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古代の能登国守

2001年3月9日作成 

 国守とは、律令制度における、国司の長官のことである。守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の4等官で構成され、他に史生などがいた。能登では、守1人、掾1人、目1人、史生3人と定められていた。中央から派遣され、はじめは任期6年であったが、間もなく4年となり長く続いた。詳しいことは、「古代の能登」の律令制度の箇所(‘ 能登の国の成立 ’に書かれています)を読んでいただきたい。これ(国守)とよく混同するのが、鎌倉幕府・室町幕府の職名である守護である。こちらは、文治元年(1185年)源頼朝が勅許を得て、国々に設置し、大番の催促、謀反人・殺害人・盗賊などの検断に当たらせたものです。もとは、国司の公事、地頭の所務と関係するところはなかったが、権力拡張の結果、次第に領主化し、応仁の乱以降は守護大名となるにいたったものです。

(8世紀〜9世紀末)能登国主一覧
能登守(能登国守)任 期備 考
越中守(能登分離前)
高志村君和同元年(708)3月13日〜
多治比広成〜養老3年(719)7月13日〜
養老2年(718)5月2日、能登国、越前国より分離立国天平13年(741)12月10日、能登国が越中国に併合される
越中守(能登併合期間)
大伴家持天平13年12月10日〜天平勝宝3年(751)7月17日家持について知りたい方は ココ をクリック!
この期間のいい資料みつからず(調査不足のため)、不明。
石川豊人天平勝宝6年(754)5月14日
天平勝宝9年(757)5月8日、能登国、越中国より分立して再度立国
能登国再立国以降
高元度天平宝字4年(760)正月16日〜
上毛野牛養天平宝字5年(761)10月1日〜
村国子老天平宝字8年(764)8月4日〜
平群虫麻呂天平宝字8年(764)9月25日〜
豊野尾張天平神護3年(767)7月10日〜
石川人麻呂神護景雲3年(769)6月9日〜
多治比名負宝亀5年(774)3月5日〜
巨勢馬主宝亀5年(774)9月4日〜
矢集大唐宝亀7年(776)3月6日〜
大伴継人宝亀10年(779)9月28日〜
上虫麻呂宝亀11年(780)3月17日〜
三国広見延暦3年(784)3月14日〜
笠 雄宗延暦4年(785)7月29日〜
安倍人成延暦10年(791)正月22日〜
大枝真仲延暦16年(797)正月13日〜
大伴真城麻呂延暦24年(805)9月24日〜
藤原道雄大同5年(810)7月16日〜
真福良王承和6年(839)正月11日〜
春枝王承和10年(843)正月12日〜 「古代の能登」 を参照
橘 春成嘉祥元年(848)8月26日〜
三原朝主嘉祥4年(851)正月11日〜
豊 井 王
上毛野縄主天安3年(859)正月13日〜
橘 門雄貞観5年(863)2月10日〜
橘 弟房貞観6年(863)正月16日〜
文室能雄貞観7年(864)4月15日〜
安倍高貞貞観11年(869)正月13日〜
伴 枝雄元慶9年(885)正月16日〜
春道新名昌泰3年(900)正月11日〜
これ以降は 「受領の時代」 を見て下さい。

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