東下して直義を死に追い込み、しばらく関東にあって伊豆守護・関東執事・武蔵守護などを歴任しました。延文2年(1359)、畿内南軍討伐を命じられた国清は大軍を率いて西上、旧分国の河内・紀伊を還補されたが、このような東西分国維持には無理があり、関東へ引き揚げを余儀なくされた上に、旧直義党の反目や将軍義詮の弟・鎌倉公方・足利基氏の勘気を蒙って、康安元年(1361)失脚し、鎌倉から伊豆・修善寺に居を移して(奔って)城を建て、弟
畠山義深らと抵抗を試みたが、基氏に攻められ、翌年落城、戦死しております。

 畠山家の再興は、国清の弟・畠山義深の手に委ねられました。義深は貞治5年(1366)の政変では幕府に許され、1366年、管領斯波義将の失脚を受け、越前守護に補任されました。康暦元年(1379)、若年の将軍足利義満を擁して室町幕府を運営してい管領・細川頼之が追放され、斯波義将が管領となった康暦の政変によって、各地での幕府による守護な配置も一転しました。管領斯波義将の圧力で、(康暦2年(1380))
義深の子・畠山基国(もとくに)は管領斯波義将の提案により、越前と越中を不本意ながら交換し、越中守となりました(この時においては左遷であった)。引付頭人・侍所頭人など幕府の要職を歴任し、永徳2年(1382年)には河内を、南北朝末期には能登と佐渡を分国に加え、明徳の乱の軍功によって山城守護をも兼務しました(一時期、尾張守護も兼帯していた)。さらに将軍義満の信任を得た基国は、応永(1389)異例の管領に抜擢され、翌年の応永の乱では大内氏討伐の殊功があり、紀伊を分国に与えられています。南北朝末期には4ヶ国の守護となり、河内・越中・能登・紀伊の4ヶ国分国体制が確立しました。畠山氏の全盛期を築いた基国も応永12年(1405)管領を退くと、翌年1月17日に55歳で死去しました。

宗家畠山のその後の経緯は、 能登畠山氏も一時巻き込まれた畠山宗家の跡目争いや応仁の乱の中心でもあるので、知りたい方は、ここをクリックしてください!
(参考図書)
「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)、「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「(図説」)七尾の歴史と文化」
「コンサイス世界史年表」(三省堂)、「広辞苑」(岩波書店)、「太平記の群像」(森茂暁・角川選書)、
「戦国大名370家出自事典」(別冊歴史読本:新人物往来社)、「國史大辞典」(吉川弘文社)
「戦国大名系譜人名事典 西国編」(山本大、小和田哲男編:新人物往来社)
「能登の古城 七尾城」(笠師昇、北國新聞社)
「将門記」(大岡昇平:中公文庫)、「平の将門」(吉川英治:講談社)、「平将門」(童門冬二:学陽書房人物文庫)
「石川県の歴史」(山川出版社)、「図説石川県の歴史」(河出書房新社)、「石川県大百科事典」(北國新聞社)
「石川県の地名−日本の歴史地名体系17」(平凡社)他

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