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  能登の民話伝説

 今回は今昔物語集ほど有名ではありませんが、地元のことなどに関して書かれた古い本などを参考に、書かせてもらいました。現代語で書かれているものに関しては、一部表現や内容を要約させてもらっています。また擬古文や古文などの訳については、何分浅学な知識で訳すため誤訳も生じるかもしれません、またたとえ間違いでないにしろ、拙い訳と思える箇所が多々あることでしょう、その当たりはご愛嬌で容赦願います。また勿論、一部ではかなり意訳もしていますが、ご了承願います。
能登の民話伝説(奥能登地区-No.5)

稲舟の蟹報恩譚 参考:日置謙校訂本「能登名跡志」「鳳至郡誌」の「泰澄法師の法力」
 輪島の町より十町(約1.1km)離れたところに稲舟村という村があります。往来より、山手にあります。この村に笠原藤太と言う村役がいました。先祖は由緒がある家柄で、数千年続く百姓であります。ですからそのあたりでは並びもない大金持ちだったそうです。

 昔は、藤太は輪島に住んでいました。その頃の話です。ある年、このあたりは酷い旱魃に見舞われました。田畑の多くが、カラッカラに乾いて割れてきたので、その当時の主がこのことを嘆き、「何卒、この田へ水を与えて下さい。願い叶えてくれた者には、私の大事な一人娘を与えましょう」とつぶやいて神仏に誓いました。

 するとある時、いずことも知れぬ所から一人の若い男がやって来て、「わたしがこの田を水で充たしましょう。」とそれだけ言いと立ち去りました。その夜大音響の雷とともに大雨となり、翌朝には、それらの田は水で充たされました。

 その後、その男が再びやって来て
 「あなたの田んぼへ一晩で水を張ってみせたぞ。約束どおり娘をいただきに来たぞ。」
と娘を連れて行こうとした。

 藤太は、何故心に祈ったことを知っているのだろうと訝(いぶか)ったが、思わずつぶやいてしまったのを聞いたのに違いないと思い
 「嫁入りの仕度もいるこっちゃし、少しの間待っちょくれ。」と男に頼んだ。
 男は、しばらく待つことにして、その日は一応立ち去った。

 藤太は、男が帰った後色々考えてみた。あの男は心に祈った言葉を聞き届けたり、雷を操ったりすることが出来た。でも神様が人の大事な娘を呉れというはずがない。男はきっと魔物に違いない、と思えてきた。
だがあのような魔物にどう対処して拒めばよいか考えあぐねた。

 ところで藤太の娘は心優しく、自分の食べた残りかすなど与えて一匹の蟹を育てていた。
 父親の心配を察した蟹は、
 「ご恩返しをしましょう。」
と言って、その若者が実は、この輪島川の淵に棲む大蛇の化身であることを知らせた。
 藤太は、蟹が教えた条件を若者に告げた。それは家の周りの全ての戸を閉め、その中にいる娘を連れて行くことを許すというものであった。

 一度は去った若者であったが、ある日、夜更けを待って藤太の家に忍びより、大蛇の本体を現した。大蛇は、その家を七重半巻きに纏いついて締め付けて、やがて潜り戸の鍵穴から首を入れて侵入しようとした。
 すると家の中には大きな蟹がいた。蟹はのたうちまわる大蛇を8本の足でしっかと押さえつけ、残る2本の手、つまり鋏で、この大蛇を九つに切断して大蛇を殺してしまった。父娘はそれにより救われました。

 大蛇の死骸は9箇所に飛び散り、落ちたところは池となり、その池毎に、蛇が棲むといわれています。
 今現在でも蛇池と呼ばれ、近郷に9箇所のうち8箇所残っているようです。その中でも、惣領村の内深見という所は、頭が飛んできたところで、これを親池(惣領の蛇池)と呼ばれました。

 池には恨みを抱いた大蛇の恐ろしい悪霊が棲みつき、その後も笠原藤太の家に祟りをなしていました。毎晩のように藤太の家に現れ、不気味なうめき声を立てるために、藤太のあの可愛い一人娘が重病に陥ってしまいました。

 その頃、泰澄大師が、旅の途中、この家に泊まりました。この事をお聞ききになり、法力を用いて、この悪霊を退散させてしまったので、その後は、無事に暮らせるようになったそうです。
 その例をもって、この家では5月8日に、泰澄大師の教えを継がれた石動山の衆徒が、僧正廻りの際には一宿する仕来たりがあり、翌日は深見の親池で加持祈祷を行うのだそうです。

 このことがあってからは、笠原の家では蟹を大切にして殺さず、家にも潜り戸を用いなかったといいます。石動山は鹿島郡にあり、大きな山伏寺がありました。

 またこの惣領の蛇池は、鵠巣山登山自動車道路をつけた時、埋められてしまったようです。

 ※大蛇の体が、九箇所に飛んだのは、別伝の話では沢山のカラスがそれらを咥えて、各地に落としたとも書いてあります。
仙境の翁  参考「石川県鳳至郡誌」、「加賀・能登の民話」
 昔、輪島の惣領(輪島市惣領町)に与兵衛という男がおりました。
 若い頃は、灸(やいと)を術として身につけ、方々歩き回って、具合の悪い人がいると聞けば、出かけて行ってすえて、日銭を稼ぐ生活をしていました。中年の頃からは※高淵山の、人も通わぬ谷間の地へ入り込んで、暮らすようになりました。
 人里へ出てくるのは、春と秋の年に2回、輪島に市の立つ日くらいなものでした。

 与兵衛が老人になった頃、最初はあんな所で暮らせるものかと思っていた村人も、与兵衛が山中にすっかり定住してしまったので、その暮らしぶりがみたくなり、訪ねてみることにしました。
 まだ山桜もあちこちの木々の間から、顔を覗かせる春の陽気な日、山奥へ出かけるにはいい日だと、数人の村人が連れ立って、いよいよ山へ分け入りました。
 高淵山は、思いのほか険しく、谷へ入り込むにつれ道もなくなり、周りの岸壁も屹立してきました。それでも蔦から蔦にとりつき、岩壁を乗り越えて、ようやく与兵衛の家にたどり着くことができました。

 与兵衛の住居は、まるで仙人の住む処のようでした。三方は土堤でもって囲まれ、合掌造りの茅葺であります。芝が土堤のぐるりを青々と取り巻き、軒下を澄みきった清水が流れるという具合です。また谷間一面には、美しい春の七草が咲き乱れ、茶、桃、柿、栗、梨の果樹園が整えられ、その間に野菜畑が並んでいます。

 「爺さや、おまんな(お前は)、なんちゅういいとこに(何といういい場所に)住まっしゃるのぉ(住んでいるのぉ)。」
 「なぁん、それほどのこともないわい(何、それほどの事もないよ)。」
 「えんじゃ(いいの)、えんじゃ(いいの)、おらっちゃ(わし等は)、こんな立派なとこ、まだ見たこともない。」
 「ほんまに、おら、一生に一度でも住んでみたいわいや。」
 「そりゃそうやが、爺さ、爺さ、こんな山ん中に一人して、寂しいないかの。」
 「勿論、ほんな日のこたぁ、ざらにあるぞい。今からちょうど十年前の冬やったがなぁ・・・・・。」という次第で、その夜は与兵衛が一晩中語り明かすことになりました。

 与兵衛の話では、この高淵山の谷間に住み始めた頃、毎晩のように屋根をめくり、大木を倒す、凄まじい響きが聞こえたそうです。そのつど、与兵衛は、胆をつぶし、布団を頭からスッポリ被って、震えながら、夜の明けるのを待ちました。
 ところが、翌朝になって戸外に出てみると、屋根にも大木にも何の変哲もない、ということが度々ありました。おそらく狐か狸が、自分らの領域を侵した与兵衛を脅かして追い出そうと、悪さでもしたのでしょう。
 そうかと思うと、ある冬の夜に、身の毛のよだつような狼のうなり声を耳にすることも、一度ならずありました。
 けれど、5・6年も経つうちに、与兵衛もそんなことに馴れてしまいました。この頃では、狐、狸もめったに姿を見せなく生りました。

 与兵衛は、そんなことを、面白おかしく話しながら、珍しい桃の酒を勧めました。
 そのうち、いつともなく、山の端も白々と明け染めてきましたので、村人もそろそろ、暇を乞おうとしました。
 すると、与兵衛は皆さんも二度と、この谷へは来られないだろうと、名残りを惜しみ、
   
  「ちはやぶる 神の恵の かすそえて 五百枚の 桃のことぶき」

という歌を一首詠んで、桃の酒を別れの杯に、村人達を送ったといわれます。

※高淵山(たかふちやま):高州山の別名。昔、この山には白山信仰系統の真言宗寺院があり、高淵山と号していたようだ。
りかの小袖 (参考)「輪島ものがたり —ふるさとの風と光と— 巻五」(輪島商工会議所「語り部会」)
 惣領(現在の輪島市惣領町)の七左ェ門家という家は、村でも指折りの大きな家でありました。ここには、又右ェ門という青年になるおっさま(次男坊)がおりましたが、山里の家のことなので、惣領(長男)でない者は、若くて分家もしていなければ、雇用人とほとんど変わらぬ立場にありました。そんな又右ェ門が、同じ在所の次右ェ門の娘で器量よしの娘‘りか’と恋に陥りました。しかし、又右ェ門は、その境遇のため、リカを嫁にもらいに行く話ができないでいるうちに、リカが又右ェ門の子を孕んでしまいました。

 でも又右ェ門との愛の結晶である子を孕んだお腹は、悠長に待ってはくれません。‘おりか’のお腹は、次第に大きくなって、とうとうお産の日がきてしまいました。産気付いたリカは、夜遅く現在の十時頃から翌朝のまだ夜も明けぬ黎明の頃まで産みの苦しみで煩悶し、気が狂ったかのようにに泣き叫びました。又右ェ門は、その叫びを聞いても家の中へ入ることもできません。心配で、次与門の家の周囲を行き来して様子を窺がうことだけしかできませんでした。ただ元気な子さえ生まれてくれれば、それでいいと願うのみでした。
それでも産まれりゃよかったのでしたが、リカは死んでしまいました。勿論、子も一緒に死んでしまいました。

 しかし、苦しみに耐え切れなかったリカは死んでしまいました。
 それから2年経って、又右ェ門ら惣領の若い衆8人が立山参りに行きました。
 「ああもったいないこっちゃ」
 あまりの天気の良さに、思わず呟(つぶや)きながら地獄谷にさしかかった時のこと、一天俄かにかき曇って、激しい雨が降ってきました。それが済むと、あたり一面霧がかってきて、その霧の中から又右ェ門の前にダアアーーーーッと一人の女の幽霊が現れました。又右ェ門が恐ろしさのあまりにガチガチ震えながら、ようやくの思いで目を開けてみると、その幽霊は、一時も忘れることの出来ないリカでありました。

 又右ェ門が、言葉を忘れて立ちすくんでいると、幽霊が近づいてきて
 「又右ェ門さん、お久しゅうございます。実はわたくし、浄土へ参ることができずに、ここにこうして苦しんでおります。そやさかい、どうか頼むこっちゃ、家の者に、ご法事もうしてくれるよう話をしてくだされ」
と言いました。
 「だけどリカ。俺がお前に会った話など、誰が信じてくれるものか。」
 「それは御尤もです。ならばしばらく待っていてください。」

 そう言うと、リカは地獄谷の池の中へ入り、ずーーと潜っていったかとおもうと、また上がってきて、
 「これが何よりの証拠ですさかい、これを持って行ってくだされ」と渡されたのが、鹿の子の小袖の片でした。
 又右ェ門は、それを受け取ると、リカは池の中へすーっと入って消えてしまいました。そして、みるみるうちに再び天気は良くなったそうです。

 又右ェ門たちは、リカを地獄から早よ救わなならんと、他の用事を切り上げて、急いで立山から戻ってきました。
 又右ェ門は、それまでに次右ェ門の家に上がったことなどありませんでしたが、惣領につくとその足で、勢いづいてリカの親を訪ねたといいます。

 「おばば、実はこうこうしかじかで、リカが成仏できなくて地獄に苦しんでおる。リカのために法事をもうしてやってくだされ。」
 「何をダラなことを。お前や、狂うたがかいや。」
 「いいや、おばば、狂うたがやない。これが何よりの証拠。」
と預かった小袖を渡しました。

 「やあ、こりゃあ、おりゃがリカに拵えてやった着物といっしょや。紋もついとるが。」
と、お婆は言うと、確かめるためにその小袖を持って蔵へ向かいました。そして、その小袖をしまったはずの箪笥の中から着物を引き出してみると、なんと、本当にその袖が片方ありません。
 「ああ、確かにリカに違いない。かわいそうに、あの子や、浄土参りができとらんとはな。」
おばばは、リカの可哀想な境遇を思いやり、とめどなく泣きました。そうして、山吹のご坊様に頼んで法事をしてもらったといいます。
 
又右ェ門は、その後石工になりました。村には今も、又右ェ門によってリカの名が刻まれた墓が残されているということです。
稲舟の歌波の地蔵 参考「輪島市誌(通史編)」
 稲舟の磯辺に歌波の地蔵堂があります。磯に寄る波の音が地蔵の霊験を歌物語で伝えたといわれています。
 この地蔵は、惣領の蛇池の悪霊を払われた泰澄大師の作られた厄除けの本尊であるとも、人丸明神の像石であるとも言われています。諸病治療の利益(りやく)があり、殊に乳の出ない母親には乳が授かるということです。稲舟のあたりの浜もすっかり家が立ち並び、昔は地元民に熱心に信仰された歌波の地蔵も、今では倉庫の蔭に追いやられています。

歌波の浜・・・・(参考) 猿鬼伝説
腰掛石と小太郎 参考「輪島市誌(通史編)」
 中世武士の間に流行した幸若舞に「信田(しだ)」というものがあります。その主人公が、平将門の子孫(幸若舞の中では孫)といわれる信田小太郎です。乱後、常陸国信田郡浮島にかくまわれて住み、子孫は信田小太郎を称したといわれ、信田郡主とまでなって重きをなし、あの有名な相馬野馬追いの起源ともなった家です。

 何代目かわかりませんが、何かの用で上京することになったのでしょう。京都へ登る途中、大津に泊まったところが、人買いの藤太という男の家であった。親切にされるまま京都へ連れていかれ五条の馬方の頭に売り飛ばされてしまう。この親方は、若狭の小浜から船積みして敦賀・三国と売れないまま宮腰(金沢市)へ送り込んだ。ここで地主にやすく売りつけられたが、小太郎は百姓の用には立たぬので、地主は怒って小太郎を追い出してしまう。そこで彼は、放浪の旅を続け、流れ流れて親の湊(現・輪島市)にたどり着いたといわれます。

 輪島市輪島崎の沖崎家の後庭には、昔、信田小太郎という武士が座ったという腰掛石があります。その昔、彼がこの地へ流浪し、刀祢氏の家に泊まったが、時折庭へ出てこの石に腰掛けて急速し、近くの泉を飲んで渇きをいやしたといわれています。先に信田小太郎は、平将門の孫といいましたが、沖崎家も相馬氏と称したことがあるといいます。

 藩政時代の頃、石しらべ(石高の調査)があり、以後ここへ人を入れなかったが、どんあ旱魃にもこの泉は涸れることがなく、眼病にも効くと言って、眼をその水で洗うものが多くあったと伝えられています。
 また「能登名跡志」では、信田小太郎を位田の三郎とし、(保元の乱で敗れて死んだ)六条判官源為義の三男で、父とともに朝敵となり方々を流浪して、元暦年中に義仲と伊勢の国で誅せられた。或いは義範と称したとか誌しています。
山ノ上の荒五郎    
 昔、輪島の山ノ上という在所に、五郎次郎という男がいました。五郎次郎は、とてつもない怪力の持ち主で、このあたりでは彼に敵うものは誰もおらず、村人は彼のことを荒五郎と呼んでいました。
 どれほどの力かというと、小屋ほどの大きさのものなど、朝飯前で、肩にひょいと載せて楽々と運ぶのでした。

 あたりの者から褒めそやされて図に乗った荒五郎は、ある日のこと村の家々の戸を叩いて次のように吹聴してみました。
 「明日、蛇の池へ行って、蛇の子を捕えてみしょうか。おまえらっちゃ、蛇の子、食ったことぁ、あっかい。おら、あした、やってみせっぞ。」
 すると、その池は村はずれの森に囲まれた中にあり、大蛇の棲むといわれ懼れられた蛇の池のことであります、
 「ほんまかどうか、怪しいもんやわ。」
と今度はさすがに誰も信用しないのでありました。

 そこで、このまま自慢だけでは名折れになります。どうしても、やってみせて村人から「ああさすがに荒五郎だ」と、讃嘆させねばなりません。
 その翌朝、荒五郎は蛇の池へ出かけました。家々の窓や、もう既に田畑で野良仕事をしている村人の視線が集まる中、懼れるそぶりもなく、大手を振って、肩をいからし、まさに偉丈夫ぶりです。
 蛇の池と言われるだけに、池の畔には沢山蛇が棲んでいます。小半時ほどの間に、適当な大きさの蛇を捕え、捻り殺すと、意気揚々と蛇をぶら下げて戻ってきました。村人はそれを見ると、荒五郎の家についていきました。

 家へ着くと、荒五郎は、戸口の前で火を熾し、蛇の子を串焼きにして食べ始めました。
 「どんなもんやい。」
と得意満面で食べて見せました。村人も、あらためてその豪胆さに感心して
 「大したもんや」
と言い合いながら各々の家へ帰っていきました。

 ところが、そのことがあってから数日あったある晩のこと、遠く村はずれの森のあたりで木がなぎ倒されるようなバリバリッという音が聞こえたかと思うと、その後何か大きな石でも引き摺るような音がしばらく続き、荒五郎の家の前でとまりました。
 「荒五郎、お前の命はもらったぞ。にっくき子の仇討ったるわい。」
それは、あの蛇の池に棲んでいると伝えられていた大蛇でした。真っ赤な長い舌を出し、しゅーっと臭気を吐きながら轟音のような声をとどろかす顔は、黄色く爛々と光った眼を血走らせ、顔の皮膚も血管で浮き上がり、身の毛もよだつ凄まじい憤怒の形相です。

 窓から相手を確認した荒五郎も、気合だけは負けておらず
 「なんやと、やれるもんならやってみい」
と家の中から啖呵をきってみせました。
 しかし怒り狂った大蛇の勢いは、それはそれは物凄いものでした。家ごと踊りかかり、グルグル巻きに締め付け、荒五郎を家の中から出られなくすると、ゴゴゴゴゴーーーッと地響きがしたかと思うと、大地を挽き裂いて、家を地面の中に引きずり込み、そのまま奥深くへ飲み込んでしまいました。
 荒五郎は、地中に埋まって消えたままとうとう帰ってきませんでした。
福童丸  参考「石川県鳳至郡誌」、「加賀・能登の民話」、「石川の民話」(石川県教育文化財団)
 今は昔のことです。
 櫛比の庄(門前町櫛比)の鬼屋の神様がある日、寺中尾の福童丸という若者呼んで、こう言いました。
 「陸奥の国にすばらしい牛馬がおるそうだから、出かけていって買い入れて来てくれ。」
 そこで、福童丸は神様のおおせに従って、早速旅に出かけました。海辺をあるき、幾つもの川を渡り、幾つもの高い山を越えて、難儀な旅を続け、やっとのこと陸奥の国が見えるあたりまでやってきました。嬉しくなった福童丸は、向うに見える陸奥の山々に向かって大声で
 「おーい、おら能登の福童丸じゃ〜」
と叫んでみました。すると折り返し、向うの山からも、
 「福童丸よ、福童丸ー。牛馬ひいて行くなんせ(行ってくだされ)。去年(こぞ)は、牛の年、今年ぁ妙法蓮華の寅の年。年も良いや、日も良いや。」
と誰かの歌声が聞こえました。

 (はららご)の入りという所までくると、突然一人の男が現れて、
 「おらは、権太郎兵衛つぅもん(という者)だが、おめえさんは、どこさ来てどこさ行かれるだ?」
と問いかけてきました。
 「陸奥には、良い牛馬がおるというで、それを見にきたがや。」
それを聞くと、権太郎兵衛は、
 「それはそれは遠い所を、ささ、こっちへ来てくなんせ。」
と言って自分の屋敷へ連れていきました。

 その家は、立派な門構えのそれはそれは大きな屋敷でありました。案内された部屋がこれまた立派で、千畳敷もある広い部屋で、襖にはすばらしい絵が描かれ、欄間には見事な浮き彫りが施されていました。そして、そこには何時の間に用意させたのか、蝶や菊の花の形の、珍しい栗の実が酒の肴として美しい皿に山盛にされ、その傍らには、木の根元ごと拵えた大杯に、薫りのいい酒があふれんばかりに湛えられていました。

 権太郎兵衛は、その杯になみなみと酒をつぎました。
 「さあ、どうぞごゆるりと召し上がって下され。」
その美味いことといったら口に表現できません。福童丸は、何十人もの下僕が絶え間なく、かしずき、次々と酒をついでくれるので、四十杯ほど
も大杯で飲んでしまいました。

 「権太郎兵衛さん、えらいごちそうになってしもうたわい。」
 「なあに、はるばる来てくなんしたおめぇさんにゃ、まだ足りんくらいとと思うとるけに、もっと、やってくなんせ」
 「いいや、おらはもう、こっで沢山やさけ。それに牛馬を買う仕事が残っていますさけに。」
 「そんなら、福童丸さん、遠路はるばる来られたのじゃから、せめてこれでもとっといてくなんせ」
と言って、権太郎兵衛は、金貨18枚を差し出しました。

 「こんなに頂いて、いいがか(いいのか)のぉ(いいのかなー)」
と、福童丸はそれを押し頂いて、ふらふらと立ち上がり
 「ところで、牧場はどこやいけ?」
と尋ねました。権太郎兵衛は、後ろの山を指して言いました。

 「牛馬なら、あそこの山だべ。おめぇさんのどれでも好きなのを、連れてくなんせ。」
そこで福童丸は、袴の裾を高くあげてツルツル山を登って行きました。そして一の牧の扉を開けると、見たことも無い駿馬が立っています。二つの眼は月輪のように冴えて輝き、前足は遥か飯(いい)の山の頂をかっぱと踏まえ、後足は酒の泉へ踏みおろすという、まことに鬼屋の社の神様にふさわしい神馬でした。

 次にニの牧の扉を開けると、これまた何ともすばらしい牛が、シロエの米をにっとりにっとり咬んで食べております。
福童丸は、傍(かたわ)らの飯笹をとって投げてやり、その牛に
 「へんべい」
と問うてみると、
 「こんめい」
と答えました。
 これは不思議と思い、また
 「へんべい」と問うてみると、
 「こんめい」
と答えました。
 福童丸はもう一度飯笹を掻き、牛に投げてやり
 「へんべい」
と問いました。
 すると今度は
 「夏の日は照るに照る。月に三度のうるおい(利益)。」
と牛は答えました。
 いよいよ不思議に思い、飯笹を掻き、その牛投げてやると
 今度は
 「権太郎兵衛の一人娘の婿になれ。」
と答えました。

 福童丸は、たいへん喜んで、もう一度あらためてその牛をながめ直しました。がっしりとした見事な足を持ち、大地を踏みしめていました。二つの眼は、月輪のように冴え輝いていました。角の向きは、火の難、風の難を払いのけるといった様子でした。その牛の尾は、まるで法華経の八の巻を押しおろしたような格好で、誠に神々しい牛でした。
 これも、仏様の権現かと思われました。

 そこで福童丸は権太郎兵衛の、美しい一人娘を嫁にもらいました。一の巻と二の巻の牛を買って、能登の鬼屋の神様のもとへ帰っていきました。神様は大層喜ばれ、福童丸をほめました。それからは、福童丸は、その美しい娘といつまでも睦まじく、幸せに暮らしました。
 権現の牛と馬は、村の田んぼを耕しました。耕すとき、この牛と馬は、
 「一束に四斗八升、一束に四斗八升」
と言いました。
 すると、稲はみるみるうちに、木のように高く伸びて、黄金なす稲穂が実りました。おかげで村はぐんぐん栄え、皆、幸せな日を送ることが出来るようになったということであります。
 今は鬼屋神社で毎年2月6日行われるゾンベラ祭りで、この物語を、囃し太鼓で舞い踊るそうです。
麒山和尚  参考「輪島ものがたり(巻1)」(輪島商工会議所「語り部の会」編)他
 現在、輪島で観光地として知られる曽々木海岸の「波の花道」(約400m)は、今でこそ奇岩や「福の穴」「垂水の滝」、そして冬の波の華など観光客に親しまれている道です。国道249号線を利用すると、あっという間に通り過ぎることができる区間ですが、今から200年ほど前までは、曽々木(輪島市)から真浦(珠洲市)へ抜けるには、岩倉山の尾根の急な山道をのぼりおりして、大きく迂回して越えるか、さもなくば「ヒロギ(ひろき)」と呼ばれた岸壁の道なき道を危険を承知で行くしかありませんでした。そのため「ヒロギ」は、「ヒロギの嶮」とか「能登んぼ不知親」とも呼ばれ、毎年のようにたびたび遭難者が出ました。

 珠洲市片岩の禅宗寺院・海蔵寺の八代目の住持・麒山瑞麟(きざんずいりん)和尚は、ヒロギでのそのような遭難の話を聞くたびに`仏門に仕えていても、自分には人々を救うことができないではないか'と、いたたまれない気持ちになっていました。悩みに悩みぬいた末`只管打座(しかんたざ:ただひたすら座禅を組む)も禅だが、人々のための道造りに、只管(ただひたすら)打ち込むのも禅ではないか'と悟りました。

 安永9年(1780)、麒山和尚は、能登・加賀・越中を托鉢勧進して周り、ヒロギの難所を開くための工事に必要な資金を人々から浄財として集めました。加賀藩の郡奉行なども出資したので、その年5月に着工しました。それでも岩山の難所での工事の上、昔のこと、全て人力です。麒山和尚はいつ終わるともしれぬ工事の先頭に立って働きましたが、人夫は一人二人と去って減ってゆきます。

 天明4年(1784)秋には、寺の住職を譲り、隠居の身になって「ヒロギ」の開道工事に専念し、資金が不足する度に浄財集めの托鉢に出ました。和尚の不撓不屈の精神により、工事着手から13年目の寛政4年(1792)、和尚の悲願が実り、道が開かれました。和尚はこの時、65歳になっていました。現在でもこの辺りを「八世」と呼ぶのは、麒山和尚が海蔵寺の八代住職であったことと、波が岩に激突する波瀬という地形であることから名付けられただそうです。

 あまりにも凄まじい工事だったので、この道造りには、岩倉山に住む天狗が力を貸してくれたとか、ポルトガル人がダイナマイトを使って支援してくれたなどという話も伝えられているくらいです。

 麒山和尚は、晩年には曽々木に庵を構え、そこを「羅漢山長雲禅寺」と名づけ、文化9年86歳で大往生をとげるまで、地域の人々の幸せのために力をそそがれたといいます。その和尚の功績を讃え、曽々木では毎年5月11日、「麒山祭」が行われます。午後8時すぎ、麒山像前(民宿菊田屋横)から赤いちょうちん行列が始まり、福ヶ穴へ移動した後祈願札を火中に投じる護摩焚きが行われます。ここでは見物人に紅白の餅が振る舞われ、「ポルトガル人」「大天狗」「小天狗」「農民」「漁民」「麒山和尚」の6面の6人が、「八世太鼓」(昭和40年頃作られた)を披露されます。その太鼓の音はまさにダイナマイトのように大地と心を震わせる豪壮なものだそうです。 
(縄又に伝わる)八百比丘尼   参考「輪島ものがたり(巻1)」(輪島商工会議所「語り部の会」編)
 昔、(輪島市)別所谷(べしょんたに)の神明(シンメ)の小万淵(こまんぶち)に大きな岩があり、その岩陰に大きな岩穴がありました。岩穴の上の道を踏むと、ドンドンと響くので、ドンドン干場と呼ばれていました。その岩穴には、ムジナが住んでいました。でも人に悪さをするでもなく、そのムジナと村人は仲良くしておりました。何か祝い事や、祭りなど大勢の人が集まる事がある際、ムジナに頼むと家具や食器など願うものを貸してくれたりもしたのでした。ただある時、村のある者が、借りた椀を一つ返さなかったもので、それからは貸してくれなくなったといいます。

 そのムジナが、ある時、村人を相手に頼母子(たのもし)を始めました。ベション谷、縄又、それに二俣の三ヶ村の人々が集まりました。
 縄又の谷左衛門も、その頼母子に入りました。岩穴の前に行くと、ムジナが出てきて、谷左衛門の頭へ黒い頭巾を被せ、辺りを見えなくしてから、背中に負ぶって、中へ入っていきました。

 頼母子も終わりに近づくと、御膳が出されることになっており、ムジナが台所へ入っていきました。
 たまたまある男が小便をしに出て行くときに、ひょいと台所を覗いてみたら、俎板の上にニコニコと笑う人魚みたいのがおって、ムジナはそれを料理していました。男はあわてて戻って、みんなに
 「料理出しても、ありゃ、人魚やぞ。食うことならんぞ。」
とこっそり告げました。
 
 やがてムジナが珍しい料理を沢山皿に盛り付けて運んできました。しかし、刺身の一皿を指して、こう言いました。
 「これは海人魚(かいにんぎょ)とか、海人貝(かいにんがい)とかいうものを料理してあるのだけれど、この一品だけは家へ帰る際に川へ流してくれ」
 帰り道、皆は言われた通り、ワラのつとに入れた刺身を川に流してきました。

ところが谷左衛門だけは、うっかり家に持って帰ってしまいました。
 「ああ、放らんならんがんを(放らないといけないのを)、持ってきてしもうたわいや。娘に食われりゃどもならん。」
と言って、天井裏へ登る梯子に吊っておきました。

 谷左衛門の家には、18歳になる娘がおりましたが、
 「うちのおととや(父親は)、ゆんべ、頼母子行ってきたてが(行ってきたというが)、何ごっつぉ(どんなご馳走を)持ってきたがやろ(持ってきたのかな)」
と言って、それを降ろして食べてしまいました。

 それは、不老不死の薬だったそうです。その後、娘は百歳になると食べた時の18歳に戻って、どれだけ経ってもなかなか死なれず、なんでも八百年も生きたそうです。  
 輪島崎の漁師の家に住んだり、(輪島市)大沢に15年ほど住んだりしていたといいます。やがて知る人もなくなり、尼僧になったといいます。村人は「白比丘尼」とか「八百比丘尼(はっぴゃくびくに・やおびくに)」とか言うようになったそうです。

 比丘尼は、我が身の死ねない境遇を恥ずかしがって、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、住んでいました。その間、その土地で、色んな木を植えて歩いたといいます。
 輪島市河井町のお宮の松も、美谷のお宮にあった逆さ松も、「比丘尼の松」と言われております。

 それから一度縄又へ戻ってきましたが、最後には若狭の小浜へ移り住んでしまったといいます。
 比丘尼は、縄又を出て行くとき、
 「この木だけは伐らんといてくれ」
と言い残していった大きなシデの木がありました。

 それでも年月が経ち、大木なり、見事な枝を四方に張りめぐらすようになると、田畑作りの支障もきたすようになったので、、村人はとうとうその木を伐ることにしました。ところが、何度伐っても、翌日になると元の通りになっていました。よく見ると、切った部分が元のように合わさってくっついていました。そこで、村人は、木の脇に火を焚いて、木の切れはしを次々燃やしながら、とうとう倒してしまいました。

 縄又で地滑りがよく起こるのは、八百比丘尼のこの願いを聞き入れずに、木を伐ってしまったためだと言われています。 

(参考)能登の民話伝説 奥能登地区-No.5  「八百比丘尼」
鼓林(かっこばやし)と寺譲りの話  参考「能登総持寺物語」(佃和雄著・北國新聞社出版局)他
 中世から江戸時代にかけて隆盛を誇った総持寺(現在の総持寺祖院)を開いたのは、瑩山(けいざん)禅師であります。
 
 瑩山禅師は、越前(福井県)の多祢というところで生まれ、わずか8歳という幼い時に道元禅師の開いた永平寺(福井県)に入り、一生懸命修行しました。そのあと加賀の大乗寺に入り徹通義介(てっつぎかい)というお坊さんの下で修行し、その後全国行脚に出かけました。そして、阿波(徳島県)に城萬寺という寺を建てたりもしました。その後、再び大乗寺に戻り、大乗寺の2代目住職となりました。その後、今の羽咋市飯山(いのやま)のあたりに小さな庵(現羽咋市飯山・豊財院)を築いた後、酒井(羽咋市酒井町)に永光寺(ようこうじ)を開いていました。
 
 この瑩山禅師が、総持寺に来る前は、この永光寺にいました。またこの総持寺があったところには、瑩山禅師がやって来る前には、有名な行基(ぎょうき)というお坊さんが開いた諸岳(もろおか)寺(もともとは天台宗だったとも真言宗だったとも言われる)という観音様が祀られたお寺がありました。そこの住職は、定賢律師(じょうけんりっし)といいました。

 元享元年(1321)のある夜、定賢律師が寝ていると、夢枕にこの観音様が現れて、酒井の永光寺というお寺に瑩山禅師という非常に優れた禅宗の僧がおいでになるから、この諸岳寺を瑩山禅師に譲ってあげなさい、とお告げになったといいます。

 さらに不思議なことには、この酒井の永光寺にいたという瑩山禅師も、同じような観音様の夢を見ました。瑩山禅師は、そのあと諸岳寺のことを色々知っているものに聞いてみると、その寺の観音堂の観音様は非常に霊験があらたかであるとことだったので、これこそ観音様のお告げだと思い、永光寺から諸岳寺に出かけることにしました。

 その途路、道下(とうげ)という集落から諸岳寺がある集落に抜ける羯鼓林(かっこばやし)という峠にさしかかったところ、何とそこに定賢律師が出迎えに待っていたのでした。初めて会った二人でしたが、共に観音様の夢を語りながら、不思議なご縁に手を取り合って喜んだということです。
 
 それから定賢律師は、瑩山禅師を案内して諸岳寺へ入り、瑩山禅師にこの諸岳寺を御譲りしたそうです。瑩山禅師は、すぐに寺の名を、その諸岳寺に因み、「諸岳山(しょがくさん)総持寺」と改名しました。

 瑩山禅師が、その総持寺を開いたその年に、その諸岳山の噂が都の後醍醐天皇の耳に入り、天皇は瑩山禅師に十種の勅問(十の難しい質問)をしてきました。瑩山禅師はその質問に明快に答え、天皇からお褒めの言葉を頂いた上に、『総持寺』の勅額を賜り、翌年には総持寺を“曹洞之出世道場”にするという天皇からの言葉もいただきました。その後、弟子で2代目住職の峨山禅師(羽咋郡瓜生(現・河北郡津幡町瓜生)出身)が、多くの門弟を育て、沢山の高弟を輩出して全国に教線を広めたので、総持寺がその後永く曹洞宗の本山として栄える礎を築いたのでした。

(参考)
 ○私のHPの「能登の歴史」のコーナーの 「曹洞宗の広がりと瑩山派の発展」
 ○「能登の民話伝説(口能登地区-No.1)」の 「峨山松」 の話
鼓林(かっこばやし)の三味線地蔵  参考「能登総持寺物語」(佃和雄著・北國新聞社出版局)他
  江戸時代、道下(とうげ)(門前町道下)が宿場町であった頃、道下の宿にひとり(※1)ごぜ(瞽女)が泊まって、静かな夜、三味線を弾きながら美しい声で歌っていた。ちょうど隣りの部屋に居た越中の薬売りが、あまりにも綺麗な声に聞きほれて戸を開けて、色々話し合っているうちに恋仲になって夫婦の契りを結んだ。ところが朝起きて見ると、昨夜は夜の蝋燭の暗い灯りでよく見えなかったが、顔は見るもあわれなイモにかかった痘痕(あばた)面(つら)で、醜女(しこめ)であった。越中の薬売りの心はいっぺんに醒めてしまった。

 朝、宿屋を出た二人が、連れ立って道下から門前へ行く途中、この羯鼓林の所まで来た時、突然越中の薬売りは、その“ごぜ”を、その道の横を流れていた八ヶ川の深い谷底へ突き落としてしまった。
 それからというもの、夜ここを通ると、深い八ヶ川の谷底から、「助けてくれー!」という悲しい叫び声が聞こえてきたといいます。

 その後、数年経って、再びこの地方を訪れた薬売りは、この話を聞いて、自分の罪の深さを後悔し、総持寺に参詣して、自分の犯した罪業の始終をすっかり話して救いを求めました。住職はここに地蔵を安置して、仏門に入って供養すればよいと諭した。

 意を決した薬売りは、総持寺に入って得度を受け、石工に三味線を持った地蔵を作らせてから、羯鼓林にその地蔵を置いて供養を続けたといいます。それからは、この谷に悲しい叫び声は聞こえることはなくなったということです。

(※1)《「盲御前(めくらごぜ)」の略》鼓を打ったり三味線を弾いたりなどして、歌をうたい、門付(かどづ)けをする盲目の女芸人。民謡・俗謡のほか説経系の語り物を弾き語りする。(Yahoo辞書-大辞泉(小学館)より)
味噌すり地蔵  参考「能登総持寺物語」(佃和雄著・北國新聞社出版局)他
  総持寺に境内に、「味噌すり地蔵」という地蔵が祀ってあります。
  昔、総持寺の小僧の中で朝から晩まで、味噌を摺(す)ることを仕事にしていた了念という小僧がいました。総持寺は、修行僧だけでも常時200人以上もいた大変大きな寺です。それで味噌すりだけでも、一人が一日中摺っていなければならないくらいあったようです。寺の者は、この了念のことを味噌摺り小僧と呼んでいました。

 小僧さんは、毎日擂鉢を膝に抱えて味噌ばかり摺っていましたから、時々はどこかへ旅に出て気晴らしもしてみたくなりました。この寺は曹洞宗の本山でしたから、全国から修行に来た僧が沢山いましたが、小僧は各地を旅してきた若い僧などから話を聞き、禅宗とも関係が深い、信州は長野にある善光寺に参詣してみたくなりました。それで小僧さんは、本堂などにはなかなか入れなかったので、境内にある地蔵に、毎朝毎晩詣って、磨きながら自分の夢を語り、願掛けをしていました。

 するとある日から味噌すり小僧が見えなくなってしまいました。ところが、味噌摺りだけは、どこからか見知らぬ小僧が来てて、代わりに摺っています。寺の者は、この新しい小僧に真相を聞こうと質問しますが、ただ莞爾(にっこり)と微笑んで、味噌を摺り続けるだけです。それで僧や他の小僧たちは、味噌すり小僧が、自分に修行として与えられた仕事がいやになり、きっと何処かへ逃げ去ってしまったのだろうと、話していました。

 しかし不思議なことに、何日か経ったある日、元の小僧が戻ってきて、何も無かったかのように、一生懸命味噌を摺っているではありませんか。そしてそれと入れ替わるようにして、あの小僧さんがいなくなりました。他の小僧たちも、「大事なお勤めの、味噌すりを、おっぽり出して、何処へ行ってきたの?」と尋ねますが、味噌すり小僧はただ笑って答えようとはしません。
 
 不思議な事があるものだと、本山では評判になったが、ある僧が境内にある地蔵をお詣りした時、よく見るとその地蔵の顔や手に鍋炭や味噌がついているではありませんか。
 そこでこれは味噌すり小僧こと、了念の仕業に違いないと、地蔵の前まで連れてきて、改めて小僧に問いただすと、「実は善光寺参りがしたかったので、地蔵様に毎日お詣りしてお願いしたところ、地蔵様が身代わりになってやるから行ってこい、と申しましたので、善光寺参りをして来ました。」というではないか。

 それから寺の人々は誰言うとなく、この地蔵を味噌すり地蔵と呼ぶようになりました。
大摺子木(おおすりこぎ)と大杓子(おおしゃくし)  参考「能登総持寺物語」(佃和雄著・北國新聞社出版局)他
 昔、総持寺の近くに意地の悪い姑と、信心が深く勤勉な嫁がおりました。姑は、いつも自分の娘ばかり可愛がり、嫁には絶えず辛くあたっていました。けれども嫁は、文句一つ言うことなく、じっと耐えてせっせと働きました。そして若いのに機会あるたびに、総持寺へ御参りに出かけるのでした。

 意地悪な姑は、自分の嫌がらせにも動じることなくせっせと働く嫁を、何とか困らせようとまたまた悪い事を考えました。それである日、娘と嫁に豆を畑に植えてくるよういいつけ、自分の娘には良い豆を選んで入れた袋を与え、嫁には、昨日のうちにこっそりと、囲炉裏で煎った豆を入れた袋を与えました。

 嫁は煎った豆とはしらずに、畑へ行ってこれを撒き、それから毎日水をやったり、肥料をやったりして一生懸命世話を続けました。しかし煎った豆は芽が出る訳はありません。ところが不思議なことに、その中の一粒の豆が芽を出しました。信心深い嫁は、総持寺へ行き、この一本の豆の木から、沢山の豆がなるように、観音様に祈り、世話を続けたのでした。すると豆の木はどんどん大きくなり、しまいには天を衝くような大木になって、この豆の木には無数の豆が生り、数石の豆が採れたといいます。

 さすがの姑もこれには驚き、自分の考えが間違っていたことを深く反省し、嫁と相談して、この豆の木を総持寺に寄進することにしました。総持寺では、この豆の木から大きな摺子木と大きな杓子、それに臼を作ったといいます。
 現在、総持寺の仏殿の下に吊るしてある大摺子木と大杓子は、この豆の木から作られたものだと伝えられています。

 これには珠洲市正院町千光寺住職、細川秋堂氏の次のような歌が書かれています。
 大摺子木)
    己が身をすりへらしてぞ人のため 世のためつくす御仏の慈悲
 大杓子)
    己が身は水をも火をもいといなく すくい上ぐるぞ御仏の慈悲
古和秀水(こわしゅうど)   参考「能登総持寺物語」(佃和雄著・北國新聞社出版局)他
 総持寺の隣りに鬼屋という集落があり、昔のこの村に与助という信心深い百姓と、親孝行の与一という息子がいた。
 与助の家は、とても貧乏で、働けど働けど全然楽にはならなかった。そんな訳で、与助は、酒が大好きだったが、好きな酒を晩酌することもできず、昼は一生懸命汗水たらして働き、夜はいつも寂しそうにしていた。親思いの息子の与一も、この父親の寂しそうな姿を見ながら、何とかして、もっと働き稼ぎを増やし、せめても父親に晩酌を飲ませてあげたいものだと、いつも思っていた。

 鬼屋の高尾山にある能登三十三番札所のうち、二十八番の立持寺(りゅうじじ)の近くに、総持寺を開いた瑩山禅師が、龍神のお告げによって霊水が出ることを教えられたという、とても美しい水の出るところがあり、この水を飲むと長生きをすると言われていた。村の人たちは、山仕事の帰りに、そこへ立ち寄り、この美味しい水をよく飲んでいた。

 ある時、働き者の与助は、山仕事の帰りにここへ寄り、いつものように置いてある杓(しゃく)で霊水を汲み、ぐっと一息で飲んだ。そうすると、何か気分ちがよくなってきた。そこでまた一杓汲んで飲むと、どうも酒を飲んでいるようないい気持ちになってくる。与助は、何杯も飲んでいるうちに、すっかりいい気分になって、ほろ酔い気分になってしまった。

 いい気持ちになった与助は、鼻歌を歌いながら家へ帰っていった。先に仕事から戻って家にいた息子の与一は、今日の親父は金もないのに、どこで酒を飲んできたのだろう、と不思議に思った。

 ところがそれから毎日のように父親の与助が、夕方になると、酒に酔っていい気分で家に帰ってくるのだった。孝行息子の与一は、父親が気分よく帰ってくるのは嬉しかったが、寺町の酒屋で借金をして酒を飲んでくるのではないかと心配になってきた。

 そこで一度確かめてみようと思い、ある夕方父親が仕事を終えた後、どこへ出かけるのかこっそりと後をつけてみた。すると総持寺ゆかりの霊水の沸く泉の所まで歩いてきて、そこにある杓で霊水を汲んで飲み始めた。そのうち何杯か飲んでいるうちに、酔ってきたのか気持ち良さそうになって、足をちょっとふらつかせながら鼻歌を歌って、家の方へ帰っていった。
 
 息子の与一は、親父が毎日夕方ほろ酔い加減で帰って来たのは、この霊水を飲んできたからと知り、なんと不思議な事があるものだろう、と思い、それでは自分も飲んでみようと思って、霊水の所へ近づき、」、杓で汲んで飲んでみた。しかし、それはただの水であった。
 
 息子は思わず
 「親は酒酒、子は清水(しゅうど)」
と、つぶやいたという。

 この話が、次第に村の中に広がり、村の人はいつしか、この霊水を「こわしゅうど」と呼ぶようになった。

 その頃、総持寺にいた禅師様が、この話を聞き、「総持寺の霊水にそんなことがあったとは不思議なことだ。」と言って、「子は清水」という字を、もっと目出度い「古和秀水」という字が使われるようになったという。

  最後に余談だが、昭和60年、「日本名水百選」が決められる際に、門前町のこの「古和秀水」は、田鶴浜町(現七尾市)の赤蔵山にある「御洗(みたらし)の池」と鳥越村(現白山市)の「弘法の水」と共に、「日本名水百選」に石川県から選ばれている。

(参考) 能登の霊水

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