このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播

蓮如以前の浄土真宗本願寺派の発展
 阿弥陀仏の救いの教えを、北陸で初めて説いたのは、浄土宗や浄土真宗でなく、時衆の遊行によってです。また阿弥陀仏は、真宗の布教より前に、白山信仰(大汝峰の本地仏)を通して、北陸の人々に親しみ深い存在でありました。高田専修寺(三重県)・渋谷(しぶたに)仏光寺(京都府)・越前三門徒(福井県)など真宗諸宗派の教線も、室町期にはすでに加賀に相次いで及んでおり、本願寺諸派においては、七世の存如(そんにょ)の時代に、江沼郡の河崎専称寺(加賀市)、石川郡の吉藤専光寺(金沢市)、河北郡の木越光徳寺(金沢市)などの門末へ、宗祖親鸞の絵伝や、『三帖和讃』『持名鈔』『浄土真要鈔』の聖教類が下付されていて、ささやかながらも末寺の形成が図られていました。存如の弟如乗(にょじょう)が、河北郡にある二俣(金沢市)の地に本泉寺を創建したのは、嘉吉2年(1442)のことでありました。

蓮如の教えとその組織
 
室町後期の文明3年(1471)6月、本願寺八世の蓮如兼寿が、加賀・越前国境の吉崎(福井県金ヶ崎)に下向し、坊舎をかまえて布教活動を行なうと、それまでの北陸の宗教事情に大きな変化生まれました。
 蓮如
は、親鸞が創始した浄土真宗を小さな宗派から日本の代表的な宗派にまで拡めたことで知られていますが、その成功の理由には彼の卓抜した組織を作り上げる能力を揚げることができます。
 浄土真宗開祖法然の一番門徒であった親鸞が、鎌倉時代に浄土真宗を開いてからおよそ250年後、42歳で本願寺の8代目法主(ほっす)となった蓮如は、文明3年(1471)に、加賀と越前の境界にある吉崎に布教の為の根拠地として、「吉崎御坊」という寺を建立しました。この時から北陸の本願寺派の真宗教団は繁栄の一路を辿りました。蓮如の教えは、「仏教は人々を差別しない。阿弥陀如来を信ずる人は、みな平等に救われる。」と説き、「同朋精神」を強調し、また職業にも関係なく、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、仏の慈悲により現在や未来が明るくなると説いた。この教えは、わかりやすく、在地の有力者である土豪は勿論、今まで恵まれない生活をしていた農民や手工業者、行商人にとってはありがたい教えであり、急速に広がりました。
 蓮如は、これらの教えわかりやすく説くにあたって「御文(おふみ)」の発行による布教方法を採っていました。これらの帰依した門徒の中には、旧来から阿弥陀信仰を持つ、白山天台の信者や、時宗・真宗他派の徒からの転宗者もかなりいたようです。
 資料によると、吉崎で蓮如が説法を始めてから瞬く間に、200軒ほどの家ができたそうです。また1、2年経つと吉崎道場に加賀・能登・越中の「道俗男女その数、数千万」が群参したという。数にはオーバーな表現があるとは言え、その盛況ぶりがよくわかります。
 蓮如は、信者が集まって話し合う場を
「講」といい、さらにそれが大きくなり集会場として設けられた特別の場を「道場」と呼びました。道場がさらに大きくなると、本願寺の許しを得て「寺」となりました。蓮如は、道場坊主と長(おとな)(村役の長)と年寄(村役)にすすめて道場中心に講を作らせ、それをまとめて末寺、さらにその上に中本山寺坊、そして本山・本願寺というピラミッド型の仕組みをつくって宗旨を布教しました。

 応仁の乱(1467〜1477)後は世の中が乱れ、自分達の土地は自分で守るという世の潮流から、講は信仰の話し合いだけでなく、次第に年貢の事や領主に対する不満なども話し合われるようになりました。地侍たちも講に入って門徒と深く結びつき、講は互いに横の連絡を取り、広範囲で交流がもたれました。やがて、地域的なまとまりは、「道場」が寺となり、「寺」は郡単位で「組」となり、加賀の光徳寺(のち七尾に移転)、専光寺、弘願寺などの有力寺院の支配を受け、その上に本願寺があるという形が出来上がりました。
 蓮如の吉崎滞留は4年余りであったが、この間たびたび加賀におもむき布教にあたった。文明5年9月(1473)、蓮如は江沼郡の山中温泉に湯治し、信心の意味や六字の名号についての御文を書いています。また河北郡横根村(金沢市)の法談では、参詣人の歓喜は極まりなかったと伝えている。

一向一揆のはじまりと発展
文明の一揆)
 
応仁の乱の頃、北加賀を富樫政親(とがしまさちか)が治めていましたが、弟の幸千代(こうちよ)と対立しており、北加賀統一を目指し、兄弟が戦いました。弟の守護幸千代が、積年の法敵であった高田専修寺門徒と結んだのに対して、政親は越前の朝倉孝景(たかかげ)らと手を結び、本願寺の加賀門徒衆の援助を受けて、文明6年(1467)の戦いで大勝しました。富樫政親は、やっと北加賀の守護になりました。これが、本願寺門徒農民が戦に現れた最初で、一向一揆と言います(つまり一向一揆の言葉の意味は、一向宗による武装蜂起ということである.一向宗は蓮如に言わせると、時宗の信者だが、本願寺教団が発展し、時宗の地盤を圧倒するようになって、本願寺派の真宗を一向宗というようになった)。これにより一向一揆は、加賀での宗勢を強め、今度は、守護や寺社への年貢を納めず、ついには政親と対立、争うことになりました。しかし一向一揆方は破れ、本願寺門徒の指導者達は、いったん越中の方へ逃れました。

お叱り御文)
 
この後吉崎に赴き、加賀への還住の斡旋を求めた門徒土豪に、河北郡の浅野川流域に在地基盤を持つ、湯湧次郎右衛門入道行法(ぎょうほう)と洲崎右衛門入道慶覚(きょうかく)がいた。文明6年の7月、蓮如が木越光徳寺に、同寺門徒の乱妨停止とその成敗を命じ、光徳寺門徒と吉藤専光寺門徒らに対しては、その行動を悪行と決めつけ、厳しく譴責を加えています。この時蓮如が書き送った書状は、世に「お叱り御文」と呼ばれ、文明7年に本願寺門徒が、守護方と戦った時のものとされており、河北・石川両郡(北加賀)の門徒土豪が、その主力を構成していたらしい。殊に河北郡の坊主・門徒は、早くから本願寺と強く結びついており、加賀教団の形成過程において、主導的役割を果たしていました。
当時、本願寺の門徒たちは「一向宗」と自称し、あるいは他称されていました。しかし蓮如は、一般に民間信仰の呪術を指すこの呼称を、門徒が名乗るのを戒め、「浄土真宗」と唱え、門徒の他宗攻撃及び、守護・地頭への反抗や年貢・公事の懈怠(けたい)を、厳しく譴責しています。しかし、加賀の門徒たちの現実の行動は、蓮如が危惧した姿のようであったらしい。文明6、7年頃、故国加賀に滞在していた臨済宗の僧・伯升禅師は、ここで争乱に遭遇し、一向宗徒が、諸宗を排撃して徒党を組み、領主を殺戮して諸物を略奪する情景は、中国の元末に、平民等が起こした「蓮社」(紅布の乱を起こした白蓮教徒の結社)の行動と同類であると語っています。

一向宗の伸張)
 加賀の本願寺門徒の勢力はその後も伸張し、文明13年(1481)頃には、守護富樫氏の支配は次第に形骸化し、すでに加賀は「無主の国土」の状態だとも言われていました。同16年に越中国二上荘(富山県高岡市)の年貢が、「国質(くにじち)」(債権者の私的差し押さえ行為)と号して加賀の門徒に途中で押領される事件があり、翌17年10月には、門徒土豪の頭目である洲崎右衛門入道慶覚が、北加賀の要・宮腰(みやのこし)に、強引に入部する動きも見られました。この他、同19年になると、石川郡一揆の河合藤左衛門・山本円正(えんしょう)らが、質物の債券をめぐって、河北郡の井上荘に押し寄せ、濫坊狼藉を働き、荘内の堂舎を取り壊し放火に及んだため、百姓らが逃参したこともあった。
 こうした加賀国の状況のもとで室町幕府は、本来守護の権限に属する荘園押領の停止沙汰の遵行や年貢の収納請負を、本願寺派であった本覚寺や、加賀に在住する蓮如の次男の能美郡波佐谷(小松市)の松岡寺蓮綱(しょうこうじれんこう)と七男の二俣本泉寺蓮悟(ほんせんじれんご)に命じています。また荘園領主の側でも、本願寺蓮如に依頼し、未進年貢の収納を在地の門徒に働きかけており、加賀の在地支配の上で、本願寺教団は今や守護権力を脅かす存在となっていたのです。

長享の一揆)
 
文明18年(1486)に、富樫政親は将軍・足利義尚(よしひさ)に味方し、近江守護六角氏を攻めました。その時、農民から食料や人夫を出させたので、一揆は反抗しました。長享元年(1487)政親は急いで帰国し、これを押さえようとした。これに対して、本願寺派の坊主・門徒に率いられた加賀の一向一揆は、政親の大叔父にあたる泰高(やすたか)一派と結び、また越中・能登・越前の一揆門徒ら支援を受け、長享2年5月、南無阿弥陀仏と書いた筵旗を立てて政親の立て篭る高尾城(石川郡)を包囲し、攻撃しました。政親は、越中や能登からの援軍を期待してしばらく篭城で頑張りましたが、さすがに20万の大軍による総攻撃には持ちこたえることができず、同年翌6月に高尾城はついに落城し、政親は自害(享年34歳)しました。この時、功労のあった一揆方の指導層の中に、 木越光徳寺 ・磯辺勝願寺(金沢市)・洲崎慶覚や鳥越弘願寺(くがんじ)(河北郡津幡町)など、河北縁辺とその周辺地域に居住する河北郡の坊主・門徒衆が多く見られました。
 以後、加賀の国は、富樫泰高(やすたか)が形だけの守護になったが、実際の政治は、坊主・土豪・長衆(大百姓)などが共同して行ったので、
「百姓の持ちたる国」と言われるようになり、約100年も続きました。また河北郡は堅固な本願寺の門徒組織を形成し、加賀一向一揆の中で、重要な役割を担いつづけました。

能登の動き)
 
能登の守護・畠山義統は、富樫政親を救援するために出兵するが間に合わなかった。加賀での一向一揆の成功したのを見た能登では、義統が一向宗の動きを警戒し、一向宗を禁止しようとしました。一向宗は、加賀のような百姓の国にしようと計画し、蓮如の子、本泉寺の蓮悟は、畠山氏に負けるなと督励します。一揆は、義統の被官井口の裏切で張本人数名が殺され不発に終わった。

百姓の国:加賀)
百姓の持ちたる国を納めたのは、蓮如のいる加賀の3ヶ寺と言われた本泉寺・松岡寺(能美郡)・光教寺(江沼郡)でした。

天文の一揆)
 
一方、越前でも、勢力を持っている超勝寺・本覚寺の2ヶ寺は、加賀に倣って、百姓の国を作って越前を支配しようと、守護の朝倉敏景(としかげ)を倒す一揆を起したが敗れて加賀に逃げました。本願寺10代目法主に幼い証如(しょうにょ)が就くと、加賀に勢力を持つ為、超勝寺・本覚寺の2ヶ寺は、本願寺の命令と偽って、加賀の3ヶ寺と勢力を争い、互いに一揆同士が戦い、松岡寺は、能登へ逃れて畠山氏の保護を受けました。これを天文の一揆といいます。

鹿島郡(七尾を含む)真宗門徒)
 長禄元年(1457)本願寺を継いだ蓮如の弟子に、近江堅田に法住(ほうじゅう)という人物がいた。法住率いる本福寺門徒の舟木(ふなき)(滋賀県安曇川町)の教念(きょうねん)は、やがて能登府中に定住することになる。教念は、日本海海運に乗って商業活動をする一方、能登に蓮如の教えを伝えた人である。
 16世紀になると鹿島郡では、上町(中島町)正誓・鉤(まがり)(現能登島町字曲)宗教などが、阿弥陀如来絵像を奉懸するようになり、加賀一向一揆の影響を受け、能登でも真宗門徒が拡大していった。戦国大名畠山氏は、他の大名と同じく、真宗門徒を無碍光宗(むげこうしゅう)(帰尽十万無碍光如来という十文字にちなむ)と呼んで警戒しました。
 能登で最初の浄土真宗寺院は、能登守護代・遊佐秀盛から多額の寄進を受けていた、教念に連なる人物と推定される教恩坊の道場が、明応9年(1500)に寺号を受けた長福寺であります。
 永正(1504〜21)末年になると、畠山氏は真宗門徒の存在を認め、教恩坊(きょうおんぼう)に対して被官の 遊佐秀盛(ゆさひでもり) が道場の経営費用を負担することを約束している。この道場は、鹿島郡のみならず、能登における初めての本格的なものであると言えよう。しかしながら能登各地の門徒は、能登教団としてのまとまりを、いまだ形成できずにいた。
 永禄年間(1558〜70)、鹿島郡(当時の鹿島郡は勿論、七尾を含んだ)門徒は1つの講を結んだ。鹿島郡二十日講である。講衆は大坂本願寺に多くの志を定期的に運んだ。この講を通して門徒衆は結束を強め、さらに多くの門徒衆を獲得していったのである。
 畠山氏もこの動きに反応して、能登4郡ごとに、〝組〟という単位で組織化をうながし、掌握することに努めた。畠山氏主導であったが、ここに能登教団を成立させることになった。
 教団は郡ごとに代表者を定めることになるが、鹿島郡では教念・教恩に続くと思われる長福寺教円(きょうえん)であった。教円は加賀一向一揆とも連携をもち、自身と鹿島郡門徒の政治的地位を向上させていったのであった。

 能登の守護3代目 畠山義統(よしむね) は、禅宗の教えを信仰していたので、七尾には当時真宗寺院は1ヶ寺もありませんでした。7代目 畠山義総(よしふさ) の時代には、一向宗が加賀の国を治めていので、義総は加賀の3ヶ寺とつながりをもち、3ヶ寺に随う一向宗を保護しました。天文の一揆で加賀を追われた加賀の3山は義総を頼り、能登に逃れてきました。能美郡の松岡寺は、後に珠洲の松波に再建され、また、河北郡木越にあった光徳寺は、天正8年(1580)に佐久間盛政に寺を焼かれ、鳳至郡黒島に逃れ、次いで七尾城下に移り、さらに府中に移り、天保12年(1841)に現在の位置(小丸山下)に移っています。本願寺と織田信長が大坂で戦った石山合戦には、七尾の講から、戦の為にお金を寄進した文書が多く各寺に残されています。また、一揆軍も能登から出かけました。能登島の専正寺、輪島の通敬寺には石山合戦の時の旗と伝えられるものが残っています。

(能登の浄土真宗関係の他の頁)
蓮如の浄土真宗の(北陸での)布教
山の寺と能登真宗寺院の中核
光徳寺と富樫家と一向一揆

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください