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  能登の民話伝説    

 今回は、奥能登のムジナに関する民話ばかり集めてみました。ムジナ(貉・狢)とは、広辞苑など調べてみると、①アナグマの異称、②混同してタヌキ(狸)をムジナと呼ぶこともある、と書いてある。狸や狐と同様、ムジナも、変化して人を騙すといわれてきました。能登にも、色々伝説が伝えられてきました。ここに挙げた「長太とムジナ」などは、変化の面白さ、戦いの荒々しさ、亡き夫の妻であるムジナの哀愁さなど、能登の情感溢れた代表的なムジナの話といえます。ぜひ一読し、ご堪能してみてください。
能登の民話伝説(奥能登地区-No.4)

長太とムジナ   鳳至郡誌、「輪島ものがたり(巻1)」(輪島商工会議所{語り部会編)他
 昔、文化年間(1804年2月〜1818年4月)といいますから、今から、およそ200年前ばかり昔のこと。鳳至郡七浦の庄の大沢村(現輪島市西保地区)の五左衛門(ござみ)に、長太という血気盛んな木挽きがいました。一儲けしようと考えた彼は、芹池村(西二又村(現輪島市西二又))の太郎三郎、助右衛門の二人から広大な松林を買い入れました。そして、元いた大沢村より8丁(約870m)ほど離れた山中に、杣小屋(そまごや)を建て、そこに住み込んで、毎日杉や松を伐採して、暮らしを立てていました。

 昼は一生懸命働いて、そのかわり夕方ともなると、そこまだ若い長太のこと、人恋しくなり、山を七つ曲り、坂を五つ下って、大沢へ行き、存分に飲み遊び疲れを癒すのであった。けれど、大沢では泊まらずに、必ず山小屋へ帰ってきて寝ることにしていました。それで深夜頃、暗い山の夜道をとぼとぼ歩いて帰るのが日課のようになっていました。

 この芹池の山の中には、恐ろしく歳を経た夫婦のムジナが棲んでいました。何しろ雄の方が八百歳、雌の方が千七百歳といいます。それ故ムジナ夫婦は、我らこそは、この山の主だと思いこんでいます。つい最近入り込んできて、山中を我が物顔で歩き、精力的に山の木を伐採する長太が邪魔でした。特に雄のムジナは怒りを感じるまでになっていました。
 雄のムジナは、長太に何とか山から出て行ってもらおうと、毎晩大沢から帰って来る長太を道の途中で待ち伏せし、松の大木を転がしたり、大蛇になって現れたりして、長太にイタズラを仕掛けました。普通のムジナでも化けるのはお手の物なのに、800年もの間生きてきて色々な妖術を見につけたムジナのことです。なかなか巧みな業で仕掛けました。

 ある真夜中のことです。長太が、いつものように大沢から、ほろ酔い加減で帰ってきました。七曲の五つ目くらいを曲がった時、どこかの木立の茂みから、苦悶するような呻き声が聞こえてきました。はて?こんな夜更けに、オレ以外誰がこんな山にいるんだ?と、耳を澄ませ、目を周囲の藪に向けて凝らしますが、それっきりもう何の怪しい音も聞こえません。聞こえるのは、木々の枝葉を鳴らす風の音だけです。はて何かの音の聞き違いだったかな、と思いなおし、また歩き始めると、またどこからか、同じような長ーく尾をひいて徐々に消え入るような呻き声が聞こえます。確かに人の声に違いない、と、音のした方向に近寄って、少し藪に分け入ってみても、何の人影もありません。
 腕力には自信があり、少々の事では驚かない肝の据わった長太です。しかし、このような怪異に遭遇してみるとさすがに、少し気味が悪くなってきました。

 酔いも吹っ飛んだので、こんなところ早く通りぬけようと考え、スタコラ道を急いだところ、今度は六つ目の曲がり角のあたりから、ぬっと現れてゆっくり近づいてくるものがあります。身の丈八尺程の大男が、月の光に目を妖しく爛々と輝かせながら、鳥居のように両手を大きく拡げ、立ちふさがりました。一瞬目を熾(おき)のように赤くカーッと光らせて長太を睨みつけた途端、あたりの山々を震わせるような大声で怒号しました。
 「こりゃぁー長太ー、ここはおれの住処(すみか)や。おれに断りもなく、よくもおれも山を荒らしてくれたな。お前みたいな小童(こわっぱ)に、おらの道通られてたまるかー!!」
 咄嗟のことで、長太も肝を潰しました。そして気を失ってその場に倒れてしまいました。

 翌朝気がついて、自分が道端に倒れてしまい、何の怪我もしていなかったことがわかると、
 「あれぁ、狐か狸の仕業に違ぇいあるめい、おらとしたことがあんなもんに騙されるとは。今度会ったらとっちめてやらにゃー」
と地団太踏んで悔しがりました。血気盛りの長太は負けん気を起こして、相変わらず昼は山に分け入り、夕方になると大沢に向かい、真夜中になると木挽き小屋へ帰るという日課を以前の通り続けました。

 雄ムジナは、あれだけ脅しても、自分の棲みか近くをどんどん伐採して荒し、夜は以前の通り大沢通いを続ける長太に、怒りがさらに増しました。そして今度こそ、と思ってまた新たな手を考えました。

 あの事件から数日後の真夜中のことです。いつものように、長太が大沢からの帰り道を急いでいると、一人の若い娘がかわいげな声で
 「長太さんやないけ?おら道に迷うてしもうて、弱っとるさけ、村まで連れて行ってくれん?!」
 長太は、さてはまた悪さをしようと思って出おったな、と思い、返事もせずに振り返るとすぐ娘の首っ玉をきつく締め上げました。
 「何をするんや。おら、源太郎の娘やがいか」と娘は悲鳴を上げました。
言われてみると確かにその声は、源太郎の娘の声です。長太は慌てて
 「いやぁ、こりゃすまんこっちゃ。堪忍してくれ。そんかわり、村まで負ぶっていってやっさかい」
と謝り、娘を背負い、踵を返して大沢村の方へ戻って行きました。

 「おまい(お前)や、そんにしても、何でこんな夜更けに山道を歩いっとったんや?」
長太が背中に尋ねても答えません。‘疲れて眠ってしまったのかな’、そのせいか娘っ子にしては何やらずり落ちるように重く感じられます。それでも何とか麓まで負ぶって下り、大沢まで見えるところまで辿りつくと、長太は背中の娘に、労わるかのような優しげな声で
 「そら、もう心配いらんぞ」
と言って、背中から下ろして振り返ってみました。さて、そこに立っているのは、どういう訳か、娘ではなく、石地蔵でした。それもいつも村で見かける石地蔵です。
 「畜生ーっ、また一杯食わさったか!」
 長太は、腹立ち紛れに、村の石地蔵を思いっきり蹴飛ばし、ぷんぷんしながら山へと帰っていきました。

 しばらくは何事もなく、時が流れました。長太は、その間も樵仕事に精を出していました。雄ムジナは脅しの効果が出るかな、と思って様子をみていたものの、長太が一向に山を出て行く雰囲気もなく、秋も深まってきたというのに、せっせと場所を変えては伐採に励むありさまなので、業を煮やしました。

 ある師走の非常に冷え込んだ真夜中のことです。長太の家を、兄が突然訪れ言いました。
 「長太、えらい(大変な)事になったぞ。かぁか(母)が危篤になってしもうた。早う、おらの家に駆けつけてくれや。」
 「何やて、かぁか(母)が危篤やて。きんの(昨日)まであんなぴんぴんしとったがいや。もたもた言うて、おまいやぁ、狐やろ。」
長太はそう言うと、脇にあった鉞(まさかり)を手にしました
 すると、兄はびっくりして
 「この、おじこっぱ。何ぬかしとらんや。親不孝もんの、極道もんが!」
と思いっきり長太をどなりつけました。

 この剣幕に、長太も腰を折られて、
 「まあ、そうおこん(怒る)なま、あんか(兄)。ここんとこ狐か狸に化かされること多くてつい疑ったんや!今すぐ行くさかい、先行っとってくれ。」
と、あたりの道具を、さっと片付けると、村へ向かって駆けて行きました。

 やがて母屋(おもや)へ着くと、長太は草履を履いたまま居間へ駆け上がり、
 「かぁか、どこやー、大丈夫かー」と叫びながら母親を探しました。
その声に応じて、納戸から母親が元気そうな顔で、現れて
 「どないしたい、長太。こんな夜更けにそんなに慌ててやって来て」
と怪訝そうな顔つきで逆に問うてくる有様です。

 「どないしたもこないしたもないわい。かぁか、何ともないんか? あんか(兄)がさっきおらのとこ、やって来て、かぁかが危篤や言うもんで、おらがやって来たがや」と長太が言うと、
 「ええん、あんかがそんな事言うたやて。ほやけどおまい、あんか、きんの(昨日)から、芹池へ仕事に出かけたままやぞいね!」と母は、不思議そうに答えました。
 「くそーっ、畜生!またあいつに騙されたかい。」
と長太が、拳を柱に叩きつけて悔しげに叫びました。

 母親は、長太が誰かに騙されたことは見当がつきましたが、何があったのか知らないので、気になります。
 「ほの(その)、あいつって誰やがいの?」と聞きました。
長太は、
 「狐やわい。あんなやつぁ、もう生かしておけん!」と今にも、飛び出して行きそうな剣幕です。
母親は、興奮して思慮のない行動をしそうな息子を危ぶみ、
 「ちょっこら待て、長太。ほないな(そのような)事したら、よけい悪さするがいや。」と言いました。
 「そんなもん何やちん(何の問題も無い)、今度こそやっつけりゃ何でもないがい。」

母親は、長太を落ち着かせるため座らせているうちに、何かを思い出したらしく、こう話し出しました。
 「まあ待てちんや(待ちな)、そういやぁなあ長太、おまいの住んどるあの芹池の山の中にゃ、とてつものう歳とった夫婦のムジナがおるちゅうぞ。何でも歳は、雄が八百歳、雌ときては千七百歳やといや。おまい、短気やさかい、すぐカッと来て無茶するが、気ぃつけんとあかんぞ」
 
 長太も、それを聞き、`そうかムジナか、なるほどそういうこともあるかもな'と思いその晩は、頭も冷やし冷静になるために、母屋に泊まりました。そして、翌朝山へ帰り、その日からまた何事もなかったかのように、樵仕事を始めました。
 山では、またしばらく何事もなく、時が過ぎました。そして季節は冬となりました。そんな時期になっても、山をおりず何事もなかったかのように依然と、というか益々精を出して木挽きに励む長太の姿を見て、ムジナはいよいよ業を煮やして、今度は、山小屋の明かりを突然吹き消して邪魔をしたり、そうかと思うと、夜通し、板戸を叩いて眠らせなかったりしました。それでも長太は、いつかは諦めるだろうと思い、するに任せておきました。

 雄ムジナは、しつこい嫌がらせにも、そのように平然と無視する長太の態度に、とうとう怒り心頭に達してしまいました。
 師走の十五夜、空には月が皓々と照り、非常に冷え込みました。獣達も冬眠に入ったのか風音以外何も聞こえない静かな夜でした。長太は、今晩は寒いのもあり珍しく大沢へは出かけず、どんこを着込み、鋸の目研ぎやその他の道具の手入れをしていました。突然、何やら遠くから地響きを立てて、長太が眠る小屋に近づいてくる音が聞こえます。耳を澄ませていると、足音は、小屋の引戸の前あたりでとまりました。

 突然
 「長太、おるか。」
と大きな声で叫びました。
 「誰やいか、こんな夜さりに」と長太はわざと平然とした声で答えました。
 「夜中やろうが、なかろうが、構うもんかい。おらにゃ、この山ん主やわい。」
長太は、山の主と聞いて、母親の話を思い出しました。それでちょっとからかってみようと思いこう言いました。

 「ほほう、この山にゃ、おらの他にもまだ主ぁおったんかい!」
長太はそう答えると、板壁の節穴から外を覗いて見ました。すると引戸の前に、な、なんと驚くことに、大きいとも大きい古ムジナが一匹、皓々と照る月の光を背に仁王立ちして、こちらを睨みつけています。

 「何やてぃ、小僧、もういっぺんぬかしてみい」
 「聞きたけりゃ、何べんでも言うてとらせたるわい。ほのかわり、何か呉れっかい。」
 「ダラ(馬鹿)にすんな!もう頭きた。早う出てこんかい、今日こそ、決着つけたるわい!」
 
 ムジナをからかってみたものの、`こりゃどえらいことになったわい'、と思い腕を組みながらちょっと思案した後、長太は、腕組を解くと、
 「ちょっと待ってくれや。今、道具を片付けっさかいな。」
そういうと長太は、目立たぬように、斧(おの)を腰に差して、それをどんこで隠しました。

 「長太、早よ出て来い!」とムジナがじれて急かします。
 「もうちょっこり待っとれま」
 と言いながら、長太は腹に爪を立てられたら敵わぬと思い、荒縄を体にぐるぐる巻きつけて
 「おう、今いくぞ」
と言うと、ゆっくりと引戸を開け、小屋の外に出ると、後ろ手で戸を閉めました。外には、古ムジナではなく、いつの間に化けたのか、あのいつぞや自分を気絶させた八尺あまりの大男が、こちらをじっと睨みながら立ちはだかっているのでした。

 「長太、おらな。この山に棲むこと、八百年経つぞ。おまえぁ、どんだけ経つぃ。たった半年やがいや。ほしてからに、えらそうな風して。何がこの山の主やい。もう、我慢できんぞ。」
 八百歳と聞いて、やっぱりこの男は、かぁかに聞いたムジナにちげぃねぇ(違いない)と思い、
 「道理で、おまいの頭ぁ、禿(は)げとる訳や」とまたからかいました。

 雄ムジナは、毛を栗のように逆立て起り、
 「ようも、おらさまをダラにしてくれたな。そん気なら、勝負やっ!」
そういうやいなやその男は、むんずとばかり、長太に組み付いてきました。長太とて、大沢村きっての力持ちです。二人の男は、押しつ押されつ、互いに力みあっていましたが、そのうちに薄明が射し、夜も明けかかってきました。このまま力比べしていたのでは当分勝負のつきようがありません。
 その時、長太は隙をみて、腰から斧を抜き取り、大男の胸元めがけ思いっきり、斧を突き刺しました。とたんに大男は、ギャッと呻いて、たちまち古ムジナの姿に戻り、麓の方へ逃げていきました。

 それから十日ばかり経った頃、芹池村の左衛門五郎の稲干小屋に息絶えた古ムジナの姿が発見されました。おそらくあの深手の傷では、八百歳を経た化物ムジナでもどうしようもなかったのでしょう。斧の傷跡からも、長太と戦ったムジナとわかりました。
 加賀藩の御算用場へ届出されたムジナの皮は、長さ5尺3寸(約160cm)、幅2尺8寸(約85cm)、なんと牙の長さは3寸1分(約94cm)もあったといいます。諸侯の上覧の後、老臣村井氏が購ったと津田政隣の『政隣記』に記されています。

 さて、それから4年経ちました。
 長太は、一人での山の木挽きに失敗したので、その頃には、自分の村の長右衛門といっしょに、村から一里ほど離れた大平谷というところで、炭焼きをしておりました。その年も秋がやってきたので、仲間の長右衛門は、田仕事のために村へ帰り、谷には長太が一人残り、炭焼きを続けておりました。
 
 ある晩のことです。急に山鳴りがして雷の音がしたかと思うと、あたりが明るくなりました。長太が、小屋の中で耳をすませていると、トントンと戸を叩く音がしました。開けてみると、そこには一人の十八、九歳くらいの綺麗な娘が立っていました。
 「お、おまいは・・・・怪しい奴」
長太が傍らの鍬(すき)を引き寄せると、
 「長太、何するがいや(何をする気だ)」
そういうと娘は、嫣然と笑いながら家に入ってきました。空色の地に裾模様のある綿入れを着て、兼房染めの肌着を重ね、晒し木綿の手ぬぐいを被った娘でした。
 
 輝くような瞳で長太を見つめ、そしていきなり
 「長太、おらがわかるか?」
と聞いてきました。
 長太は、このあたりの娘なら皆顔見知りだが、こんな綺麗な娘など今まで一度も見たことも無い。生まれてこのかた遠所へは出かけたこともなく、知らぬ娘から自分の名前まで呼ばれたことに驚いていました。でもこの娘が誰だか皆目検討さえもつきません。長太は色々考えながら相手の娘をまじまじと見つめていると、

 「おら、四年前におまいさんの手で殺さったムジナの妻やわいの。あんときゃ(あの時は)、おら播磨の国へ用足しに行っとって、知らんんだけど、うわさに聞いて飛んできたわいか。ほんまに生まれてこの方千七百年にもなるぎゃが、こんな辛い目に遭うたことぁ、いっぺんもないぞの。」
と娘は、袖に顔を埋めてさめざめと泣きながら言うのでした。
長太は気の毒になって、
 「堪忍してくれや。おらも別に殺そうとは考えなんだぎゃが、ついあんな事になってしもうたんや。」
と謝りました。

  すると、娘はきっとした顔になり
「長太、おらこうして泣いておっても、ムジナ仲間じゃ頭ぞい。夫は年がわかい分お前に殺されたが、この仇ぁ、きっととって見せっさかいの。」と言うや、パッとかき消えてしまいました。

 さて、それからというもの、雌ムジナは毎晩炭焼小屋に現れました。
 「長太、おるかいの」
 「おるが、なんじゃい」
 「四年前の夫の敵!!」
そう繰り返し言っては、小屋の周囲を板壁など叩いて騒ぎたてぐるぐる駆け回るのでした。それは夜が明けるまで続けられ、長太は一晩とて眠ることができませんでした。この世に女の執念ほど恐ろしいものは無いと言います。7日、10日と経つうちに、さすがにこれには長太も参ってしまいました。日一日と痩せ衰え、今ではげっそりと頬がこけてしまいました。このままでは体が参ってしまう、いや死んでしまうかもと思い、大沢村の殿前某という信心深い古老に事の次第を打ち明け、相談しました。

 すると、殿前某は、
 「長太や、これをやるさかい、きっと肌身離さず、持っとれよ。」
と言って、観音様のお守り札をくれました。長太は言われた通りに、この札をいつも身につけていると、すぐにも効験が現れました。その晩からは、もう雌ムジナも来なくなりました。

 やれやれと思っていると、ある夜、雌ムジナは再び美しい娘に化けて、炭焼小屋を訪ねて来ました。
 「長太さんや、まことに立派なお守り札ぁ持っとると聞いてきたさかい、ちょっこし、見せてくださらんかいね。」
けれど、そう言う娘の眼からは、どこか人間でない妖しげな光りが漂っていましたので、長太は、
 「気の毒なこっちゃやけど、この手を離したら、おらの命が危なくなるでの」
 「どうしていね。」
 「どうもこうもないが、どだい、あの古ムジナが・・・・」と長太は、「古ムジナ」という語に特に力を込めて言い、きつく睨んでみましたら、娘はとっさに色を変え、あらためて言いました。
 「実は、おらこそそのムジナやが。おまいさんの持っとるその守り札のため、どないしても夫の仇が討たれんがになった。こっで(これで)もう、すっかり諦めたさかい、そのかわり、おらのもう一つの頼みを聞いてくさんせ。」

 「で、他の頼みちゅうがなんやい。」
 「それが他でもないが、おら夫ぁ、あのまま殺さったままでは、おらもいとしゅうてどうもならん。せめておまいさんに供養をしてもらいたい思うてな。」
 「ほうかほうか(そうかそうか)、ほんながら(そういう事なら)おらの方から、さしてもらいたい位や。ほう言えぁ、この二七日ぁ、丁度五回忌に当るの。さっそく霊光寺(れいこうじ)行って、住職さんにお願いしてやっさかい、心配さしゃんなか。」
 長太は、早速霊光寺へ出向いて事情を話して頼むと、住職は快く引き受けました。
 古ムジナの供養法会の行われた当日は、大沢村の霊光寺の境内は、噂を聞いて集まった参詣人で、満ち溢れ、延々長蛇の列をなしたといわれています。 

 そしてその晩、雌ムジナは、綺麗な娘になって再び炭焼き小屋に現れ、嬉し涙をにじみさせながら、もう再びここを訪れることはないと告げ、心からお礼を述べて帰っていったそうです。
 芹池の山中には、今でも、長太の木挽き小屋があるといいます。
 江戸時代は、文化年間の話でした。おしまい。

(註)この話は、おどろくほど各地に昔話として語り伝えられており、白山麓の白峰村の方にも伝わっているそうです。津田政隣の『政隣記』などから、元の話は、やはりこの大沢村から芹池村にかけての話であろうと思われる。
(参考)
   志雄町荻谷に伝わる「長太とムジナ」
ムジナ主人  鳳至郡誌他
 昔、鳳至郡は浦上村(現門前町浦上)に一人の医者がおりました。
 長いこと病気で伏せっていましたが、ある日、あの世へ旅立ってしまいました。
 葬式を済ませ、七日の作善(さぜん:善い行いを積むこと)も終えましたので、家の衆はほっと一息つきました。あくる日みんなで花見に出かけました。
 ところが家へ帰ってみると、どうした訳か、死んだはずの主人が上座でどっかと腰を下ろしております。
 「お前さん、どこから来たいの。」
妻が言いました。あの世からもしかして舞い戻ってきたのかとも思ったのです。
 「どこもここもないわい。おら前からここのもんやぞい。」
夫は答えました。下男、下女は狐につままれたみたいにポカンとしております。
隣りの主人が、これを聞いてある日、酒を一樽持って来ました。
そこで妻は、その酒を夫にすすめていいました。
 「お前さんな、昔から、酒ちゅうもん、よう好きやけに、もろうて(貰って)来たさかい、うんと飲んでくさんいか。」
 夫は仕方なく飲みました。妻がどんどんすすめるので、意識もなく酔っ払ってしまいました。
 翌朝、下男が馬屋へ行くのに玄関を出ると、軒下にムジナが一匹酒臭い息を匂わせながら転んで寝ているのを見つけました。
 「この餓鬼め。こないだから、ご主人に化けて、おらちを騙しくさって」
と言って、下男は酔いつぶれているムジナを担い棒でもって、メッタ打ちにしました。ムジナは、遮二無二逃げようとするのですが、何せ、酔っ払いの身ですので、足がもたつき、体が自由に動きません。ついには打ち殺されてしまいました。
ムジナの失敗  鳳至郡誌他
 昔、寛政6年(1794)といいますから、今から200年以上も昔の話です。
 町野(現輪島市町野)の鈴屋という在所に、男と娘がおりました。二人はいつのまにか仲良くなって、毎晩宮森というところで、逢引していました。そのうち娘は、子を孕(はら)んでしまいました。こっそり会っていたので、親に知れると大変です。
 そこで娘が言いました。

 「とうとう、こんなことになってしもうた。死ぬより他に道ぁないわね。」
すると男が言いました。
 「お前に死なれたら、おらやって、生きとる甲斐が無い。どうして、おまいだけ死なそう(死なせるもんか)。」
 「ほんなら、一緒に死んでくれるか。」
男は一瞬躊躇(ためらい)いをみせ言い淀んだが、じっとこちらを見つめる娘に思わず、頷いてしまった。

 やがて、約束の夜がやってきました。
 その晩、やはり男は死ぬのを恐れて、約束の場所へは行かないことにした。娘も行かなければ死ぬのを諦めるかもしれないと考えたのだ。「男は度胸、女は愛嬌」などとと言いますが、実際はいつの時代も女の方が度胸がいいのかもしれません。

 娘が宮森のはずれに月明かりを浴びて待っていると、しかしどういう訳か男が姿を見せました。勿論、娘は男が死ぬのを怖がったことなど知りませんから、不思議にも思わず早速心中の用意を始め出します。

 松の木の枝に一本の縄を吊るして、二人はその両端に首を結わえました。一、ニの合図で、二人は台石の上から飛び降りました。ところが、不思議なことに、男の体が妙に軽く、そのため娘の足が地面についてしまいました。

 娘は変に思って、空高く吊るしあがった男を見れば、これはまた不思議、男のはずが男ではなく、一匹のムジナがぶら下っているのです。頭をぐったり垂れて、すでにこの世のものではありません。
 娘は吃驚仰天し、我家へ駆け戻りました。

 ことの起こりは、このムジナもやはりこの娘に恋焦がれていたのでした。
 ムジナは宮森の主でした。男と娘が約束を交わした夜、宮の縁の下に隠れて二人の話を聞いていたのでした。ムジナは男が死を恐れて来ないのを知ると、男に化けて、娘と自分が心中しようとしたのです。
狢(ムジナ)和尚  参考「能登総持寺物語」(佃和雄著・北國新聞社出版局)他
  門前町(平成18年2月1日輪島市と合併予定)広瀬に、(曹洞宗)総持寺の峨山禅師の高弟で五哲の人といわれた大徹が開いた覚皇院(かっこういん)というお寺があります。この覚皇院には、今から約四百年くらい前に、狢和尚の描いたと伝える達磨大師の絵が所蔵されています。

 地元の言い伝えでは、この絵を描いた和尚というのは、もと狢であったが、覚皇院の住職になりたい一心に、本堂の床下に隠れて、住職の唱えるお経を一生懸命に覚える稽古をしました。

 そしてお経を一通り覚えて、諳(そら)んじることが出来るようにまでなったある日、突然隙をみて住職に飛びかかり、殺してしまいました。狢はその後、住職に化けてとりすまし、それから何食わぬ顔で住職の役を勤めていました。
 お寺の人たちも、信徒の方たちも、どうも様子が以前とは違い変だな、と思いつつも、どうしてもわかりませんでした。

 そんなある日、檀家の法事に招待され、籠に乗って行く途中、鹿島郡金丸村のあたりで、犬に吠(ほ)えられて食いつかれ、とうとうその正体を現わしてしまったといいます。

 最後に、達磨図についてだが、現住職の稲垣氏によると、これは狢和尚と呼ばれた住職が鏡を使って自分の顔を描いたもので、達磨の絵だということは聞いたことがないそうである。

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