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能登国守 源順(みなもとのしたごう)朝臣
(2003年6月25日改定)
(参考文献)『能登国守 源順朝臣』(「七尾の地方歴史)」の中の森下市郎氏の文章)、「國史大辞典」(吉川弘文館)、世界大百科事典(平凡社)、「広辞苑」(岩波書店)ほか
 能登ゆかりの万葉の歌人といえば、普通の人は、誰でも大伴家持を思い出すだろうが、能登国守として七尾に赴任し、在職中に七尾で没した有名な歌人がいたことなど、あまり知る人などいまい。実は、その人物こそ源順(みなもとのしたごう)である。私も長らくこの名前を忘れていたが、そう言えば、高校時分、文学史をやっていて、人名の読み方で、「順」を「したごう」と読むことを注目した記憶がある!その頃は、古文の先生も特に強調していなかったから、先生も七尾に居たということは知らなかったのだろう。

 大伴家持の頃は、まだ能登という国はなく、越中という国に含まれていたため(参考: 七尾の歴史「古代」 )、大伴家持が能登を訪れたのは巡見と都へ送る物資の督促の為に来たのであった(参考: 「大伴家持と能登の海」 )。また大伴家持が赴任したのは、まだ働き盛りの29歳であったから、広く領内を巡行しては歌を詠んだのであろう。源順の場合は、齢も70歳の国守であり、家持のように巡行も困難であったのだろう。ほとんど能登には、彼の歌碑がない。そのために忘れられてしまっている人物なのだ。

 源順(911〜983)は、平安中期の官人で、延喜11年(911)に生まれる。父は嵯峨天皇の子源定の孫源左馬助攀(こぞる、
又は、あがる)(みなもとのさまのすけこぞる)の次男。従五位上、能登守で終わった。当時一流の学者(漢学者)で、平安中期の歌人、三十六歌仙の一人、また梨壷の五人の中心的人物でもある。梨壷とは古代の撰和歌所を梨壷に置き、勅令により万葉集に訓を付けた場所であって、5人とは、源順・大中臣能宣(おおなかとみよしのぶ)・清原元輔(きよはらもとすけ)・紀時文(きのときふみ)・坂上望城(さかのうえもちぎ)である。天暦5年(951)村上天皇は、この5人に『万葉集』は漢字のみで書かれていて読みにくいので、訓釈するように命じ、大部分の歌に訓点が加えられたのである。
 このときの源順の身分は学生(がくしょう)である。

 また源順は『後選和歌集』の撰者ともなった。歌は歌人としての才能より、漢詩文に優れ、作品には※1『本朝文粋』『拾遺和歌集』があり、以下の勅撰集以下の勅撰集には、51首の和歌が収めれ、入集歌が多数ある。家集に
『源順集』がある。それから辞書『倭名類聚抄』の編集があり、※2『古今和歌六帖』も彼の編集と考えられ、また『宇津保物語』『落窪物語』の作者に擬せられているという。

※1『本朝文粋』は、平安時代の漢文総集で、当時の文章博士(もんじょうはくし)・大学頭藤原明衡(あきひら)編集によるもので、嵯峨天皇の弘仁2年から後一条天皇の長元年間(810〜1036)までの約200年間の漢詩の名作429編を、中国の梁の昭明太子の編集した『文選』にならい、39類に分類している。作者は小野篁(たかむら)・都良香(みやこよしか)・菅原道真・三善清行(みよしきよつら)・紀長谷雄(きのはせお)・大江朝綱(おおえともつな)・源順ら6、7人で、うち菅原・大江両家のものが、もっとも多く、紀家がこれに次ぐ。
※2『古今和歌六帖』は、4600首余りの和歌を500余りの題に分類し、それを25項にまとめ、さらに6帖とした『類題和歌集』のことで、大部分は万葉・古今・後撰集の三集から抜粋した歌である。編者は当時一流の学者でもあり歌人でもあった、源順が最有力とされている。

 承平4年5年(934−935)頃、母が仕えていた勤子内親王(醍醐天皇第4皇女)の命に応じて、若干20歳の若さで
※3『倭名類聚抄』を奉っており、和漢に亘る学才を備えていた。学生字(がくしょうあざな)は源階、唐名は真峡と言った。天暦7年(953)に、※4学生(がくしょう)から文章博士に任じられ(43歳)、天暦10年(956)には従六位下に叙せられ、同年、勘解由判官に就任。天徳3年(959)源順は、大江維時、橘直幹などの漢詩文の大家、清涼殿の詩合に出席する。応和2年(962)には民部少丞・兼東宮蔵人、応和3年(963)には正六位下、民部大丞に昇進した。康保3年(966)従五位下、下総権守となり、同年、「源順馬毛名合(うまのけなあわせ)」を主催。翌年(967)には和泉守に就任した。

※3『倭名類聚抄は、普通略して『和名と言う。『新撰字鏡』(僧昌住著)に次ぐ我国最初の分類漢和辞書であって、承平4年(934)頃成立した。天地・人倫・疾病のように、24部に分け、さらに、人倫部なら、男女・父母・兄弟類というふうに全部で128類に分け、ここに属する漢語を挙げて漢文で説明の上、その和名を万葉仮名で注記している。10巻本と20巻本があり、後者は、後の人が増補し、平安後期に完成した。
※4:学生(がくしょう)について→律令時代の大学の主要学科で、歴史が主で、中国の詩文や史書を学び、教官として博士2人、学生20人が厳しい試験を経て選び受講させる。ただし、博士は菅原と大江の両家にかぎられていた。

 初の国守になり、張り切っていた安和2年(967)源順は、突然和泉守を解任された。それから11年の長きに亘り無役の時をすごすのである。当時栄華を誇っていた藤原氏一門でなく、嵯峨源氏というノン・エリートであったことが影響したようだ。天禄3年(972)、「規子内親王前栽歌合」で判者をつとめる。『古今和歌六帖』は、天延(974)から天元(977)頃の成立といわれるから、無役期に編集したものと想像される。

 無役という不遇で苦悩の日々が続いた天延2年(974)従五位上に叙せられたが、それに見合った官職はつけず、
天元3年(980)春、能登守を命じられたのである。源順は70歳であった。
 永観元年(983)在任中、能登国府の地にて没したのである。

 そののち、江戸時代は明暦3年(1657)、黄門様こと水戸光圀は、『大日本史』を編纂するようにめいじたが、明治39年(1906)に完成したその著書によると、「橘正通は順の高弟たり。順将に死せんとす。その集を以て之に授けずして、為憲に属す。」とあるが、源順が没したとき、弟子たちが七尾でその臨終を見守った可能性は低いとおもわれるので、これは順が死ぬ間際に、高弟の橘正通をさしおいて、『口遊』の著者である源為憲に『源順集』の編修を依頼したということと思われる。
 それでは、ここからは源順の業績をあらためて見てみよう。
(1)勅撰集に収められている歌からみてみると、源順の歌で勅撰集に撰ばれた歌数は、50首前後である(森下氏は49首)(資料によりバラつきがある)。厳密に言うと『拾遺和歌集』秋歌171と雑秋歌113が重複しており、また『金葉和歌集』春歌10が『拾遺和歌集』春歌6と重なっているので、森下氏説でいくと47首ということになる。
これらの内訳を勅撰二十一代集の成立順によって示すと次ぎの通りである。
勅撰二十一代集の中の源順に収められている歌の数
1.古今和歌集なし8.新古今和歌集2首15.続千載和歌集1首
2.後撰和歌集なし9.新勅撰和歌集なし16.続後拾遺和歌集1首
3.拾遺和歌集25首10.続後撰和歌集なし17.風雅和歌集2首
4.後拾遺和歌集3首11.続古今和歌集2首18.新千載和歌集1首
5.金葉和歌集拾遺和歌集と重
複するので削除
12.続拾遺和歌集なし19.新拾遺和歌集1首
6.詞花和歌集1首13.新後撰和歌集なし20.新後拾遺和歌集1首
7.千載和歌集2首14.玉葉和歌集6首21.新続古今和歌集1首
 これらの勅撰集のうち、源順が撰者の一人である、後撰和歌集に自分の歌を一首も撰ばなかったのは、その人柄をあらわしている。
(2)『拾遺』について
これは藤原公任の編集した歌集で、源順の歌が8首撰ばれている。そのうち7首までが勅撰集に収められているので、ここでは『源順集』にも記されていない残り1首を紹介する。
『拾遺』夏の歌五五、冷泉院の東宮におはしましける時、百首の歌を進じける中に、と題して
「花の色に染したもとのをしければ衣かへうき今日にもあるかな」
 この歌は、源順52歳での歌である。
(3)『源順集』について
この歌集は、298首の歌が収められているが、特に能登赴任に、かかわりのある歌のみについて、とりあげる。
同歌集の最後、297、298番の歌は、源順が能登国守として赴任する送別の歌で、前者は、一条大納言(藤原為光)家の人々におくる歌であり、後者は、左衛門佐(藤原誠信)におくる歌である。
「越の海にむれは居るとも都鳥みやこの方ぞ恋しかるべき」
「まつ人も 見えぬは 夏も白雪や なほふりしける 越のしらやま」
「神の座(ま)す気多のみやまき(深山木)しげ(繁)くともわきて祈らむ君が千載を
 この歌が源順の最後のもので、残念ながら能登に赴任してからの歌は見当たらない。つまり詠まなかったか、たとえ詠んだとしても世に発表しなかったのだろう。以上で源順の歌について叙述は終えるが、順の歌が広く知られなかったのは、多分小倉百人一首に撰ばれなかったからであろう(森下市郎氏評)。

 能登守に赴任してからの源順は、領内の巡行も行った形跡は皆無に等しく、70歳の高齢もあって、庁内の執務に専念したようである。順の在任中に手がけた事は、国守としての重要責務の一つである領内の巡拝が挙げられるが、古府総社の社伝によれば、能登国内の式内社43座の神を合祀して奉幣参拝の便宜をはかった事、今1つは、山王町の大地主(おおとこぬし)神社の再建があげられる他は、全く知られていない。今後の研究がまたれる。

『万葉の歌』の著者、山口博氏はいう。
「能登には万葉歌碑があるが、源順を知る人は少なく、従って記念碑も無い。私は七尾の海が見える丘に、『万葉学の祖、天暦の源順朝臣ここに没す』の碑を幻に見る。」と。

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