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今回は、奥能登で最も雄大な伝説とも云える猿鬼伝説を取上げ、その話1つにしぼった特別編の頁としました。この奥能登を中心に伝わる猿鬼伝説は、調べてみると実に多くの別伝があることがわかります。それらを皆書上げるのも1つの手ですが、そのまま書いたのでは著作権の問題もあります。柳田を中心とした能登に伝わる幾つもの猿鬼伝説を集め、何度も読みこみ、自分のものとなるまで考えが纏まってから、短時日のうちに書上げました。そのため民話の良さの一つである心地よいテンポに欠けるかもしれませんが、もはやどの地区に伝わる猿鬼伝説とも少し内容を異にした源さん版猿鬼伝説とでも呼べるような作品ができました。能登の人の中には、自分らの集落に伝わる猿鬼伝説に似ているが、ちょっと違うなーなどと思うかもしれませんが、そういうことなので、あしからず。
能登の民話伝説(奥能登地区-No.3) 特別編:猿鬼伝説 |
●猿鬼伝説 | ||||
(参考) 猿鬼伝説ゆかりの地名・場所 | 猿鬼伝説別伝との相違 | 猿鬼伝説考 | 猿鬼伝説関連の書物 | 関連リンク | ||||
昔々、大西山(現柳田村)に一匹の荒くれ猿がおりました。最初のうちは、同じ大西山に住む善重郎という猿に従っていましたが、次第に、善重郎の眼を盗んで、麓の人家に悪ふざけなどしました。しかし、成長してさらに力がついてくると、そのうちおおっぴらに勝手気ままに振舞うようになり、人々に危害まで加えるようになりました。 善重郎は、名前の通り、善良な猿でしたので、その猿の悪行を沢山聞くに及んで、「俺の言うことを聞け。悪さはするな。聞けぬのなら、とっととここを出て行け」と、怒鳴りつけました。言うことを聞かぬと、棍棒で殴りかかってきそうな剣幕でしたので、悪猿は、ほうほうの体で、大西山を逃げ出しました。あまりにも急なことだったので、あわてて逃げ出し、そのため近くにあった大岩を踏み割って、それが「三つ岩」になったといいます。 いったん岩井戸の岩穴(現在の岩井戸神社裏の岩窟)に逃げてきたらしいですが、その後も、奥能登のあちこちへ移動し、悪さをしていたようです。そのうち化物のように形相が変わり、18匹の家来も従えるようになりました。もうその頃には、心が荒みきって本物の化物と変化(へんげ)していたのかもしれませんね。 ところで、岩井戸の岩窟がある現在の柳田村の当目というあたりは、昔、巣ヶ前(さがさき)村と呼ばれていました。その岩窟を塒(ねぐら)として、何時しかまた、その化物をはじめとした鬼達が棲みつくようになりました。一説では、現在の輪島市三井(みい)町仁行(にぎょう)の猿鬼谷(さるおがや)から西山の釜ヶ谷を経て棲みついたとあります。 この岩窟は海から数里も離れ、能登の中でも一番海から遠いと言っていい処です。しかし何故か、その井戸では、昔、潮の干満のように周期的な昇降運動が見られたり、イカが跳ね上がったりしたなどということがあったようです。それで、人々の間では、この岩井戸の水は、(現輪島市)曽々木の白崎まで、地下で水脈が続いていると言っていました。彼らが、そこに棲みついたのも、海まで出かけずとも、海の産物が獲れたためかもしれません。
18の眷属(家来)を引き連れた化物は、黒光りした大きな体格をしている割には、すばしっこく、その上、ほとんど疲れを知らない絶倫の体力をもち、奥能登の端から端までを行動範囲として活動していました。そんなすばしこかったせいでしょうか、人々は猿鬼と呼んで、その化物を恐れました。(一説によると、顔容(かおかたち)が猿のように角が生えていたので、猿鬼と名づけられたとも言われています。) 先ほど活動と書きましたが、活動と言っても何も商いや仕事といった真っ当な事をする訳では勿論ありません。毎夜あちこちの集落へ出かけては、農民が一生懸命作った作物や、農作業に欠かせない大事な牛馬、家畜の豚などを食い荒らすのです。時には、子供を攫(さら)ったり、傷つけたり、挙句の果てには、そうした人を酔った勢いで喰らってしまうことさえもしました。人々はそのため、彼ら鬼どもを非常に恐れました。(この頃には、善重郎も年老いて亡くなっていたのかもしれませんね) またその岩穴の前には、天を衝くかのような杉の大木がありました。鬼どもは、その木に登り、人が登れないような高い処に、枝々を組み、紐でしばったりして、木の上に櫓を造りました。そこも猿鬼たちの、棲みかの一部となりました。そして毎晩のように、櫓の上で、村々から掻っ攫ってきた獲物で、日が明けるまで酒盛りしました。そのため近くの村々には、誰憚らぬ鬼どもの大声が毎晩のように響き続けて、人々を恐怖で竦(すく)みあがらせていたたのでした。 人々は、猿鬼を首魁としたこの鬼どもに難儀を感じつつも、しょせん人間の力では抗しようがなく誰もその跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を抑えられないのでした。そこで巣ヶ前村近隣の人々は、集まって相談し、少し離れた三井(現輪島市三井の)に鎮座なされている大幡神社の女神で杉神姫(神杉姫と書く本も多い)という神に何とか退治をお願いしてみることにしました。 「神様、神様、どうぞ、あの猿鬼どもを退治してくだされ。このまま彼らの跋扈を許すと、我村は滅びるしかありません。我村が滅びれば、次は隣りの村です。退治するまで、彼らは能登の人々を苦しめ続けるでしょう。どうぞ何とか退治してくださるようお願いいたします」 杉神姫は、猿鬼の悪行の限りを尽くした横行闊歩(おうこうかっぽ)を知らないわけでなく苦々しい気持ちで見てきました。それだけに「皆の者、あい分かった。微力ながら、力を尽くしてみよう」と、退治を引き受けはしましたものの、あらためて頼まれてみると、相手が手強く思え、容易に退治などできません。そこで、いつでも出向けるように剣や弓矢を携え武装し、いい時期が来るのをじっと待ち構えました。 そうしたある日、村人が猿鬼がどうやら何かの病に罹(か)ったらしいという情報を持ってきました。杉神姫は、岩穴の近くに早速出かけてみました。岩陰からそっと洞窟の中の様子を窺がってみると、確かに「うわぉー、うわーーっ」などと猿鬼らしき声がして、苦しみ悶えているのがわかります。さらに目を凝らしてじっと見てみると、どうやら食あたりでも起こしたらしく、腹を痛そうにおさえているではありませんか。そのうち、困憊しきった姿で、洞窟の中からよろよろと独りで出てきました。 ‘これぞ千載一遇’と思い、杉神姫は、弓をキリキリと引き絞って狙いを定め、絶対当たるとの確信のもと、矢を放ちました。狙い違わず当たりましたが、どうしたことか矢が猿鬼の体に立ちません。そこでさらに二の矢、三の矢と立て続けに矢を放ちましたが、どれだけ放ち、どれだけ猿鬼の体に矢を当てても、全然突き刺さりません。
杉神姫は、‘これでは駄目だ、このままでは手下の鬼どもも出てきて不利になると思い’剣を振り上げて踊りかかり、猿鬼に斬りかかりました。しかし猿鬼は、病に罹ったとはいえ怪力です。黒光りする鋼のように見える手で、横殴りに杉神姫の剣を叩くと、簡単に剣が折れてしまいました。杉神姫は、これでは敵(かな)わない、と思い、大幡神社に逃げ帰りました。 ことの成り行きをじっと遠くから眺めていた村人たちは大変悲観しました。そこで杉神姫は村人に「もうすぐ神無月(10月)、出雲に行かねばならぬから、そこで皆に相談してみましょう」と提案しました。 神無月(10月)に、出雲に出向いてみると、例年のように日本全国から八百万神(やおろずのかみ)が参集していました。杉神姫は、僻遠な奥能登のあまり位の高くない神です。しかし、どんな神でも、皆、多い少いの違いの差はあれど血を分けた神同士です。またできるだけ多くの人々を救おうという気持ちに違いはありません。話を神々の前で思い切って述べてみると、すぐ話は採り上げられ会議となり、猿鬼たちを退治することに決りました。 ただし能登のことは能登の神々で解決すべきということになりました。能登は、昔、大国主命がわざわざ遠征して平定した國です。能登一ノ宮気多大社は大国主命ゆかりの大宮ですが、その能登一ノ宮に現在鎮座する気多大明神が、能登の各神社を守る神々の長として、人々の暮らしを見護っていました。それで気多大明神を(正)将軍、三井の神杉姫を副将軍として、その指揮のもと能登中の神々が合力し、猿鬼を退治することになりました。 霜月(11月)になり、能登に戻った気多大明神をはじめとした神々は、鎧を着け、剣や弓矢を携え、岩井戸の近くまで進みました。正将軍の指揮のもと、岩窟を包囲する陣形で、岩陰などに隠れ、遠巻きにじっと機会を窺がっておりました。夜になると神様方は、篝火を焚いたので、猿鬼方も、これを怪しみ、なかなか出てこようとはしません。一日経ち、二日経ち、それでも出てきません。そのうち、ザザザザザーッと、どしゃぶりの雨が降って来ました。冬の寒い雨に濡れて震えながらも耐え、神様方は、包囲を続けました。 しばらく降り続いた雨がようやくあがると、猿鬼たちは、神様たちも、あの冬雨の中さすがにもう引き揚げただろう、と思ったのでしょうか。「うーあー」と言いつつ背伸びしながら岩窟の中から無警戒と言った様子で出てきました。 正将軍の気多大明神は、「それっ、今だっ、矢を射れ」と号令をかけました。 それと同時に、岩井戸を包囲していた能登中の神様が、猿鬼たちめがけ、一斉に矢を射かけました。何千という矢が、まるで雨霰(あめあられ)のように、猿鬼たちに降りかかりました。しかし、猿鬼たちは、ひょいひょいとこの矢をかわしてしまいます。矢数が多くなっても、素早く手に足に、さらには口にと、それらの矢を掴み取ってしまいます。そして、その矢を折ったり、投げ返してくる始末です。何本かは猿鬼たちにも当たっているはずですが、つるっと滑って落ちたり、撥ね返ってどういうわけか体に刺さりません。 気多大明神は、これでは埒が明かぬと、神様方に「突撃」を敢行させ、剣でもって戦わせました。しかし以前杉神姫が独りで剣で斬りかかった時と同様、猿鬼たちは、神様方の剣を受けて、バシッバシッと折ってしまう有様です。「こりゃたまらん、退散、退散」と声がかかり、神様方はほうほうの体で、元の陣地に逃げ帰りました。 猿鬼どもは、それを見て、神様方をあざけり笑い、悠々と、岩窟に引き揚げました。 無様な失敗を演じた神様方は、このままでは勝負にならぬと、一旦退いて、戦略を練り直すことにしました。神様達は、自分らを追ってきた村人に「なぜ矢が立たないのだろう」と疑問を口ずさむと、村人は「それはこのあたりには漆が沢山とれ、猿鬼たちは、体に漆の汁を塗っては、乾かし、塗っては乾かしして、皮膚自体を鎧の様に堅くしているのです。だから体が黒光りしているのですよ」と。 「なるほど、そういうことか。それで、矢が刺ささらず、剣までも斬れるどころか、逆に折ってしまうんだな。」 神様方は、猿鬼たちに対するいい案がすぐには浮かばず、輪島のあたりまで退却しました。杉神姫は、もともと今回の猿鬼退治軍は、岩井戸に近い村人たちが自分に頼ってきた願い事であっただけに、一番頭を悩ませました。彼女は、神々の間での作戦会議以外の時でも、猿鬼たちを何とかやっつける手は無いか、彼らの弱点は無いか、と始終考え続けていました。 ‘体に漆を塗っていて、剣や矢が効き目がなくとも、必ずどこかに弱点があるはずよ。・・・・・そうだ。眼だ。眼だけは漆は塗れないし、開いていないと戦えない。・・・・・でも矢が立つだけでは死なないなー。・・・・・そうだ、矢に毒を塗れば、それで毒がまわり苦しみ悶えて死ぬはずだ!・・・・・・・・でも猿鬼たちは、あの戦いでは簡単に、矢を除けたり、掴み取っていた。どうすれば良いの?・・・・・・・とにかく千の矢羽を集め、沢山いるしかないな。でも雨霰のように飛んでくる矢を除けたり掴み取ったりする猿鬼の目に、果たして矢数を増やしたくらいでそんなに簡単に眼に当てることができるだろうか・・・・・・・’ここまで考え付いた杉神姫でしたが、心晴れることなく、また思い悩み続けるのでした。 そんなある日、杉神姫が、物思いに耽った表情で稲舟のあたりの海岸を逍遥していると、浜際を洗う波の音が「ツツツツツヤー。ツツツツツヤー。ざぶーん。ツツツツツヤー。ツツツツツヤー。」と聞こえました。それは何でも無いただのさざ波の音でした。でも何か啓示のように思えたのでしょうか。その時、杉神姫はハッとした顔をして「そうだ、筒だ、筒矢にすればいいんだ!」と叫びました。‘矢の先を筒にして、筒の中にさらに細竹で作った矢を入れておけば、たとえ手で掴み取っても、筒の中から矢が飛び出し、猿鬼に当たるはず。その中矢に毒を塗れば、眼にあたった場合・・・・・’ 名案が浮かんだ杉神姫は、急いで皆のいるもとに戻り、一ノ宮の気多大明神に提案しました。確かに名案なので、すぐ採用し、村人にも協力してもらい、準備に取り掛かることになりました。人々や神々は、山や野を駈けずりまわって毒ウツギや沢山の毒草を集めて煮詰め毒を抽出しました。また竹や鳥の羽を集め、杉神姫の指揮のもと、筒矢という2重仕掛けの矢羽を千本作りました。 そして杉神姫は、それとは別に京に使者の神を派遣しました。源頼光の四天王といわれた家来の一人で、かつて鬼の腕を斬りとったという渡辺綱が使った鬼斬丸という名刀を、現在保持する比叡山の神に借り受けに行かせました。さらに他にも何か思案があるらしく、村人たちには、千反の白い布を用意するように頼み、集めさせ、足りない分は急いで織らせました。 準備が整うと、神様たちは、再度岩井戸前に進軍しました。そして岩陰などに身を屈めながら、岩窟を包囲しました。猿鬼たちも、神様方の力をあなどってはいるものの、警戒して中々出てきません。鬼どもの得意な夜を待つのでしょう。それも見越していた杉神姫は、夜になると、神々に白い布を衣として纏わせ、自身も天女のように優雅に白布を纏いました。しかし神々のその白布の下には、毒をたっぷり塗った筒矢と剣をそっと隠しています。また千の矢を一斉に射るためには、能登の神々だけでは足りぬので、村人たちも、そっと呼び寄せ、余った弓矢を持たせ、岩の陰に伏せさせました。 篝火を焚かせ、見せ掛けの酒(つまり水が)入った徳利やおちょこ、それに肴を載せた皿などを用意させてから、神々に笛・三味線・琴などを鳴らさせました。そして杉神姫は、白い布を纏いながら、岩の台石の上に立ち、音曲に調べに合わせながら踊るのでした。天の岩戸伝説のアメノウズメの場面にも似ていますが、あの時のようにエロチックではなく、その若葉の如く美しい姿でもってまことに優雅に踊るので、神々も芝居を忘れ、思わずうっとりするほどの舞でした。それで一舞ごとにやんやの歓声です。 洞窟の鬼たちは、自分らの好きな夜にもなったこともあり、外の賑やかさにつられ、一匹、二匹と、少しづつ様子見に出てきました。前回の戦いで、神々の力量を見下すようになっていたこともありますし、向う(神々の)側も戦闘態勢でなく、酒宴のようなので、警戒を解いて出てきたのです。鬼どもが出てきても、神様たちは知らんぷりして、杉神姫が踊る石舞台を中心に、酒を呑みながらやんややんや饗宴に興じています。 「御頭、あやつらの陣地の石の台の上で、綺麗な女子が踊ってますぜ。冷やかしてやりませんかー」「おそらく、饗宴を見せ付けることで、我々等怖くないという示威行動だろう。しゃらくせい。一丁脅かしてやるわい。」 猿鬼は、手下の鬼どもの声に呼び出されるように洞窟の外に出てきました。もともと他の鬼たちとは違い、一際眼光鋭い猿鬼です。周囲を赤々と照らす篝火の光で、眼が金色にキラッと光りました。岩陰の少し暗がりで、洞窟の方を一人じっと窺がっていた気多大明神は、その時「今だーっ」と声をかけました。神々は白い衣をさっと脱ぎすてると、光る眼を目印に、弓を構え、すぐにヒョーッと射掛けてきました。村人も一斉に立ち上がり矢を射掛けます。 「おのれーっ」と猿鬼は、飛んでくる矢をかわしたり、叩き落したりしながら一声吼えました。その時、石舞台の上からキリキリと狙いを定めていた杉神姫の矢がひょーっと放たれました。狙い違わず、真っ直ぐ猿鬼の眼に飛んできます。それを猿鬼は、手でパシッと掴みとりました。しかしそれは矢の筒の部分。筒の中から、掴んだ衝撃でさらに矢が飛び出し、その毒矢が眼に突き刺さりました。 「ギャーーーツ」と叫びながら、矢の刺さった眼を押えて猿鬼は転びまわりました。矢を抜き取ると、猿鬼は、手下の鬼どもの一部をしんがりとして防ぎに残し、他の鬼どもの肩にささえられながら、逃げていきました。やっと隣りの谷まで、逃げました。眼の傷をオオバコという薬草の汁で洗いました。しかし、しんがりの鬼どもも蹴散らしてきたのでしょう。杉神姫を先頭に神々が歓声を上げてやってきます。 今回は杉神姫がもっている剣はただの剣ではありません。2尺1一寸の冷澄な光りを放つ、あの名刀鬼斬丸です。杉神姫の前に立ちはだかった漆で固められた鬼どもの体も、この鬼斬丸には効き目がありません。バシッバシッと斬られ薙ぎ倒されていきます。猿鬼は、さらに逃げましたが、川の畔でとうとう追いつかれ、とうとう首を斬られてしまいました。 あたりには猿鬼の血が流れ、しばらくの間、川がドス黒く濁るほど延々と血が下流に流れてゆきました。 | ||||
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猿鬼伝説ゆかりの地名・場所
) 猿鬼退治の事件のその後、この事件にゆかりの地名が能登各地に出来ました。 ●大杉・・・・当目の岩穴に居を移した猿鬼は、仁行(にぎょう)の古屋谷にあったという天を衝くかのような大きな杉の木に登っては下を通る人々を脅したそうですが、この大杉のあったところが大杉。 ●本江(ほんごう)・・・・大杉の一の枝の下。 ●仁行(にぎょう)・・・・・大杉のニの枝の下。 ●中村・・・・・大杉の中ほど ●洲江(すえ)・・・大杉の枝の末(末端)だったところ。 ●駒寄(コマセ)・・・・・神様がたが、猿鬼退治のために軍備を整え、終結した処といわれています。 ●神和住(かみわすみ)・・・・・最初は「神林」と書いたらしい。多分訛ってこうなったのだろう。最初の神々との戦いで、敗退した神々が退却の途中休まられた処といわれています。此処はまたはあのプロテニスプレーヤー神和住純の父親の出身地として能登では知られています。 ●当目(トウメ)・・・・・猿鬼の眼に矢があたった処といわれています。 ●大箱(オオバコ)・・・・・猿鬼が、矢が突き刺さった眼を、オオバコの薬草で洗った処と言われています。別伝では、猿鬼の亡骸を大きな箱に入れて運び、塚(墓)を造り埋葬したから大箱とい説もある。 ●一布(いちぬの)・・・・・神杉姫(杉神姫)は、白い布を身に纏って踊り、「岩井戸」と呼ばれる洞窟に潜んだ猿鬼をおびき出した。その際に、一級品の布を献上した村人に与えられた名前が「一布」で、村人が住んでいた地は一布地と呼ばれ、中級の布を献上した村人の住んでいた場所は中の地と呼ばれている。 ●黒川(クロガワ)・・・・・猿鬼の首が斬られ、血が川を黒く濁したといわれる。 ●五十里(イカリ)・・・・・猿鬼の血が延々と五十里(約20km)ほど流れて続いたということから付いた地名。 ●鬼塚(おにづか)・・・・・神様方が、猿鬼を手厚く葬った場所。(柳田村大箱) ●歌波の浜(うたなみのはま)・・・・・稲舟のあたりの海岸で、杉神姫が「筒矢」のお告げを聞いた処と言われています。別伝では波の音が「神杉よ 白反二(千)反に 身を隠し 筒の矢作り射さたまえよ」と31文字の歌のように聞こえたとあり、歌波と呼ばれるようになったらしい。 ●千徳(せんとく)・・・・・千本の矢のための毒を沢山採取したところ。最初は千毒と書いたのが、字が縁起のいい千徳にかわったという。 ●岩井戸神社(いわいどじんじゃ)・・・・・今も当目に残る岩井戸の岩窟の前にある神社で、古くから「猿鬼の宮」とか「猿鬼神社」と呼ばれて住民から親しまれていたらしい。 ●猿鬼の宮・・・・・=岩井戸神社と同じ。猿鬼が退治された後、村人たちは「岩井戸」の近くに祠を建て猿鬼の霊を祀り「猿鬼の宮」と呼んだ。現在は岩井戸神社と改称され、弘化2年(1845)に書かれた「猿鬼岩窟伝記之写」が伝わっており、社叢は村の天然記念物に指定されている。 ●大幡神杉豆牟比咩神社・・・・・今でも杉神姫(または神杉姫)を祀る輪島市三井町本江にある神社。昔は神杉姫神社といったらしい。 ●大西山(おおにしやま)・・・・・猿鬼伝説の発祥の地といわれています。最初に猿鬼達が塒として、大いに暴れていたところが大西山といわれ、ここを追い払われて、当目の岩井戸の岩窟に移ったとなっています。 ●猿鬼の三つ岩(みついわ)・・・・・大西山にあり、善重郎(または神様)に追われて大西山から当目に行く途中、大岩を踏み割り、岩が3つになったという伝説の地。 以下 のとツーリズムBlog に書かれていた`三つ岩’の内容です(一応断ってもと転載させてもらいました)。 ここでは猿鬼を追い出したのは善重郎でなく神様となっています。 「ある年の正月の朝、隠れ住んでいた“猿鬼の隠れ岩”で猿鬼は、大きな大きな鯛を食べていたそうです。こんな山奥なのにどうやって鯛を持ってきたのかは分かりませんが、たぶん子分に捕りに行かせたか、付近の人から奪ったんでしょう。 猿鬼がむしゃむしゃと鯛を食べているところに偶然、大西山の神が通りかかり猿鬼を怒りつけたそうです。怒られたということはやはり付近の人から鯛を奪ったんでしょうね。山村の人が鯛を買うなんて大変なことだったでしょうに・・・。 で猿鬼ですが、突然あらわれた神様にいきなり怒られたんでビックリしちゃって、ジャンプして逃げ出そうとしたそうです。その踏ん張った際に3つに割れた岩がこの“三岩”。高さは5mはあるかと思われる大岩ですが、ジャンプで踏ん張って岩が割れるなんて、猿鬼ってすごいですねぇ。」 ●猿鬼の隠れ岩・・・・・大西山にある。 ●猿鬼の逃げ道・・・・大西山にある。 ●釜渕(かまふち)・釜が谷(かまがたに)・・・・・大西山の麓にある谷と渕で、この谷(釜が谷)には、足の形をした渕があり、猿鬼がそこで行水をしたとも伝えられています。そこには鬼が追われて逃げる際歌ったといわれる歌碑が残り、そこには「ほとほとと 行くや当目の 岩屋堂へ 二度と帰らん ああ釜が谷(釜ん谷)」と書かれています。昔は鬼も結構教養があり優雅だったんですかね。 | ||||
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猿鬼伝説別伝との相違
) はじめに述べたようにこの猿鬼伝説は、広く能登に普及しており、多くの別伝があります。 まず主人公の「杉神姫」も、「神杉姫」と書くもの2通りあるようです。また猿鬼が柳田村の大西山に最初いたという話もあれば、猿鬼が、よそから岩井戸の岩穴に棲みつくようになったとあり、大西山に最初いたことなど書いていない別伝も多数あります。 大西山で悪さした猿を追い出したのは、善重郎でなく、神様と書いた本もかなり多い(善重郎と書いた本よりも多いかも)ようです。中には猿鬼の悪さに業をにやした村人たちが、一致団結し知恵を絞りあったというものもあります。その話では、ある夜、“猿鬼の足跡”といわれる甌穴で気持ち良さそうに行水をする猿鬼を見かけた村人たちが、ここぞとばかりに太鼓を打ち鳴らし奇声をあげたところ、さすがの猿鬼も驚き、西山から岩井戸へ逃げ込んだ、というものです。 また西山で追い出した時の状況も、正月で酒を飲んで油断している時だったという話もあります。猿鬼は、また西山から逃げる時に、 「♪ほとほとと 行くや 当目の岩屋堂へ 二度と帰らん 釜ヶ谷」 という歌を岩に掘りこんでいったとも伝えられていますが、今はありません。 猿鬼も、すばしっこいから猿鬼と呼ばれたとするものや、猿のような顔だったから、とか猿の頭に角が生えていたので、猿鬼と呼ばれたとか色々あるようです。また猿鬼を退治したのも、杉神姫でなく、垂神天皇の第13皇子で能登の国主として赴任していた石衝別命(いしつきわけのみこ)や大穴持命(おおあなもちょのみこと)というのももあります。 あの「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木しげる氏は、『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』という本で、は、「この「猿鬼」の暴行を見かねた八百万(やおろず)の神々が、出雲に集まり相談した結果、能登一ノ宮・気多大明神が神軍の大将をつとめ、三井(みい)の女神・神杉姫が副将として軍となって、退治に出陣したという。」 (ここでちょっと勘考。大穴持命は、別名大国主命である。また気多神社の主神は大国主命である。層考えると大国主命も、大穴持命も、気多大明神も名前は違えど同じ神様を指しているということになる) こうなると時代的にも、かなり古い時代になり、主人公が誰であれ、猿鬼を斬った名刀が、渡辺綱が使っていた鬼斬丸というのも矛盾してきます。また平安時代以降の話としても、この名刀に関しては、備前長船とか、三条宗近の名刀、単に名剣とか色々書かれているようです。 筒矢をはじめとした策略を思いつく話も、稲舟の浜で、「神杉よ 白反二(千)反に 身を隠し 筒の矢作り 射さたまえよ」と啓示を受けたという話の方が多く、実は私の話の波の音で「筒矢」を思いついたというのは、少数派に近いです。話としてはこちらの方が面白いので、こちらを採用しました。また仕切りなおしの戦いを始める前に岩井戸の前で饗宴したという話もありますが、稲舟の浜で聞いた歌に忠実に「白布」を纏い、隠れながら猿鬼たちが洞窟から出てくるのを、じっと待ったというものもあります。白い布を纏ったのでは、常識的には逆に眼につき易いように思われます。でもよく考えると、この戦いは冬に行われた可能性が高いですから、もしかしたら、雪を背景とした場面では、逆に姿をくらますことができたということになり、こちらの方が真実味があるのかもしれません。 猿鬼が、首を斬られたという話もあれば、また毒がまわって死んだという話もあるようです。戦いの舞台も、岩井戸近辺のものもあれば、三井の大幡神社付近までおびき出したという話もあります。 とにかく、柳田を中心としたから奥能登から能登島など中能登までも含めた広範囲な地域で、伝えられてきた伝説なので異説・別伝が色々あるようです。 七尾の青柏祭の話などは同様に猿が悪さをする伝説ですが、別伝がほとんどないのとは対照的であります。 | ||||
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猿鬼伝説考
) 猿鬼伝説は、事実かといわれれば、まあそのような化物がいたとは現代科学からは否定されるのみですが、では全くのフィクションかと言えば、こうも奥能登に広く普及している話であることを考えると、私は何かしらの歴史的事実を反映した話であると想像しています。古事記・日本書紀にしても同様のことが言えることは、皆さんも何度か耳にしていると思います。日本においてはむしろ、古代の伝説において、戦いに勝った側が、相手を鬼として書くなど普通のことに思えます。私は、だからこの伝説も、基の話となった事件は古代以前のことと思います。それが石衝別命の時代の話なのか、大国主命の時代の話なのか、はたまたそれ以前の話なのかは今は勿論知る由もありませんが。 この伝説も平国祭の由来である大国主命の能登平定の話と同様、いつの時代かは分からぬが能登の支配者の国平定の物語、あるいは異民族征伐とか侵略を防いだという話が、こういう形で変形した(あるいは採りいれられた)のではないでしょうか。いやそれだけではないのでしょう。大西山付近で出来た悪い猿(鬼)の伝説や、他の色々な伝説がこのような国造り伝説と合わさったできたのではないでしょうか。 能登の神社の神様を調べてみると、大国主命関係の神々、石衝別命関係の神々、それに猿田彦をはじめとする渡来系の神々が多いことがわかります。勿論、八幡神社や、稲荷神社、天神様など全国あまねくある神社も数多くありますが、化物退治や国平定伝説のようなものが伝えられている神社は、先に挙げた3系統の神社が多いです。 これらのことから私は次のような考えというか想像をかなり前からもっています。それは縄文時代、真脇遺跡に住んでいた人々をはじめとした巨木文化があり、同様の巨木文化を持っていた出雲や三内丸山など他の日本の地方にも、かなり知られていたのではないでしょうか。これらの人々は旧中島町の枠旗祭(お熊甲祭り)の猿田彦伝説に見られるように、渡来系の知識人がやってきて、それらの技術を導入していたのかもしれません。 その後、弥生時代が始まる頃、というか稲作文化を携えて、後世、大国主命の能登平定と形を変えて伝えられる出雲系の人々の移住があったのではないでしょうか。大国主命が最初にやってきた羽咋の一の宮付近は、石川県で最古の弥生遺跡と言われている邑知潟横の吉崎・次場遺跡(羽咋市)とは距離的にも近いです。そしてその文化は急速に能登全域に広がりました。稲の文化を携えた人が能登へ広がっていった故事を、その時のリーダーを大国主命に仮託することにより、羽咋から七尾に伝わる平国祭に纏わる伝説や内浦町の伴旗祭という伝説になったのではないでしょうか。 大和政権の力が強くなってくると、今度は、出雲系の政権が悪者となり、石衝別命の征討となり、それらがま今でも能登各地に残る石衝別命の化物退治の歴史になったのではないでしょうか。勿論、大国主命と石衝別命の伝説に出てくる化物は、実際には化物ではなく、彼らにとっては敵の異民族だったのでしょう。 猿鬼伝説は、そういう国造り伝説、能登平定伝説の奥能登の話が、いろいろな他の伝説と合わさって出来た雄大な伝説となったのではないでしょうか。大西山の伝説は、もしかしたら自然の奇形から出来た単なる謂れの伝説が、大江山の鬼伝説のようになったのかもしれません。一旦大西山を追い出された悪猿が、別の場所で跋扈し、また退治されるという話など、よく考えてみると、七尾の青柏祭の話とも似ています。あれは越後で暴れていた三匹の悪猿たちが、しゅけんという白い狼と戦い2匹まで殺され、一匹が逃げて能登にやってきて跋扈していたのを、猿に娘が人身御供にされそうになった親が、しゅけんを見つけ出すことによって退治してもらうというものでした。こういう猿鬼あるいは悪猿伝説は全国各地にもあるようです。また杉神姫が、岩井戸の岩窟前で、神々が奏でる調べにあわせ踊るなどという場面は、天岩戸伝説のアメノウズメを連想させます。また猿鬼伝説の三井に伝えられている話では、神々側が五色の旗を掲げたようなことが書かれていますが、大国主命の能登平定ゆかりの祭りである内浦町小木の伴旗祭でも、五色の旗を掲げ、海を進んだら、荒波がおさまったという話があり、関連を想起させます。 このようなことから私は、この猿鬼伝説は、国平定の話と能登各地や全国に伝わる各種伝説が、想像豊かな奥能登の人々によって合わせられ、ちょっとした叙事詩を思わせる雄大な伝説へと変形したのだ思うのです。勿論、これはあくまで私の説です。 皆さんは、こういう説に、こだわることなく、私のHPで、多少なりとも能登の伝説を楽しんでもらえば、私としては、それに越した事はありません。 | ||||
(猿鬼伝説関連の書物)
「柳田村伝説記」 「能登志徴」(昭和初期、森田平次著) 「能登名跡志」(安永6年(1777)・加賀藩士の太田頼資著) 「輪島ものがたり 巻三(全五巻)—ふるさとの風と光と—」(輪島商工会議所「語り部会」) 「妖怪・神様に出会える異界(ところ)」(水木しげる著・PHP研究所) |
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