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古代の能登

(2001年3月9日 一部加筆修正更新)

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1.大和朝廷のノト支配 2.能登の国の成立 3.律令制下の人々の姿 4.郷名と遺跡
5.荘園の歩み

1.大和朝廷のノト支配

 4世紀に誕生した大和政権は、畿内一円を従えると増大した軍事力を背景にして、瀬戸内・九州・東海・北陸といった遠隔の地にもその勢力の伸張を図った。北陸地方へはだいたい、応神天皇の4世紀後半頃から圧迫が加えられるようになった。そのやり方は絨毯式に畿内に近い方から席巻するのではなく、比較的畿内色の濃い福井平野や能登半島に最初の根拠地を求めたようだ。これは初めから抵抗の大きい地域へ軍事力にものをいわせて侵攻するより、いくらかの交渉がもたれていた地域を傘下に入れ、新式の武器などの援助や大和政権直属の集団という権威を与え、そこを拠点として徐々に周辺地域へ勢力の拡大をしたのではなかろうか、と推測される。例えば鹿島町の畿内型古墳といわれる親王塚古墳から出土した中国製の三角縁神獣鏡や管玉などは、大和政権が傘下に入った地方政権に与えた権威の格付けと思われる。

 『日本書紀』敏達10(581)年条には、蝦夷(えみし)数千が辺境を脅かし、大和に召された首領綾糟(あやかす)らが服属を誓ったという記事を載せています。崇峻天皇2年(589)年条んみよると、阿部臣を北陸道に遣わして、越のクニグニと蝦夷のクニとの境を視察させたといいます。

<大和政権が地方を支配した2つの制度>

氏姓制度

その地方の豪族を国造(くにのみやっこ)という地方の役人に任命し、姓(かばね)を与えることによって従えさせるというもの。姓には臣(おみ)、連(むらじ)、君(きみ)、直(あたい)などがある。ノトの国造には最高の臣の姓が与えられた。これによって、ノトを支配していた王のノト氏がノト臣と呼ばれるようになった。

部民制

 

大和の天皇、皇族、豪族などが、全国各地の人々の一部を自分のものとし、その人々の労働による稲や織物などの生産物を納めさせる仕組みです。この監督には、国造があたります。七尾には、若倭部(わかやまとべ)と呼ばれる部民(べのたみ)がいた事がわかっています。

<コシと「大化の改新」>
 北陸地方をにわかに重視しはじめた飛鳥のヤマト政権を主導してきたのは、晩年の蘇我稲目と蘇我馬子であったが、その達成は子の蘇我毛人(そがのえみし)に受け継がれた。その関係は従来の関係が大和と隣接する近江からコシ(北陸)へ繋がる諸豪族との関係であったが、それとは異なる新しい関係であった。日本海域の北陸地方には、上記のヤマト政権の政策転換および現地豪族との新たな結合の樹立とを通じて、少なくとも2つの変化が生じた。1つは、日本海域では、イズモよりコシ地方がより重要な地域となり、密接な関係を持ち始めた。これには、ヤマト政権がすでに西方の海外へは瀬戸内海上航路を確保していたことが大きな理由であった。それに対してヤマトから南山背−琵琶湖上水路−コシとつながるルートは、コシの諸豪族を直接に弾圧し、対高句麗外交を確保する上には重要な意義をになうものとなっていた。2つ目は、北陸は、海外文化の流入口としては、主に高句麗文化の流入口となったのであり、こののち律令制度下においても、渤海文化の流入口となった原型が打ち出されたことである。
 その後、蘇我一族と諸家の間の内紛があり、飛鳥宮廷は揺れたが、蘇我毛人の支持によって、山背大兄をおさえて王位に就いた田村皇子(舒明天皇)は、その執政の晩年、639年頃から百済大宮・百済大寺の造営に着手したが、はかばしくなかった。そのあとを継いだ大后宝皇女(皇極天皇)は、百済大寺の完成を急いで大規模な力役をおこしたが、そのときまず、「近江と越との丁」の挑発を命じている。これには、すでにコシ(北陸)を掌握したことが前提になっていた。コシの人民には、かれらの地域から求められるものとは別に飛鳥のヤマト政権にも力役も及んでいたのであった。
 この動向は、蘇我本宗家が645年に亡んでも変わらなかった。これに続いて成立したヤマトの新政権は、いわゆる「大化の改新」を行っているが、その「改新」の内容は、班田や戸籍作成はもとより、戸口調査も行われた形跡はない。また、「改新」で郡制や国制が施行されたのではない。むしろ、同年8月から成立早々の新政権が北陸に派遣してきた「国司」とされた臨時使は、国造に命じて兵器の没収と馬や関連の物資の徴発を任務としていた。コシへは、「国司」平群臣(へぐりおみ)を長とした一行が来た。

<馬身龍(まむたつ)の戦死とその背景>
 蝦夷の北方の粛慎(みしはせ)への遠征で、能登臣馬身龍が戦死した事件とその背景については、別に頁を設けましたので、興味のある方は ここ をクリックしてください。

  2.能登の国の成立

1)能登国の歩み

神話時代から7世紀前半にかけ、私たちのふるさと能登は、「コシ」と呼ばれていました。

7世紀後半、「コシ」は越前・越中・越後の3つに分かれます。この時、能登地方は加賀地方とともに越前国に入ります。現在の七尾市と鹿島郡は越前国能登郡となります。これは、全国に国郡制が実施されたことによります。

養老2年(718)能登は、珠洲郡・鳳至郡・能登郡・羽咋郡の4郡をもって越前国から分かれて能登の国になります。先の時代にも増して、中央の権力を東北地方に及ぼすための基地を能登に置こうとする目的がその理由の一つにありました。

天平13年(741)能登国は廃止され、越中国に組み入れられる。この同じ年、聖武天皇が諸国に国分寺を建てるように詔を出すが、いわゆる今日でいうところの財政改革として国々の仕組みを小さくする為に、国を減らす方針を採った事が理由で廃止になった。万葉歌人で有名な大伴家持が越中国司として能登半島を視察に回ったのはちょうどこの頃である。

天平宝字元年(757)再び能登国が置かれます。東北地方に大きな反乱が起こったこと、朝鮮の新羅に向けて出兵を計画するなど、内外に緊張した事態となる。その為に、能登を一つの国として防備を固める必要に迫られた為である。以後、能登は、ずっと独立を保ち続けます。能登国が成立した頃、まだ加賀は湿地帯の多い荒れ野原が多く、国として独立するような状況にありませんでした。つまり、七尾鹿島は石川県で一番早くから国府として開けた町でした
国守の初見としては、天平宝字4年(760)正月に任命された高元度(こうげんど)であり、その頃からようやく一国の体裁を整ったといってよい。ただし、高元度は入唐中であり、実際に政務をとったのは、同5年に任命された上毛野牛養(かみつけぬのうしかい)であった。

 

2)越蘇駅と官道

 8世紀に入り、中央の命令を地方に運ぶ為の中継基地が全国に作られました。これが駅です。能登郡では、越蘇(えそ)駅と撰オ(よき)駅が作られた。越蘇駅は徳田地区にある江曽町にあったと言われています。駅には、駅長がおり、そのもとで駅子が働いていました。緊急の使者の際は、すぐ馬と食料が出せるように準備されていました。費用は、駅子が耕す駅田(えきでん)の収穫によって賄われた。

3)国府の整備

 8世紀に能登国が成立すると、七尾に国衙(こくが=国の役所)がおかれ、国府としての街作りがはじまります。国府の横には能登国総社がたてられました。能登国の国衙は未発見ですが、地名から古府町周辺に造られたと想定されています。国衙の周りには様々な役所や蔵など、沢山の建物が建てられていたと思われます。実際に、徳田町から古府町一帯にかけて、多くの古代遺跡が確認されており、このどこかに国衙と群衙が造られていたと推測されています。全国の国衙の発掘調査から、中心の建物は瓦葺きであった可能性がある。古府遺跡や総社からは瓦が出土しています。場所は未だに確定できていないので、今後の発掘調査が待たれる。
また海岸では、国の港(
国津)として香島津の整備されたことがわかる。というのは『延喜式』という書物の主税寮諸国運送漕雑物功賃条に、香島津から越前敦賀津までの雑物を運ぶ場合の船賃の記載があるので、国が管理していた国津とわかるのである。
 それから国府についてですが、国府は、大国・上国・中国・下国の4等級に分けられ、この等級に応じて、
国司、つまり守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の4等官を置いた。能登の国は中国であり、職員構成は、守1人、掾1人、目1人、史生3人と定められていた。
(参考) 「古代の能登国守(一覧)」を見たい方はココをクリック!
 ちなみに、隣国の越前と越中を見てみると、越前の国は大国で、守1人、介1人、大
掾1人、少掾1人、大目1人、少目1人、史生3人である。越中の国は上国で、守1人、介1人、掾1人、目1人、史生3人である。
 また国における国司と同様に、郡には、郡司を置きました。
郡司は在地の古くからの実力者から選ばれた者が任命されるのがほとんどで、国司は中央から派遣されてました。国司への支給田は大国の国司でも約二町六反でしたが、郡司には六町、四町が支給されました。(郡司のくらいには大領、小領、主政、主帳の四段階がありました)国司は、国内を巡行して各郡司の行政を見てまわりましたが、国司の中には、それぞれの郡司に任せというかその実力に頼りきりで、国を巡行しない者もいました。

4) 「能登」という国の名前の由来
 「能登」という国の名前は、もともと七尾鹿島周辺にあった地名か、地元の豪族の名前だった。古墳時代以来の豪族、能登臣氏は能登国能登郡(現在の鹿島郡に相当)に本拠をおいた周辺屈指の豪族だった。能登臣一族がいなければ「能登国」という地名が存在せず、場合によっては、国の名は「羽咋国」や「鳳至国」になっていた可能性もありました。

5)大伴家持の国めぐり

 万葉の歌人として有名な大伴家持が、越中国の国司になっていたのは、746年から751年のことです。この間、能登は、越中国に合わされていた頃で、七尾とも歴史の上で大変関係の深い人物である。国司になって2年目に、彼は能登を一廻りしています。越中の国府(高岡)を出発しての行き帰り、2度、七尾に寄っています。その際、いくつかの歌も残しています。当時、都では、東大寺の大仏殿造りに国力を揚げて取り組んでいた時期であり、その頃の東大寺領の開田地図が24枚残っていますが、その内14枚が越中国、4枚が越前国のものです。中央でも勢力のある大伴家の家持が、都から遠くから越中国の国司に任ぜられた理由も、この大仏殿建立の資金作りが最大の目的でした。しかし、一方では、家持は、歌人としての目で、日照りに苦しみ雨を待つ農民の心を歌っています。
<参考ページ>
『大伴家持と能登の海』
能登国守・源順朝臣』 (時代は百数十年くだりますが)

3.律令制下の人々の姿

1)農民の税負担
 壬申の乱(672年)に代表される政権争いで勝利を得た大海人皇子(後の天武天皇)とその皇后・持統女帝の時代になって、律(刑法)と令(現代の行政法に当る基本法典)で統治する国家、律令制度が誕生しました。巨大な官人群を擁し、
公地公民の原則のもと、人民(6歳以上の男女)に班田収受の法によって、一定面積の耕地を保証(班給)する代りに、村人ひとり一人の名を書きしるす戸籍制度(戸籍は6年ごとに作り直される)をつくり、租・庸・調・雑徭など物納租税や徭役労働を課したり、防人の令なども作ったりして、個別人身支配を徹底しました。
 
は、口分田・位田・職田まどの私的用益を許した田から収益の一部(律令制度発足時・収獲の3%)を現物納させる租税。
 
も租税の現物納の租税の1つで、毎年10日間の歳役(さいえき)の代納物として、成年男子一人につき布2丈6尺または米6斗、奈良平安時代を通じては、布1丈4尺または米3斗が一般に課された。
 
調は、成年男子の人頭税であり、繊維製品・海産物・鉱産物など土地の産物を徴収した。
 雑徭は、成人男子に、1年に60日間、国司、郡司のために労働するもの。口分田の班給をしやすくする条理地割などの土木工事も、雑徭によって行われました。
 
仕丁は、成人男子が、交代で上京して雑役にあたるもの。
 
出挙(すいこ)は、春に種もみを借り利息をはらうもので、8世紀から行われました。国が行なう公出挙(くすいこ)は、春に官稲を農民に貸し付け、秋に3〜5割の利稲と共に回収する制度です。名目は営農資金であったが、奈良中期から利稲収入を目的とする租税的色彩を強めていきました。大伴家持も能登を巡回したのは、この公出挙の回収が大きな目的の1つでした。
 
防人の令は、農民に負担を負わせるもので、筑紫・壱岐・対馬など北九州の警備にあたらせました。
 地方は、
国郡里制により、国、郡、里の三段階の行政区画となりました。国には国司を、中央の貴族の中から選任し派遣し、郡には郡司は地方の国造(くにのみやっこ)クラスの豪族の中から選び任命しました。郡の中には普通50戸からなる里がおかれ、里には現地の村落の有力者を里長に任命しました。この地方支配の制度は、後に国郡郷里制になり、さらに国郡郷制というように三回も変わります。10世紀に編集された『倭名類聚抄』という辞書に、羽咋郡八郷、能登郡九郷、鳳至郡五郷、珠洲郡四郷が掲載されています。里は、先に延べた徴税と課役の単位をなしていて、戸主がその責任を負いました。
 また、地方には、軍団を置いて国司が統率しました。日本全体は畿内と七道に分かれ、能登や加賀は七道の中の北陸道に含まれていました。
 国司が任期制であったのにたいして、郡司は、任期はありませんでした。4等に分かれ、長官が
大領(たいりょう)、副官が小領(しょうりょう)主政(しゅせい)主帳(さかん)は事務官をなしていました。前2者を郡領(ぐんりょう)といい譜代の在地豪族が務め、後者は小族からも選任されました。
 上記のような租税制度や強力な中央集権制度により、当時の人々は、山上憶良の『貧窮問答歌』に歌われていたような生活、すなわち重税や兵役に困窮していたものと思われます。

2)都に出た人々
 郡司を務めた能登臣の一族で、中央の記録に名を留める人物が4人います。

 能登臣三千
は優婆塞(うばそく)(出家せずに仏道にはげむ人)におされている記録が残っています。750年のことで年齢は39歳、出身地は能登八田郷(やたごう)で戸主は能登臣石村(いわむら)となっています。戸主の能登石村は、知識人(奉仕人)として能登郡八田郷から送られたことがわかっています。八田郷は、現在の矢田郷の旧名であり七尾の東側の平野あたりを指した地域(西側は加嶋)で、能登臣一族が、住んでいた地区も推定でき、重要な記録であります。
 能登臣忍人(おしひと)
は、正倉院の子文書に350回も名が記録されています。最初の記録は743年に装こう師(表具の仕事をする人。「こう」はサンズイ扁に黄と書き、表具(表装をする意味である、しかしこの漢字は残念ながらJISコードには無い)としてです。忍人が、どのような経緯で役人になったたか不明だが、29年余りの間、写経の仕事に従事したようです。748年、官位は30階中最下位の少初位下の(しょうそいのげ)という位について以降、12回の昇進で、最後は、正八位になっています。当時下級役人は、毎月の月料として、米と塩、2月・8月に季禄といって現物が支給されていましたが、それだけでは、生活が苦しいのか、忍人は、夜勤を年200回以上もしています。また下級役人の仕事は過酷だったらしく、「寒いから酒を配給してほしい」「仕事着は、3日に一度は着替えたい」といった要望書の下書きを残しています。
 
能登臣男人(おひと)は、画師として働き、758年に、従八位とな忍人等と大盤若経(だいはんにゃきょう)を書き、また同じ画師で男人のもとで働いた能登臣国依(くにより)も772年の借金の証文にその名を残しています。
 この他、759年に、能登国仕丁・
船木部積万呂が造東大寺司木工部から逃亡した記録もあり、遠く能登を離れ、都づくり、東大寺造りに励んだ人々の生活が偲ばれます。

3) 能登郡以外の能登臣
 能登臣は、現在の七尾鹿島にあたる能登郡を嫡流の本拠としていた。前にも書きましたが能登国の名の由来の氏である。その拠点に国府が置かれ、おそらく他の郡へ役人など送り込んだのだろう、他の能登の諸郡の記録にも、その名を見ることができます。天平勝宝5年(753)の記録によると、
能登臣智麻呂(ともまろ)が鳳至郡の大領(郡の長官)をなし、天平20年(748)当時、羽咋郡の郡役人の末席に擬主帳(かりのさかん)能登乙美の名を見出せます。

4)能登国分寺と国分尼寺
 聖武天皇が、諸国に国分寺を造るように詔を出してから、102年も経った平安時代の承和10年(843)12月に能登国分寺ができました。これには、同じ年の1月に国司になった春枝王(はるえおう)の力が大きかったといわれています。国分寺ができたと言っても、もとあった能登国定額寺の大興寺がそのまま国分寺と名前を改めたものでした。おそらくは、在地の豪族である、能登臣氏一族の氏寺として栄えていたお寺をある時に「定額寺」(準官寺)に指定し、その後で国分寺に転用したのでしょう。場所は、現在の七尾市国分町〜古府にまたがってありました。国分寺に昇格されるにあたって、10人の僧がおかれ、塔(五重塔か三重塔かなど不明)が建てられました。境内の広さは南北・東西ともに約200mもある大きさのものであった。南門を正面に、中門・講堂と南北一直線上に並び、この線の西側に金堂、東側に塔が建てられました。境内の周囲を、掘立て柱の塀で囲み、中門からは同じ様な塀が東西に伸びていました。川原石を乱石積みした化粧石をめぐらした金堂の基壇は、東西22.35m、南北15.6m。瓦の出土から本瓦葺の、創建当初はしっかりとした礎石の上に建った瓦葺きの立派な金堂だったと思われるが、時が経ち、瓦が痛み始めても十分に補修されなかったようです。発掘された瓦は、7世紀後葉の白鳳様式をとどめていました。そのため、国分寺に転用された時には、伽藍のほとんどは瓦葺きでなかった可能性が高いと考えられています。瓦は殆ど補修されていなかったが、回廊は平安時代の終わり頃まで何度も建て直されていたことが判明しました。「国分寺」というと、普通は七堂伽藍を備えた立派な瓦葺き、朱塗り柱の建物を思い浮かべるが、能登国分寺の屋根には瓦以外の板や桧皮(ひわだ)などがのっていたのでしょう。能登国分寺は普通の国分寺とは少し変わった歴史を持っているのです。
 ところで、大興寺と同じ瓦が千野町の千野廃寺から出土している。軒瓦や平瓦の模様が同じで、ほぼ同時に建てられた寺と推測されている。おそらくこれが国分尼寺だったのでしょう。



4.郷名と遺跡
 10世紀前半に編集された本で、倭名類聚鈔」という漢和辞典というか百科事典のような本
があります。そこに記された郷の名は、

奈良・平安時代の能登の遺跡
所在地遺跡名
輪島市釜屋谷昭南遺跡
三井小泉遺跡
時国古屋敷遺跡
七尾市古府タブノキダ遺跡
赤浦やまと遺跡(製塩)
大野木町タキシロ」遺跡
八幡町・昔谷遺跡
矢田町・明星館遺跡
田鶴浜町三引E遺跡
三引C・D遺跡
鹿島町高畠B遺跡
高畠テラダ遺跡
徳前C遺跡
羽咋市四柳ミツコ遺跡
四柳白山下遺跡(集落)
四柳白山下遺跡(水田)
柳田シャコデ廃寺
柳田タンワリ1号窯跡
寺家遺跡
富来町貝田遺跡
志賀町清水今江ニシヤグチ遺跡
押水町正友ヤチヤマ窯跡
石川県埋蔵文化センター遺跡発掘ファイル の表から

9世紀前半にあった地名と考えられますので、能登郡にあった九郷のうち、与木(よき)、越蘇(えそ)、八田(やた)、加嶋(かしま)、熊木(くまき)の五郷は、現在の旧村名から位置の推定ができます。また、長浜も七尾東湾沿いと考えられますが、上日(あさひ)、下日神戸(かんべ)の三つの郷にはいろいろと説があってわかりません。ただ神戸郷というのは、そこから出された租税の全てを、特定の神社の費用に充てるよう国家が定めた郷で、能登では、羽咋郡と能登郡に置かれました。位置として、七尾の奥原町から田鶴浜町の吉田・三引付近までの地域ではないかという説もあります。
 当時は、50戸を持って1つの郷とするのが原則でした。古代家族の一戸あたりの平均人数を35人と見れば、1つの郷の人口は1750人となります。能登郡全部では15,750人になります。あくまで平均上の計算で、地域により差があったと思われます。奈良・平安時代の能登の遺跡は、右に主なところがあがってます。
 七尾市大野木町・
タキシロ遺跡には、掘立柱(土台が無く地面に穴を掘って建てた柱)の倉庫跡があります。 そこからは当時としては珍しい緑色の陶器片が出ています。近くに製塩土器が出土していることから、塩を作り各地に送ったのではないかと考えられます。
 七尾市八幡町・昔谷遺跡からは、竪穴式住居2ヶ所とともに、14棟の掘立柱の建物群が発掘されています。これだけの建物群が出たのは県内でも珍しい上に、周囲を溝で区切っていることから、国衙の公的な施設ではないか、と推測されています。
 七尾市・矢田町の明星遺跡には、3棟の家屋と4棟の倉庫跡が発掘されています。柱穴が小さく、小規模な村の跡と推測されています。

5.荘園の歩み

 8世紀の後半頃から、人口増によって、全国に口分田がなくなってきました。政府は、養老6年(722)に、100万町歩の開墾計画をたて、翌養老7年(723)、三世一身(さんぜいっしん)の法を出して、開墾した田地の三世代にわたる私有を認めました。天平15年(743)には、墾田永年私財法により、身分により限度を定めて墾田の永久の私有を認めるに至りました。公地公民の制度の解釈を緩めて、給与である位田(いでん)職田(しきでん)以外に田地を獲得したい貴族・大社寺の思惑にこたえるもので、これ以降開墾が進んでいきました。しかし、逆にこれらの法により、律令制による地方支配もしだいにくずれてきます。その時期は、平安時代への移行期の頃です。貴族や寺院は、農民を集めて未開の地を開墾し、私有地を拡げました。このような土地を荘園といい、平安時代の中頃、盛んとなりました。土地が私有地になるのは、何も開墾ばかりではなく、生活の苦しい農民が、土地を荘園に打ったり、寄進したりし、自分は地代を払って荘園の小作人になり、租税を免れようとした為もありました。
 しかし、この当時、能登では、ほとんど荘園はできませんでした(平安時代能登全域で7つのみ)。農民は依然として、租・庸・調の税を納めていました。七尾などで荘園化の兆しが見えはじめたのは12世紀にはいってからでした。この事は中世武士団の形成の遅れともつながり、七尾など能登の歴史の一つの特徴となりました。

(参考図書)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「七尾市ものしりガイド・観光100問百答」(七尾市観光協会)、
「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)、
「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)、
 「日本海域の古代史」(門脇禎二:東京大学出版会)、「七尾の地方史(種々の号を見る)」(七尾市)
 「(図説)石川県の歴史」(河出書房新社)、「広辞苑」(岩波書店)、「石川県の歴史」(山川出版社)、
 「かしまの歴史探訪」(鹿島町教育委員会)

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