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北陸における義経伝説
(1999年12月24日作成、2005年2月加筆修正)
<参考文献>「日本史十八の謎を解く」(能坂利雄)他
(参考)北陸3県に伝わる義経伝説・遺跡→「日本史十八の謎を解く」(能坂利雄)のリストを基に、一部自分が調べた伝説を追記した表です。
好きな項目へジャンプ! 福井県関係リスト石川県関係 リスト富山県関係リスト義経が北陸ルートの逃避行をしたと考えられる訳
福井県
「義経あら血の岩」荒乳山を越え関所の難を避けたとき、新しい血でワラジが染まり、岩が血染めとなったという伝説。(敦賀市)
「荒乳の抜け穴」義経を捕らえようとしたが、穴から抜けていった。(敦賀市)
「平泉寺の鐘」「法螺貝」平泉寺の鐘を撞き、同時に弁慶が走り出し、音の聞こえなくなるまで早足を試したら、数里隔てた所まで来ていたという弁慶の韋駄天さを伝える伝説。白山の平泉寺詣での礼に、義経が法螺貝を置いていった。
「弁慶足あと岩」平泉寺から白山まで走った時の弁慶の足あとの岩。(勝山市)
「一夜泊りの穴」「熊野山」いずれも義経主従の宿泊伝説地。(敦賀市)
「三枚切岩」義経が試し切りに三枚の岩を切った。(武生市)
「抜け穴」奥行が、30メートルもある。ここから義経一行が通り抜けた。(坂井郡三国町)
「試し切り岩」義経が名刀で試し切りをした。(坂井郡三国町梶)
「だんご岩」「義経の膝つき池」朝倉山の南の松谷の地。弁慶が岩に箸をたててだんごのように丸めて山の上から投げた。また義経主従が土運びをしていた時、義経が力果てて膝をついた。そこが池になったという伝説。
「義経の矢立岩」「弁慶岩」
「丸山」
義経を守るために弁慶が徹夜した。岩の上で立番していたところに足跡がついて、できたのが松丸の弁慶岩。また矢立てで書類を認めた岩が、義経の矢立岩。腹の減った弁慶が岩を丸めて食べ、落としてできたのが丸山。(大野市)
「弁慶の馬あと岩」弁慶の乗っていた馬の足跡が岩に残された。(吉田郡永平寺町吉波)
「きびす塚」弁慶が踏んだカカトが、岩の窪みとなった。(坂井郡丸岡町)
石川県
「尼御前」ここまで義経の一行に従ってきた尼御前という女性が身を投げた場所といわれ、その伝説が由来となってこの地名がついたている。尼御前は安宅の関での検問の厳しさ、そこを過ぎてもさらに続く困難な奥州までの逃避行に、自分が足手まといになると憂い、義経の無事を祈願しこの岬から身を投げたといわれている。
「法螺貝」「数珠」「横笛」
「衣掛けの松」
白山権現で通夜した義経主従が残していった。(石川県鶴来町)
「牛若松」安宅の関を無事に通過することを祈願して義経が植えた「牛若松」という松がある。終戦までは県の名木に指定されていた。(小松市菟橋神社)
「安宅関址」義経・弁慶主従一行が立ち寄った富樫氏が固めていた関所址。(小松市安宅町)
「弁慶逆植えの松」
「義経衣掛けの松」
住吉神社で休憩した。(小松市住吉神社)
「法螺貝」「錫杖」義経が立ち寄って饗応に預かった礼に置いていった。(小松市・勝楽寺)
「弁慶謝罪の地」旧・根上町の道林寺跡といわれる場所は、「弁慶謝罪の地」ともいわれている。安宅の関を何とか通過した後ここで、弁慶がやむなしとはいえ主人義経を打ち据えた事を涙を流して謝罪したという。(能美市)
「岩根宮」岩根宮(現在の岩本神社)は白山比咩神社の三社のひとつ(後の2つは鶴来町の金剱宮と鳥越村の別宮)で、当時十一面観音像が祀られていた。義経記によると、義経主従は安宅の関を超えた後岩根宮に立ち寄り、十一面観音像に詣で、奥州への道のりの無事と今後の武運を祈願し、岩根宮で通夜したと伝えられている。また、境内には「義経通夜記念の碑」がある。
義経記の巻第七には…「いざや白山を拝まんとて、岩本の十一面観音に御通夜あり。明くれば白山に参りて、…」と記されている。(岩波書店/日本古典文学大系37・義経記より)

 
「富樫館跡」富樫家の歴代の居館。第24代富樫政親が1488年、一向一揆により滅ぼされるまで、約400年にわたり加賀の政治の拠点となったとされる。義経らが金沢の大野湊神社で休んでいる時、弁慶は一人で富樫の館を訪れた。弁慶はおいてあった大岩を鞠のように持ち上げ、軽々と投げ飛ばしたと言われる。その石は「弁慶の力石」と言われ、野々市町の布市神社に安置されている。現在は「北陸鉄道野々市工大前駅」の構内に当時を偲ぶ碑が残されている。
 
「弁慶の力石」布市神社には、「弁慶の力石」と呼ばれる大きな岩がある。義経一行が安宅の関を通過した後、現在金沢市の大野湊まで来て、弁慶は義経らを大野湊神社に残し、弁慶一人が通過の礼のため富樫の館を訪ねたといわれている。その時富樫館にあった大石を、弁慶は鞠のように扱い軽々と投げ飛ばしたと言われ、その石が現在布市神社に置かれているのだという。また、この「布市」が訛って「野々市」と現在の町名に変わったと言われている。布市神社は加賀国の守護大名、富樫家が総社として崇拝した神社である。(野々市町)
「一夜泊りの宮」義経主従が、富樫の館へ行った弁慶を待ち、ここで仮眠した。
義経記の巻第七には…「それより大野の湊にて参り逢ひけり。「如何に今まで久しく、如何に」と仰せられければ、「様々にもてなされて、経を読みなどして、馬にて是まで送られて候」と申しければ、武蔵を人々上げつ、下しつまぼりける。…」と記されている。(岩波書店/日本古典文学大系37・義経記より)
 
「義経奉納甲冑」(金沢市・大野湊神社蔵)
『信田笈捜図巻』義経主従の動向を記した図巻。(金沢市・大野湊神社蔵)
『義経記』元禄10年版。(金沢市・大野湊神社蔵)
「鳴和の滝」金沢市鳴和の鹿島神社には「鳴和の滝」と呼ばれる場所がある。ここで安宅の関守富樫泰家が義経主従に追いつき、ともに酒宴を開いた。ただし飲んだのは泰家が持ってきた酒という説と、ここの滝の水という2説があるようだ。後者の説では、弁慶らが法螺貝で汲んで酒の代わりとしたといわれる。また弁慶は「これなる山水の、落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水(勧進帳より)」と謡いながら延年の舞を披露したとも云われている。(金沢市)
「夜明しの松」松の根方で焚火をして一夜を明かした。(河北郡津幡町竹の橋)
「倶利伽羅峠」北陸ルートの義経逃避行説は、さらに能登を通ったという説と、倶利伽羅峠を通り抜けたとういう2説ある。その後者の説では、其処を通り抜ける際、地獄谷を眺めながら念仏し、倶利伽羅峠の戦いで地獄谷に叩き落された平家の武者の魂を弔ったといわれている。(津幡町)
「弁慶の岩」津幡町上大田の通称「かめや」には、弁慶の乗っていた大きな馬が残したひづめ跡が三つついた岩がある。(津幡町)
「ベンケイ石」昔、菩提寺という真言宗の大きな寺があり(1584年、兵火に遭い焼失)、その付近にはベンケイ石と言われる高さ7メートル、周囲22メートルの巨石がある。弁慶はこの岩を担いで鼻血を出したと云われている。
「弁慶の足跡石」
「弁慶の鼻血石」
羽咋市には、弁慶の足跡石といわれる大きなくぼみを持つ巨石があるが、これは弁慶がオハイ山から飛びおりた時についた足跡だといわれている。また同じ羽咋市若緑には、弁慶の鼻血石といわれる大きな岩もある。これは弁慶が力試しにこの岩を別の場所からもってきてこの地においたものと云われている。その石を置く際に、弁慶は鼻を打って鼻血を出し、今もその石にはいつも赤い血のような水がたまっているといわれています。(羽咋市)
「丸山とおき塚」川田の田んぼの中に、丸山と、おき塚という向かい合った小丘があります。これは弁慶が運んでいた畚(もっこ)の縄が切れて、落としてしまった土が、丘になったものといわれています。(旧:鳥屋町・現:中能登町)
「わらじの跡岩」弁慶の足跡らしい大きな窪みをもつ巨石がある。(羽咋市)
「碁盤島」松本清張の「ゼロの焦点」でも有名になった巌門には、義経と弁慶が将棋を楽しんだとされる巨大な岩「碁盤島」などがあります。(富来町)
「義経船隠し岩」福浦港から北方の関ノ鼻まで約29kmの海岸が能登金剛と呼ばれています。福浦港より北、能登金剛のヤセの断崖の少し南に、「義経の船隠し」と呼ばれる場所があります。断崖がまるで、真っ二つに裂けたように、両方から迫った入江の地です。ここに48艘を隠し、義経一行が潜んでいたといわれています。義経主従が、頼朝の追捕を逃れ、能登を通って奥州平泉に逃避行する途中、海難を避けるため、能登のこの関ノ鼻付近の海岸の絶壁の岩の間に、船ごと入れ、難を避けたと言われています。(羽咋郡富来町関野鼻付近)義経船隠し岩
荒木海岸の義経伝説 荒木の海岸は、昔はひどい難所だったが、今はトンネルなども幾つかほられ、ドライブコースとなっています。ここにも義経の隠れ穴や馬の爪跡といった伝説が岩があったそうです。義経は、この荒木海岸で、「義経の 身のさび刀 とぎ(研ぎ・富来)に来て あらき(新木・荒木)の鞘(さや)に 入るぞかなしき」
と詠んだとも言われています。 (富来町荒木海岸)
義経の一太刀岩関野鼻海岸にある奇岩で、義経一行がこの地を訪れた時、義経が刀の試し切りをしたところ、一太刀で岩を切り離し、弁慶が二太刀で岩を粉々にしたという岩があります。いまでもスパット切れたような岩があり、そのまわりに砕けた岩があります。(富来町)。
「弁慶の足跡・手跡」七尾の霊泉として有名な岩屋の傍らの、石の逕(道)の急峻な所に、岩に大きな足跡があるといいます。これは義経が、奥州落ちする際、ココを通り、弁慶がつけたものと言われています。 また鹿島町の井田不動瀧にも弁慶の手の跡と称する大きな石があります。(七尾市岩屋町)
「上時国家」「下時国家」壇の浦の戦いの後、赦されて能登に流された平時忠の末裔といわれる。(輪島市町野町)
時忠一族の墓義経の妻の父が 平時忠 だった(別の説もある)ということから、義経一行が訪ねた平時忠の墓。(珠洲市大谷)
「義経の割石」

珠洲市清水町にある源義経が一太刀で切り割ったと伝えられている石。今は海岸から離れた場所にあるが、800年前の義経が来たといわれる頃は、海岸にあった。

「馬緤」と「泊」の地名の由来

源義経一行が平時忠を訪ねてしばらく滞在したところが「泊(とまり)」(馬緤の一在所名)、馬をつないだところが「馬緤(まつなぎ)」という地名となった。

「義馬草」源義経一行が馬緤に着いた際に、義経の馬にホンダワラ(神馬藻)を与えた。ホンダワラは栄養が豊富で実が多いことから神饌の代表でもあったが、それ以来「義馬草」と呼ぶようになった。
「山伏山」珠洲市狼煙町にある山の名で、標高172mある。昔、源義経の家来・常陸坊海尊(ひたちぼう かいそん)は、九穴(きゅうけつ)の貝を食したため不老不死となり、いつまでも義経の思い出を語り歩いたといわれている。その海尊が珠洲岬で一行と別れて残り、時々、修行姿の山伏姿で現れたという伝説が山名の由来となっている。須須神社の旧社地とされ、山頂には奥宮がある。
「義経駒の爪石」須須神社(珠洲市三崎町寺家)の境内にある源義経の愛馬が爪跡を残したとされる石。
「蝉折の笛」「短刀一振」上と同じく須須神社にある宝物で、義経が珠洲岬の沖合いで海難(暴風雨)に遭った際、海上守護神の三崎権現(須須神社)に向かって「波風を静め給え」と必死に祈ったところ、風が止んで救われたとして奉納したものです。そのお礼に須須神社へ参詣し、義経が「蝉折の笛」、弁慶が「守刀」(短刀一振り)を奉納した。(珠洲市・須須神社)
「塩津の舟隠し」須須神社に近い塩津の海岸にも「舟隠し」といわれるところがあります。(珠洲市)
(能登半島の海岸地帯に、この他、由緒の伝説地が小さな漁港などに散在している。)
富山県
「膝つき山」弁慶が義経を案内した時、膝をついた岩が窪みになった。(東砺波郡城端町)
「丸山」義経主従が井口村で長く泊った礼に、弁慶が天秤棒で土を運んだ時、こぼれたところに2つの丸い山が出来た。大野と池田にある丸山がそれ。(東砺波郡井口村)
「弁慶岩」弁慶が踏んだ岩に足跡が残っている。(氷見市唐島)
「雨晴の岩」義経主従が、雨を晴らした岩窟。弁慶が急いで岩を重ねて作り上げたという。(高岡市・雨晴)
「如意の渡跡」渡し守りの平権守に見咎められた義経主従を、弁慶が打擲した関所跡。(高岡市・庄川河口付近)
「義経鎧掛けのさいかちの
樹碑」「かき寄せ碑」
義経が鎧を掛けたたさいかちの樹はすでにないが、江戸時代中頃の建碑だけがある。関所跡の礎石を集めた碑もある。(高岡市伏木・八幡神社境内)
「鷲山家義経遺品」渡し守であった鷲山家の祖先の娘と、一夜泊りを重ね、娘とねんごろになった義経が、生まれた子が男なら短刀、女なら櫛と二品置いていった。同家には義経が着た夜布団も残されている。
「水橋渡河遺跡」義経一行が水橋川を渡ることをためらっていた時、日吉山王神が海女になって現れ、一人ずつ背負い難なく川を渡ることができた。(富山市水橋町)
「弁慶鯛」義経主従が、高塚で一泊した時、弁慶がその礼に曳き綱を手伝い、鯛が大量となった。義経の食膳に献じ、以後“弁慶鯛”と呼んでいる。(滑川市)
「将監館跡」桜井の庄の豪族水橋将監の館で、義経一行が泊った。義経手植えの松があったが今はない。(黒部市三日市)
「手の跡岩」「鼓ヶ滝」子撫川支流の岩屋川沿いに、弁慶が残した手のあとの岩と、義経が鼓を打った音を出す滝がある。(小矢部市)
「ツキの山」弁慶がモッコで土を運んだとき落とした岩。(上新川郡大山町)
「弁慶岩」弁慶が担いだ巨岩の一方が赤いのは、背の皮がむけて血がついたからである。(東砺波郡平村)
義経が北陸ルートの逃避行をしたと考えられる訳
 
 『源平盛衰記』や『義経記』など義経が北陸を通って奥州平泉に行った事になっているが、義経が畿内から奥州に逃亡した際のルートは、実のところ、はっきりしてていない。ルートと言われる地方に、義経が着たという公式の記録は何も残っていないのである。逆に、残っているようなら捕まっていたのであるから、当たり前といえば、当たり前の事かもしれない。上記に揚げた書物は皆、後世に書かれたものである。

 文治3年(1187)9月4日、鎌倉幕府は、義経の潜伏先を奥州平泉であることを確認しただけで、どうやら北陸ルートをたどって逃避行したらしいという推定ができるのみである。それを裏付けるかのように、北陸、ことに能登には義経一行のエピソードや遺跡が多い。勿論、これも理由の1つだが、もうちょっと深く考えてみたい。

 1つの考えられる理由として、加賀・越前の延暦寺の勢力の浸透を揚げられる。五畿七道に義経の追討令が出た(文治2年6月)後、大和の多武峰(とうのみね)、あるいは吉野山、あるいは十津川、あるいは比叡山などへと転々として再挙を図っていました。10月末には、義経は比叡山の無動寺などにかくまわれたことがわかっております。

 弁慶のモデルとなり刎頚の友となった俊章は、そこで修験する悪僧・修験者でありました。無動寺は、不動明王を祀り、回峰行の修験荒行をつむ本拠でありました。よって、逃避行をする際、俊章が道案内になり、比叡山延暦寺とつながりのある、越前の平泉寺、白山神社系、さらには山王信仰の関係から修験者等までも含めそういった人々の保護が比較的多く受けられる北陸道を選んだという事が考えられるのです。

 なぜ、それらの関係の勢力浸透が北陸にあったか。例えば、能登の中世の荘園関係の動向で見てみよう。神社や寺院への荘園の寄進は、最初は賀茂神社系、後に、比叡山系日吉神社(比叡山東麓にあった官幣大社で山王・山王権現または山王二十一社と称し、朝廷の尊崇が厚かった)系のが増えていったことが資料でわかっている。

 今までの歴史では、寺社への寄進というと
、神仏への信仰が篤い奇特な人々が土地をささげたようなイメージがありますが、勿論そんな例もあったでしょうが、大概の場合は、荘園を寄進する際、どこの神社、寺院に寄進すれば自分達が一番立場がよくなる、とかどこそこが天皇家、摂関家と緊密につながっていて効果がある、といった計算の上で寄進されました。

 また、荘園を確保しようとする場合も、川や海、湖の交通路の要衝を確保したり、ある職能民を寄人にしたり、土地の有力者に神人(じにん)という称号を与えて神の直属民として組織していったようなのである。そしてできるだけ効果的に利益を上げようとしたのでした。いってみれば、両者のそういった思惑による折衝が寄進に繋がったのでした。

 能登は、鎌倉時代の頃は、僻地ではなく(海に臨む平野の少ない土地のため農民ではない職能民の割合が比較的多かった)、そのように中央から狙われるような旨みのある土地であったのでした。同様に、北陸は日本海側にあって、半島や入り海などが多く、航海術の進んでいない中世においては、太平洋側より海上交易が進んでいたのであり、日本海交易ルートを出来るだけ押さえることは、権力者にとって大切ことでした。

 よって比叡山は比較的に北陸方面へ出やすいこともあったのか、日本海交易ルートの要衝を次第に押さえていったのでした。具体例で見ると、例えば、久安2年(1146)、鳳至郡の、皆月を中心に、餅田・吉浦・深見・鹿磯などの浦々の集落を初めとする志津良荘が成立しているが、ここは比叡山系の荘園の中でも、義経がかくまれたあの無動寺の所領です。

 義経は、白山神社系(例えばその頃栄えていた北陸修験道のメッカ、 石動山(石川県鹿島町) も、白山と同じく泰澄の開基とされる)などから蔭ながら支援を受けて逃げやすい北陸道を選んだと考えられるのである。その上、弁慶は比叡山の武蔵坊にいたとされ、出生を熊野としているが、彼のモデルとなった俊章も、熊野と関係があったのかもしれない。石動山や能登は熊野信仰とも深い関わりがあることがわかっている。

 また、よく言われている1つの理由として、義経の妻が平時忠の娘であり、時忠が配流されたのが、奥能登であったことから、能登を通る北陸ルートを選んだという説もある。しかし、義経の本妻に関する現在の有力説は、鎌倉御家人の河越重頼の娘とするものである。河越氏は武蔵国河越庄を本拠とする在地武士で、平家方の秩父氏の流れを汲む一族である。

 重頼は、頼朝の乳母比企尼の娘を妻としたため幕府での信任厚く乞われて義経と結婚したというのである。しかし、この正妻説も、『吾妻鏡』に出ているといっても、結婚の事と、夫とともに奥州平泉で死去したという書かれている程度である。『義経記』では、義経の妻である北の方を久我大臣の娘としている。

 実際の所は、確証もなく不明である。平時国の娘こと蕨姫が本妻でなく、それ以下の妾であった可能性もあるので、義経が、妻と一緒に平時忠の配流地を訪ねたという、この言い伝えは単なる伝説としては片づけるのは早計だが、正しいと断言することもできないのが実状だ。

 ただし、一説に、平時忠の墓に墓参したという説もあるが、平時忠が亡くなったのは文治5年(1189)2月または元久元年(1204)4月の2説であり、どちらにしても、義経がこの地を訪れたと言われる頃は、時忠はまだ生きていたことになる。よって、上記伝説の表の「時忠一族の墓」でも墓参説を採った伝説となっているが、間違いであろうと思われる。
 (他参考)私のHPの中の 「時国家」 のコンテンツ

 もう1つの理由として、考えられるのは、北陸道の場合、比較的人目につきにくい船を使えるということである。太平洋側も海を使えると言うかもしれないが、房総半島周りの船旅は危険が多いと江戸時代の初めでさえ、避けられていたのであり、東周り航路が定着化するのは、17世紀の末、伊勢の豪商・河村瑞賢が幕府の命令で航路を開拓してからであった。

 
それに引き換え、日本海側の北陸の方は、入り海や半島などの自然の防波堤などがあり、古くから海上交易路として利用されていた。太古の渤海交流の歴史など調べると、渤海史が帰ったのは、海が荒れる冬の時期が多かったことが分かっている。だから、沿岸ばかりでなく、場合によっては日本海のど真ん中まで船を出すことも可能なのだ。

 これを書いている現在(1999年12月23日)、テレビを横眼で見ながら制作しているのだが、こういうニュースがたまたま入ってきた。一昨日、富山県の新湊沖へ一艘の小船でマグロ釣りに出た老人が、そのまま音信不通となり行方不明となったが、今日、新潟県の柏崎沖で漂流しているところを無事海上保安部に見つけられたというのだ。

 当人の話ではスクリューに定置網が引っかかり、動かなくなり、その上、無線も故障していたため連絡が取れず、漂流していたというのだが、ここ数日、北陸は久しぶりの年末の雪で大荒れの天候が続いていた。それでも、このようなことがあるのである。日本海の冬の海の荒れ方は、どうもオーバーに言われ過ぎる傾向がある。

 実際には、紀伊半島沖、伊豆半島沖、房総半島沖などの方が難所が多く、江戸時代の廻船ぐらいの船の航路としては、日本海側よりずっと危険だったのだ。それを現代人は現況からしか、昔を見ないので(実際には、何の根拠もなく勝手に想像しているのだが)歴史を見誤るのである。

 それに常識的に考えてもわかることだが、東海道または太平洋の海伝いの場合、どうしても危険が増すのは、幕府の本拠地、鎌倉を通ることである。よって、相当な事がない限り、まずこのルートは考えられないのである。

 以上がだいたい、義経が北陸ルートを通ったとする理由である。
でも、人によっては、江戸時代の中山道にあたる山側の道を通ったのではないか、
と言うかもしれない。それについてだが、追討令が出された翌年(文治3年)2月18日、こういうデマが鎌倉に流されていた。

 たぶん、義経を守る側の者による撹乱作戦であろう。義経が妻子を連れ山伏姿で、伊勢から美濃を通り奥州へ入ったというのだ。つまり東山道(中山道の旧称)を通って逃げ延びたというのだ。よって、東山道を通るルートは、地頭の探索が強化されていたハズだから、そこを通ることはまずないし、撹乱作戦であるからには、そのルートは避けたと思われる。よって、やっぱり、可能性が一番高いのは、北陸道なのである。


 真実はクリオ(歴史の女神)しか知ることはないだろう。しかし、私は、北陸の人間として、心情的には北陸ルート説を採りたい。

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
北陸における義経伝説