このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
このページはもともと、「先史〜古墳時代の能登」の中の一部だったのを、追記・修正・写真添付など改定して分離独立させたものです。
古墳のデータだけでなく、写真を掲載してほしいという要望がありましたので、それに応える形で製作しました。写真は、今後も取材によりどんどん追加していく方向で考えております。
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4世紀の能登の古墳づくりは、活発だったようです。4世紀前葉に尼塚1号墳、中葉に雨の宮1号墳、徳田燈明山(とうみょうやま)古墳、後葉に小田中親王塚・雨の宮2号墳墓がつづき、水陸の要所に大型古墳を築造したようです。半島国能登では、傑出した大首長を輩出するのではなく、基盤と役割を別にする諸首長が共同でクニをなしたようです。
七尾尼塚古墳群(七尾市国分町) | 能登最古の前方後方墳。一号墳と二号墳があり、一号墳は全長役52.5mの前方後円墳。二号墳は全長役33mの前方後円墳で、古墳時代前期(4世紀後半頃?)の築造。昭和33年に調査され、魏で作られたキ鳳鏡や近畿から持ち込まれたと思われる銅鏃(どうやじり)57本、漆塗りのカゴ、翡翠の勾玉、剣、刀、槍などの多数の副葬品が出土しています。 左の写真は、古墳がある山を遠望した写真。山の上の原には、北陸放送の電波塔が立っているので、地元の人なら「ああ、あの山か〜」と、すぐわかると思う。 (またこの山の北麓に、国分B遺跡が見つかりましたが、こちらは、発掘調査により、弥生時代の溝、古墳時代の河道、平安時代の溝、掘立柱建物を検出しています。) このあたりは、能登で一番早く開けていたらしく遺跡が多い。近くには、弥生時代の13基の方形周墳墓と13基の土壙墓が見つかった墳墓などが見つかった国分源田山遺跡や、国分高井山古墳群、能登国分寺跡など |
親王塚古墳・中能登町(旧鹿島町)小田中 | 畿内型古墳(円状部直径67m、高さ14.5m大型円墳、全長72mの帆立貝形古墳)。三角縁神獣鏡、管玉、鍬形石(呪術的な石製腕輪)などが出土。葺石、周濠も備えています。 |
亀塚古墳・中能登町(旧鹿島町小田中) | 親王塚古墳のすぐ脇に位置(旧街道の道路を挟んで反対側に位置)し、同じ畿内型。全長61mの前方後方墳で、親王塚の陪塚とみなされています。 |
大槻小山古墳群(鹿島郡鳥屋町) | 方形台状墓他。弥生時代後期。 ここにある古墳群の内、南端に近いものは殆どが方形墓、土壙墓の小形で且つは初期様式のものであり、北端に近い新庄八幡の社殿直後にあるものは少々大型で明らかに前方後円墳である。また八幡社直後のものと町道を挟んだ西側対照地にも前方後円墳がある。 |
雨の宮古墳群 ※「雨の宮古墳群は、眉丈山(標高188m)の山頂を中心に、4世紀の中頃から5世紀の初めにかけて造られた36基の古墳からなる古墳群です。最高所の雷ヶ峰(らいがみね)に位置する1号墳は、墳丘長64mの前方後方墳です。前方後方墳としては県内最大規模を誇っています。墳丘は2段に築かれ、斜面は葺石に覆われています。これら2つの古墳の被葬者は、古墳の規模・副葬品の内容などから考えて、いずれも能登一円に支配権を及ぼした人物であったと推定されます。 雨の宮古墳群は、古墳時代のこの地域の歴史を考える上で、邑知潟地溝帯を挟んで対峙する小田中親王塚・亀塚両古墳とともに欠くことのできない重要な文化財です。こうしたことから、昭和57(1982)年10月12日には史跡に指定されました。鹿西町では、古墳群を永く保存し、活用していくため平成4年から5ヶ年にわたり発掘調査を実施し、文化庁の史跡等活用特別事業により、古墳が造られた当時の姿に復元しました。1998年3月鹿西町」 ※雨宮古墳にあった鹿西町の案内板の説明を書き写しここに表示しました | |
雨の宮1号墳(鹿島郡鹿西町能登部) | 雨の宮古墳群は眉丈山山系の尾根上の通称雨の宮と呼ばれるあたりにある。 第1号墳は、墳丘の長さ64m、後方部の幅43m、前方部の幅31m、後方部の高さ約8.5mを計測する前方後方墳であり、前方部が短く、後方部が高いプロポーションをしています。標高100mを越す、眼下に邑知潟地溝帯を望むことができるいかにも王者の墓といった感じです。 墳丘は元々の地形を利用して作られていますが、崩れにくくするために、途中に段を作ったり(段築)、斜面に石を葺いたり(葺石)しています。その上、前方後方形に整形する際の盛土には、2種類の土を交互につき固める方法(版築)が採用されています。 この雨の宮1号墳は、こうした当時の先端技術を結集して築かれているのです。 発掘した結果ですが、現在小社の建てられている前方部で、板石を小口積みにした竪穴式石室の一部を確認済。前後に2つの石室をもつ畿内型古墳とわかりました。年度で被われた石棺から、全国でも珍しい四角い鉄板で綴った短い甲・鉄剣・鉄刀・倭製神獣鏡、車輪石・石釧と呼ばれる腕飾形碧玉製品が多数出土しました。また2号墳は1号墳のあとに造られた模様です。 |
雨の宮2号墳(鹿島郡鹿西町能登部) | 雨の宮2号墳は、前方部を南西に向ける前方後円墳です。墳丘の規模は、長さ65.5m、後円部の直径42m、前方部の幅20m、後円部の高さ7mを測り、墳頂部の高さで1号墳より約7m低い位置にあります。 1号墳墓と同様、元々の地形を利用して作られていますが、崩れにくくするために、途中に段を作ったり(段築)、斜面に石を葺いたり(葺石)しています。前方部の段築では3段になっていますが、葺石は上2段にだけほどこされており、上2段が墳丘本体として意識されていたことが推定されます。 |
↑雨宮1号墳の墳頂からの眺めです。 ここからは、邑知潟平野及びその向こうの石動山山系がよく見渡せます。 | ↑雨宮古墳群の各古墳の配置をあらわすマップです。 |
徳田燈明山古墳(羽咋郡志賀町) | 全長83mの能登最大の前方後円墳。半島を外浦から七尾西湾を最短で横断する要地にあります。 |
←水白・鍋山古墳(鹿島町) 明治39年に墳頂部から石棺が発見され、銅鏡を含む多くの副葬品が発掘されています。ナベヅカ・カブトヅカとも呼ばれます。水白八幡神社のある尾根の先端部に9〜15mの溝を掘り込んで築かれた2段築成の帆立貝式古墳・円墳であります。全長64m、後円部径51m、墳頂平坦面径20m、後円部高さが西濠より約10m、東裾より約8m、前方部幅約38mの規模である。組合せ箱式石棺と、方格規矩鏡1面、鉄斧、刀、鉾、刀子などが出土した。墳頂段築部には多数の埴輪も並べられていました。築造年代は5世紀前半で、親王塚古墳より一世代後の古墳と考えられています。 | |
小竹がらぽ(がらぼう)山古墳中能登町(旧鹿島町小竹) | 開田の時、削り取られたようで、墳丘は円錐状で、墳頂平坦面もなく、径20m、高さ8mの円墳に見えるが、昭和58年に調査したところ、全長48m、後円部径28m、前方部長20mの前方後円墳であることが判明した。最古式の須恵器甕と円筒埴輪を主とする。5世紀半ば頃に鍋山古墳に続いて築かれたと考えられてます。 |
輪島市などでは、この時期、釜屋四ツ塚古墳群や、大久保古墳群などが知られていますが、残念ながらまだ発掘調査などは行われておらず実態は不明です。 |
古墳時代中期(450年頃〜550年頃)
能登では5世紀前半までは、邑知地溝帯中央部を占める豪族によって制圧されていましたが、中頃から以降になると、古墳の分布などから、羽咋ブロックと七尾ブロックに2分されるようです。したがって、その勢力も大海川から邑知潟周辺地域を制する羽咋勢力と、七尾湾沿岸地帯や邑知潟北半分を制する七尾勢力が両立していたようです。各地域に中期的大円墳の築成がみられたあと、6世紀のある時点で羽咋ブロックの中心には、“羽咋国造(君)”が、七尾ブロックの中心には“能登国造(臣)”が配され、氏姓制度による大和政権の支配体制に組み込まれていきました。
“臣”や“君”は、王権に帰属することを意味し、前者は臣従度が強く、後者は独自性を示す氏族に与えられたといわれます。能登の国が成立するとき、羽咋君の勢力地でなく、能登臣の勢力地を中心に国が作られたのも、より臣従度の強いところの方が信用がおけるということがあったのでしょう。
羽咋氏
は、能登半島の西側を本拠とする豪族で、『古事記』によれば、垂仁天皇の子・岩衝別王(いわつくわけのきみ)の子孫で、近江の三尾君と同系といいます。羽咋近辺で、5世紀から6世紀にかけて連綿と造られた古墳群、つまり、押水町森本大塚古墳、羽咋市滝大塚古墳(円墳・径70m)・柳田山伏穴古墳(前方後円墳・全長49m)・柳田宮ノ山古墳・御陵山古墳・大谷塚古墳、柴垣丸山古墳・柴垣観音古墳(円墳・径50m・)
散田金谷古墳
(羽咋郡志雄町、円墳、6世紀後半)など古墳群が羽咋一族の墓域と見られています。
これに対して能登氏は、七尾湾鹿嶋津を基盤とした大国造であります。『古事記』に崇神天皇の子・大入来命(おおいりきのみこと)が能登の祖とされています。『国造本紀』によると、成務天皇の世に、大入来命の孫・彦狭嶋命を国造に定めたとある。古代能登国は、羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡よりなるが、今の七尾市・鹿島郡にあたる能登郡が能登氏嫡流の本拠をなし、能登の国府がおかれることになったのでです
温井15号墳(七尾市) | 全長16mの前方後円墳。二宮川の下流を押さえていた小首長の墓と見られる。埋葬施設は、割竹形木棺で、副葬品としてガラス玉や刀子(とうす)・鉄鏃などが出土しています。また、墓上で儀式を行ったとみられ、人為的に割られて砕けた須恵器の装飾器台が撒かれていた。 |
国分高井山古墳群(七尾市) | 5基の古墳はいずれも10m前後の小さいもの。円墳3、方墳2。刀、鉄斧、槍鉋(やりがんな)、砥石、石製の紡錘車、古い形の須恵器、青銅鏡、鉄鏃などが出土。 |
高木森古墳(七尾市矢田町) | 左及び下の写真合計3枚は高木森古墳関係の写真です。左の写真は、古墳前の案内板に書かれてあった地形図です。左下は、古墳入口から撮っもの。右下は、古墳の上にある小さな社というか祠です。 |
矢田丸山古墳(七尾市) | |
上の写真(2枚)は、七尾市矢田町にある矢田丸山古墳の墳丘(左上)及びその丘の上の社を撮影したものであります。現在は、石柱に丸山不動尊と書かれていることから、神社として祀られているようです。この小山というか小さな丘の横に丸山家というお宅がありましたから、もしかしたら現在では個人所有の山かもしれません。資料では、5世紀後半の築造円墳で、周溝内側)径42m、高さ7.5mとなっております。またここから円筒埴輪のかけら出土し、埴輪祭祀が行われていたことがうかがわれる、と書いてあります。矢田町地内には、これと高木森古墳以外にも大小8基の古墳がある。 | |
御陵山古墳(大塚)(羽咋市) | 羽咋神社の裏側にある。御陵山とも言われています。羽咋七塚の一つに数えられています。石衝別命(垂仁天皇の皇子・羽咋神社の祭神)のお墓で、大正6年(1917)に陵墓参考地に指定されました。 東西63m、南北約100m。県下最大級の前方後円墳。背後にはうっそうとした緑の御陵山を仰ぐ。5世紀中頃の築造で盛土は神事相撲で有名な唐戸山(羽咋神社から約600m)から唐人(韓国人)が運んだと伝えられています。また古墳の上に老松があったが、宝暦年間(1751〜1763)の雷火 で焼けたため宝倉を建て、周りの堀を埋めた。 文化年間(1804〜1817)に宝倉を羽咋神社の本殿に改築したとき、石室が発見されたとの記録もあ り、本念寺(羽咋神社の東隣)の裏庭にある天井石から横穴式石室であろうと考えられています。 |
大谷塚古墳(羽咋市市) | 羽咋神社の境内、入って右側にあります。王児塚・観音塚とも言われています。羽咋七塚の一つに数えられています。羽咋神社の境内にあります。長さ45m・高さ7mほどの円墳で石衝別命の御子・石城別王の墓と言われています。 初めは70mほどの大型の前方後円墳であったのが、隣の本念寺の建立の際、削り取られて丸くなった との説や、この古墳と大塚を一つの古墳と考え、大谷塚はその前方部ではなかろうかとの説もあります。 ここを大谷塚と呼ぶのは、本念寺の墓所が近くにあるためで、観音塚と言うのは、大正6年の陵墓御治定まで、墳丘上に羽咋の開発 土豪稲荷一族の稲荷社(御神体は観音様・現在は羽咋市本町の稲荷神社)があったためです。 |
(他の矢田古墳群) | 天満宮古墳(円墳、径約20m)、いも塚古墳(円墳、径約17m、高さ3.5m)、 高塚古墳(円墳、径約10m、高さ約3m)、中瀬1号墳(円墳、径5m、高さ1.4m) 中瀬2号墳(円墳、径29m、高さ3.2m)、中瀬3号墳(円墳、径10m、高さ1.5m) 中瀬4号墳(円墳、径10m、高さ1m)、中瀬5号墳(円墳、径約18m、高さ3m) |
能登のその他の主要古墳群(ただし▲印は横穴墓群) | 珠洲市・珠洲山岸古墳群 | ▲珠洲市・珠洲横穴群 | ||
▲輪島市・ 町野川横穴墓群 | 輪島市・ 釜屋谷四ツ墳古墳群 | 穴水町・前並古墳群 | 中島町・中島山岸古墳群 | 鹿島町・ 高畠経塚古墳 |
羽咋市・四柳ミツコ遺跡 | 羽咋市・ 四柳白山下遺跡(水田) | 鹿島町・曽祢C遺跡 | ▲志雄町・志雄横穴群 | 押水町・宿東山古墳群 宿東山1号墳 冬野小塚1号墳 免田一本松遺跡 |
羽咋市・滝・柴垣古墳群 | 志賀町・堀松古墳群 | 鹿島町・高畠B遺跡 | 鹿西町・ 能登部下仲町遺跡 | 富来町・ 東小室ボガヤチ遺跡 |
鳥屋町・羽坂丘陵古墳 | 鳥屋町・向山古墳群 | 輪島市・稲舟横穴墓群 | 予備欄 | 予備欄 |
(参考 1)
石川県関係の考古学のホームページといえば、まずなにより石川県埋蔵文化デンターでしょう。
今回作成の古墳の表もそれを参考に作らせてもらっています。
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