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(2004年11月7日作成)

総持寺祖院の風景

 祖院のHPはありますが、あまり寺としての由緒などの記述が少ないように思いました。そこで、私がここに紹介することにしました。  總持寺祖院のHP もあるので、そちらを見たい人はここをクリックして欲しい! 以下、施設の説明などは、間違いのないように、總持寺祖院のパンフレットを参考にし、かつ總持寺祖院の方で文章を確認してもらった事を記しておきます。(總持寺祖院さん、どうも有り難うございました!)また、小さめの写真及び境内案内図は、パンフレットから借用したものですが、今回(1999年9月21日)正式に總持寺祖院より了解を得て、掲載しております。したがって、それらの著作権は全て總持寺祖院に存することをここに明記しておきます。
 總持寺は、かつて曹洞宗本山として、越前永平寺とならんで、全国の末寺1万数千寺の8割近くを統括していた。武士階級の台頭と並行して発展した。厳しい修行の場として、当時海からの交通に頼るしかなかった、陸の孤島のようなこの地が、ふさわしかったのかもしれない。正しくは、諸嶽山總持寺祖院と言い、今から約700年前元享元年(1321)瑩山紹瑾禅師によって開創され、翌元享2年夏禅師に篤く帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、總持寺を勅願所として、「曹洞賜紫出世第一の道場」として定められた。南北朝期から櫛比庄地頭長谷部氏による寺領の寄進が多く見られたほか、室町幕府の祈願所となり、また能登守護、畠山義元、義総、義続などからも寺領を寄進、安堵されている。その後、寺運隆盛を極め全国に末寺1万6千余りを数えるにいたった。戦国時代(天正17年)に戦火で焼失しているが、江戸時代に入ってから前田家の再興が進み、慶長15年(1610)芳春院(利家の正妻・お松の方)の立願によりる山門が竣功し、元和元年(1615)徳川幕府の祈願所ともなった。文化3年(1806)年の記録では芳春院、覚皇院など27の塔頭(たっちゅう)があり、その繁栄が復興していたことが伺われる。明治31年4月13日、不幸にして再度の大火にあい七堂伽藍の大部分を焼失した。その後、布教伝道の中心(本山)を横浜の鶴見に移した。当地は現在は祖院として焼失した伽藍も復興された。山内約2万坪の境内には、焼失をまぬがれた伝燈院、慈雲閣、経蔵などの他に、七堂伽藍も建立され、いかにも禅寺らしく山水古木と調和し、風光幽玄の趣を醸し出し、飾り気のないたたずまいを見せている。私は、横浜の方(本山)へも行った事もあるが、地元びいきかもしれないが、こちらの方が好きである。
 私(畝)は能登の神社仏閣の中ではやはり一番すきである。その次に好きなのは、あまり知られていない羽咋市酒井のの 永光寺 である。
(参考)
石川県の曹洞宗について(總持寺・永光寺・大乗寺や瑩山派)の事についてもっと詳しく知りたい方は、 「曹洞宗の広がりと瑩山派の発展」のページをみてください !(ただし、こちらのページについては總持寺の監修は受けていません)
妙成寺や法華経(日蓮宗)のことについて、もう少し知りたい方は、 「日像と法華教団」(開基など歴史関係)のページをご覧ください
 左上の写真は、有名な總持寺の山門である。総欅(けやき)造りで、高さ17.4m、間口20m、奥行14.4mで、昭和7年に完成し、楼上に漢放光菩薩(観音菩薩・地蔵菩薩の二体でそう呼ぶ)、十六羅漢・五百羅漢の一部の古仏を祀ってある。2階正面に畳1畳もある大きな『諸嶽山』の扁額は前田利為公の筆になるものである。右上は總持寺の案内地図である。
 上の写真2枚は、法堂(大祖堂)の写真である。これも総欅造りで、左右に道元禅師(曹洞宗開祖・世界的に有名な『正法眼蔵』の著者)と二祖峨山禅師を祀り、左殿に本山守護神、三宝大荒神と總持寺の前身諸嶽寺住定賢律師を祀ってある。欄間には、瑩山紹瑾禅師の誕生から諸国行脚の一代記を山形県の名工、高山富十が親子2代に亘って見事に彫刻している。下の写真2枚は法堂内部の写真です。
 下の写真は、法堂の前の扉を撮影したもの。見事な彫り物がある。確かこの扉の部分は、明治時代の大火でも、持ち出され焼けなかった部分です。そのために材木の質が周囲と少しことなり、色が黒っぽくみえます。 上下の2枚に見える釣鐘は、石川県では有名な(穴水町)中居の有名な鋳物師・寒雉(かんち)作のものです。何代目だったかは、説明板の写りが、光を反射して見にくい為、わからなくなってしまいました。
 総持寺祖院仏殿←左及び下↓の写真は仏殿である。大正元年に再建。間口20m、奥行16.3mの大きなもので、正面に御本尊“釈迦牟尼如来”を、右に大権修理菩薩を配している。客殿を兼ねた相見の間の襖の書は山岡鉄舟の作です。右から「鉄樹(てつじゅ)」「抽枝(えだをぬきんじ)」「石樹(せきじゅ)」「開花(花をひらく)」と書いてあります。(参考:山岡鉄舟は、同じ曹洞宗の寺院・羽咋市の永光寺本堂の襖の絵も描いています)
ここでは写っていないが、鉄舟の襖の書の上段の花鳥の額も加賀の画家岸駒の作。前田家のものを岩本勝俊禅師より寄贈された。
 ↑上の写真は、慈雲閣(観音堂)である。總持寺開基以前から伝わる観音堂で、行基菩薩の建立と伝えられる当院最古の建造物です。本尊は、町文化財・僧形観世音菩薩が安置され、毎年7月17日に観音祭りが行なわれ、その時には御開帳となる。またここは北陸三十三観音霊場第十五番札所でもある。↑上の写真は、放光堂(納骨堂)である。また下の写真2枚は、その放光堂の内部の写真である。
 ↑上の写真は、経蔵である。加賀六代藩主、吉徳公より寄進された。寛保3年(1743)12月に建立され、漆塗り鍍金(めっき)金具で重圧な美しさを出しています。昭和42年石川県重要文化財に指定されました。 ↑上の写真は、法堂と妙王堂(回廊の角のあたり)・僧堂をつなぐ回廊である。その向うの回廊の少し上に見えるは伝燈院である。伝燈院は、開祖・瑩山禅師を祀る当宗門最高崇敬の中心です。元禄6年(1693)再建されたものの2度の災禍にも一部は焼失したが、殆ど原型を留め、朝夕に厳かに僧侶の奉仕が為され、幽玄な趣を出している貴重な建物である。
 上の右の写真は、総持寺境内にある峨山道の始まりの地点の案内板とともに写したものです。上の左んぽ写真は、その案内板の説明文をアップしたものです。2代目峨山さんの超人的な話が書かれています。
 上・下の写真は僧堂である。上は内部のものである。写っているのは7人分だが、その向かい側にも、また僧堂入口正面通路を挟んで反対側にも、あるので、30人弱分スペースがあるようだ。勿論自己修行の座禅を行なう場所。間口20m、奥行14.55m、書院風の火灯窓と白壁は実に美しい調和で落ち着きがを醸し出している。朝夕、修行僧が座禅に励んでいる。興味のある人は体験入門できるので、總持寺祖院のホームページ(上記にリンクあり)を見てください↑この写真も、さらに上にある写真と同じ箇所の回廊部分で、その内部を写したものである。
右下の写真も、山門を境内の中から見たものであるが、右隅に見えるのは僧侶である。私が行った時、数十人が、庭など掃いていた。禅寺はこうでなくちゃ、いけない!
↑上の写真は、鐘楼である。袴腰といわれる板囲いがされています。 上の写真は、香積台である。正面正座に韋駄天尊を安置してある。総受付、大調理場、配膳、浴場、東司を付属し(開通すると50畳の大広間になる)を有する、總持寺を運営する中枢部。
 ↑総持寺から帰る時に気付いたのだが、山門を出て左側(山門に向かって右側手前)に亀阜山・芳春院という建物があった。芳春院というとNHKの大河ドラマ「利家とまつ」で有名になった前田利家の妻・まつの法名のことである。特に調べなかったが、菩提寺にでもなっているのであろうか。↑上の写真は、総持寺の入口付近。
<總持寺の文化財>
【石川県指定重要文化財】
◆十六羅漢図 絹本・十六編
◆水墨元画浪龍図(絵本・紙本)
◆四季花鳥(双幅・狩野派初期の正系を継ぐ画家の作)
◆桃尾長鳥鍍金手箱
◆金動五鈷鈴(石川県最古の五鈷鈴)
◆青磁花入(天竜寺焼の秀作)

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