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先史〜古墳時代の能登 |
(2003年8月23日 一部加筆及び訂正修正)
記述が七尾鹿島中心になっています。もともと七尾の歴史のHPだったものを能登一帯に拡大しましたが、まだ他の地域は少し不十分です。ご了承願います。
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1.ムラからクニへ |
2.能登地方の旧石器時代・ 縄文時代・弥生時代の 主要な遺跡 | 3. 能登の古墳(別の頁) |
4.コシとノトと ヤマト |
5.海を守った 能登の豪族達 |
約一万年前、粘土で成形し焼き上げた器が出現するようになります。この土器の表面には、縄目が見られるので縄文土器と呼ばれました。煮炊き用の土鍋であったろうと想像されます。この土器が現れる時期から、米作りが始まる弥生時代までの約8千年間を縄文時代と呼びます。そして繰り返しますが、米作りが始まるようになった時代を弥生時代と呼びます。
西暦紀元前後には北陸各地で、根を下ろしていた水稲耕作も、弥生時代後期(2〜3世紀頃)には、一段と普及し、耕地面積も増加したようだ。これは、稲の品種淘汰も進んだこともあげられるが、何といっても鉄器の普及による農耕具の飛躍的な改善がみられるようだ。そして、鉄器が普及すると農耕可能面積も増え、人口が増加したようで、考古学的にも3世紀後半から4世紀中頃にかけての集落遺跡が、その前の時代と比べ爆発的に発見されている。社会面では、農耕文化の発展とともに、私有財産の蓄積に伴う共同体内の貧富の差の拡大と首長層の台頭が見られる。この農業共同体ごとに人々が生活していた頃の遺跡には、例えば私畝源三郎の地元七尾市でいえば、千野遺跡、古府十三塚遺跡、万行遺跡、佐味遺跡、小島遺跡、小丸山遺跡下遺跡などがある(ただし、この殆どは発掘終了後、もとの状態に戻されている)。
3世紀頃には、特定地域内の幾つかの集落が、その中で最も強い力をもった集落によって主導権が握られ政治的に統合されていったと思われる。その範囲は初期においては狭い範囲に限られていたが、次第に拡大していき、ついには1つの盆地や河川流域を中心に数キロといった範囲の勢力圏を形成していった。同様な動きは今の羽咋市域でもすすんでいたが、それとは別にすすんだか、それとも邑知潟地溝帯の東西にわたってほぼ同時期にすすんだか、といことについては、まだ推定しにくい。
<奥原峠遺跡>
和倉温泉西口交差点南側の高台に所在する弥生後半のムラで、大小の竪穴住居が2〜3棟を一単位として形成されていた。この奥原峠のムラの竪穴住居からは焼け焦げた多数の炉跡や、鉄製の錐・槍鉋などの製品断片とともに、勾玉の未製品や原石が一緒に見つかったことで、鉄鍛冶と玉作りが同時に行われていたことが明らかにされた。北部九州から日本海沿岸に、いち早く伝来されたことが確認されている鉄鍛冶技術が奥原峠のムラにも伝えられていたのである。この鉄鍛冶によって、より小さい孔が開けられる鉄錐が生産されるようになったことで、玉作りもそれまでの石錐から鉄錐を新たな穿孔具として用いる技術革新がもたらされたのである。
<細口源田山遺跡>
七尾市南西部に延びる徳田丘陵は、邑知潟地溝帯と鷹合川(御祓川上流)にはさまれた低い山丘である。昭和52年(1977)、細口町地内の山林で自動車学校を造成中、切り土の断面で数基の土壙墓らしものが発見された。以後5ヶ年にわたって発掘が行われた。
この遺跡は、中期後半の櫛描文(くしがきもん)土器を伴うが、ここからは13基の方形周溝墓と15基の土壙墓が発掘され、中央の埋葬施設には板を組み合わせて作った箱形の木棺が納められていた。方形周溝墓群は北陸では最古のものである。方形周溝墓とは、土壙墓を取り囲むように溝を方形に掘り巡らしており、かなりの墓地を個人もしくは特定の家族が占有することで、これまで土壙墓とは性格が異なる。畿内地方を中心に普及するが、関東地方などでは、かなり長く採用された墓制でもある。
鮮やかな色彩の管玉(121個出土)は身を飾る宝物として、壷や甕・鉢などはお酒や食物などを被葬者にお供えしたものであろう。方形周溝墓の被葬者は、有力家族の家長クラス、土壙墓は家族が埋葬されていると考えられ、米作りが伝わってからまもなく、この地域のムラにも貧富の差があらわれ、階層の分化が進みつつあったことを示している。
4世紀の終わり頃から、5世紀の初めにかけて、能登に大きな古墳が出現します。これはムラとムラがまとまり次第にクニが形成されてきた事を表します。ムラムラをまとめるクニの政(まつりごと)の中心人物が王であり、王の墓が古墳です。政を強力に推し進める為にも、王の墓の大きさでその力を示す必要がありました。その頃、ノトと言われていたのは、邑知(おうち)平野を中心にその周辺部の七尾と鹿島を合わせた地域をさします。七尾市内だけで現在、大小約300もの古墳が確認されています。
2.能登地方の旧石器時代・縄文時代・弥生時代の主要な遺跡
能登地方の旧石器(▲印のついたもの) ・縄文時代の主要遺跡 | ▲志賀町・赤住遺跡 | ▲内浦町・ 不動寺遺跡 | ▲押水町・ 竹生野遺跡 | ▲押水町・御館遺跡 | ||
珠洲市・高波遺跡 | 内浦町・新保遺跡 | 能都町・真脇遺跡 | 能都町・ 宇出津崎山遺跡 | 能都町・波並遺跡 | 輪島市・宅田上野山遺跡 | |
輪島市・ 三井新保遺跡 | 輪島市・大沢遺跡 | 穴水町・比良遺跡 | 穴水町・新崎遺跡 | 穴水町・曽福遺跡 | 穴水町・甲小寺遺跡 | |
門前町・ 道下元町遺跡 | 能登島町・佐波遺跡 | 能登島町・ 通ジゾハナ遺跡 | 中島町・田岸遺跡 | 田鶴浜町・大津遺跡 | 富来町・酒見遺跡 | |
富来町・福浦遺跡 | 志賀町・ 堀松貝塚遺跡 | 七尾市・赤浦遺跡 | 七尾市・万行遺跡 | 鹿島町・徳前遺跡 | 鹿島町・原山遺跡 | |
羽咋市・ 四柳貝塚遺跡 (白山下遺跡) | 羽咋市・ 柳田シャコデ遺跡 | 押水町・ 上田うまばち遺跡 | 押水町・ 紺屋町ダイラクボウ遺跡 | 田鶴浜町・ 三引C・D遺跡(集落) | 田鶴浜町・ 三引C・D遺跡(貝塚) | |
柳田村・ 上町和住下遺跡 | 鳥屋町・ 伊助谷うわの台遺跡 | 田鶴浜町 ・吉田野寺(ノンデラ)遺跡 | 田鶴浜町 ・東山諏訪遺跡 | 田鶴浜町 ・吉田野遺跡 | 田鶴浜町・ 大津ロクベエ遺跡 | |
輪島市・塚田遺跡 | 輪島市・寺地遺跡 | 輪島市・光浦立野遺跡 | ||||
(参考)表は、 石川県埋蔵文化センターのホームページ の中の「遺跡発掘ファイル」を参考にさせてもらいました。 |
弥生時代の主要遺跡 | 七尾市・源田山遺跡 (奥原遺蹟と同じ?) | 鹿島町・ 高畠カンジダ遺跡 | 鹿島町・ 藤井サンジョガリ遺跡 | 能登島町・ 野崎前田遺跡 |
志雄町・荻市遺跡 | 七尾市・奥原遺跡 | 七尾市・小島六十刈遺跡 | 七尾市池崎遺跡 | 志賀町・ 鹿首モリガフチ遺跡 |
鹿西町・ 杉谷チャノバタケ遺跡 | 羽咋市・柴垣須田遺跡 | 羽咋市・柳田遺跡 | 羽咋市・次場遺跡 | 羽咋市・長者川遺跡 |
羽咋市・寺家遺跡 | 羽咋市・四柳白山下遺跡 | 鹿島町・徳前C遺跡 | 富来町・東小室ボガヤチ遺跡 | 押水町・冬野遺跡 |
輪島市・美登里ヶ丘遺跡 | 輪島市・舳倉島シラスナ遺跡 | 輪島市・舳倉島深湾洞遺跡 | 富来町・高田遺跡 | |
(参考)表は、 石川県埋蔵文化センターのホームページ の中の「遺跡発掘ファイル」を参考にさせてもらいました。 |
鹿島町・徳前C遺跡
邑知潟の傾斜面にあり、鳥屋町黒氏サクラマツ池遺跡と一部で重なっています。縄文時代中期初頭・弥生時代後期・古墳時代中期・奈良時代の各期にわたる集落跡で、奈良時代遺構としては、掘立柱建物跡8棟や井戸跡1基などを検出しています。
鹿西町・杉谷チャノバタケ遺跡
昭和62年、石川県埋蔵文化財センターが調査した。邑知地溝帯一円を望む高地性集落で、集落を取り囲むように空堀(環濠)を掘りめぐらしている。深さ2mを超えるV字溝もあり、外部からの侵攻を防ぐ施設として十分に役立つ。日本においての戦争は弥生時代に起源するといわれているが、杉谷チャノバタケ遺跡も、そのような地方において周りの小さな集落を吸収しつつ、すこしずつクニを作り上げていって時代を反映した遺跡といえるであろう。またこの遺跡からは‘おにぎり’に似た炭化米が発見されたことで有名となった。
<弥生時代の加賀と能登の影響の違い>
北陸は、もともと畿内地方との関係が強かったが、弥生後期は、土器や石器、鉄器の様式など調べると、加賀の方が最初、2世紀以降、出雲の影響を強く受け、3世紀頃になると、狛奴国の本拠と目される東海地方の影響を強く受けたのに対して、能登の方は、ずっと畿内色が残ることから、卑弥呼の時代、畿内からみて加賀は異国と感じられたのに対して、能登は近国の関係にあったようだ。
3.能登の主な古墳
ここの項目は当初、この頁のここにありましたが、加筆修正をし、さらに写真を多数添付して分離独立させ、別の頁に移しました。
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4.コシとノトとヤマト
改定前の記述では、ここに「大和政権の能登半島支配は、4世紀前半頃には完了していた」となっていたが、訂正したい。以前、参考にした古い「七尾市史」は、かなり前に書かれたものであり、古代史もここ数十年でかなり研究がすすんだ。今では少なくとも6世紀中葉までの、七尾市域も含めたコシの地方は、ヤマト政権とは相対的自立性をもつ地域としての地位を保っていた。勿論、ヤマトとは無縁であったというのではなく、さまざまな生活文化の影響は、出雲や畿内地方、あるいは朝鮮から受けていたわけだし、コシ地方の幾つかに成長した地域首長がそれら他地域の首長や地域国家の王との間に、時折交通をしていたことは確かと思われる。しかし、彼らがヤマト政権の下に入ったととは言い難い事実が非常に多いわけだ。従来の短絡的な古代史では、三角縁神獣鏡や鍬形石が出土が即、ヤマト政権への組み込む、となるわけだが、最近の研究ではどうも違うようなのだ。支配を完了したのなら、コシの中におけるノトの記述も詳しくなるところだが、どうもその内容は乏しい。つまり、コシ地方(七尾市域も含めて)内部における地域紙の展開など、ヤマトの貴族たちには受け止められなかった。また欽明紀31年(570)4月乙酉条では、コシの人、エヌのモシロというものが、高句麗の使人が漂着したことをヤマト政権に申し出た。そしてこの高句麗使を、来着したコシの現地の「郡使は隠匿せり、よって、臣(われ)、顕し申す」と言っているのである。この時代まだ郡使があったはずがないが、この話しは、コシの現地の首長の間に、高句麗使をヤマト政権に知らせないで、地域の王として接し高句麗使がもたらした調物を没収していたことをし示し、一方でヤマト政権へ取り次ごうとするものがいた事を示している。他にも色々あるがここでは紙面の関係上省略したい。このような事実から、ヤマト政権の下に恒常的な服属関係にあったとは言い難いのである。
5.海を守った能登の豪族達
この頃の能登の政治的勢力(地方豪族)は、半島最大の耕作地を擁した邑知地溝帯にあり、七尾湾南湾に面した七尾市域に拠点を置いていた。多彩な副葬品を納めていた国分尼塚1・2墳(前方後円墳)の被葬者は、半島から東日本への影響力を強めていた豪族であった。(後に鹿嶋津と呼ばれた七尾の沿岸は、大和政権の勢力下に入った後、東国制覇のための拠点として、軍事的にも重要な役割を担っていた)。このような状況は、古代・中世に至るまで続くのであり、七尾湾からの海の道を確保することが、能登の為政者の大きな任務だといっても過言ではない。6世紀代(後期古墳時代)に築かれた三室古墳群(マドガケ支群・リキノミヤ支群など)は、七尾湾南湾の入り口である小口瀬戸を通過する船舶を監視する位地にあり、かなりの武力を持った有力豪族が配されていた。マドカケ支群で発掘された1号墳の横穴式石室は、最大クラスの規模を持ち、直刀、鉄鏃、刀子、馬具などの武器類多数が副葬されており、特に10振以上の鉄太刀が納められていて調査員達を驚かせた。2・3号墳の石室からも飾り弓金具や刀子・玉類などの出土がある。七尾市域における6世紀代最大の勢力は、高木森古墳を盟主墳とする矢田古墳群の被葬者達であり、三室古墳群に眠る豪族達は、主従関係にあって、七尾南湾の警護に努めた有力者達だと考えられる。
(参考図書)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「七尾市ものしりガイド・観光100問百答」(七尾市観光協会)、
「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)、「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)、
「日本海域の古代史」(門脇禎二:東京大学出版会)、「七尾の地方史(種々の号を見る)」(七尾市)
「(図説)石川県の歴史」(河出書房新社)、「かしまの歴史探訪」(鹿島町教育委員会)、
「石川県の歴史」(山川出版)他
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