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  能登の民話伝説

 口能登というのは、中能登を含んで言う場合もありますが、ここでは加賀との境界から羽咋市及び羽咋郡の町々の地域を口能登の範囲とさせてもらいました。
この頁では、上記の範囲の北部にあたる志賀町・富来町の民話・伝説を集めてみました。
能登の民話伝説(口能登地区-No.3)

<志賀町の民話伝説>
ミズシのねり薬 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 ミズシとは、志賀(しか)町高浜地区の方言で河童のことです。高浜は志賀町の中心街です。高浜のバス停から北1.5km、米町(こんまち)川に架かる渕端橋(志賀町末吉)を渡ると、左にミズシの練り薬“疳薬”(五臓・強壮)を伝える渕端家があります。

 なぜミズシの練り薬と呼ばれるか、その話をこれからしましょう。

 慶長年間(1596〜1615)のある日、米町川(当時は神代(かくみ)川と呼ばれた)の川辺で、渕端家の祖先にあたる武士が馬に水浴させようとしたところ、ミズシ(河童)が馬の尻尾に飛びつき、川へ引きずり込もうとしました。
 驚いた馬はミズシをつけたまま屋敷に逃げ帰りました。

 最初何が起きたかわからず暴走する馬を必死に追いかけた主人は、尻尾にしがみ付いて半ば気絶していたミズシを見つけて原因を悟り、すかさず捕らえました。途中で気付き逃げ出そうともがきますが、水の中では馬に匹敵する力を出すミズシも陸(おか)の上では力が出ません。能無しです。主人によって楽々と押さえ込まれ、家の前のタブの木に縛り付けられてしまいました。

 そして主人はその後、棒や素手などで折檻を始めました。

 ミズシは堪らず、秘伝の万病に効く妙薬の調合方法を教えてくれるから助けてくれ、と嘆願しました。主人も殺すまでは考えておらず、心のうちでもうそろそろやめようかと考えていたところなので、聞き届けました。

 手が使えるように縄を一部解いてやると、ミズシは、紙をもらうと自分が流した血をミズカキのある手の指先に付け、薬の調合方法を書きました。一種類の薬なので、短い文章で十分だったのです。

 それが本当に効くかどうか一度試してみないとわかりません。主人もその時はあまりアテにはしていませんでしたが、これだけ懲らしめてやればもう悪さはしないだろうと思ったのです。調合方法を書いた紙をもらうと、縄を完全に解き、ミズシ(河童)を許して放免したと伝えられています。

 その事件の後も、お礼に川魚をツブレ(釣瓶)に入れて、自分が縛られたタブの木にかけおくことがあったといいます。そのタブの老樹は今でも同家の前にそそり立っているということです。
 面白いことに、このミズシの墓といわれうものもあり、志賀町堀松のはずれの宗泉寺(曹洞宗)の山門を入ったすぐ左手にあるということです。
梨谷小山のミソシコベ 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 同じ志賀町でも、米町川上流では、河童のことをミソシコベというそうだ。堀松から3kmばかり北にある梨谷小山(なしたんこやま)では、ミソシコベが、悪さをして人間にやはり捕まった際に、今後もう悪いことはしませんと、詫び証文を石に書いて血判したが、時々証文の字を消しにきた。それから160年もたった大正12年8月31日、少年が米町川で溺死する事件がありました。証文の字がちょうど消える時期にあたっていたので、人々はミソシコベが、少年の命を奪ったのだといいあったということです。
 証文を書いた石というのは、老樹の茂る通称小山にあり、地元ではカンサマと呼ばれており、板碑であって字らしいものは、やはり今では見えないということです。
 また同じ米町川流域で、別所にも、昔悪さをしたミソシコベが、もう悪さをしないと誓約血判した馬桶が、瀬古比古神社にあったそうです。
仏木の身代わり伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 志賀町には仏木(ほとけぎり、ほとぎり)という変わった地名があります。この珍しい名前は、これまたちょっと風変わりな身代わり伝説び因んでいます。
 昔、室町時代という今から600年ほど昔のこと、一人の禅宗(曹洞宗)の和尚が、門前の総持寺に向かって歩いていました。途中、白山神社の前方で、三人の子供が、ションベン(小便)で粘土を捏(こ)ねて三体の仏様を作っているのを見とめて、それを貰い受けました。その後、すぐに日が暮れて来ました。まだ門前町までは、一日ほどかかるので、一軒の民家に頼み、泊めて貰うことにしました。実はその泊まった家が山賊の家でした。山賊は、旅僧の物品を盗ろうと思い、夜中にこっそり起きて、寝ていた旅僧に斬りつけました。翌朝見たら殺したはずの旅僧が無事で、仏様が身代わりとなっていました。この奇跡に山賊が懺悔して弟子となったところから村名を仏切、後に今の文字に改めました。この改心した盗賊も、その後、立派な僧となったということです。
 ションベン仏は、越前の御簾尾(みすのを)の寺にあると伝えられています。実際、福井県坂井郡金津町の御簾尾の曹洞宗のお寺・龍沢寺にあります。開山は峨山(がざん)禅師の弟子(高弟)の梅山禅師であり、よってこの伝説の旅僧は梅山禅師に該当すると思われます。
おりん伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
妙成寺にある寿福院の墓 志賀町徳田は、加賀藩三代藩主前田利常の生母寿福院の生地という言い伝えがあります。伝説では、寿福院は、もとは、おりんと呼ばれていました。前田利家が、能登の領地を巡視していて、ここを通りかかった時、美しいおりんの歌が耳目にとまって召されました。

 利家は、徳田の近くの土田の紙屋敷でしばらく滞在されましたが、おりんと結ばれ、やがて生まれたのが利常だったといいます。加賀藩の資料では、寿福院の父は越前の大名朝倉氏の家臣とされますが、もしかしたら志賀町で生まれたおりんを、由緒ある家臣の養女としてから嫁がせたのかもしれません。加賀藩の歴史は、源さんは詳らかではないので、はっきりした事は言えません、あしからず。
 徳田千石 にか(籾殻(もみがら))でも納め 可愛いおりんの里じゃもの
 こんな歌が今も伝わっています。徳田神社の別当安養寺に、利常が寺領を寄進したのも、この神社がおりんの産土神だったためだろうという話があります。

 この寿福院は、もともと正室まつ(芳春院)の侍女を務めていて、利家の側室となりました。侍女の時の名は「ちよ」、勿論、利家の4男・利常を産み、現在、羽咋市の妙成寺に葬られています(右の写真)。
仏木の三蔵 
 仏木(ほとぎり)の三蔵という男が、大島(現羽咋市)へさし網イワシを買いに行きました。朝暗いうちに起きていってイワシをでかい籠に入れて担いできたら、火打谷の前坂辺りで白々と夜が明けてきました。そしたら、行くときにはなかった大きな家が道の脇にあって、その前にきれいな娘がおって「入っていって一服して行かんせ」と艶な目で微笑みかけ、誘います。三蔵は、その娘がきれいやったもんで、疲れが出ていた頃でもあり、不思議と思う気持ちもすぐどこやらへやって、鼻の下を長〜くして、その家に入りました。酒をよばれるやら、ごちそうを食べるやら、風呂にまで入って気持ちよくなっていました。ところが仏木の人が、近くを通りかかって「三蔵、おめぇそんなところに浸かって何しとるがや」と言われてびっくりして我に帰りました。周囲や自分の体を見て、あらためて自分が置かれた状況を悟りました。何と、風呂だと思ったのは何ともウンチ臭い肥だめで、おまけに大島から担いできたイワシは全部、化かしたキツネに取られていたのでした。
高位の地蔵さん 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 高位(たかい)の地蔵さんは、肩から脇腹にかけて傷跡があるといいます。これは、天平年間に、上杉謙信が能登へ侵攻してきた時、地蔵のお堂の前で馬が止まって動かなくなってしまった。それで、これは地蔵の仕業に違いないと、怒った謙信が、石の地蔵さんを袈裟がけに斬ったら馬が動いたと言われ、その時の傷が残ったものだと言い伝えられています。
首切り地蔵 参考:「石川県羽咋郡誌」
 昔々、梨谷にイタズラ好きな百姓がおりました。
 野良仕事のための移動の途中など、周囲を見ながら毎日のように何か面白いイタズラはできないものかと考えていた。いい考え思いつくと、人に気付かれぬようこっそりとイタズラをして立ち去り、後でそのイタズラで困っている者がいた事など知ると、陰で腹を抱えて笑うのを楽しみとしているのでした。

 ある天気のいい日、その百姓は馬をひいて北吉田のとある山中へ草刈に出かけました。
 半刻(約一時間)も経つと、もう馬の背に乗せられないほど沢山刈り取ることが出来ました。

 さてもうそろそろ帰ろうかの、と思いふと右横を見ると、路傍に丈一尺ほどのとても穏やかな顔をしたお地蔵様が立っていました。その姿がいかにも無邪気に見えるもので、彼はついいつものいたずらっ気が出てしまいした。バチあたりにも、その首に草履を引っ掛けてしまいました。

 翌朝、百姓は再びその場所へ草刈の続きのため通りました。すると誰の仕業か、昨日お地蔵様の首にかけておいた草履が見当たりません。この道は、山中の道で、他の集落などとの往来道ではないので、おかしいな、と思ったのです。周囲をあちこち探してみると、かなり遠い所にその草履は捨てられておりました。

 不思議だなと思い、お百姓は、地蔵の顔をジロジロ見ますと、今日はどういう訳か、自分に向かって「このだらぶち(アホタレ)」と言わんばかりの顔つきにみえます。それが癪にさわり、いたずら好きな百姓は、今度は、何と有難いお地蔵様の首に鎌をかけてグイッと引っ張りました。
 
 すると妙な事もあるもので、石なのに、あたかも肉を切るかのようにスーッときれいに切れて、首が落ちてしまいました。百姓は、イタズラとはいえ思いがけぬ結果にゾットとし気味が悪くなりました。

 草刈も早々に終え、気味悪い気持ちを引き摺りながら家へ帰ってきました。
 ところが、我家へ帰り着いた途端、草を担がせてきた馬が何かに吃驚して一声大きく嘶(いなな)きました。そして躍り上って暴れ、一人で馬屋へ駆け込もうとしました。

 百姓は手綱を持って、必死に取り押さえ鎮めようと頑張りますが、興奮して狂ったように暴れる馬にはぜんぜん効き目がありません。我が身も、馬屋の方へずるずる引き摺られていきます。

 そこで百姓は、ついに堪りかねて、最後の力を振り絞って、手綱を思いっきり強く引き寄せました。
 ところが、その時、馬も満身の力を振り絞って馬屋へ突っ込んだものですから、百姓は手綱を握ったまま、ひゅーんと宙に舞い上がりました。そして運悪く、カモイに頭をぶち当てて、即死してしまったということです。
骨折り損が海山坊 参考:「石川県羽咋郡誌」
 どこからどこへ行くのか、皆目わからぬ海山坊という身汚い坊さんが、ある日、志賀浦(しがのうら)の町と安部屋(あぶや)の境を通りかかりました。汚くはありますが、怪僧といった感じで力強く見えたのでしょうか、道の傍らのお地蔵さんが海山坊を呼び止めて
 「おーい、そこの坊主やい。わしを直海(のうみ)の高井へ連れて行ってくれんか。そうしてくれるなら、お前さんを一生安楽にさせてやるから。」
と頼みました。海山坊は、お地蔵さんに呼び止められたから少し驚いたが、相手は有難いお地蔵様である、
 「よろしい、引き受けた。」
と海山坊が答えました。するとお地蔵さんは、
 「だが断っておくことがあるぞ。」
と言います。何か注文の多そうなお地蔵さんだなと、口調も荒っぽく
 「なんやい。」と聞きました。
 「道の途中で、もし誰かに見つかったりしたら、お前さんには気の毒やが、安楽はやれんぞ。」
海山坊は、力には自信がありましたから、これくらいの地蔵なら見つかりそうになっても何とかなろうと思い、
 「よしわかった。」
と答えました。そうした訳で、海山坊はお地蔵さんを背負いました。
 背負うてみたら、その重いこと重いこと、わずか三尺(約90cm)足らずの背丈の地蔵なのに、米を五俵くらい担いでいるような感じです。海山坊は、汗を滝のように流して、歯を食いしばって頑張り、やっとのことでヘラソのクルシマ坂のあたりまでやって来ました。
 すると、坂の上の方から2、3人こちらへやって来る模様です。
 地蔵様は、
 「残念やが、ここで下ろしてくれ。」と言います。
海山坊は開いた口がふさがりません。が、約束なので、もの惜しげに、道の傍らへそのお地蔵さんを下ろしました。
 これを村人達は、今、ヘラソの地蔵と呼んでいます。
奈豆美比咩神社の伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 安津美(あづみ)の宮山の奈豆美比咩神社の神様は、昔々、この安津美から8kmほど北方の桃浦(百浦)海岸に漂着し、そこから船で安津美に来られたといわれています。その来着伝説が、神社南方400m、オタビという台地の一角にあり、祭日には神輿が渡御して神事が行われます。
 この神社には、もう一つ、人身御供の伝説が言い伝えられています。神社に住むケボ(蜘蛛)が、村の娘を人身御供としていたのでした。ある年、偉い武士が娘の身代わりとなって人身御供が入る桶に入って待ち伏せました。何も知らないケボは、「このことは信濃のシケンに聞かするな」と言いながら喜び踊って桶の蓋を開けました。その途端、武士に刺されて、遁走しました。
 武士が血の跡を辿ると、安津見の山奥の女郎谷だったといいます。人身御供の桶の蓋と底板が今でも神社に伝わっているとのことです。
 ※この話に出てくる「シケン」は、七尾市の青柏祭にでて来る白狼「しゅけん」と非常に立場が似ています。この話では特に、シケンは、登場はしませんが、同じ人身御供の話でもありますから、元の話は青柏祭の伝説と同源なのかもしれません。
 
(参考) ○「横向きに座る大国主命〜出雲と能登の神々〜」(円山義一著:医療法人生生会発行)
身代神社の御神体 
 参考:「横向きに座る大国主命〜出雲と能登の神々〜」(円山義一著:医療法人生生会発行)
 この神社は、志賀町字梨谷小山10-273にあります。古くは大穴牟遅(おおなむち)像石神社と称し、現在は大穴持美代(おおあなもちみしろ)神社と呼ばれています。地元では単に「身代(みしろ)神社と呼ぶそうで、社標も「身代社」と大きく彫り込んであるだけであります。地元の人の話では、昔、羽咋市の大穴持像石神社と社号論争があってから、こちらを身代神社と言う様になったとのこと。
 大穴牟遅も、大穴持も、おのおの大国主命の数多くある別称のうちの一つです。勿論主祭神は、大穴牟遅神で、他に少名毘古那(スクナヒコナ)神が祀られています。神社の由緒書では、このニ神は出雲国より舟に乗って、この梨谷村に漂着したとあり、大真石が御神体として仰がれていると書かれています。
 この神社には、他にも面白い言い伝えがあります。 
 
 当初は、御神体の石は、近くの田圃の中にありました。ある時、田の持主の老人の夢枕に神様が現れ、
 「わしをここから本殿の方へ移してくれないか」
とおっしゃいました。
 その人は
 「私は歳もとっているし、こんな大きな石は持てません。」
と断ると
 「それではわしは小さくなろう」
 とおっしゃいました。翌朝目が覚めてから、田へ行ってみると何と夢のお告げ通り、石は小さくなっていました。それで老人は、その石を丁寧に洗って綺麗にして、それを背負って本殿へ運びました。更に翌日その神社の本殿へ行ってみると、その御神体の石は元の大きさに戻っていたといいます。
上野の弘法水 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 志賀町・上野(うわの)の八幡神社の前方右手の路傍に弘法水と呼ばれる湧水があります。
 弘法大師が、このあたりに来て、休憩された時、喉が渇いたので、地元の人に水を所望しました。しばらくしてからしばらくしてから水が差し出されたので、聞いてみると、かなり遠くから汲んできたとのことでした。良い水がないのを哀れんだ大師が、杖で地面を突くと、清水が湧き出てきました。大師の御手が汚れたのを見た老婆が、ちょうど織っていた布を手拭として差し上げました。大師が、その布で手を拭くと、不思議にもその布が真っ白になりました。
 大師は、「この水で布を晒せ」とおっしゃって上野を立ち去られました。それから上野で布晒しが始まったといわれています。名産志賀晒しの由来伝説にもなっています。
 なお八幡神社の左手に弘法大師を祀る晒井(さらしい)神社があります。
怪力しろく 参考:「石川県羽咋郡誌」
 昔々、安津見に大そう怪力の持ち主がおりました。男の名は「しろく」と言って、土地の分限者(金持ち・財産家)・細川親右衛門の下僕でしたが、神様に願掛けして、ゆうに五十人力の剛力を得ました。

 ある時、徳田の照明寺にお堂を建てることになりました。親右衛門は、分限者の手前、大きな欅の紅梁を寄進することになり、徳田氏に頼んで、その下男百人がかりで山から大きな欅の木を伐り出させました。ところが、その欅の木があまりにも大きいので、朝から縄をかけて引いても、ビクとも動きません。
 親右衛門は困ってしまい、誰かこの木を動かせるものは居ないかというと、しろくは飛んできて、
 「おらに任さっしゃい。」
と言いました。そこで親右衛門は、しろくに命じました。
 しろくはスタコラと飛ぶように山へ入りました。件(くだん)の大木を見ると、
 「なーんだ。こんな木か」
と言うと、カーラカーラとうち笑い、百人の引き縄を、一纏めにひっくるめるや、縄を肩にかけ、前を向きながらヨッコラドッコイ、コラサ、コラサ、とその大木を力強く引き始めました。
 木はズルッと動き始めたかと思うと、あれよあれよという間に勢いをつけ、じきにまるで雪上の橇でも引っ張っているかのように、しろくの後ろをすべるように引き摺られていきました。その場の者は、皆あっけにとられて見てました。その欅の大木は、まもなくお寺の境内に運ばれました。

 主の親右衛門は、江戸・上見物に行く時には、大きなよまいがた(四人で担ぐ)籠に乗りました。どうして親右衛門が、そんな格があるかというと、その昔、先祖が前田家の家老であった長氏を、訳あって匿ったことがあり、その手柄が認められていたからでした。
 ところで、このしろくは、そのよまいがたの大籠を、もり棒を肩に一人で軽々と担ぎ、飛脚のように早足で歩きました。それで、五日分の飯を一度に食べて腹ごしらえするので、上方へはわずかの五日、江戸なら七日で行き着きました。

 ある時、主人の親右衛門を籠に担いで京参りしました。
 三条の大橋まで来ると、そこは田舎と違い、仰山の人通りですから、思うように通れません。そこで、しろくは邪魔な人をヒョイヒョイと摘まみ上げ、川へ投げ捨て、もり棒を足に押えて、キセルを取り出し、ゆうゆうとタバコを吸いました。

 またある時、しろくがいつもの籠を担いで江戸へ出ると、新年でもあり、ちょうど、いろは組が出初式に望むところでした。
 晴れの舞台で、わが組こそいいとこ見せてやろうとお互い目立とうします。そこは喧嘩早いトビ職たちのこと、ふとした契機で、道の真ん中で、殴り合い取っ組み合いの喧嘩がおこりました。
 そこでしろくは仲裁に入ろうと、その中へ飛んで入りました。すると、いろは組のトビ職連中は
 「田舎もんのくせに、しゃらくせいやい」
と、かえってしろくに踊りかかってきました。しろくは仕方なくもり棒を振り回して防いでいましたが、何しろ相手は多勢です。あらたにあちらに雲霞の如く攻め寄せてきます。
 短いもり棒では面倒臭くなり、しろくは、近くの火の見櫓を引っこ抜くと、所構わず振り回しました。これには、さすがにいろは組の連中もその怪力に恐れをなして、スゴスゴと引き下がりました。
 おりよく、その場へ加賀様のお役人が通りかかりましたので、とりなしてくれ、うまく話がついたので、主人もしろくも無事に江戸見物が出来ました。

 江戸見物から帰ると、ほどなく、江戸でも指折りの角力取りがやって来て、田を耕していたしろくに尋ねました。
 「安津見のしろくという剛力が、いるじゃろか、いないじゃろか。」
しろくは、力比べに来たんじゃなと思ったから、そ知らぬふりをして、
 「そんなもんがいるちゅこっちゃが、行ってみてくされ。」
と返事しておいて、やんわりやんわり、田からあがって、すぐ近くの松の木をねじ倒して足で踏み押さえ、それからやんわり、タバコに火をつけました。
 角力取りは、その様子を見てすっかり驚き、これこそしろくに違いなかろうと思い、蜘蛛の子みたいに逃げていきました。

 ある日のことです。
 主人が、何気なくしろくに言ってしまいました。
 「馬に青草を食わしたら、こげぬ(引き抜けぬ)ほどの大木に繋いで、休んどれ。」
 そこで、しろくは主人の持山の麓へ行って、馬に沢山青草を食わせると、今度は、馬を木に繋ごうとしました。けれど、しろくの力でこげぬ(引き抜けぬ)ような大木は一本もありません。

 ところで、しろくが山へ行ってから、主人は迂闊な命令だったと気付き、あわてて後をおいかけましたが、何もかも後の祭りです。昨日まで、こんもりと茂っていた山は、すっかりと禿山になり、木らしいものさえ見えませんでした。
<富来町の民話伝説>
福浦の腰巻地蔵伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 福浦の新灯台の側の松林の中に、腰巻地蔵が座っています。昔、福浦港外で難破した越後ぼ船の遺族が、供養の為に建てたのが、この地蔵さんということです。この福浦のあたりは、三方を丘で囲まれた天然の良港のため、昔から非常に栄えた港町です。古代はここで渤海国の施設を送迎したといいますし、近世においては、北前船の寄港地として栄え、沢山のゲンショ(芸妓)がいたといいます。
 ある年、船出する船頭との別れを惜しんだゲンショが、もったいないが地蔵さんに腰巻を懸け、男をとどめてくださいとお願いしました。たちまち海が大荒れとなって、船は引き換えし、首尾よく船頭に逢えたということです。
 それからは、好きな男の船出を止めようと、下着の腰巻などを地蔵さんにかける奇習ができたといいます。詩人野口雨情が、昭和9年、ここを訪れた際、次のようによんでいます。
 能登の福浦の腰巻地蔵は 今朝も出船をまたとめた
義経の船隠し伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 福浦港から北方の関ノ鼻まで約29kmの海岸が能登金剛と呼ばれています。福浦港より北、能登金剛のヤセの断崖の少し南に、「義経の船隠し」と呼ばれる場所があります。断崖がまるで、真っ二つに裂けたように、両方から迫った入江の地です。ここに48艘を隠し、義経一行が潜んでいたといわれています。(右の写真)
 義経主従が、頼朝の追捕を逃れ、能登を通って奥州平泉に逃避行する途中、海難を避けるため、能登のこの関ノ鼻付近の海岸の絶壁の岩の間に、船ごと入れ、難を避けたと言われています。
義経の船隠し伝説の入江
お産の井戸 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 生神(うるかみ)の生神社は昔、子安明神と呼ばれています。義経の愛妾がここで難産した時、末代まで産婦を守ろうと誓願を立てたところから、安産の守り神となりました。
 神社前方の小さな祠の床下に、お産の井戸と呼ばれる古い井戸があります。この水は、今から300年程前から「生神の水」とも呼ばれている水です。このお水をいただくと安産すると言う伝説や、この水を汲み澄んでいれば安産、濁っていれば何かある。と言う伝説、小石をこの水に浸しそれを産婦の懐中に入れて祈ると安産になると言う伝説もあるそうです。
機具岩伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 機具岩生神から1.5kmばかり北へ向かうと、左手の海中に注連縄を張り渡した大岩・小岩がそそり立っています。機具(はたぐ)岩と呼ばれています。また三重県の二見岩に似ていることから、能登二見とも呼ばれ景勝の地です。(右の写真)
能登上布の製法を教え、織物の神様として有名な能登比咩神社の神様が、賊徒に襲われた時、この海に機具を投げたら、たちまち機具に似た巨岩になったといいます。この伝説にちなみ、古人は、「織姫の立てしや磯の機具岩あや織りかくる波の数々」と詠んでいます。大岩の上には、能登比咩社神の小さな祠を祀っています。
碁盤島 
松本清張の「ゼロの焦点」でも有名になった巌門には、義経と弁慶が将棋を楽しんだとされる巨大な岩「碁盤島」などがあります。(富来町)
義経の一太刀岩
関野鼻海岸にある奇岩で、義経一行がこの地を訪れた時、義経が刀の試し切りをしたところ、一太刀で岩を切り離し、弁慶が二太刀で岩を粉々にしたという岩があります。いまでもスパット切れたような岩があり、そのまわりに砕けた岩があります。(富来町)。
荒木海岸の義経伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 荒木の海岸は、昔はひどい難所だったが、今はトンネルなども幾つかほられ、ドライブコースとなっています。ここにも義経の隠れ穴や馬の爪跡といった伝説が岩があったそうです。義経は、この荒木海岸で、
 「義経の 身のさび刀 とぎ(研ぎ・富来)に来て あらき(新木・荒木)の鞘(さや)に 入るぞかなしき」
と詠んだとも言われています。 
荒木海岸の夫婦岩伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 荒木第2トンネルの60mばかり手前、海岸から40mほど離れた海中に、亀の甲羅に似た亀石が浮いているように見えます。もともとは2つの岩が並んでいて夫婦岩でしたが、寛永11年(1634)、雄石は、金沢城の庭石にしようと運ばれていったので、残されたこの石(雌石)が、淋しさで鳴いたといわれています。
 また雄石ですが、宮越に陸揚げして、運搬作業中、藤江で亀の首の部分が欠損したそうです。責任者は、自害し、石は長い間そのまま放置されました。大正15年(1926)、藤江の高鞆(たかとも)神社の境内に移動され、拝殿左横手に置かれています。現在は大石と呼ばれています。確かにこちらの石も亀の甲羅形をしているということです
増穂浦の漂着伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」角川書店
 富来町の中心街が海に面したあたりの海岸は増穂浦(ますほのうら)とか、袖が浜、八幡ババ(浜)と呼ばれています。、昔、八幡(やわた)の神様が、岩舟でこの浜にあがって領家町の住吉社の女神と契りを結んだ。しかし波音がひどいので、約2km北東の静かな八幡にある富来八幡神社と言われる。
 毎年来着記念の8月31日の夜は、八幡から沢山の奉燈(おあかし)を従えて、領家町の住吉社へお旅なされる。ゆかりの浜は駆け足で渡御し、神輿を担ぐ、人も片足は波打ち際に、入れるのが古来の慣行だった。翌9月1日は近郷の神社の神輿がお供し、浜辺をはじめゆかりの町を巡って帰社するのである。
八百比丘尼(やおびくに)  出典:「石川県羽咋郡誌」
 昔々、越中の玉椿から、八百歳にもなりながら娘のように美しい女が、富来へやって来て、そこから二里の間に、見事な椿の植え木原を造りました。
 どうして八百年も生きておらてたかというと、それには次のような訳がありました。
 昔々、越中黒部に玉椿千軒といって、とても栄えた湊がありました。ある時、その里の長が京へ赴くことになりました。途中、どこらあたりでしたか、一人の武士と道連れになり、気が合うのかうちとけて一緒に京まで上りました。玉椿の長が用を終え帰途につくと、帰りもどこかで偶然一緒になりました。これは奇遇と帰りも、四方山の世間話をしながら、国へ帰ることとなりました。
 ところで、いよいよ別れという際になって、その武士が言うには、
 「おらは、実は越後の明光山の麓の三越左衛門て、古狐でがんす。なれど、おさま(あんた)が気にくうた(気に入った)から、このまんま別れるもつらいすけ(残念ですから)、これからたまたま、おさまち(あんたの家)訪ねさしてくさるけや。」
 これを聞き、玉椿の長もはじめは驚きましたが、これも何かの縁であろうと、
 「よかったら、いつでも来てくだはれ。」
と快諾しました。
 それから、左衛門は度々玉椿の長を訪れました。そしてある日、狐左衛門は、
 「ここんしょう(この家)は、どうしてこんなに騒がしいんだ。一つ、おら一族で、この後ろに、別荘でも建ててあげたいが。」
と親切な口をきくので、玉椿の長は喜んで、
 「なら、そうしてくれ。」と言いました。
 そこで狐左衛門は、越後の狐をみんな呼び集めて仕事にかかりましたから、たちまち立派な別荘が出来上がりました。
 お祝いの日に、狐左衛門は、山海の珍味を山と用意しました。そして、手下の狐どもに料理を急がせていますと、玉椿の長に招かれた男の中に小賢しい奴がおって、台所の様子を覗き見しました。
 ところが、狐どもの切っている肉がどうも人間に似た形をしているものだから、吃驚して他の男達に話すと、皆がそれを見て、すっかり気分を悪くしてしまいました。
 御前に出されても、誰一人食べる者がありません。めいめい、隙を窺がって、ごちそうをこっそり懐に入れ、食べたふりをしていました。そして帰りに、それを皆ごと道端に捨てました。
 さて招かれた男の中に酔いつぶれて肉を忘れて帰った者がいました。狐左衛門は、それを見つけて、
 「人間なんて、誠にケツの穴の小さいもんだで。これを食うたら、長生きできるが。」
とため息をつきました。それから隣りに居残って後片付けなどしている娘に、
 「お前、食うてみれや。」
とその肉をつまんでやりましたら、娘は思うところなく食べてしまいました。
 この肉がとりもなおさず、不老長寿を得られるといわれた人魚の肉だった訳です。そのたとえ通り、娘はたべた時の十八歳の姿のまま、八百年も生きていたのです。これが八百比丘尼(または白比丘尼とも)といって、富来の椿の原を造ったという次第です。
 八百比丘尼は、一説では鳳至郡の縄又村(現・輪島市縄又)の生まれだとも言われています。 

(参考)能登の民話伝説-口能登 No.3 「(縄又に伝わる)八百比丘尼」

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