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時 国 家
〜平大納言時忠の流れをひく能登一の名家〜
 輪島の市街地から、約19km、特徴的な岩肌を見せる岩倉山の山麓にいかに周囲の風景融け込んだ茅葺きの2つの旧家・上時国家と下時国家が建っています。(輪島市町野町・字南時国)
 町野平野を見下ろす高台に建っているのが上時国家です。入母屋造の茅葺の大屋根は、棟が高く軒が深くなっています。一段下には桟瓦葺の庇が四方に廻り、正面には唐破風造りの玄関を設けています。北陸地方でも最大級の規模を有する江戸末期の民家建築です。

 またそれより少し町野川下流側にある見るからに歴史を感じさせる古い佇まいの家が下時国家です。入母屋造茅葺の屋根、書院造の座敷。そして40坪の土間。柱には大黒柱に欅(けやき)材、書院の座敷に杉材、それ以外は地元のアテ材を使っています。こちらは江戸中期に建てられた大規模民家建築です。

 これらの2つの旧家は、源平・壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門のうち、「平家にあらずんば人にあらず」と奢った言葉を述べた事で知られる武将・平大納言時忠の末裔と呼ばれる両時国家の2つの家であります。約800年の歴史を受け継ぎ、上時国家は、24代、下時国家は、23代を数える(1999年12月現在)といいます。

 平時忠は、平安時代後期の大治2年(1127)に平時信の子として京都に生まれました。姉の時子は、平清盛の妻となりました。また、妹の滋子は後白河天皇の后となり、建春門院と称し後の高倉天皇を生むことになります。高倉天皇は、時子と平清盛の間にできた徳子を中宮とし、安徳天皇を産みましだ。徳子は、それにより国母となり建礼門院と称しました。こういう訳で平時忠は、平清盛の小舅として権並ぶ者なき勢威を示すようになりました。そして官位も、中宮大夫、検非違使別当、左大弁などを歴任し、権大納言正二位まで昇進しました。

 平時忠は、平清盛亡き後、平清盛の妻の弟だったことから、平家一族の纏め役として実質上の頭領でありました。しかし、壇ノ浦の戦いで平家一族が敗れ海の藻屑と消え去った際、時忠は生きて捕らえられました。時忠は、三種神器の神鏡を義経に奉じ、また、娘(蕨姫)を義経に献じて身の安全を図りました。それで、助命されることになりました。ただ時忠の娘婿となった情報が鎌倉に届くと、源頼朝は今後一切義経の命令に従うなという密命を畿内及び西国の御家人達に書き送っています。

 平時忠が流罪になったのは文治元年(1185)9月23日で、配流地は奥能登の現在の珠洲市大谷の地でありました。時忠は、小舟に乗って、須々(珠洲)の浦の船着き場(現在の江の澗)へ到着しました。その約40日後に、頼朝は、義経追討の院宣を得るのであり、翌年の6月に五畿七道へ義経の追討令を出すことになります。平時忠は、波乱に富んだ生涯をこの配所大谷の地で閉じました。没年は、文治5年2月(1189)と元久元年(1204)4月の2説の言い伝えがあります。 義経の能登における伝説 では、文治3年頃、妻(蕨姫)の縁を頼って、この大谷の地に妻を含む一行と訪れたことになっていますが、義経と時忠が会い、また蕨姫と時忠も最後の親子の対面をしたのかもしれない。真偽の程は、私はまだまだ不勉強なのでわかりません。

 時忠のあとを継いだ時忠の子・時国は、平家の子孫ということもあり、牛尾という山の中にしばらく身を潜めていましたが、頼朝は義経追捕に躍起で時忠の子孫などに感心がないようなので、町野の地に移り、館を構えたといわれます。町野川下流地域に勢力を伸長し、代々の当主の努力によって土豪となり、近隣の村々を統治しました。また、鎌倉幕府の世にあって、平の姓を名乗り続けることに支障を感じたので、そののち、実名の時国を姓とするようになりました。

 上と下に分立する以前の時国家は、今の時国家より少し上がった町野川の河原にありました。その頃の時国家は母屋(おもや)の間口が約50mもあったそうです。また室町時代の文明15年(1483)頃に立てられたとの伝承があり、その他に土蔵や酒蔵、厩舎、稲蔵などもあり、さらに曽々木海岸の浜には塩蔵もあったことが文書や絵図によってわかっています。

 当時、この地方には何人かの名主(みょうしゅ)がいました。時国家もその一人であったし、また全体を統括する役割(荘園の代官など)を担っていたとも考えられています。巨大な家と蔵は個人用だけではなく、公的な意味も持っていました。次のような記録も残っています。

 中世から戦国末期にかけて時国家があった下町野荘は、町野川の氾濫がしばしば繰り返されていました。戦国末期の元亀3年(1572)にも、下流域右岸の下町野荘内福光名(ふくみつみょう)の川端の田地が、洪水によって押し流されて、福光名の年貢進納ができなくなっていました。このため当時下町野荘を領有していた、戦国大名能登畠山氏の重臣・長綱連は、当地の時国四郎三郎に対して、先に光福庵なる寺庵に寄進してあった福光名のうちの土地を没収し、それを諸役皆免の地として、時国に与える代りに、福光名の年貢は、台帳の規定に基づき、時国が責任をもって納めるよう命じています。
 
 当時、時国家は、町野川下流域右岸から山間部にかけての地にあたる、下町野荘岩蔵の年貢米を収納する御蔵の管理責任者で、領主長氏の一族被官で下町野荘の担当者であった仁岸与左衛門尉の許に、年貢米を送り届ける任務を帯びた、名主(みょうしゅ)の流れをひく下町野の土豪であったようです。

 戦国末期の天正3年(1575)6月、時国四郎三郎が管理していた年貢輸送用の御用船の梶(かじ)を、曽々木の浦の小刀祢(ことね)が盗んで売却した事件が起こり、この時、時国は寛容な処置をもって対応した。これを契機に小刀祢は時国の被官となり、曽々木浦に時国の勢力が及ぶようにもなっていったらしい。

 江戸時代初期の時国家の石高は三百石で、下人の数は150人から200人ほども抱えていたようです。広い田畑を耕作する他に、製塩、木炭、鍛冶、石切、桶細工などと幅広い業種を手掛けていたと考えられています。

 特に時国家が「目」を向けたのは海でした。今は町野川は真っ直ぐ海に注いでいますが、昔は河口近くで大きく蛇行していて「潟湖」になっていたといいます。そのため船の出入りが容易だったと考えられています。現在、曽々木集落の中に皆戸(港)という地名が残っていることでも推測できます。

 そんな土地に、時国家は八百石積みから千石積みの大きな北前船を持ち、大坂から日本海を経て北海道の松前まで航海して、巨万な富を得ていました。そしょてその財力で金融業にまで手を伸ばしました。海での交易を重要視し福原を築いた清盛同様、源氏とは違い常に海に感心を抱き続けた平家の末裔らしいなという気がします。

 12代・時国藤左衛門の代、下時国家が建てられた寛永11年(1634)の時に、両時国家は分家したと推定されています。本家を上時国家、分家を下時国家と称しました。時国藤左衛門は、新しく建てた家に末っ子の千松とともに移り、母屋は長男の次郎兵衛に譲りました。それには深い理由があったようです。

 幕府と深い関わりをもつ大名の土方家が能登各地の所領を得たことも原因の一つのようです。関ヶ原の合戦で前田家を味方にいれたい徳川家康は、2代目前田家当主・利長と従兄弟関係にあった土方雄久(ひじかたかつひさ)を送り、雄久はこの大任を無事果たして、前田利長を味方にします。家康は関ヶ原の合戦で勝利した後、雄久に越中新川郡に一万石を与え、報いたと伝えられます(ただし時期などには問題があり)。

 この越中の土方領が慶長11年に(1606)に能登(61ヶ村→後)62ヶ村に分散され、山崎村(七尾市)に陣屋が置かれました。その一つに時国家のある時国村が選ばれたのでした。この土方領は、雄久から雄重(かつしげ)・雄直(かつなお)と続き、4代目の雄隆(かつたか)は、延宝9年(1681)、自分の領地の一部を弟の雄賀(かつよし)に与え、雄賀はその一部(150石)を次男の長十郎に分け与えました。こうして、能登の土方領は、雄隆(1万2千石)・雄賀(850石)・長十郎の3人の領地に分けられました。
 
(参考:私のHPのコンテンツ 「七尾における天領」

 ところが雄隆がお家騒動を起こし、貞享元年(1684)、雄賀領はお家断絶の憂き目に会い、幕府に没収されて、天領になりました。幕府は、下村に代官所を設置し、手代を常置させ直接支配しました。時国家の保有する三百石のうち、土方領が能登に出来た際、二百石は土方領(後に天領となる)に組み込まれ、前田領は百石となったのです。

 時国家は分家することによって、領主の警戒感を和らげると同時に、保険を掛けた様な効果をもたらし、このようにして現代に至るまで双方が肩を並べて能登の名家として、栄えることができたのでした。肥大になった家が、時の支配者から取り潰しになった例は多くありましたので、難しい時代の流れを見通して、藤左衛門が二つの時国家を誕生させたのは、保険をかけたようなもので、なかなかの選択であったと思われます。

 なお、近年、時国家の古屋敷遺跡が発掘され、調査研究の進展がまたれます。上時国家は、江戸時代以来、代々大庄屋を務め、名字帯刀を許されていました。現存する建物は約160年前の江戸末期のものといわれ、代21代当主が建てたものです。豪壮、華麗で、農家建築の様式の中に書院造りの手法を採り入れており、完成までに、28年を費やしたといわれています。特に、その1室は、いわゆる格天井といわれる天井をもち、大納言としての格式を保ち、ここを嘉永6年(1853)に訪れた幕末の 加賀藩主・前田斉泰(なりやす) が、「予は中納言である。この部屋は大納言の格式を持っているので入ることはできない」と言ったという逸話が残っています。下時国家とともに、今は開放され、訪問客を受け入れています。県の文化財になっています。現在は、21代当主が住んでおります。

 上時国家から約300m離れて、下時国家があります。下時国家は、江戸中期もしくは末期のものといわれます。古い鎌倉時代の書院造り様式を持ち、要所に翌檜(あすなろ)の木を用い、堅固な造りです。上時国家に比べて質素で、農家の一般的な特徴が多いといわれ、国の重要文化財に指定されています。

 ロッキード裁判の時、田中元首相を裁いた裁判官に時国裁判長がいましたが、彼は、この時国家の出ということです。時の権力者・田中元首相を裁いたことで、左遷されてしまいましたが、名門の出の矜持が、そのような圧力にも屈せず、田中を有罪に持ち込んだのでしょう。

 ところで、話は平時忠に戻るが、彼の一族の墓は、珠洲は大谷の集落から海岸を離れて、国道沿いに約2kmほど入った、それも道路から少し下った森陰にあり、15基の墓が苔むしてひっそりと建っています。その墓を見ると平家物語の「奢る平氏は久しからず」という言葉を思い起こされます。墓は現在、時忠の子孫といわれる則貞家の人たちによって守られています。多くの人の口にのぼることもなく、いかにも配流の人の墓にふさわしく、質素で、権勢をほしいままにした大納言の面影はなく、寂しさの中にあります。

 墓に近い大谷の集落は、烏川によって作られた狭い平地ですが、住人の大半は時忠ゆかりの深い従者の子孫と言われています。頼兼、頼光、頼正、兼正、それに先ほどの則正など、実名を氏としており、俗に大谷十二名と言われている。従者の実名を氏としたのは、時国と同様に、平氏系の姓を名乗りつづけることに障害を感じたせいかもしれません。
(参考)
 「輪島市史」(輪島市)、「図解 輪島の歴史と文化」(輪島市)、
 「輪島ものがたり—ふるさとの風と光と—」(輪島商工会議所「語り部会」編)など

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