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舳倉島 <島の概要・島遺跡・伝説など> |
(2005年3月1日一部追記修正)
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<舳倉島概要>
舳倉島は、輪島の北方約60km、周囲約6km、標高最高地点で12m、島の北東端から南西端まで約1.5kmしかない小さくて平べったい島です。石垣をめぐらした中に石置き屋根の家が建ち、島中石がゴロゴロといった感じです。船では、輪島から1時間50分かかります。つい最近までは季節移住の島で有名でした。6月上旬に輪島の海士(あま)町から集団移住してきて、サザエや海藻を採取し、10月下旬にはまた集団で帰っていくという島でした。しかし最近は釣り客も増え、その上に離島振興法などという法律ができたもので、永住設備も調い、通年居住者も増えたようです。
<島の遺跡>
舳倉島からは、これまでに深湾洞(ふかわんどう)遺跡、シラナス遺跡、ナフネヤシキ遺跡の3つの遺跡が発掘されているそうです。
深湾洞遺跡は、弥生時代中期前後の遺跡で、大量のナイフや槍状の石器が出土しています。
シラナス遺跡は、弥生時代後期、古墳時代前期、奈良時代、平安時代の遺跡が出土し、奈良時代の貝塚も残っているようです。アシカや牛の骨も大量に出土しています。アシカの骨が出土するのは、ここで昔明治初年までアシカ猟が行われていたからのようです。大量に出土した牛の骨ですが、畜神を祓う殺牛祭神儀式が奈良時 代の舳倉島で行われていたことを示唆していると考古学者は言っているようです。
ナブネヤシキ遺跡では、鎌倉時代の珠洲焼が出土しています。島の南端の奥津姫神社(正確には奥津比咩神社(オキツヒメジンジャ)と呼ぶようです)には奈良時代の海獣葡萄鏡が伝えられています。
この島は 大伴家持が能登巡行 に際して「珠洲の海人沖つ御神にい渡りて・・・」や「沖つ島 い行き渡りて 潜(かづ)くちふ 鰒珠もが 包みて遣らむ」などと詠んだ島(となると奥津姫は→沖の姫という意味かもしれません)で、実際に神祭が行われたことを、シラナス遺跡の資料や奥津姫神社に伝えられている海獣葡萄鏡で知ることができるようです。
<島の社寺>
島にある神社は先に述べた奥津比咩神社を代表として、他にも、航海の安全を願う琴平神社(金比羅神社)、大漁祈願祭が行われる恵比寿神社、八坂神社、弁天社、大和田社(素戔嗚命)と無他神社、伊勢神社(通称:西の宮)7つ(合計8社)もあります。寺院としては、島の北東に浄土宗の法蔵寺という寺があります。人口も少ないこんな小さな島に、これだけの社寺があるというのは、やはり神の宿る島なのかもしれません。
奥津比咩神社に関しては、創祀年代は不詳です。筑前(福岡県)鐘ケ崎の海人が、能登半島沿岸で季節的漁業に従事し、その後、輪島付近に居留するようになったといういます。そこで、故郷の宗像同様、沖の島に祀ったのが始まりということです。この奥津比咩神社の名が最初に出てくるのは、平安中期に書かれた「延喜式神名帳」で、鳳至郡で九つの神社が載っており、その一つに数えられています。
○奥津比神社
舳倉島の総本社で、鳳至郡に九社あった延喜式内社の一つである。江戸時代の初期に島内伊勢神社の地から現在地に遷座されたといわれている。俗に「西ノ宮」とか「舳倉権現」と尊称され、田心姫命を祭っている。
奈良時代に国守大友家持卿が能登を巡行された時の長歌が万葉集に載っており、その中に「沖つ島 い行き渡りて 潜くちふ 鰒珠もが 包みて遣らむ」と詠まれている。
奥津比神社の横には大和田神社があり、西組と大西組が管理している。
◆輪島市指定有形文化財 干石船渡海船の模型と板図 昭和38年9月23日指定
◆舳倉島の祭祀資料 平成2年8月22日指定
−舳倉島案内より−
○恵比須神社
島の北東に位置し、漁業繁栄の祈願所で、恵比須大神を祭っている。島にある七つの小宮の一つで、恵比須組と大北組が管理している。
舳倉島へ一斉渡島の行っていた頃は、島へ着くとまず目分の所管の小宮へ組の全員が集まって今年の稼業の安全祈願を行い、お神酒五升を飲んで夜を明かした。この行事を「ゴショウヅイヤ」(五升通夜)と呼んでいる。
そして、それが済むと島民全員が総本社の奥津比神社に集まり、区長が主宰して一年間のいろいろな決まり事を相談する総会を開き、最後に全員で飲み明かしたといわれる。これが「ナカマヅイヤ」(仲問通夜)である。また一年の稼業を終えて一斉離島する時はその逆で「レイヅイヤ」(礼通夜)が行われていた
−舳倉島案内より−
○金比羅神社と八坂神社
舳倉島の北側中央に建っている神社で、前方が金比羅神社、西側が八坂神社である。それぞれ小岩組と出村組が管理している。島にある七つの小宮の一つである。前者は航海安全、後者は防疫神として心身の健康を祈願する島民のよりどころである。二つの神社の問には「深湾洞遺跡」、その北西には「シラスナ遺跡」が点在して、弥生、古墳、奈良平安の複合遺跡ともいわれている。
また、舳倉島で目に付くのが石積み(ケルン)の多さである。島内には70あまりのケルンがあり、石を積むことが竜神様の供養となってエゴ草がたくさん採れるようになると言い伝えられている。また、江戸時代に起きた海難事故のあと、低い島を少しでも高く見せて海上からの標識になるよう積み上げたともいう。アワビ採取の潜水場所を覚える「山だめ」としても利用されている。無数のケルンがそぴえる光景は舳倉島ならではの情緒を醸し出している。
※ケルンは単なる石積みではなく、貴重な歴史的財産である。安易に手を触れたり、石を動かしたりしないこと。
−舳倉島案内より−
<島の伝説(鬼の寝屋島)>
舳倉島は、先にも述べたように「万葉集」巻18に大伴家持が「沖ッ島」として詠じ、真珠の産地として知られていました。「今昔物語集」巻31には、 「鬼ノ寝屋嶋」 と見え、鮑が多くとれ、光浦(ひかりうら)に住む海女がこの島で採った鮑を国司に献上していたが、能登国守 藤原通宗 の厳しい取立てを忌避して越後国に移住し、以後この島での鮑漁が絶えたとあります。
「能登の伝説民話(奥能登地区-No.1)の 「鬼ノ寝屋嶋」 には、今昔物語集の訳が載っています。
<島の伝説(猫の島物語)>
この話も、「今昔物語集」の巻26第9話として載っているものです。
話の内容を知りたい方は、私が「能登の民話伝説(奥能登地区-No.1)」に 「猫の島伝説」 というタイトルで拙い訳ですが上梓していますので、そちらを見てください。
<島の伝説(龍神伝説)>
舳倉島の中央の北の海岸近くに龍神池と呼ばれる小さな池(約30m×15mくらい)があります。俗に「蛇池」ともいいます。
昔々、この島に1人の一旭(いっきょく)と言う名の高徳な行者(別の本では一九という名の僧とも書かれています)がやってきました。行者は毎晩、池の側に草庵を結び、漁師や海女といった島の人々を集め有難い法話を語っていました。
何時ごろか、その法座の席に1人の若い美しい女性が座って聴くようになりました。しかしその女性は修行を積んだ行者には見えても島の人々には見えないのでした。行者は不思議に思い、ある晩法話が終わった際、声をかけたのでした。
「あなたは、毎晩熱心に私の話を聞きにいらっしゃいますが、どなた様ですか?」。するとその女性は「私は実は人間ではありません。昔からこの島に住んでいた龍でございます。年老いて死んで亡骸(なきがら)は池の底に沈んでいます。生前に犯した数々の罪の為、成仏できず、子供の龍と一緒に苦界をさ迷っています。そんな折、行者様が海を渡ってこの島にやって来て、有難い法話をされているので、人間の姿に身を代えて末席に座って聴いていたのでございます。そういうわけですので、行者様、何卒何卒池を浚って死骸を引き揚げて弔い、その法力で私を成仏させてくださるようお願いします。」と涙ながらに訴えました。
翌朝、行者は村の人々を集めて、お堂の横の池の水をくみ出させ、池の底を浚渫してみました。すると池底から頭を北に向けた大小2つの龍の骨が現れました。夥しい数の骨は四斗樽に4杯分もあったといいます。行者は、頭蓋骨は輪島の法蔵へ運びねんごろに法要し、残りの夥しい量の遺骨は島の法蔵寺分院に埋葬しました。行者はその後も舳倉島に住みつづけ、法話を続けましたが、無事成仏したらしく、それから後は、その龍の亡霊である女性が現れることはありませんでした。
ところで、池浚(さら)いした時、大小2体の龍の骨と述べましたが、小さい方は子供の龍、大きい方は母親の龍と言われています。
このことがあって以来、法蔵寺では、今では寺の宝物となっているその龍の骨を、毎年1月15日の日にご開帳して「龍法要」が行われます。その日は多数の参詣者で賑わうとの事。
この池に棲んでいたのは、夫婦の龍だったらしく父親の龍は、今でも舳倉島を取り巻いた海原で生きていると信じられました。それで島の分校の北隣に「無他(むた)神社」が建立されました。名の由来は「他に類を見ない」という意味からです。別名「龍の宮」「龍宮」ともいいます。この龍神様は、島民から漁業の神・潮の神として信仰され、毎年3月17日になると「龍神祭」が行われているそうです。そのご利益で、島ではアワビやサザエがよく採れるのだそうです。この祭りは、別名「エゴ祭り」とか「蛸祭り」とも呼ぶそうです。
なおこの伝説に出てくる一旭行者は、弘化4年(1847)に亡くなられたと言われ、島の中央台地には「行者の碑」が建てられています。またこの龍神池は、水が枯れたことがないと言われ、池の底は竜宮へ通じているとも伝えられています。
< 島の伝説(遍蔵の翁) >
鳳至郡に遍蔵(へぐら)の翁という一人の老人が住んでいました。ある時、海から大きな舟がやってきました。その舟で、5、6歳の王子らしい人が300人ほどの家来を引き連れてこの地に住み、この翁を親のように慕って暮らし三年経ちました。
その間に、王子はその土地の人々のために尽力しました。たとえば羽をひろげると5丈2尺(約15mほど)もある大鷲がいて、多くの人を困らせていたのを王子は弓を放って退治しました。そして、王子は、鳳至郡を遍蔵の翁に預けて、外浦から内浦を島廻りして、七つの神々の座を定めて60歳でなくなりました。
その神の座の一つが現在の気多大社だと伝えられています。
この縁起に出てくる遍路の翁は舳倉島の地主神(とこぬしのかみ)で、王子は日本海対岸の大陸の人だと考えられています。
<名舟大祭との関係他>
輪島の名舟大祭(7月31日〜8月1日)は、今では地元石川の人間でも御陣乗太鼓を奉納するための祭りであるかのように思われていますが、それは後年、付け足しで奉納されるこおとになったのであり、もともとは、舳倉島の奥津姫神社の神を迎えるために、名舟の湊の沖に立つ鳥居の所まで船で御輿を出すというのが主ないわれのようです。よって祭の名称も、奥津姫神社名舟祭が正式なようです。
また輪島市街地の海人(あま)町にも奥津姫神社があり、毎年8月23日、24日祭が開かれているようですが、そちらは、どうも九州の宗像との関係から(海士町の人は宗像から移ってきた人のようです)、ちょっと趣がまた少し違うようです。
<江戸〜明治 海士町と舳倉島の歴史>
現在の海人町(舳倉島でなく輪島市内にある)の人たちは、(戦国時代の)永禄12年(1569)に九州筑前鐘ヶ崎から13人の男女が羽咋郡赤住村へ渡ってきたのが始まりです。今でもその地には海人岬の名が残っています。以後磯伝いに徐々に北上して、鳳至郡の吉浦や皆月で漁業を営み、秋には故郷の筑前に帰って、また翌年には能登へ渡来する生活を二十数年続けていたことが文献に記されています。その頃は、この海人達は「西国海人」と呼ばれていました。
ところが能登は昔から海産物が豊富だったので、筑前の海人たちは、(江戸時代)文禄3年(1594)からは現在の鵜入(うにゅう)町に22年も借家住まいをするようになり、その後葉、光浦町に家を建てて32年間居住して、七つ島や舳倉島に渡って貝や海草を採って生活してきました。
だんだんと海人の人口が増えてくると、住居が狭くなってきたので、慶安2年(1649)に加賀藩主に願い出て、鳳至町と輪島崎町の間の土地を1000坪もらい、光浦からここへ移転して現在の「海人町」を開きました。これが海人町天地番地の由来です。この時の人口は約160人だったと記録されています。
その頃は、舳倉島・七つ島の漁業権は旧名舟村が持っていたため、両町の間で数百年間闘争が続きました。そして明治34年(1901)にやっと海人町が名舟村から舳倉島を買い取り、名実ともに現在の海人町住民の独占の漁場となったのでした。
「輪島ものがたり —ふるさとの風と光と— 巻2(全5巻)」(輪島商工会議所「語り部会}編)
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