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  能登の民話伝説

 口能登というのは、中能登を含んで言う場合もありますが、ここでは加賀との境界から羽咋市及び羽咋郡の町々の地域を口能登の範囲とさせてもらいました。この頁では、上記の範囲の中で南部にあたる志雄町の民話伝説を採り上げさせてもらいました。「三州奇談」から採った話は、私の拙い現代語訳(一部意図的に意訳した)のため、誤訳も一部あるかもしれません。でも大意は大筋間違っていないと思います。そんな訳で重大な誤訳以外は、抗議など、ご容赦願います。
能登の民話伝説(口能登地区-No.1)

<宝達志水町の中の旧・志雄町地域の民話伝説>  
サクライチのガメの徳利 
   参考:加賀・能登の伝説(日本の伝説12)・角川書店 
   「志雄町の民話と伝承 第一輯」(志雄町教育委員会)の中の
『不思議な徳利』
 宝達志水町(旧・志雄町)敷浪に現在もサクライチ(桜池)と呼ばれ農業用水として使われている大きな溜め池があります。その昔、この近くに6軒の百姓家があり、その中の一軒に寺尾五右衛門というものがおりました。五右衛門は、馬を1頭飼っており、それはそれはわが子のように大変可愛がっておりました。

 ある日五右衛門が、この池でせっせと馬の足を洗っていると、どうしたのか馬が急に暴れ出しました。五右衛門は上手に御して馬を鎮めながら周りをよくみた。するとガメ(亀またはスッポン)が、馬の脚に噛み付き、馬を池の中に引きずり込もうとしていました。
 五右衛門は、大そう腹を立てました。叩き殺そして鍋にでもしてやろうと思い、近くにあった木の棒を拾い、その手を振り上げました。しかしその棍棒を振り下ろす前に、ガメをひょいと見ると、涙を流して「どうか命ばかりはお助け下さい」と哀訴しているように見えたました。五右衛門は、心根はもともと優しかったので、ガメが可愛そうになり、棍棒を放り投げて、今回は見逃してやることにしました。

 その夜、夢にそのガメが現れました。「五右衛門さん、五右衛門さん、昼はようこそ助けていただき有難うございました。大事な馬を水中へ引き摺り込もうとふと悪いことを考え申し訳ないことをしてしました。でも許していただき、ホントに何とお礼を申したらよいかわかりません。これはほんのつまらないものですが受け取って下さい。」と言って、枕元に徳利を置いて消えてしまいました。

 あくる朝、そんな夢を見たことも気にしないで目覚めてみると、枕元にホントに徳利が置いてある。少し汚れた徳利でしたが、持ってみると満たされているのか重い感じです。栓を抜き取って鼻で嗅いでみると、何ともいえない芳香もします。どうやら実際に酒が入っているようです。五右衛門は、酒好きでしたので試しに一口飲んでみました。それは芳醇な極上の酒で、とてもいい気持ちになりました。五右衛門は大そう喜び一気にゴクゴク飲み干してしまいました。そして空になった徳利を棚の上に置きました。

 五右衛門は、空になったはずの徳利を、翌朝何の気なしに、持ちあげてみると、不思議や不思議、徳利がまた酒で満たされているではありませんか。彼はまた酒を一気に飲み、徳利を空にして棚の上にあげて置きました。ところが、次の日も、その次の日も、徳利の中の酒を飲み干して棚の上に置いておけば、翌朝までには、酒がなみなみと一杯になっているのでした。五右衛門は、その徳利をくれたガメに、大変感謝して、毎日過しておりました。

 こんな不思議が続き、五右衛門の家の暮らしも豊かになり、身分も次第に高くなりました。五右衛門は、「あれもこれも、あの徳利のお蔭やなー。」と、その汚れた徳利を、それはそれ大変大切にしておりました。
 ところが、ある時、徳利が何の失態をした訳でもないのに、細長い口が突如、カチャと音をたて欠けてしまいました。五右衛門は、別に気にはしませんでしたが、これまた不思議なことに、酒はそれからもう一滴も出なくなりました。人々は「大方、ガメも死んだので徳利の寿命も尽きたのだろう」と言い合いました。五右衛門は、大変残念がりましたが、皆にそういわれ、諦めました。

 とはいえ家を栄えさせた徳利です。家宝のように大事にしていましたが、それから大分年月も経ち、家の主も代々変わりました。今では、 この徳利は、千葉県船橋市に住む五右衛門の子孫が、その徳利を欲しいと言って来たので、あげたそうです。
 千葉のその子孫は、その徳利の口を、丁寧に直して、家宝にして大切にしておったら、その家もだんだんと栄えていったそうです。それであの不思議な徳利のせいではないか、と言われているそうです。
鍵取明神の名の由来 参考:加賀・能登の伝説(日本の伝説12)・角川書店
 旧志雄町(現在・宝達志水町)の国道156号線の右手の丘陵に今でも志乎(しお)神社が鎮座しますが、この神社の別名を鍵取(かぎとりorかいとり)明神といいます。毎年、10月、つまり神無月には、能登の神々も出雲へ出かけられますが、志乎の神様だけは留守番となり、鍵を預かって国内を守護なさるといわれています。
 ただし留守をするのは主神ではなく(主神はヤマタノオロチ退治で有名な素戔嗚尊(すさのおのみこと))、留守の役を仰せ付けられた鍵取明神。
 このあり様は能登一ノ宮の祭神(主神)が大国主命であるが、気多大明神の社(やしろ)でもあるというのとよく似ています。
 恐らく元々の主神(祭神)は、鍵取明神だったのでしょう。後から素戔嗚尊も合祀し、格は素戔嗚尊の方が遥かに高いから主神となたのではないでしょうか。
 とにかくこのような事情で10月のことを、旧志雄町のこの周辺では出雲と同じように神在月と呼ぶそうです。
 神社の正式名は志乎神社ですが、地元の人々からは鍵取明神の方の呼び名もかなり親しまれているようです。
渋谷(しぶた)川の夫婦石とがんが淵 参考:「志雄町の民話と伝承 第一輯」志雄町教育委員会
 新宮村(現・志雄町新宮)のお寺の裏を渋谷(しぶた)川という大変きれいな川が流れています。この川の水は、また大変美味しいので、昔はよく酒屋さんが酒造りに用いたそうです。この川には、昔から不思議な言い伝えがあり、今でも伝えられています。
 渋谷川には、昔から、「渋谷の夫婦石」と呼ばれる大岩がありました。ある日のこと、自然にその夫婦岩がどうした訳か割れてしまいました。すると、それとは関係があったかどうかわかりませんが、奇妙にもその年、新宮村では、大変さかんに、あちこちの家でお嫁さんの出入り(お嫁さんの入れ替え)があったそうです。

 またこの川の一番上流には滝があり、水が落下している場所は、長い年月の間に穿(うが)たれて、窪みとなり、底が3つか4つの大穴になって、深い大きな淵ができていました。村の人々は、そこを「がん(カニ)が淵」と呼んでいます。次にその由来を述べましょう。
 昔々、原村(現・志雄町原)の人で、いつもそこを通って、山を行ったり来たりしている男がいました。

 ある日のこと、いつものようにその男が川伝いに歩いていくと、今までに見たことも無い大きなカニを見つけました。
 その男は「これはよい獲物を見つけたわい。」と、急いでそのカニを捕まえて、かがり(縄で編んだ背負袋)に入れて持ち帰ろうと思いました。大きなかがりでしたが、あまりに大きいカニなので、一匹入れただけで一杯になってしまいました。
 「ヨッコラショ、ヨッコラショ。」とそれを担いで川を渡っていると、何やら遠くの方から、「オーイ、オーイ」と自
分を呼んでいるような声が聞こえました。するとその途端に背中のかがりの中のカニが、「オーイ」と答えるではありませんか。

 その男は、吃驚仰天して、気味が悪くなり、急いでそのカニを、その場所にほっぽりだして逃げました。放り出されたカニもまた一目散に元の淵に逃げ帰りました。おそらくその川に古くから棲んでいる夫婦カニで、歳とともに智恵がつき言葉が話せるようになったのでしょう。川の主のような存在だったかもしれません。

 村の人々はそのことがあって以来、その淵を「がんが淵」と呼ぶようになったということです。そのカニは、夫婦で、別れたくない一心で、呼び合ったんだろうなあと人々はいいあいました。そのカニ夫婦と夫婦石との間に、どんな関係があったかは今となってはわかりませんが、そんな話が今に伝えられています。
峨山松  参考:「志雄町の民話と伝承 第一輯」志雄町教育委員会 
 昔、敷浪村と宿(しゅく)村との境に「大久保山」という場所があり、そこに松の大木が茂っていました。それはそれは大変大きなもので、木の傘の下に何十人もの人が座れるぐらいどっしりとした松の木でした。

 この辺りは、海が山に迫り、海岸沿いに歩いて行く方法もあるのですが、集落がある街道沿いに行き来する旅人には、海岸道は迂回路となります。それだけにこの道は越中・能登方面と加賀を結ぶ街道の一つをなしていました。

 昔々、その松の木から少し離れた所に、‘がさんまつ’と言う名の若くて大変荒っぽい気の強そうな顔の男が、小さな小屋を建てて住んでおりました。彼には、それでも妻がおり、物盗りや追いはぎをしては、旅の人をあやめて暮らしていました。

 どうやるのかというと、がさんまつは、毎日毎日その大きな松の木にいとも簡単にスルスル登っては、木の股にどっかりと座り込み、松の木の下の道を歩いていく旅人の様子を眺めて金になりそうなカモを待つのでした。お金をもっていそうな人や、立派な着物を着た人たちを見つけ次第、木をするする降りて、脅かし、お金を巻き上げたり、着ぐるみ剥ぎ取ったりして、旅人を困らせていました。

 ある日のこと、いつもの様に、松の木に登って、道の向うから獲物がやって来ないか、と眺めていました。どれだけたった頃でしょうか、がさんまつの目に、それはそれは立派な着物を身につけた娘と、その娘のお供らしい女の二人連れが、急ぎ足でこちらへ歩いてくるのが見えました。娘は身なりからして、相当名のある大店のお嬢さんらしく、顔立ちも大そう美しく、気品もありました。またお供している人は、店の使用人らしくいかにも忠実そうにぴったりとくっ付いて歩いていました。

 がさんまつは、「しめしめ、これは相当なカモだぞ。しかも、うまい具合に、二人の前にも後ろにも、人影が見当たらないぞ。」と、思いながら、松の木からするりと降りて、木の陰に隠れて、二人が近づいてくるのを待ち伏せしました。

 そして松の木の前まで来ると、二人の前に両手一杯拡げて立ちはだかり、
 「おい、こらっ!待ちな!そこの二人、命が惜しかったら、着ている着物身ぐるみ脱いで、着物とお金を、そこに置いていきな!」
と、ドスの効いた声で驚かしました。

 娘とお供の者は、声も出ないほど吃驚しました。逆らえば何をされるかわからないと思って、言われた通りに大人しく来ていた着物を脱ぎ、財布と一緒に松の木の下にそっと置きました。そしてお供の人は、「命だけはお助け下さいませ。せめてお嬢さんだけでも助けて下さりませ。」と、ヘタヘタと座り込み、震える声で、がさんまつに命乞いをしました。

 がさんまつは、「おまえ達の命なんぞとっても何の足しにもならぬわ。これだけ貰えればいいのよ。もう用は無いから、行ってもいいぞ。さっさと消えうせな!」と、奪った品を脇に抱え、大きな声で怒鳴りつけました。
 身ぐるみはがされた娘とお供の人は、真っ青な顔で打ち震えていましたが、気が変わって殺されないうちにと、お供が娘を抱え起こすとすぐに、途中何度も転びそうになりながらも、一目散に逃げていきました。

 それから、その娘とお供の人が、すぐに役人に訴えに行ったのか、それとも、どこかのうちへ飛び込み、助けを求めたのか、またそのまま、自分のうちまでやっとのことで逃げ帰って行ったのかどうかは知りません。逃げ足には自信がありましたから、手に負えない追っ手が来たら逃げるだけ。そんなことは、がさんまつにはどうでもよく、彼は、気を良くして、小屋の方へ帰っていきました。

 小屋に帰ると、がさんまつは、早速、脅し取って持ち帰ってきたものを、自慢げに妻に渡して、今回の追い剥ぎの一部始終を話しました。女房は、がさんまつの話も、うわの空で、奪ってきたものをあれやこれやと手にとってじっくりと品定めしていました。がさんまつの話が終わると、妻は、がさんまつに、こう言いました。

 「その娘っ子は、この着物から想像するに、さぞや相当大きなお店の娘じゃったろうな。」
 「そうや、いかにも大店の娘らしく服も立派じゃが、顔も言葉やしぐさも上品だったぞよ。」と答えると、妻は
 「ならば髪の毛の、綺麗じゃったろ。黒光りする立派な髪の毛をしていたのに違いなかろうに。どうだった?お前さん!」と聞いてきます。
 がさんまつは、「顔はまれにみる美人じゃったがなー、髪の毛はどうだったかな。うーーむ、そういわれてみると、そうだ、何ともいえぬ綺麗な黒髪をしていたような気がする。」と答えました。

 それを聞いた妻は、急に顔を真っ赤にして怒鳴り出しました。
 「何で、その娘っ子の髪の毛を切って持ってこなかったの。何で髪の毛を切らなかったのや。あーーおらの髪の毛にしたかったのに!」

 がさんまつは、その言葉を聞いて、「うちの女房は何と恐ろしいやっちゃ。何を考えておるんやろう。女の命ともいえる髪の毛を切ってこいとはなあー。何と恐ろしい、鬼のような女だわい。」と、つくづく愛想を尽かしました。妻とはそれを機にあっさりと別れることにしました。何も告げずに妻のもとを去りました。

 それからのがさんまつですが、今までの悪さを悔い改めようと仏門に入ったといいます。そして後々に立派なお坊さんになったと伝える話もあります。それらの話では、このお坊さんこそ、永光寺と総持寺の二寺の住持を兼ね、52km離れた二寺を毎日通ったといわれる有名な峨山禅師と伝えるものが多いようです。(また蛾山が二寺の間を往復するのに利用した道を峨山道と言われる)
 
 峨山は曹洞宗の方の記録では、16歳で比叡山に修行に出て、その後、瑩山禅師との問答で禅師に傾倒したとあります。よって、この話は、何の関係もない可能性が高いかと思います。 ただし、峨山は、当時の羽咋郡瓜生(現在の河北郡津幡町瓜生)出身と言われ、比叡山に登る16歳までのことや、比叡山を出た後、瑩山禅師と出会うまで不明な点だらけであり、二寺を毎日通ったという話からも修験者のような事をしていた時期もあるのではと想像され、その頃、もしかしたらこのような事をしていたこともあったのかもしれません。

 まー何しろ、がさんまつが毎日登っていたという謂れにより、この松が峨山松とよばれるようになりました。がさんまつは、実の名ではなく、松の大木に巣食った悪党のあだ名のようなものだったのでしょう。

 ところで、その後の「峨山松」ですが、今ではその松の木はありません。幕末の頃、子浦(しお)の専勝寺の再建の時、伐採されて、本堂の欄間に使用されていると言うことです。
氏神様と與四兵衛 抜粋:「志雄町の民話と伝承 第一輯」志雄町教育委員会 
 杉野屋村の中で、いろいろ文献を調べてみると、一番古い家は、與四兵衛(よしべい)の家だそうである。
 その先祖は善信と言う人で、元は京都の北野天満宮の住人神官であったという。
 菅原道真公が薨去されてから四十年後、村上天皇の御世の天徳四年(960)六月、夢のお告げの神託で、京都の北野天満宮から菅公御自作の尊像一体と、観音菩薩像一体とに、供奉して善信は杉野屋に来て、これをお護りしながらここに永住されたと伝えられている。

 善信(吉信)家は、その後何代目かに家が火災に遭い、このとき所蔵していた文献はことごとく灰燼に帰してしまった、と言われているが、他の家に残されている古文書や傍証で、吉信家のことがわかる。 
 それによると、その子孫に「左近」という学者が輩出していると言い伝えられており、羽咋郡誌によれば、吉信の子孫で、文永年間(1264〜1274)に、北野由信が石坂村に分家してこの地を開墾したという。その上でこの地を石坂と命名したと言われている。

 とすれば、石坂村の先祖であったと言うことができる。
 善信の家は、そのように古い家柄であり、村では常に親分格、棟梁格であったことも当然であり、このような伝承が今に受け継がれているのである。

 また、善信家の屋敷の中に、大判や小判を詰めた甕(かめ)を埋めてあり、若(も)しも神社や自分の家に不幸な事態が出来したとき金子が必要ならば、その甕を掘り出して、その難を救うようにしてあるという。
 明治三十五年(1902)五月十四日に杉野屋の天満宮が類焼に遭ったとき、御神体の菅公が、與四兵衛の夢の中で神託があり「早く救出してほしい」とのお告げがあったという。
 それで與四兵衛は、いち早く神社に駆けつけて、御神体を無事救出してこの災難をの免れた、と伝えられている。

 今でもこのように、與四兵衛家と氏神である天満宮は、切っても切れない縁(えにし)で結ばれていると信じられている。

 ※今回は「志雄町の民話と伝承」の中に載っている話をそのまま転載させてもらった(ただし漢字の誤植など一部訂正)。志雄町杉野屋に住む高松栄蔵氏の個人の作品でもあり、また大変格調高い文章だったからだ。民話伝説というより、伝承といった方がいいかもしれない。また杉野屋の神社とは菅原神社のこと。
道案内した地蔵さん 参考:「志雄町の民話と伝承 第一輯」志雄町教育委員会 
 昔々、出浜の村にひとりの若い漁師が住んでいました。ある日の早朝、若者はいつものように、漁に出かけようとしてさざ波が打ち寄せる浜の波打ち際を歩いていました。すると夜の闇をほんのりとぼかしたような明るさが漂う海の向うから、波にゆられてプカプカと浜へ流されてくるものを見つけました。若者は、‘はて何だろう。何が流されてきたのかな’と思いながら、近寄って見ると、それは、どこから流されてきたのでしょうか、木に彫られた有難い地蔵さんでした。若者は、びっくりして拾い上げ、そっと腕に抱え込んで、大切に家に持って帰りました。

 しかし家にそっと置いたつもりでしたが、貧乏人の暇なしで、漁を一生懸命やっていないと食っていけないので、忙しさにまぎれて、いつのまにかその地蔵の事を忘れてしまい、家の隅にほったらかしにしてしまいました。それから幾日も過ぎ、若者が気がついた時には、事情を知らない家の者が、誰かにやってしまったらしく、地蔵さんの姿はなくなっていました。 

 さて、その地蔵さんですが、黒く汚れた年季の入ったものであったせいか、家から家へと譲られて、めぐりめぐってある家にたどり着きました。
 ある晩、その家の主が寝ていますと、その地蔵さんが、夢枕に立って、「あるじ殿、あるじ殿、申し訳ござらんが、海の近くの家にわしを戻しては下されんか。」と、頼みます。単なる夢かな、と思っていると、同じように地蔵さんが丁寧に頼む夢を何度も、何度も見たのでした。

 はじめは、何のことかさっぱり分からなかった家の主も、「この地蔵さんは、最初は、きっとどこかの海の近くの家に居られたのかもしれない。それで‘戻してくれー、戻してくれー’と頼んどるのやろ。」と気付いて、「よし、ほんならいっちょ有難い地蔵さんのため、探してやっかー」と、翌朝から、この地さんを持ってきた人を訪ねたり、あっちこっちの村の人に聞いたりして、地蔵さんのおられた所を探し始めました。

 幾月かして、ようやくこの主は、最初にこの地蔵様を拾い上げた若者の家を探しあてました。そうして、地蔵さんは無事に若者のところに戻ることが出来たのでした。若者は、地蔵さんが戻ってきた奇瑞もあるし、そんな有難い地蔵さんを放ったらかしにしたのを悪く思い、家の近くの道端に小さな祠を建てて納め、それからは毎日お供え物をあげて拝み、末永く大切にされたそうです。

 その頃、旅の人々は、ここが加賀と能登の結節点であり、他に歩きやすい往来道もないので、出浜の浜を通り、能登に行ったり加賀に行ったりするのが普通でした。
 ある日のこと、ひとりの旅人が、出浜の浜をとぼとぼと歩いておったが、その日は厚く雲が垂れ込めた日でもあったので、日が沈むとそれこそ釣瓶落としのように、すぐにあたりが真っ暗になってしまいました。

 「あー、道がわからなくなってしまったぞ。どうしたもんかな。道に迷ったのかもしれんな。」
と思いながら、あたりを見回してみても何も見えません。足元に気をつけながら、あっちへうろうろこっちへうろうろしていると、向うの方に、ちらちらと灯りが見えました。旅の人は、「おや、あれはなんじゃろー。赤い灯がみえるぞ。」
と藁にもすがる思い出、そちらの方へどんどん歩いていきました。

 歩いていくと、そこには地蔵さんが立っていました。地蔵さんが辺りを、ぽーっと赤く照らしていたのです。旅の人は、「何と有難い地蔵さんなんだろう。あー、有難や、有難やー。」と手を合わせてお参りし、感謝しました。そして、地蔵さんのある近くの家の戸を、トントンと叩き、一夜の宿を頼んだら、そこの家の人は快く泊めてくれました。あくる朝、旅の人は加賀の方へと歩いていったそうです。

 旅の者が、夜道に迷って困っていると、地蔵さんが、ぽーっと赤く光って、目印になったという不思議な話は、旅の人を泊めた家から村中に広まり、「何と、慈悲深い地蔵さんやろ。これからは絶対粗末にしてはならんぞ。」と、言うて村中皆で大切にし、後々までその話を伝えたということです。
「スマボン」の話 参考:「志雄町の民話と伝承 第一輯」志雄町教育委員会 
 昔々、荻谷村の近隣では、夜更けになると、きまって子供のいる家に(※1)「スマボン」が現れたといいます。
 「スマボン」はこのあたりに棲む一種の妖怪で、身長が1尺(30cmくらい)で、人には何も悪さはしませんが、顔を見せないで、部屋の片隅から現れます。そして「トントントコトン、トントコトン」「トントントコトン、ピシャピシャトン」と、可愛らしい小さな太鼓を叩きながら、はじめは一ヶ所をグルグル周りながら、暴れまわります。それも、きまって夜泣きする子供の部屋に現れます。
 それで子供たちの親は、子供に、「(※2)かたいもんになって寝ないと、スマボンが出るぞ。夜泣きしないで寝るんだよ。」と言い聞かせるのでした。子供たちもまた、親に「かたいもんになって、早う寝るから、もしスマボンがやって来たら追い出してね!」とお願いして寝たものでした。

※1:スマボンの「スマ」は「スミ(隅)」の方言、また「ボン」とは「坊主」でこのあたりでは子供または小僧を意味し、「坊や」と同じ意味。つまりスマボンとは、部屋の片隅に出る小僧くらいの意味である。
※2:かたいもんの「カタイ」は方言で、‘人の言うことをよく聞くお利口さん’くらいの意味である。
長太とムジナ 参考:「志雄町の民話と伝承 第一輯」志雄町教育委員会 
 この話は、 輪島市大沢の同タイトルの話 が伝わって、この地志雄町荻谷で別の形に作りかえられたか、地元のムジナの話の筋に利用されたものではなかろうか。とはいえその地域の色のようなものが反映されて、もう独自の面白い話になっているので、よかったら比較しながら読んでみてください。
 昔々、木挽きの長太という若者が、荻谷村追分の坂口に小屋を建てて住んでおりました。ある年、村人の要請で、村の中の寺地にあった七面堂の傍の大松を伐り倒したお礼に、米三俵と、沢山の酒や肴などいただきました。それで、住んでいる小屋は狭くなり、小屋の建て増しをして、この中に入りました。

 小屋の中も広くなったので、長太は嬉しくなって毎日木挽きの仕事に一層精を出しました。春や夏のように日の長い時分には、山菜も沢山とれるので、木挽きの合間に気分転換にそれらを採ったりもしました。また周りの畑には、自分が食べる分のみですが、大根や芋や野菜なども作っていた。それで、毎日の食事も種類が意外と豊富で、楽しい日々を送っていました。町に出ることもほとんどなくて、仕事は大変はかどっていた。また秋・冬のために、薪も沢山作って、小屋の周りに積み上げ用意もしていました。

 でもさすがに北陸の冬となると雪も多くて厳しいので、まだまだ色んな物を冬のために備えねばならず、仕事の合間には、栗やアケビなども沢山集めました。こうして集めた山菜や栗などは、村人からいただいたお米や酒肴のお礼にと、町に味噌や塩を買いに出るたびに、村の人にあげました。町への行き帰りには、いつも長太は、木挽きの仕事をする時に歌うあの木挽き唄を、張りのある綺麗な声で歌いながら歩きました。村人たちは皆、長太を可愛がり、長太が通るときその歌声に聞きほれていました。そして自分の家の前を通る時など「長太、長太うまいぞ!」と誉めそやしました。また多くの若い娘達が、長太を熱い眼で見つめたりもしていました。それほど長太の唄はすばらしかったようです。

 秋も深まり、冬が次第に近づいてくると、木挽きの仕事もできなくなり、また昼が短く夜が長くなるので、囲炉裏の傍で一日を過すことが自然と多くなってきました。山では、小鳥の鳴声に代って一日中木枯らしがヒューッと吹く音ばかり聞こえる日が多くなってきました。
 その風の音が止んだ静かなある夜のことです。長太がふと目を覚ますと、小屋の外で「ウー、ウー」と何かのうなり声がしました。何の獣の声かわからず、不用意に外に出ると危ないので、そのまま小屋に篭っていました。その声は、外がうっすらと明るさを帯びる頃まで聞こえ、空が赤みを帯びる頃、やっとその声がしなくなりました。

 長太は、朝起きてから、先ほどまで聞こえた声の正体が気になるので、外に出てあたりを見回してみました。声が聞こえたあたりまで行ってみると、うっすらと降り積もった雪の上に、無数のムジナの足跡がありました。
 その日の晩も、長太が床に入ってから、またうつらうつらとして、ふと眼をさますと、昨晩と同様にまた「ウー、ウー」と唸る声がします。そしてその唸り声が夜明けまで続きました。その次の晩も、そのまた次の晩もという風に毎晩のように、ムジナがやってきて唸るので、長太は幾晩も寝られなくなり、腹が立ってきました。

 長太は、ムジナが火を大変恐れると聞いていたので、今度は囲炉裏に一晩中火の気を絶やさないようにと、大きな木の根っこを入れて火を燃やし続けたところ、その晩は声が聞こえませんでした。でも長太にしてみれば、火の番をするため起きていなければならず、とても毎晩続けられる事ではありませんでした。
 それから2、3日したある晩のことです。外から「長太やー、長太、相撲とらんか。相撲とらんか。」と呼んでいる声がしました。長太はその声のする方を良く確かめてから、囲炉裏から、火のついた一本の薪を抜き取り、その方へ投げつけました。その晩は、それっきり声がしなくなったので、翌朝まで眠ることができました。

 あくる日の晩も、また「長太や、長太、相撲とらんか」と呼んでいる声がしました。昨晩と同様、火のついた薪を投げつけると、また声がやんだので、その晩もなんとか眠れました。しかし長太はこのようなことが毎晩続くと、そのうち何かあるのではないかと、だんだん恐ろしくなってきました。考えてみると、人間の言葉をしゃべり、執拗に長太の寝る邪魔をしにくるそのムジナは、相当歳をとった古ムジナに相違なく、おそらくは妖力も持っていることでしょう。そのうちに化けムジナに殺されるのではと心配でなりませんでした。
 それでその日からは、その化けムジナへの対策のため、薪がなくならぬようにと、せっせと補充したり、まさかの時のために鉞(まさかり)も護身用として研ぎ始めました。

 しばらくすると長太の小屋に、荻谷内(荻谷のこと)に住んでいる木挽きが訪ねてきました。
 「こんばんは。長太どうしとった。達者やったかい。」
 長太は、一人で悩んで今まで対応してきただけに、味方を得た気分になり、大そう喜んで木挽きを小屋に入れました。その木挽きは
 「長太、この頃お前があんまり村に顔を見せないので心配してやってきた。村の人も、病気でもなって寝込んどるんやないやろうねと皆で心配して、お前見て来い、というので代表してやってきた訳よ。」
と言って、持ってきた濁酒(どぶろく)を長太の前にどんと置いた。それで長太はそれこそ地獄で仏に会った様に喜び、木挽きと二人で濁酒を飲みながら四方山話を始めました。

 でも木挽きは、ふと気付きましたが、長太の顔色が少しすぐれません。気になり尋ねました。
 「時に長太、お前ちょっと顔色がすぐれないようだが、なんぞ体の調子でも悪いのか?」
 「いや、そういう訳でもないが・・・」
長太は最初は、いらぬ心配はかけまいと思って黙っていましたが、顔色を見抜かれ聞かれたので思いっきって話をしはじめました。
 「実は・・・、この頃、どうも悪いムジナに手古ずっているんだ。初めのうちは毎晩ウーウーと夜明けまで唸るので、ある晩火のついた木を投げつけたら、今度は毎晩相撲とらんかと出てきやがる。どうしたらいいもんだろうか。おかげで毎晩寝不足で、参ってしまったよ。」
と話をすると、木挽きは、はたと膝を叩いて、
 「それはきっと、あの七面堂のムジナに違いない。よし今晩はお前の小屋に泊まってやろう。」と言ってくれました。

 二人で小屋に寝ていると、やがて今度は「ウー、ウー、ウー」とムジナが大勢やって来て、何やガヤガヤ声がしたかと思うと
 「長太、相撲とらんか。長太、相撲とらんか。」と騒ぎ始めました。が、今夜は長太も、いつもと違って友達もいるので、気が大きくなり「おー、明日とろうぞ。」と言うと、ムジナは「明日ではない。今夜とらんか。」という。長太はまたこれに返事して、「明日、夜があけてからだ。」と言うと、「明日でない、今夜だ。」と叫んだかと思うと、小屋の周りの薪で小屋を叩いたりガタガタ揺さぶりはじめた。長太もこうなっては負けてはいられない。火のついた木を何本も何本もムジナに向かって投げつけた。ムジナは火が怖いので、ウー、ウーと吠え立てながら遠ざかって行きました。

 朝になると、友人の木挽きは「長太、お前大変だな、でも我慢して頑張っていろよ。俺も村へ帰って何とかするから。」と言って帰っていった。
早速のその友人の木挽きは村人たちに相談したところ、皆で長太を助けにいくことに決まりました。ところがその晩はあいにくドシャ降りの雨となって、とても長太を助けに行くことができなくなってしまいました。
 長太にしてみたら、友人の木挽きがああい言って帰っていったので、誰かが助けに来てくれて、古ムジナを退治できると、心待ちに待っていました。しかし、この雨模様では、山道はあぶなく到底助けに来てくれそうに無いと悟り、いざとなったら一人戦う覚悟を決め、前の晩のように沢山の薪を集めて、ムジナへの用意をしていました。

 そして油断なく待っていると、どうしたことかあれほど土砂降りだった雨もあがり、星さえも瞬きはじめた。すると昨晩同様沢山のムジナが現れ始め、小屋を取り囲み、ガヤガヤ騒ぎ始めた。そしてまた「長太、相撲とらんか。長太、相撲とらんか。」と言い出した。
しばらく黙って様子をみていると、
 「今日は、相撲とるのと違ったか。やい、長太、すもうとらんか。」と囃し立ててきた。
 長太は怖かったけれど決心して、火のついた薪に紐を巻きつけ固めて松明代わりにし、鉞を持って外に出た。

 外に出て待っていると、しばらくして向うの暗がりから、大坊主がのっそり、のっそりこちらへ向かって来るではないか。2、3間位迄近づいてから止まり、大きな目玉をぎょろりと剥くと、雷のような大きな声で
 「長太、きさまの手にもっているものは何じゃー、相撲とるのにそんなものは要らんじゃろ。」
 長太も負けずに大きな声で、
 「お前こそ何じゃ、手にも足にも長い硬い爪があるじゃろ。その爪に引っ裂けられればワシも大怪我じゃろ。これはお前の爪と同じものじゃ。わかったか。」と言い返しました。

 大坊主は、
 「貴様は、可愛いおらの子を殺したろう。その報いとして、お前を殺してくれる。」
長太は、
 「そんなもん、身に覚えがないわい。」というと、大坊主は、
 「お前は覚えがのうても、お前が伐り倒した木の下敷きになって、おらの子が死んだんじゃ。お前が殺したんと同じや。」
と言うや否や、阿修羅のような真っ赤な怒り顔で、襲い掛かってきた。

 長太は最初の一撃をうまく避けると、鉞を持った手をぶらりと下げてムジナが化けた大坊主を睨みすえました。隙が見えないのか、お互いゆっくり間合いを計りながらもそれ以上近づくことができません。二人はそのままの姿勢でしばらくはじっと睨みあいました。するとじれた大坊主は、何を思ったのかゆっくりと長太の周りを回りはじめ、だんだんと歩調を速め出しました。
 長太も最初のうちは、それにあわせて回りはじめましたが、次第に速くなると眼も回り始め、これでは自分が眼を回して倒れてしまうと、ハッと気付きました。そこで長太はしばらく眼をつむって立ち止まり、気を鎮めました。

 相手の動き呼吸を精神を集中して感じとり、相手が掛かってくる瞬間、眼を開き同時に鉞を思いっきり右横から左上に薙ぎ上げました。大坊主は、大きく裂けた口を、めいいっぱい大きく開き、頭もろとも食い殺してやるという勢いで飛び掛ってきていました。長太は何とか身をかわし避けたが、大坊主の爪が左の肩をひっ裂き、焼き火箸を突き刺したような痛みが走った。
と同時に
 「ぎゃーーーーー」とするどい叫び声が聞こえ、しばらくしてドサリと思い物体が長太に覆いかぶさってきた。あわてて避けたが、ふり飛ばされた。

 慌てて起き上がると、薪も落としてしまい火も消え、あたりは真っ暗闇になった。長太は手下が襲ってくるか、と身構えたが、あちらこちらで、ウーウーと唸る声はするが近寄ってこない。長太も用心して手探りで小屋に戻ると、相手の声は小さくなった。しばらくの間、離れた茂みのあたりから唸り声がしていたが、長太も火を燃やしてあたりに十分気をつけながら様子を窺がっていたら、夜明け近くになって、その声はだんだん遠のいていき、しまいには聞こえなくなった。
 長太は、ムジナ達がいなくなると、左の肩に傷は負っているものの、緊張と疲れが安心して一気に緩みいつの間にかぐっすり寝込んでしまった。

 あくる朝、村人達は、夕べ行くはずだったのが、雨のため行けなかったので、5、6人で長太の小屋まで見にきた。長太の小屋の近くまで来てみると、小屋の前には人間でも大男といえるくらいの大古ムジナが、肩から腹にかけてグッサリ斬られて死んでいました。村人達は、それを見て長太が気になり、いそいで小屋に駆けつけると、恐る恐る小屋の中を覗いてみた。中には、べっとりと血のついた鉞をそばに置いて、長太が正体もなく、ぐっすりと寝込んでいた。

 一同はほっと安心した。そして左の肩に大きな傷を負いながら、眠りこけている長太の豪傑ぶりに感心しました。村人たちは、長太の傷の手当てをしたり、大ムジナの始末をしてから、安心して村に帰っていきました。
 この話は、その後、村の人たちの間で語り継がれ、荻谷内(荻谷)の村の子供たちは、誰でもこの話を聞いて大人になりました。
 子供たちの小さい頃、親は子供がいたずらしたり、夜長く寝ないでさわいでいるいると、「そんな事していたら、ムジナが来るぞ!」と言うと、いたずらをしなくなったり、黙って寝るようになったと言われています。
(下石)サンマイタロー 参考:「志雄町の民話と伝承 第一輯」志雄町教育委員会 
 ある晩のこと、下石の若者がとある若者の家に寄り集まって、雑談などしながら遊んでいました。
 話にも飽きてきたのか
「なんかおもしれい事ないかなー」
と誰かが言うと、他の誰かが思いついたかのように、
 「今夜は幸い雨も振っとらんさかい、肝試しでもせんか。」と言うと、

 この中で一番金持ちの息子が、
 「そりゃ面白そうやな。どうじゃろ誰か、子(ね)の刻頃(12時頃)になったら、サンマイ(火葬場)に行って、杭を打ってくるもんがいないか、もし杭を打って来たら、酒を二升やろう。」と言いました。

 「やろう、やろう」という事で話は決まりましたが、いざ行く人を決める段になると、「お前行ってくるか。」「お前が行くか。」「いや、わし、いやーやわい。」「お前、どーやい。」などと言い合ってなかなか決まりません。そのうちに、皆の視線がいつも威張っている男に集まりました。

 じろじろと見られたその男は、内心はとても怖いのですが、虚勢をはって
 「よし、俺が行ってやる、まーみておれ。」
と言いました。まず丸太の先を鉈で削り杭を作りました。男は出来たその杭を肩に担ぐと、皆の手前空元気を出して
 「それじゃー、今から行ってくるぞー。」
と言い出かけました。

 サンマイに近づくに連れて、心臓の鼓動がドックン、ドックンと脈打つのが、はっきりとわかるほどでした。それでも男は痩せ我慢して進みました。
 サンマイにつくと、早く仕事を終えてこの場を去りたい気持ちから、早速スッカーン、スッカーンと杭を打ち始めました。その音が、まわりの山にこだまして、サンマイタローが今にも後ろに迫ってくるような気がしてなりません。あせる気持ちを抑え、時々、後ろを振り返りながら、ようやく杭を打ち終わりました。打ち終えると少し気持ちがほっとしました。

 「さあ帰ろうか。」という時になって、男が提灯を持って立ち上がった途端、躓(つまづ)いてひっくり返り、提灯の灯が消えて真っ暗になりました。もう一度立ち上がろうとしたら、今度は、ものすごい力に引っ張られ、まったく動けなくなってしまいました。早く逃げたい一心に、何回も何回も懸命に立ち上がろうとしましたが、やっぱり動けません。男は、「こりゃとうとうサンマイに捕まったかー」とそれこそ、恐怖で狂わんばかりです。しかし、どう足掻いてもどうにもなりませんでした。

 こちらは、男の帰りを待っている村の若者達です。男がいつまで経っても帰らないために、だんだんと心配になってきました。しまいに堪りかねて、「おい、皆で見てこよう。」と言うことで、連れ立ってサンマイへ彼を見に行くことになりました。
 若者達が、あたりをキョロキョロ見回しながら、サンマイに着いてみると、その男が、長い着物を着ていたために、杭と一緒に自分の着物の裾を打ち込んで倒れていました。

 これは大変だということで、水をかけるやら、大きな声で呼ぶやらすると、男はやっと気がついたそうです。そして大変バツの悪い顔をしたそうな。
 サンマイタローは、どういう者かというと、ある時は大きく見え、ある時は小さく見えるため、よくわかっていないそうです。
(敷浪)サンマイタロー 参考:「志雄町の民話と伝承 第一輯」志雄町教育委員会 
 敷浪には、上記の下石のサンマイタローと少し似た話が伝わっています。
 このあたりの若者が、サンマイに毎日毎日集まって賭け事ばかりしているので、近所の爺さんが注意をする意味で、サンマイに杭を打ちに行ったら、下石のサンマイタローの話と同様、杭と一緒に着物に打ち込み動けなくなりました。心配した婆さんが提灯を持って見に行き、原因がわかると、爺さんは着物の裾を思いっきりひっぱりました。爺さんは着物の引っかかっていた部分が切れると同時に尻餅をついて腰を抜かしてしまいます。婆さんは仕方なく爺さんをおぶって、やっとの事で帰り着きます。

 その怪我が影響したのでしょうか。数日後、爺さんが病気に罹ってしまいました。どんな薬を飲んでも神仏に祈ってもなかなか治りませんでした。その話を聞いた近所の爺さんがはハタと、言い伝えに聞いていた「サンマイの骨を採ってきて、粉にして飲むと、どんな病気でも治る」というのを思い出しました。そのときに必ず「サンマイさん、サンマイさん、おらは病気になってしもうたから、たのむこっちゃ、この骨を分けてくさんせやー。薬にするからくさんせやー」と頼むことも教わっていました。それを、怪我した爺さんの妻である婆さんに教えました。

 早速、婆さんはその近所の爺さんに教えられた通り、サンマイから骨を採ってきて、その骨を粉にして爺さんに飲ませたら、爺さんは、数日でみるみるうちに治ったそうです。
向瀬の妖華 
    「加越能三州奇談」三州奇談後編巻五(加賀の俳人・掘麦水著/石川県図書館協会) 拙い私の現代語訳ですが <(^^;
 能登羽喰(現在は羽咋と記す)郡・子浦(しお)村(現在の志雄町子浦)というところは、大昔は志乎と書き、その後、志保と書き改め、現在(この本が書かれた17世紀の江戸時代)は子浦と書いております。なぜこのように何度も村の名の漢字を書き改めたかというと、この里で何度か大火があったので、それが改名の理由であったといわれています。 

 この村には、延喜式神名帳にもみえる、能州四十三座の中の志乎神社が鎮座しています。またこの地では、寿永2年(1183)5月に源平の戦いがあった日に、平相国(清盛)の末子の三河守・平知教が、この山道で討たれ亡くなっています。その時対した木曽殿(義仲)は、ここを過ぎて、小田中(鹿島町小田中)の親王塚の前に陣した(小田中はこの里から2里(約8km)東にある)ことなどが、平家物語にも書かれています。つまりここは古戦場の地であり、神々が力強く活躍した神話時代に出来た由緒ある古い社の前にある里で、このような場所であるところから、どこか風景は物さびております。また石動山下荒山に続く里なので、海からの風で吹きかえされた松や杉が、どことなく荒(すさ)んだ感じを与える山里でもあります。

 ここに元文2年(1737)のことといいます。子浦の人によって今でも伝えられてる奇花の話の事件がありました。この山里からさらに山間へ一里(約4km)ほど入った離れたところに向瀬村というところがあります。そこに妙覚寺という浄土宗の寺院がありました。ある日のこと、ここの老僧が用事があって、子浦村へ出ることになりました。途中、日も夕暮れ山が赤く彩られてきた頃、路傍のとある石に腰掛けて休みました。皐月(旧暦の五月(さつき)・現代の6月頃)の茨や卯の花が、その白い花をあちこちに咲かせている穏やかな日であったので、しーん静まり返って物音一つ聞こえず、ただ空には、木々をさわさわと鳴らす風の音だけが吹きわたるのでありました。

 傍らの山田の溝の方へ眼を向けると、大きな石が二つ並んで立っていました。その石と石の隙間からは、水が流れ下っており、ながめていると偶然、鮮やかな花、どうも牡丹の花と思われる花が、その隙間から流れ出てきて、水の淀みのあたりで止まってしまいました。そして続いて数輪の牡丹の花も、同様にその隙間から流れ出てきて、先の牡丹と水面で並んで止まったので、「不思議な光景だな」とじっと見ておりました。暫らくすると、それらの花は何と驚いたことに、水の流れに逆らって、上流へ向かい、その花が流れ出てきた2つの石の間に入ってしまい見えなくなってしまったのでした。淀みに流れ出てきた時は、花は仰向けの状態で、妖しい色をしてキラキラと油ぎった感じで輝いていました。その時は、花を採ろうとする気も起こりませんでしたが、その妖しい牡丹が石の間に戻って入ってしまってから、奇怪に思って、近寄って石の間を覗いてみました。が、牡丹が入った形跡は何も残っていませんでした。

 しばらくして日も傾いくると、辺りも暗くなってきたのもあり、老僧は、今見た光景がだんだんと恐ろしいくなってきました。やがてこの流れにそって歩いて下って行くうちに、子浦村の方へ下りて行って7,8町(約7〜800m)過ぎたころ、沢山の蛙が飛び跳ねていました。それでここまでの事を振り返って思うと、皐月の頃でどこでも蛙が多いはずであるのに、あの妖しい牡丹の花が出たあたりには、蛙が一匹も見当たらなかったのでした。これは後で思い返して気付いたことでした。
 子浦村にたどり着ついて、老僧がこの話を訪問先でしていると、隣りの家の兄息子の喜八という若者がやって来て、この話を聞き、彼も何か不思議に思う事があったようでした。彼が言うには、

 「私もも今日、東谷の道を通っていた時、二丈(約3.6m)ほど下の川の中に、その花と思われるものを見ました。遥か岸の上より見下ろしていたので、牡丹か百合か折れた花が流れているのだろうと思い、通り過ぎてしまったが、お坊様の話と照らし合わせて考えてみると、この時見た花も、お坊様が見た花と同じ花であったわい。その花が、そのままそこに留まったのか、または石に入ってしまったのか、私はそれを見ずに通り過ぎてしまった。見た場所こそ違うけど、花の様子は相似している。さても不思議な話であることよ。古老から『毒蛇は、妖しい花に変化する』と聞いたことがあります。これもそれに当るのでありましょうか。今日はもう日も暮れてしまいましたが、明日、(興味が沸いたので)その吟味をし尽くしてみたいと思います。お坊様、お帰りの際には、是非花を見たという場所を教えてくだされ。探してみたいと思います。」とお坊様と約束して帰っていきました。

 翌日、僧が帰途につく頃、喜八は一人のいかにも強そうな男性を従者として連れ、やって来ました。得物の鍬・鎌など持ってこの老僧と連れ立ち、酒や飯も携帯して、その場所を尋ねてその花を探してみようと言うのでした。連れ立ち、勇んで歩みいくうちに、老僧が妖しい花を見たというその場所に至りました。それでその場で休憩し、一時ばかり静かにして花が出てくるのを待ちました。しかし、花は出てきませんでした。まわりは、蛙も多く飛びはねて、普段どおりの山水の様子でありました。

 それで、喜八は自分が昨日、東谷の岸の上から花を見た場所へ走って行ってみましたけれども、ここも、牡丹・百合の花の影どころか、涸れてしまった草さえも見当たりませんでした。
 さてはいよいよ(昨日の出来事は)蛇の妖気の類の仕業に違いないと、喜八は先ほどの場所に戻って、(昨日)花が引き返して消えてしまった二つの大石を、押してひっくり返しそこを見ました。すると、そこには蟒蛇(うわばみ・おろち=大蛇)の蟠(わだかま)っていたと思える跡があり、土が落ち込み、穴がよじれて、大蛇が過ぎ去った跡と思われる形跡が見えました。これを掘って辿っていくと、又谷川のあたりに出ました。意気盛んな喜八であるので、大蛇に恐れをなすこともなく、いよいよその行方を捜そうと跡を辿って行きました。2町(約200m)ほど川をのぼると、あたり一面、草が押し倒され、茨などが何かにつぶされて、大蛇が棲んでいるところかと思われるような小さな谷がありました。

 そこで大蛇を探してみましたが「ここから先は、気と化して姿を消してしまったのだろうか。もう見つけることはできないのだろうか。」と言いながら、方々色々と探してみたが、ついに行方は知れませんでした。ここに至って、日影を測って、昨日老僧と喜八が花を見た時間を話し合わせてみると、どうも同時同時刻と思われ、とてもこちらの谷の花が向うの谷へさっと瞬間的に移ったとは考えられぬことであります。

 思うに、太古において、山田の大蛇は、八つに分かれた谷にそれぞれ沢山棲み満ちていたといいます。だから今もって、時々戻り来ることがあるのかもしれない、そして新たに大蛇の怪異の所業をなすのかもしれません。
 昔、ここ能登の国には、大蛇と化鳥が棲み、山海が不穏でそこに住む人々が困っていました。大己貴尊(大国主命)がこれを平定して、それからは人々は暮らしやすくなり、海では船が能(よ)く登る(行き交う)ので、国の名を能登と言うようになったと伝えられています。
 それゆえにこの話を聞いた子浦の人々は「まさか神代(神話の時代)の記録に書かれたような時代に戻らねばならないのではなかろうの〜」と恐れて語りあったそうである。

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