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長谷川等伯(画家)(1539-1610)

 
(1999年11月22日一部加筆修正)長谷川等伯・松林図(左半双)
(略歴を読む前に参考として:七尾法華と長谷川等伯)
 15世紀後半から〝都市〟府中、やがて七尾に、「南無妙法蓮華経」と題目が響きわたり、日蓮宗の寺院が建立され、戦国時代後半までに10ヶ寺あまり数えるようになった。これを羽咋郡の滝谷妙成寺(みょうじょうじ)を中心とする「羽咋法華」に対して「七尾法華」と呼ぶ。能登半島に日蓮の教えが伝わったのは、永仁2年(1294)といわれている。佐渡から京都に向かう日蓮の弟子日像(にちぞう)が七尾に上陸、番匠屋弥右衛門(ばんじょうややえもん)宅に逗留、船中で論破した日乗の案内で滝谷に入り、後事を日乗に託したのである。この日像の伝道を土台にして、京都町衆と結びつきを持っていた商人層や戦国城下七尾に集住するようになった武士層に広まっていった。等伯(当時の信春)は、七尾法華という環境の中で育っていったのであった。

(以下略歴)七尾出身(小島町付近)の安土桃山時代を代表する画家。天文8年(1539)等伯は、能登畠山家家臣・奥村文丞宗道の子として、七尾に生まれた。幼名を又四郎といい、帯刀と称した。幼い時、一族の染物屋・奥村文治の斡旋で、七尾の染物屋長谷川家(長谷川宗清(道浄))に養子として出された。養父には絵の心得があった事から等伯は絵を正式に学び、また雪舟弟子等春からも教わった。雅号は等春の1字を取り、信春と称した。そして仏画を描く町絵師(大和絵系)として徐々に有名になっていった。当時、七尾は 畠山義総 が築いた 七尾の文化的全盛の時代であった。 JR七尾駅前に立つ長谷川等伯の銅像
 戦国時代、七尾の町人社会の中で若き日を過ごした等伯は、やがて強固な法華信者として前途有望な画家に成長した。彼は、七尾にいる20歳代の頃から、優れた作品を残している。
永禄7年(1564)26歳の時、法華宗の山本孫八郎の求めに応じ、菩提寺本延寺(ほんねんじ)の木造日蓮上人坐像(彫刻)に彩色した永禄8年には、「日蓮画像」の制作に没頭(永禄9年の実相寺開山・同寺日蓮像開眼供養に備えて)したりしている。その頃は、長谷川信春といった。七尾時代のものは、「達磨図」にしても「涅槃図」にしても華麗な色感が示されているが、これらは以後の等伯を構成する基本的要素となった。
他に県内に
「十二天図」(羽咋市正覚院所蔵・1564年作成)、「達磨図」(七尾市竜門寺所蔵)、「涅槃図」(羽咋市妙成寺所蔵:1568年作成)「絹本着色日乗上人像」(羽咋市妙成寺所蔵)、「十六羅漢図」(七尾市霊泉寺所蔵)、「日蓮上人像」(七尾市実相寺所蔵)等がある。

 
元亀2年(1571)畠山家が混乱していく中、等伯(32歳の時)の養父についで母が亡くなり、それを機に上京した<上京したのに合わせて名前を信春から等伯(等伯も最初の師匠・等春から1字を取ったものと思われる)に改名したと思われる>。京都に入った等伯は、まず日蓮宗本山の本法寺に求め、塔頭(たっちゅう)教行院を宿坊にして、いよいよ京都における活動の第一歩を踏み出した。七尾の菩提寺本延寺が、本法寺の末寺であった関係で、京都での足場は、すでに約束されていたともいえるであろう。本法寺にある「日尭上人像」(1571年入寂した本法寺8世の日尭上人を翌年1572描いたもの)には早くも地方性からの離脱を示している。その絵を描いた際、「父道浄六十五歳長谷川帯刀信春三十四歳筆 遷化日尭聖人尊霊位生年三十歳 干時元亀三壬申暦五月十二日」と款記をし、それが「等伯・信春同人説」の根拠となった。

 最初は狩野永徳の門に学ぶが、狩野家一門しか名を成せず、他の者は分業主義に徹して一道具に過ぎない子弟関係のあり方に満足できず、自らそこを辞めた。最初、堺へ行き、商人の注文に応じて絵を描き、評判を得ていたが、それに飽き足らず、再度京都に上る。また千利休や本法寺の日通上人との交際から、やがて等伯は中国の宋元や我国の優れた水墨画に深く傾倒するようになる。

 人生の賭けでもあった、一大パフォーマンス、大徳寺三玄院の襖に強引に
「山水図襖」を描くという事件を起す。大徳寺の開山春屋宗園は禅寺寺院内に襖絵の必要を認めなかったが、等伯は宗園の不在時に訪れて縦横に筆を揮い、立ち去ったという。これで評判を得てその後数々の寺院から絵の依頼を受けるようになった。この絵には、牧渓・蛇足・相阿弥・雪舟など、真摯な古画学習の跡がはっきりと示されている。

 そして等伯はその頃の狩野派に負けるとも劣らない作品を生み出し、
長谷川派をたてた。しかし、権力者のお抱え絵師としては狩野派が政治力を利かせ、ほぼ市場を独占しており、なかなかその機会がなかった。天正18年(1590)仙洞御所対ノ屋襖絵制作に等伯が進出しようとしたが、狩野永徳に阻止され、永徳と確執があった。このことは逆にこの時点で等伯を中心とした長谷川派が相当勢力を伸ばしつつあった証拠と見られる。ところが同年(1590年)狩野永徳が急死すると、狩野派は優れた後継者をなかなか出せず、等伯にチャンスが回ってきた。秀吉の子・鶴松が亡くなると秀吉はその子を弔う祥雲禅寺(智積院)を建立し、その襖絵を等伯に依頼した(その時の作品「桜図」「楓図」)。豊麗な色彩と強靭な筆力、大画面としての雄大な構成力をもって長谷川派の総力を結集して制作した金碧障壁画である。その大胆で華麗な構図に秀吉は大層気に入り、等伯に知行200石を授ける。

 しかし、天正19年(1591)等伯を取りたてていた利休が自刃した。また祥雲禅寺の障壁画が完成間近い文禄(1593)には、息子の久蔵が26歳の若さで没した。後継者である息子(長男久蔵)の死を契機に、枯淡な水墨画の世界に没頭する。それ以降の作品としては
「松鴉柳鷺図屏風」、「松林図屏風」、「枯木猿猴図」(龍泉庵蔵)等があげられる。
晩年の等伯は61歳の頃から「自雪舟五代」を自称するが、この頃から作風は変化し、鋭い筆法、圭角に富む斧劈皴(ふへきしゅん)などが目につき、牧谿(もっけい)風の柔潤な墨による抒情性は影をひそめることとなった。

 友人としては、千利休や本法寺住職・日通上人らがいた。
慶長9年(1604)、66歳の法橋の位に就き、翌年画家の最高位「法眼」となる。1610年、徳川家康に招かれ江戸に赴くが、江戸到着後同年2月24日、病死した。享年72年。
上記の作品以外に現在のこってはいないが、文献では、天正10年(1582)本能寺の変に倒れた織田信長のため、豊臣秀吉が壮健した大徳寺総見院の水墨画や、聚楽第の障壁画も制作したとある。

(参考にした文献)

「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)
NHK「堂々日本史」の長谷川等伯の放送から
「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)
「七尾の地方史」(七尾市)
「國史大辞典」(吉川弘文社)

  
《参考になるリンク》
新潟大学教育学部人間科学部美術科
星野真理亜さんの
論文『桃山時代の中の「松林図屏風」 〜長谷川等伯〜 』

 

 

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