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受領の政治


2003年7月5日一部修正更新

 9世紀後半から末期になると地方政治が大きく変化する。これまでの国司(国守とは国司の長官・最上官のこと)のうち、最上官(守または介)が郎党を率いて赴任し、受領(ずりょう)として国務を運営する体制へと移行していった。受領は郎党の他、請負業務を専門とする人物を目代(もくだい)に雇用、現地の実力者を下級官人として徴税にはげみ、みずからも富を蓄積し、中央の摂関政治を支えていた。
 『今昔物語集』には、また、11世紀における能登の受領も描かれているが、その中から慶滋為政(よししげためまさ)・藤原実房(ふじわらのさねふさ)・藤原通宗(ふじわらのみちむね)を紹介しよう。
 寛弘3年(1006)能登守となった 慶滋為政 は、在地の富豪層である〝 鳳至の孫(そん) 〟の所有する犀角を入手しようと躍起になっていた。この犀角は異境からの漂着物で、海辺で拾った〝鳳至のまご〟を有徳人(大金持ち)に押し上げた珍品である。「倒るるところの土をもつかむ」受領の気質をもつ為政は、部下560人を従えて、〝鳳至の孫〟宅に居座り、日3度の食事を4,5ヶ月準備させる横暴に出た。〝鳳至の孫〟はたまらず犀角を持参して逃亡したという。為政から2代を経た 藤原実房 は、おそらく狡猾な手段をとったものとみられ、〝鳳至の孫〟の帰国を促し、ついに犀角を入手した。さらに為政は政治的な後見者である〝関白殿〟に犀角を贈っている。
 延久4年(1072)気多社で歌合(うたあわせ)を催した 藤原通宗 は平安歌壇の一員であるが、受領としての強欲さを持ち併せていた。 鬼寝屋島 (おにのねやしま)でアワビを採り貢納する光浦の海人を、任期最終年に通宗が強要して、出来る限り大量に入手しようとした。海人はたまらず越後に逃れたため、能登の国人は通宗の非法を語り伝えたという。
 受領が能登から徴収して中央政府にもたらしたものは犀角・アワビだけではなかった。延長5年(927)に完成し、康保4年(967)に施行された法令書『延喜式』に進納を義務づけられた特産物が見える。能登でも多くのものが期待されており、海産物に特徴をみることができ、七尾湾を中心に採集されたナマコを加工したイリコ・コノワタがある。
 この他中央の鵜飼が管理する鵜を、毎年6羽ずつ送ることも求められていた。これら特産物の採集・生産システムを掌握していたのが平安期の受領達であった。
 また下記の表を見れば、気がつくのであるが、やはり能登でも一時期、平氏全盛時代があったようだ。平忠盛の子である
平教盛が能登守となってから、ひとり置いて、平通盛、平忠房、平通盛(再任)、平教経、平業盛と4人続いている。

(10世紀〜12世紀後半)能登守一覧
(註)この表に出てくる知行国とは、特定の貴族・公卿・寺社などにある国の国務執行権を与えて、その国の収益を得させ
る制度です。よって知行国主は、その主人という意味である。知行国主(知行主)は多くは、遙任、つまり実際に赴任執
務することを免除された。よって、遙任(または遙授ともいう)と、受領(ずりょう)は、対義語である。
能登守名任 期備 考
(藤原利仁)800年代の後半の一時期能登守であったという記述もあるが、残念ながら、私の調べた本には、詳しいことは書かれていないので言い伝えだけの可能性が強い。「今昔物語」、芥川竜之介の「芋粥」で有名な人物。
越前、能登、加賀、武蔵の守を歴任後、鎮守府将軍従四位下になった人。
武勇に優れた武将として伝説化。北陸などに藤原姓が多いのは彼にあやかって名乗った場合が多いとのこと。民部卿藤原時永の子。
これ以前の能登守(能登国主(国司の長官))の名を知りたい方は、 「古代の能登国守(一覧)」 を見て下さい。
春道新名昌泰3年(900)正月11日〜
紀 延年延喜8年(908)正月12日〜
平 起永延喜16年(916)正月25日〜
藤原 元名延喜21年(921)8月19日〜
藤原 経臣不詳・?〜天慶5年(942)4月25日〜?
藤原 利博不詳・?〜天暦10年(956)7月11日〜?
(姓欠)仲輔?〜天禄3年(972)3月2日〜?
源 順 天元3年(980)正月29日〜天元6年(983)歌人・学者。三十六歌仙の一人。梨壷の五人の1人として「後撰集」の撰ならびに万葉集の訓釈の事に従う。著書に「倭名類聚鈔」家集「源順集」がある。
慶滋 保章不祥(致節の前任)歌人の慶滋保胤と関係ありか?
(姓欠)致節不祥(致時の前任)
(姓欠)致時不祥
源 方国長徳2年(996)正月25日〜
藤原 則友長徳4年(998)8月28日〜
慶滋 為政 寛弘3年(1006)正月29日〜保章の子。式部少輔、文章博士、内蔵権頭、外記、従四位上、歌・詩文をよくした(尊卑分脈・作者部類)。
源  行任寛弘7年(1010)2月16日〜同年(1010)閏2月19日〜源高雅の子。母は修理亮親明の女。正四位植え、但馬守(尊卑分脈)。
藤原 実房 不祥(源 行任の後任)方正の子。従五位上、乃登守(尊卑分脈)。式部丞、右大弁、文章博士、近江守(本朝世紀、朝野群載)
この期間のいい資料みつからず(調査不足のため)、不明。
平 直方?〜長暦3年(1039)2月18日〜? 平安中期の武将。維時の子。北条氏の祖先にあたる人といわれる人。従五位上上総介。 治安3年(1023)右衛門(少)尉で検非違使となる。鎌倉を本拠とした。
 長元元年(1028)、源頼義とともに前上総介平忠常の乱(長元の乱)に追討使となり坂東に下向するが、追討に失敗。同3年更迭される。のち能登守、上野介に任じた。
橘 孝親?〜長久2年(1041)3月27日
藤原 定成長久2(1041)3月27日〜?今昔物語巻27第27に出てくる。その話では、阿波守となっており、阿波に下向する途中船が沈没したとある(死亡?)。
この期間のいい資料みつからず(調査不足のため)、不明。
藤原 通宗 ?〜延久4年(1072)3月19日〜?このあたりの時代迄が摂関家時代の受領である。
「今昔物語集」巻31に、この人物の厳しい取立ての話が出てくる。 「鬼の寝屋嶋」 (今昔物語集 巻三十一「能登國鬼寝屋嶋語」第二十一)
(参考) 「舳倉島」
高階公俊?〜永保4年(1077)8月24日 〜永久(1082)2月12日〜?
高階能遠?〜応遠2年(1085)2月15日 〜寛治3年(1089)正月22日〜?
藤原宗基?〜寛治5年(1091)5月9日 〜同年11月22日〜?
源 俊兼?〜寛治7年(1093)4月9日 〜康和元年(1099)11月29日〜?   (白河院分院)(参考頁)
「中世の奥能登の荘園・若山荘」
源 基兼?〜康和4年(1102)2月15日 〜長治元年(1104)7月17日
高階時章長治元年(1104)8月18日 〜天永4年(1113)正月24日〜?
藤原基頼?〜天永4年(1113)閏3月24日 〜元永2年(1119)7月14日〜?
藤原季兼大治元年(1126)2月24日〜長承2年(1133)5月6日
藤原秀行長承2年(1133)5月6日〜保延5年(1139)正月4日
藤原通重?〜永治(1142)4月7日 〜久安4年(1148)正月28日
藤原基家久安4年(1148)正月28日 〜久寿3年(1156)正月2日〜
藤原家長久寿3年(1156)正月27日〜 保元元年(1156)5月13日〜
藤原基家保元元年(1156)9月8日〜応保元年(1161)9月28日再任
藤原重家応保元年(1161)10月19日〜同2年(1162)5月8日
平 教盛
応保2年(1162)7月17日〜永万元年(1165)12月2日平忠盛の子で清盛の異母弟にあたる。
淡路・大和・越中・常陸・能登の国守を歴任した。
清盛公の信任厚く門脇六波羅邸の門脇に居を構えたこから宰相・門脇中納言と呼ばれた。清盛の死後は一門の長老として宗盛を補佐し、諸国に反平氏の反乱が広まると京都防衛の参謀役を果す。
一ノ谷の戦いで長男平通盛・三男業盛を失う。
『平家物語』によると、壇ノ浦の戦いで兄平経盛と共に入水自殺したという。
藤原頼実?〜仁安元年(1166)10月27日 〜仁安3年(1168)4月15日〜
平 通盛仁安3年(1168)5月13日〜安元2年(1176)正月30日  (上西門院院分)越前守、能登守などを経て寿永二年(1183)二月、従三位に叙せられて越前三位と呼ばれた。治承・寿永の内乱には追討使として各地を転戦。特に北陸道の鎮圧を担当したが、征討は困難を極め、倶利伽羅峠で大敗を喫した。
一ノ谷の戦いで佐々木俊綱に討たれた。  
平 忠房安元2年(1176)正月30日 〜治承3年(1179)正月7日〜重盛の子。能登守を経て侍従兼丹後守。一ノ谷・藤戸の合戦で戦うが、屋島の戦いののち、一門と離れて紀伊の湯浅宗重に庇護を求めた。やがて近隣諸国に潜んでいた平家の家人や落人が忠房のもとに集結。三ヶ月にわたって岩村城に籠り、五百余の軍勢をもって源氏軍に抗戦した。しかし、重盛の子息は赦免するという頼朝の甘言に騙され、宗重の勧めで自首し、鎌倉に送られ、再度上洛する途上で斬られた。
平 通盛治承3年(1179)10月9日〜同年11月18日再任
平 教経治承3年(1179)11月19日 〜治承5年(養和元年)(1181)7月〜  (知行国主・平教盛)平教盛の子、清盛の甥である。能登守。平家きっての勇猛で知られ、木曾義仲の手勢を度々破り、屋島の合戦では佐藤継信を一矢で射止めるなど各所で奮戦する。『平家物語』では、壇の浦の戦いで、源義経を追うが早業で逃げられ、代わりに組み付いてきた大力で名を馳せる敵武将二人にも全く怯まずに、両脇に抱えてそのまま海中に身を投じた。『吾妻鏡』では1184(元暦元・寿永3)年 一ノ谷の戦いで安田義定の軍に討たれたという。
(能登関係の記述では)
治承5年7月、能登で反乱が起り、教経の目代が逃げ帰り、目代の郎従が現地で首をはねられるという事件が記されている。なおこの事件時の知行国主は、平清盛の弟の平教盛(教経の父)でなく、平知盛(平清盛の4男)と書いてある本も多い。
(参考頁)
「能登の歴史(源平の戦い〜一向一揆)」
平 業盛?〜養和元年(1181)12月1日〜?教盛の三男、通盛・教経の弟。
寿永二年(1183)平氏一門と共に都落ちして西海に逃れ、元暦元年一ノ谷の戦いで常陸(ひたち)の住人比企四郎・五郎兄弟に討たれた。
高階隆経?〜寿永2年(1183)11月28日
藤原基能寿永2年(1183)12月22日〜  (上西門院院分)
藤原顕家元暦2年(1185)6月10日〜文治4年(1188)10月14日
  (知行国主・藤原基房)
藤原清家文治4年(1188)10月16日〜
   (知行国主・藤原基家)
   (知行国主・藤原光長)
藤原隆宗建久2年(1191)6月4日〜同6年(1195)6月3日
   (知行国主・藤原隆房)
これ以降の能登国守は、 「鎌倉時代以降の能登国守(国司の長)」 の頁をみてください。

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