このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
今回は舳倉島伝説の他に、今昔物語集、宇治拾遺物語、気多大社の縁起書に載っている(奥)能登関係の話を取り上げて見ました。佐渡で金を掘る話に出てくる能登の人は、どこのあたりの人かわかりませんでしたが、佐渡に一番近いこの奥能登のところに入れさせてもらいました。他にも古典的な作品で、能登の話があったら、ここに取上げていきたいと考えております。今昔物語集などの訳については、何分浅学な知識で訳すため誤訳も生じるかもしれません、またたとえ間違いでないにしろ、拙い訳と思える箇所が多々あることでしょう、その当たりはご愛嬌で容赦願います。
<舳倉島伝説> (参考)私のHPの別コーナーのコンテンツ 「舳倉島」 | ||
● 舳倉島の龍神伝説 参考:「(日本の伝説12)加賀・能登の伝説」(角川書店)など | ||
(輪島の北方約60km沖合いの島)舳倉島の中央の北西側の海岸近くに龍神池と呼ばれる小さな池(約30m×15mくらい)があります。俗に「蛇池」ともいいます。 昔々、この島に1人の一旭(いっきょく)と言う名の高徳な行者(別の本では一九という名の僧とも書かれています)がやってきました。行者は毎晩、池の側に草庵を結び、漁師や海女といった島の人々を集め有難い法話を語っていました。 何時ごろか、その法座の席に1人の若い美しい女性が聴きに来るようになりました。しかしその女性は修行を積んだ行者には見えても島の人々には見えないのでした。行者は不思議に思い、ある晩法話が終わった際、声をかけたのでした。 「あなたは、毎晩熱心に私の話を聞きにいらっしゃいますが、どなた様ですか?」。 するとその女性は 「私は実は人間ではありません。昔からこの島に住んでいた龍でございます。年老いて死んで亡骸(なきがら)は池の底に沈んでいます。生前に犯した数々の罪の為、成仏できず、子供の龍と一緒に苦界をさ迷っています。そんな折、行者様が海を渡ってこの島にやって来て、有難い法話をされているので、人間の姿に身を代えて末席に座って聴いていたのでございます。そういうわけですので、行者様、何卒何卒池を浚って死骸を引き揚げて弔い、その法力で私を成仏させてくださるようお願いします。」と涙ながらに訴えました。 翌朝、行者は村の人々を集めて、お堂の横の池の水をくみ出させ、池の底を浚渫してみました。すると池底から頭を北に向けた大小2つの龍の骨が現れました。夥しい数の骨は四斗樽に4杯分もあったといいます。行者は、頭蓋骨は輪島の法蔵へ運びねんごろに法要し、残りの夥しい量の遺骨は島の法蔵寺分院に埋葬しました。行者はその後も舳倉島に住みつづけ、法話を続けましたが、無事成仏したらしく、それから後は、その龍の亡霊である女性が現れることはありませんでした。 ところで、池浚(さら)いした時、大小2体の龍の骨と述べましたが、小さい方は子供の龍、大きい方は母親の龍と言われています。 このことがあって以来、法蔵寺では、今では寺の宝物となっているその龍の骨を、毎年1月15日の日にご開帳して「龍法要」が行われます。その日は多数の参詣者で賑わうとの事。 この池に棲んでいたのは、夫婦の龍だったらしく父親の龍は、今でも舳倉島を取り巻いた海原で生きていると信じられました。それで島の分校の北隣に「無他(むた)神社」が建立されました。名の由来は「他に類を見ない」という意味からです。別名「龍の宮」「龍宮」ともいいます。この龍神様は、島民から漁業の神・潮の神として信仰され、毎年3月17日になると「龍神祭」が行われているそうです。そのご利益で、島ではアワビやサザエがよく採れるのだそうです。この祭りは、別名「エゴ祭り」とか「蛸祭り」とも呼ぶそうです。 なおこの伝説に出てくる一旭行者は、弘化4年(1847)に亡くなられたと言われ、島の中央台地には「行者の碑」が建てられています。またこの龍神池は、水が枯れたことがないと言われ、池の底は竜宮へ通じているとも伝えられています。 (畝源三郎のコメント) 上の話は昭和3年に書かれた内容なので、「龍法要」など現在行われているのかどうかは、私は確認していないので不明。 それから龍の骨ですが、現在この舳倉島の神社を輪島前神社の宮司(中村裕)さんが管理しており、私は中村さんが会長を務める段駄羅同好会の会員でもある関係から、宮司が保管しているその骨の一片を見せてもらったことがあります。真偽のほどは不明でしたが、一応骨ではありました(笑)。 | ||
<今昔物語集の中の奥能登関係の話> | ||
●
猫の島伝説
出典:今昔物語集 巻二十六「加賀國諍蛇蜈嶋行人、助蛇住嶋語」第九 参考:「石川の民話」(石川県教育文化財団)、「舳倉島・七ツ島」(北國新聞社)など (この話の登場人物は、加賀の国の人たちであるが、伝説の場所・猫の島が能登(輪島)沖と伝えられ、彼ら登場人物も、最後にはそこに家族を伴って住むついたという話になっているので、能登の伝説の中で紹介することにしました。) | ||
今は昔。加賀の国、(欠字)郡に住む下賎の者7人が、いつも仲間を組んで海に出ていた。釣りを好んでそれを生業として長年経ったある日、この7人が一艘の船に乗って漕ぎ出した。 この者達は、釣りをしに海に出たのですが、皆、弓箭・兵杖を具して(武装して)いった。 遥か沖に漕ぎ出し、陸地も見えないほどに沖に出ると、思いがけず俄かに風が荒々しく吹き出した。船がどんどん沖の方に吹き流されていく。人力では抗すべくもない大きな力で流されていく。彼らは、どうしようもなく櫓(ろ)も引き揚げて、風の吹くままに(流されて)任せた。(後は)ただ死を待つばかりであるのを泣き悲しみんでいた。 そうした時、行手のはるか前方に大きな離れ島を見つけた。 「島があったぞ。何とかあの島に上陸し、しばらくの間でも命が助かりたいものだ」と皆が思っていると、人などがわざと引き寄せるかのように、その島に引き寄せられていく。 「どうにかしばらくの間は命は助かったようだ」と思い皆は喜んだ。 島の岸につくと)先を争って船を降りて、船を(岸に)曳き据え(引き上げ)た。島の様子を見回してみると、水も流れており、果物の木などもありそうに思えた。 男達が「食べものが何かないか」と思って周囲を見回していると、年の頃二十歳あまりはあろうかという大そう美しい男が歩み出てきた。 釣り人(漁師)たちは、これを見て「さては、人が住む島であったのだ」と、嬉しく思っていると、この男が近くに寄って 「あなた達は、私が迎えるために寄せたということを知っているか」と言う。漁師たちは、 「そうであるとは知りませんでした。釣りに出たところ、思いがけず、風に吹き流されてこのあたりまで来た時に、この島を見つけて、喜びながらこの島に着いて上陸したのでございます。」と言った。 男が「その風を私が吹かせたのですよ」と言うのを聞き、「それならば、この人は普通の人(ただ者)ではなかったのだな」と皆が思っていると、 「あなたたちは、(定めし)疲れたことだろう。「そこにあるあの例のもの持ってこい」と、彼が出てきた方に向かって大声をかけた。 すると、多数の者の足音がしてやって来るのが聞こえた。その者らはやがて長櫃(衣類・調度などを入れる形の長い櫃(ふたの付いた大型の箱))2つ担ついで現れやってきた。 酒の瓶なども多数ある。長櫃を開いてみると、中身は、すばらしい食事であった。主の男は、その食事を全て7人の男らに与えて食べさせた。釣り人(漁師)達は、一日中船の横たわり風浪に翻弄されて疲労困憊していたので、、皆よく貪り食った。酒なども沢山飲んだ。主の男は、「食べのこした物は、明日の食料にしなさい」と言って、長櫃に元のように納めて傍に置き、長櫃を担ってきた者達は帰っていなくなってしまた。 その後、主の男が、近くに寄ってきて言うには、 「あなた達を迎えた理由は、この島からさらに沖の方に別の島あります。その島の主は、私を殺してここを領有しようと、しばしば攻めてきて戦うのです。私は、構えて迎撃し、ここ数年は何とか撃退してきました。しかし明日それがまた攻めて来て、我か敵か生死を決すべき日なので、「私を援けてほしい」と思い、あなた達を迎えたのです」と。 釣り人(漁師)達は、「その攻めてくるという人は、どれぐらいの軍勢を率いて、船は何艘くらいに分乗してやってくるのか。力及ばぬような事になるかもしれぬが、このように参ったからには、命を捨てる覚悟で、あなたの指示に従い戦いましょう」と言った。 男は、これを聞いて喜んだ。そして次のように作戦を男達に告げた。 「攻めてくる敵は人の姿をしたものではなく、また待ち受ける私も実は人でえはありません。明日になればわかります。 まず彼が攻めて来て島に襲撃しようとする時に、私はこの島の上から攻め降ります。今までの戦いでは、敵をこの波が打ち寄せる海岸に上陸させずに、海際で撃退しました。 ですが明日は、あなたたちを強く頼りにしていますから、彼を上陸させようと思います。 彼は上陸すれば力がでるでしょうから、喜んで上陸しようとするでしょう。でもあなたたちはしばらく私に任せて見ていて下さい。 私が、(敵の攻勢に)耐え難くなったならば、あなたたちに目配せしますから、その時に矢をあらん限り射てください。 決して油断してはいけません。明日の巳の刻ぐらいから、準備にかかり、午の刻ころから戦いに入るでしょう。 十分に腹ごしらえして、この巌の上に立っていてください。彼はここから登ってくるでしょうよくよく教え置いて、」 主の男は、7人の男達に十分教えてから、島の奥の方へ入っていってしまった。 釣り人達は、その島の山に分け入って、木などを伐採。それで小屋を造った。その小屋の中で弓矢の矢尻などをよく研ぎ、弓の弦なども調整した。その夜は焚き火をして語り合ってなどしていると夜も明けた。(戦にそなえて)腹ごしらえをしているうちに、気付けばすでに巳の刻となっていた。 (敵が)やって来る方向へ目をやると風が吹きだしてきて、海面が荒れて驚くほどに恐ろしげなってきた。そう思って見ているうちに、海面が(欠字)になって、光るように見えた。その中から、大きな二つの火が出てきた。 「何事か」と見ていると、男が(敵が)やって来ると言った方向を見上げていると、周辺の山の景色が、非常に恐ろしい様相を呈してきた。草も靡(なび)き木の葉も騒ぎ、音高くざわめいている中からまた火が二つ現れた。沖の方から島の近くに寄って来たのものをみると、それは蜈(ムカデ)で十丈(約30m)ほども体長があり、泳いでやってくるのであった。 上部(背中)は、(欠字)に光り、左右の脇は赤く光っている。島の上方を見れば、同じほどの長さで、胴周り一抱えほどもある大蛇が降りてくる。舌なめずりをして向かいあった。あちらの百足もこちらの大蛇も、とてつもなく恐ろしげな表情である。蛇は、ムカデが上陸できるほどの距離を置いて頸(くび)を差し上げて立った。それを見て、ムカデは(男が予想して言ったように)喜んで走りあがってきた。互いに目を瞋(いか)らして、しばらくにらみあっていた。 7人の釣り人達は、男から教えられた通りに、巌の上に登って矢を番(つが)え、蛇を注視しながら立っていた。するとムカデが進んで(大蛇に)走りよって喰らい合った。互いにひしひしと喰らいあううちに、ともに血まみれになった。ムカデは沢山の手があるので、打ち(欠字)しながら喰らいあうので、常に優勢に立った。 二刻(4時間)ほど喰らいあううちに、大蛇の方が少し力が抜け(弱り)、釣り人達の方に目配せした。「はやく矢を射よ」と思えるしぐさを見せたのだ。 7人の釣り人達は、一斉に寄り集まって、ムカデの頭から尻尾にいたるまで、矢のある限り、皆射込んだ。そして(持っていた)弓も、(ムカデに)根元まで射立て。その後は、太刀でムカデの手を切ると、ムカデは倒れ伏してしまった。すると大蛇は、ムカデから離れたので、(7人の釣り人達は)、さらに猛烈にムカデに切りかかり、殺してしまった。それを見届けた大蛇は(欠字)して、(出てきた山の方へ)帰っていった。 その後しばらくして島主である蛇の化けた男が、なえた片足を引き摺り、非常に苦しげな表情で、顔も切り傷を受けており、血をまき散らしながら現れた。また食物を持ってきて、(釣り人達に)食わせた。その喜びよう(感謝する様)は、この上もないものであった。 (その後)ムカデの死体をばらばらに切り、山の木を伐採してその上に懸け、焼いてしまった。その灰や骨などは(沖の海?)遠くに持っていって捨ててしまった。 そして男が、釣り人(漁師)達に言うには、 「私は、あなた達のお蔭(かげ)で、この島を無事に領することができて、非常に嬉しい。この島には田を作るのに適当な沢山あります。畠もどれくらいかわからないほど広々とあります。果物の木も無数にあります。ですから何彼につけ生活物資の豊富な島です。あなた達も、この島にやって来てお住みになったらと思うのですが、いかがですか?」と。 釣り人達が 「非常に嬉しいことですが、妻子をどのようにしたらいいのでしょうか」が聞くと、主の男は 「それでは迎えに行って戻ってきたらいい」と言う。 それではと釣り人達が、 「どうやったら迎えに行くことができるのでしょうか」と聞くと、彼は 「あなた達の、(住まいである)あちらへ渡る際には、(私が)こちらから風を吹かせて送りましょう。 あちらから、こちらに来る際は、加賀の国のおわします熊田の宮と申す社が、ここの分社であります。こちらにこようと思う時は、その宮を祀りなされれば、た易くこちらに来ることが出来ます」などと詳しく教えてくれた。 船で行く間必要と思われる食料を船に積み込んで船出させると、島の方からにわかに風が吹き始め、たちまちのうちに走り渡ってしまった。 7人の者達は、皆、(自分たちの)もとの家に戻って、かの島へ行こうという者は皆一緒に誘った。 密に船出しようと、船7艘を用意して、(向うの島で)作るつもりの作物の種なども悉(ことごと)く積み込んだ。 まず熊田の宮に詣でて、事の次第を申し上げて、それから船に乗って船出したところ、また(以前と同じように)にわかに風が吹き出した。 そして7艘とも無事に島に渡りついた。 その後、その7人の者達は、その島に定住して、田畑を耕して繁栄した。子孫も数知れぬほど増え、今でもそこに住んでいるといいます。その島の名を、猫の島といいます。 その島の人は、一年に一回、加賀の国に渡って、熊田の宮でお祭をするということです。そのことを加賀国の人が知り、様子を窺がおうとするが、どうしても見つけることができなかったそうです。島のものは思いもかけぬ夜中などに渡って来て祭りをして帰ってしまうのです。 後になってその痕跡を見て「また彼らがやって来て、いつものように祭りをしたのだな」とわかるのだ。 その祭りは、毎年の行事として、今に至っても続いています。 その島は、能登の国の(欠字)郡の大宮という所からよく見えるそうです。晴れた日に眺めると、遠く彼方に、西側が高く、青みを帯びて見えるとそうです。 今を去る(欠字)の頃、能登の国に、(欠字)の常光という船頭がいました。風に吹き流されてその島(猫の島)に漂着した。だが島の者達が出て来ると島に上陸させずに、しばらく岸に船を繋がせて、食料などをよこした。 7、8日ほど経つうちに、島の方から、風が出てきたので、走り帰って、能登の国に帰り着いた。その後、船頭が語ったところでは「ちょっと見えたところでは、その島には人家が多く、重なるように建ち、京のように小路があるのが見えた。人に行き交う様も頻繁であった」と。 彼らは島の様子を見せまいとして、近づけようとはしなかったのであろうか。 近頃でも、遠く唐の国から来る人は、まずその島に立ち寄って、食料を仕入れ、アワビや魚などを獲って、やがてその島から敦賀に渡るそうです。島の人々は唐人にも「このような島があると、人に語るな」と固く口止めするそうである。 このことを思うに、前世の縁があるからこそ、その7人の者達は、その島に行って定住し、その子孫が今もその島に住むことになったのであろう。大変な楽園の島であると今に語り伝えている。 (余談) この猫の島は、能登の?郡の大宮からみえる、という記述から、この宮は気多大社のことで、輪島のある鳳至郡からではなく、羽咋郡から見える、という説などもあるようだが、羽咋の一の宮から見えるくらいなら加賀からも見えそうな気がする。それに羽咋からは、それに該当しそうな島はない。能登から、遠く彼方に見える島といえば、やはり七ツ島か、舳倉島ではないだろうか。佐渡も見えることがあるが、佐渡なら周知の島であるから佐渡ヶ島と書くはずである。朝鮮や渤海地域の可能性も、地球の丸さから行って能登から見えることなどないと考えられる。 | ||
● 鬼ノ寝屋嶋 出典:今昔物語集 巻三十一「能登國鬼寝屋嶋語」第二十一 | ||
今は昔。能登の国の沖に寝屋という島があったそうだ。その島(の周囲の海)には、川原に石がころがっているようにアワビが多く、沢山採れたという。 この(能登の)国に光の島という浦があるが、その浦に住む海人(あま:海に潜って漁をする者)どもは、この鬼の寝屋島に渡ってアワビを採り、国司に税として奉った。その光の浦(輪島市光浦地区)から鬼の寝屋島へは船で一日一夜走って行ける距離である。 また、ここからさらに先に猫の島という島がある。鬼の寝屋島からその猫の島へ渡るには追風を受けて走って一日一夜を要する。だから、その距離を推測すると高麗国に渡るくらいの遠さぐらいはあるのではないだろうか。だがその猫の島へは並大抵のことでは、人は行かないようだ。 さて、光の浦の海人(漁師)は、その鬼の寝屋島に渡って帰って来ると、一人で一万ものアワビを国司に税として奉った。しかも一度に四、五十人も渡ったのだから、そのアワビの量といえば想像にあまりある。 ところで、 藤原通宗朝臣(ふじわらのみちみねあそん) という者が能登守の任期が終わる年、その光の浦の漁師が鬼の寝屋島に渡って帰り、国司にアワビ税として奉った。(国司がもっとアワビを出すようにと)強要したので、漁師どもは困惑し、越後国に逃げ渡ってしまった。そこでその光の浦には人っ子一人いなくなり、鬼の寝屋島に渡りアワビを採ることも絶えてしまった。 このように人があまりに欲心を起こすのは愚かなことである。一度に、責めたてて、多く採ろうとしたばかりに、後には一つも採れなくなってしまったのだ。今でも国司はそのアワビを手にすることができないので、その国の者どもは、実につまらないことをしたものだと、かの通宗朝臣を非難していると語り伝えている。 (余談) このように今昔物語集では、能登の輪島沖の島のことが「鬼ノ寝屋島」と見える。普通、「鬼ノ寝屋島」とは舳倉島のことと説明されている。 ただし話の中に「猫の島」も出てくる。この島も実は、舳倉島のことと言われることが多い。 この話の中ほどに述べられるように、高麗国へ昔、果たして二日二夜で行けたであろうか。正確な地図のない時代の、それも京の人間が書いた話だから、まともに受けて信じても仕方がない。 猫の島が、この鬼ノ寝屋島よりさらに先の島(つまり輪島から見て鬼の寝屋島見よりさらに北方の島)となると、鬼ノ寝屋島が七つ島のことで、猫の島が舳倉島とも考えられる。 猫の島伝説でも、島の沖合いに、ムカデの住む島がある、と言っているが、これが七つ島とも考えられる。猫の島は、能登ではなく、隠岐や壱岐、佐渡、対馬などである可能性もあるかもしれない。 だが佐渡なら能登珠洲市からでも天気がよければ見えるが、隠岐が見えたという話は聞いたことがない。まあ伝説であるから、いくら突き詰めてもはっきりした解答は得られないであろうが。 | ||
● 鳳至の孫 出典:今昔物語集 巻26「能登國鳳至孫得帯語第十二」、参考:「石川の民話」(石川県教育文化財団) | ||
今は昔。能登の国の鳳至郡に、「鳳至の孫(そん)」という者が住んでいた。鳳至の孫が、(まだ「鳳至の孫」と呼ばれる前の)まだ貧しく、頼りない生活状況であった時に、屋敷に怪奇現象が起きたりしたので、これはきっと我家に祟りがあるに違いないと思い、ある日陰陽師に吉凶を占ってもらったところ、病にかかるかもしれない。十分慎みなさい。下手に禁忌を犯すようなことがあれば、命を奪われるだろう」と占いを告げました。 彼はは、これを聞いて大いに恐れて、陰陽師に教えに従って、(凶事の告げがあった)この怪しい屋敷を去って、物忌みをしようとしたが、「物忌みするために出かけて宿泊する適当な宿がみつからない、かといって今の屋敷に居ようものなら、家屋が倒れて、その下敷きになってしまうかもしれない。」と思い、「こうなったらもう、ただ家を離れて、海辺の浜に行ってみよう。山のそばでは山が崩れかかって、木なども押しかぶさって下敷きになってしまうかもしれない」と思い、すでに物忌みの日となって朝を告げる鶏も鳴いたので、彼は、身近に仕えていた従者一人を引き連れて家を抜け出し、海辺までやってきた。 この鳳至郡は、どこまでも見渡せ、どんな世界があるのか見当もつかない土地である。その海岸の浜に行き、あちこち歩いているうちに、疲れたので、そこで横になり、日暮れを待とうしていたところ、正午ごろに、北の方を見ると、海面が奇異な感じになり恐ろしげな様相を帯びて、沖の方から百丈(約300m)もあろうかと思われる高波がこちらに押し寄せてくるのが見えた。彼は、これを見て、わなわなと震えながら従者を起こし「あの波の高さを見ろ。えらいことになったぞ、どうしたらいいのだ。あの波がやってきたら、この村は高潮に呑まれて無くなってしまうぞ。早く逃げろ」 と騒ぎ、慌てていうと、 従者の男は「これは何をおっしゃるのですか、ただ今海面は火熨斗の底のように波もないのに、そんな事をおっしゃるのは、もしかして何かに取り憑かれなされたのではありませんか。物忌みの日につまらない外出をなさって」と言うので、主人は、「私がどうして憑物などされるものか。これほど恐ろしげに海面が波立っているのを、そのように言うのは、お前が波にさらわれるべき定めにて、波が見えないのであろう。 この波をはじめ見た時は、百丈くらいにの高さに見えたが、波が近くになるにつれ波の丈は衰えたようである。波は既に近くに来てしまった。どうしたらいいのだろう。」と言って、起ちあがって逃げようとするのを、(従者の)男は引きとめ「何とキチガイじみた事をなさる。これはきっと何かに取り憑かれなされたのに違いない。」と言って、主人が逃げようとするのを捕らえ抑(おさ)えた。 その時に、主人が言うには「私は憑物などしていない。お前の眼には、本当にあの波が見えないのか」と。 (従者の)男は「決してそのような事はございません」と言うと、主人が「さては私はこの波にさらわれて死ぬべき運命で、あのような※1お告げがあったのか。必ず死ぬべき運命となる前世の報いがあって、『家を出て物忌みせよ』とも言って、このようぬ海辺に出てくることになったのだ。今となっては逃げても逃げ切れぬ。こうなってはただ死ぬだけだ。徳を積むつもりで、仏を念じ奉ろう」と言って、合掌して座った。 そして言うには「この波を見始めた時は、百丈くらいの高さに見えたが、近づいてくるにつれ、波の丈が縮んで、(今では)五十丈(約150m)くらいになってしまった。」と言って、眼を塞いでしまった。しばらくして、また眼を開いて言うには「とうとう波がすぐ近くまで来てしまった。また怪しいことが別にある。この波の中に大きく燃える火が現れ出てきたぞ」と。 (従者の男が)「ほとんどありえないことをおっしゃる」と言うのを聞いて、主人(鳳至の孫)が)言うには「すでに燃える火までの距離は三十丈(約90m)ばかりになってしまった。波の高さも、二十丈(約60m)ばかりになった。」と。そして眼を塞いだ。 (従者の)男は、主人がこのように言うのを聞き、ほろほろと泣いてしまった。主人がまた眼を開いて言うには「波が四、五丈(約12〜15m)以内に押し寄せてきたぞ。しかし波の高さは二、三丈(約6m〜9m)ほどになった。ここにやってきたぞ。」と言い、手を摺りあわせ、眼を塞いだ。 しかし、浜の際まで押し寄せてきた波は、打ち寄せる波のようにサラサラというほのかな音を立て、男もそれを聞き、果て?おかしいな?と思いながら、しばらく経ってから、眼を開いて「波が消えてしまった。これはどうしたことか?」と言って周囲を見まわしたが、波が打ち寄せた浜岸の近くに、彼らがやって来た当初はなかった丸くて黒い物があるのが見つけた。そして「あの浜にあるのはいったい何だ?」と言うと、(従者の)男もそれを見つけた。「よし、言って確かめてみるぞ」と言って、走りよって覘(のぞ)いてみると、小さな塗り物の桶が蓋(ふた)がされた状態であった。 それを拾いあげて開いて見ると、※1通天の犀の角で拵(こしら)えた艶やかで微妙な色彩の帯が入っていた。これをみて「めったにめぐり合わせないようなこともあるものよ」と思い「これは天が私に与えようとなさって、あのようなお告げがあったのだ。今は(もう大丈夫)、さあ帰ろう。」と言って、その帯を持って、家に帰った。 その後、彼は、にわかに豊かになった。財宝に飽きるほど蔵には財が満ちた。大変な大金持ちになり、「鳳至の孫」と呼ばれて月日が経つうちに、いつしか年老いて、財産は衰えぬまま亡くなった。彼の子は、男子がただ一人いたが、その帯を相続して、同じように大金持ちとして暮らしていた。 能登の国守(国司)で 善滋為政(慶滋為政:よししげためまさ) という人が、この帯の話を聞きつけ、「それを見せよ」と言って、立て続けに難題を吹きかけて責めたてようとして、多くの郎党・従者を引き連れて、(二代目の)鳳至の孫の家に押しかけ、居座り、日に三度の食事を出させた。上下あわせて五、六百人ほどの人がいたが、「食べ物には充分難癖をつけて食え」と教示しておいたので、少しでも不味い食べ物があると、つき返したり捨てさせたりして責めた。 しかし彼(二代目の鳳至の孫)は、じっと堪えて相手が言うのに随って料理を出した。しかしながら暫(しばら)くの逗留と考えていたところ、強引に4、5ヶ月も居座ったままなので、鳳至の孫は思い悩んで、この帯を首にかけて家から逃走してしまった。能登の国の外に逃げてしまったので、国守(善滋為政)は、屋敷の中の物を全部没収して、館に帰って行った。 その後、(二代目の)鳳至の孫は、ここかしこと転々としたが、この帯に何かの気の力でもあったのだろうか。旅の空にあって定まった住みかとなる場所もなかったが、それほどひどい目には合うこともなかった。その為政の国司の任期も終わり、次には※3源行任(みなもとのゆきとう)という人が国司になった。その人の任期中も鳳至の孫は帰ってこなかった。その次に※4藤原実房(ふじわらのさねふさ)という人が国司になった。 鳳至の孫は、このように流浪して旅を続けるうちに歳もとり老いてしまったので、その国司のもとに行き、昔あったことなどを語って、国に帰って住みたいと申し出たところ、国司は「それはまことに結構なことであるよ」と言って、色々な物を与えてやって慈悲をかけたので、(鳳至の孫)は喜び、その帯を国司に渡したのであった。国司は喜んで、帯を持参して上京し、関白殿に献上した。その帯は他の多くの帯の中に加えて置かれたのであろう。それより後、どうなったかは不明である。 このように立派な財宝であるから、波とも見え、火とも見えたのだ。それは前世の福報によって、その帯を得たのであろう。と語り伝えてているということである。 註: ※1:お告げと訳したが、その訳は、原文では、この部分は「怪」となっているが、怪の訓読みには無い「さとし」という振り仮名をわざわざつけている。それでここは「さとし」の意味で解釈しろ、と理解した。古語では、「さとし(諭し)」には、お告げの意味があり、ここもお告げとする方がわかりいいと思うので、ここでは「怪」を「お告げ」と訳した。 ※2:通天の犀の角:江談抄三・二中歴に有名な帯として鶴通天と鴦通天があると記し、また「唐雁・落花形、共在御堂宝蔵」とみえる。通天犀角(文)は延喜治部省式や本草綱目などにみえる。字類抄では、トの畳字に此の語(通天犀角)を掲載しており、「トウデン」とよみ「烏犀分、又海名」と注している。 ※3源行任(みなもとのゆきとう):能登守任期:寛弘7年(1010)2月16日〜同年(1010)閏2月19日〜。源高雅の子。母は修理亮親明の女。正四位植え、但馬守(尊卑分脈)。 ※4:藤原実房(ふじわらのさねふさ):能登守任期不詳:方正の子。従五位上、乃登守(尊卑分脈)。式部丞、右大弁、文章博士、近江守(本朝世紀、朝野群載) | ||
●
能登国の鉄を掘る者、佐渡国の金を掘る話
出典・・・1)今昔物語 巻二十六「能登國掘黒鉄、行佐渡国掘金語」第十五 2)宇治拾遺物語54(巻第4) 佐渡国に金(こがね)のある事・・・・1)の同源異話と思われる | ||
1)今は昔。能登の国では鉄の原鉱石というものを採って、国司に納める習わしになっていた。 その国に(藤原実房・・・欠字だが宇治拾遺物語の方の話から推測)という国司の任期中、その鉄(の原鉱石)を掘るものが、6人いたが、その中の頭格の者が、自分らの仲間同士で話をしていた時に「(金の産地といえば東北が有名だが実は)佐渡の国にこそ、黄金の花が咲いている所があったんだぞ」と言ったのを、国司が偶然聞きつけた。 その頭を呼び寄せ、物を与えて尋ねてみると、その頭が言うには「佐渡の国には、黄金があるのでございましょうか、黄金がありそうに見える所があったので、事のついでに、自分の仲間らと話していたのを、お聞き及びになったのでございましょう」と言った。 国司は、「それならば、そのように見える所へ行って採って来てくれぬか」と言うと、頭は「お遣わしになるなら行って参りましょう。」と言った。国司は「どのようなものが必要か」と問うと、頭は「人は与えてくださる必要はありません。ただ小船一つ、食料を少しいただいて、(佐渡へ)渡っていき、試みに掘ってみましょう。」と言えば、彼のう通りに、他の人に知らせることもなく、船一艘食料を少々与えた。頭はそれをもらって、佐渡の国へ渡った。 その後、20日ぐらいから1月ぐらい経った。国司は、(佐渡の鉄掘りの頭を送ったことを)忘れてしまっていたが、その頭がどこからともなく現れた。(頭がいる場所が)他人に丸見えの(密談が出来ぬ)場所だったので、国司は心得て、彼の話を人伝に聞かせず、離れたところに自ら行って会見したところ、頭は黒っぽい(欠字・・布?)に包んだ物を、国司の袖の上に置いた。国司は、それを重そうに提げて家の中に入った。 その後、この頭はどこへともなく行って姿をくらましてしまった。国司は、人を手分けして、東へ西へと(あちこちに)探させたが、遂に行方はわからなかった。どのように思って姿をくらませたのかわからなかった。彼が金を掘り当てた所を問いただされたりすると思ったのだろうか、と疑ったりした。その黄金は千両あったと語り伝えられている。そうであるので「佐渡の国で黄金を掘るのが良い」と能登の国の人は言った。その頭は、その後もきっと掘ったことであろう。遂にそのことは聞こえてこず、そのままに終わってしまったと、語り伝えられているということである。 2)能登の国には、鉄(くろがね)という物の素鉄(すがね=鉄鉱石)というものを採って、国司に納めているものが60人ほどいるということだ。(藤原))実房という国司の任期の時に、鉄採り60人の頭であったものが、「(金の産地といえば東北が有名だが実は)佐渡の国にこそ、黄金の花が咲いている所があったぞ」と人に言ったのを、国司は伝え聞いて、その男を呼び出して、物など与えるなどして、うまく誘って水を向けて尋ねてみると、 (男は)「佐渡の国には、本当に黄金があります。あった所を、見て心にとめておいてあります」と言った。それで国司が「それならば行って採ってきてはくれまいか」と言うと、(男は)「お遣わしになるならば行って参りましょう。」と言った。(国司が)「それならば船を調達しよう」というと、「人をつけていただくのは遠慮します。ただ小船一艘と食料を少しいただいて参りまして、もしうまく採ることができましたなら持参しましょう。」と言う。ただこの男が言う通りに任せて、人にも知らせず、小船一つと食料を少し与えてやると、男はそれを持って佐渡の国へ渡って行った。 一月ほどして、そのことをすっかり忘れていた頃に、この男が、ひょっこりとやって来て、国司と目配せしたので、国司は心得て人伝には受け取らないで、自分から出かけて行って会うと、男の袖の中の物を、外へ出さずに袖移しに、黒ずんだ布切れで包んだ物をそっと手渡したので、国司は重そうに引き提げて、懐に押し込んで帰っていってしまった。 その後、その金採りの男は、どこえともなく姿を消してしまった。八方探したが行方がわからず、そのままになってしまった。どのように思って姿をくらませたのかわからない。金のある所を問い尋ねられると思ったのかと国司は疑った。(男が渡した)その金は、8千両ほどあったと語り伝えられた。こういう理由で佐渡の国には、金があったのだそうだと、能登の国の者達は語ったそうである。 (余談) 佐渡の金山は、普通今から4、500年ほど前発見されたといわれる。すなわち最初、天文11年(1542年)に 越後商人外山茂右衛門が鶴子銀山を発見し、江戸時代になって慶長 6年(1601)に、相川銀山を発見が発見された、以降、幕府の管理のもとで発掘がおこなわれ日本一の金山となった。維新後も発掘が続き、三菱合資会社に払い下げされ近代的に掘られるようになると採掘量はさらに増えたが、昭和になると徐々に採掘量は減り、平成元年枯渇を理由に発掘を中止するまで続けられた。 この今昔物語集の話が、もし本当だとすると、発見者は能登の人間で、天文年間どころか、それよりはるか昔の11世紀以前(今昔物語集は1077年発刊)の出来事ということになる。 | ||
● 遍蔵の翁 出典:気多大社の縁起書 | ||
鳳至郡に遍蔵(へぐら)の翁という一人の老人が住んでいました。ある時、海から大きな舟がやってきました。その舟で、5、6歳の王子らしい人が300人ほどの家来を引き連れてこの地に住み、この翁を親のように慕って暮らし三年経ちました。 その間に、王子はその土地の人々のために尽力しました。たとえば羽をひろげると5丈2尺(約15mほど)もある大鷲がいて、多くの人を困らせていたのを王子は弓を放って退治しました。そして、王子は、鳳至郡を遍蔵の翁に預けて、外浦から内浦を島廻りして、七つの神々の座を定めて60歳でなくなりました。 その神の座の一つが現在の気多大社だと伝えられています。 この縁起に出てくる遍蔵の翁は舳倉島の地主神(とこぬしのかみ)で、王子は日本海対岸の大陸の人だと考えられています。 |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |