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能登の古墳(続き)

古墳時代後期(550年頃〜650年頃)
 6世紀初頭、大和では政権の交代(継体王朝)が行われた頃から、古墳の消滅する7世紀代までを後期古墳時代という。その最たるものは横穴式の採用と普及であろう。横穴式と石室は墓室(玄室)と外界を結ぶ通路(羨道)が取り付けられていて、入口(羨門)を開閉することによって、何度でも埋葬行為を繰り返すことができる様式のもので、前期古墳に見られた一墓室一葬と基本的に異なる。合葬もしくは追葬墓といえるものは中国や朝鮮半島で発達したものである。この様な埋葬形式の変化は、単に一墳多葬による省力化や、合理化を目的としただけでなく、死生観、葬送観の変化の推移があったと思われる。このことは副葬品の種類にも影響を与え、前期古墳に見られた地位や権威を象徴するための青銅鏡や各種石製腕飾具などの宝器的遺物は姿を消し、身を飾るための豪華な金銅製品、死後の生活に備えるための什器類、生前好んだ食品などを多量に副葬している。

院内勅使塚古墳(七尾市)

 院内勅使塚古墳は、7世紀初め頃(古墳時代末期)に造られました。後期古墳としては珍しい方墳に分類されます。墳丘は大きな石を支えるため、黒い土と黄色い年度を交互に固くたたきしめる版築工法で造られ、周囲に墳墓を区画するための周濠をめぐらせています。大きな石室をもちます。石川県内では最も遺存度が良く完全に近い形で残る横穴式石室です。石室は5トン以上の石を8個を中心に沢山の石を組み合わせて造られています。
 石室は、江戸時代以前から開いているため、盗掘されていて石棺や副葬品はほとんど何も残されていませんでしたが、発掘調査で入口付近から、古代の土器である須恵器製の蓋や杯が発見され、古墳の造られた年代が特定できました。ここの被葬者は特定できませんが、能登を支配した豪族・能登臣の墳墓の可能性が非常に高いと思われます。
 院内勅使塚古墳は約1350年の風雪に絶えてきたので、痛みがひどくなり、七尾市が昭和60・61年と平成6年の3ヶ年で修理を行いほぼ製作された頃と同じ姿に復元されました。

蝦夷穴古墳(七尾市能登島・須曽)
東西21m、南北17mの方墳で、七尾湾に向けて開口する2つの横穴式石室は、板石を積み上げたもので、天井部の隅は、石を三角に持ち送る。板石煉瓦積みに似て、どこか異国風なので蝦夷穴などと名がついたのかしれないが、能登氏一族の墓と考えられている。学者によっては、その異国風な感じから、朝鮮半島の系譜をひき、渡来系氏族との関係が憶測されるという人もいるようだ。

三室まどがけ古墳(七尾市三室町)

ここでは、三室町のまどがけ古墳群を写真を添えて紹介します。
左の写真は道路の拡張工事に伴い移設整備された2号墳を撮ったものです。その横に見える説明板に下記のように書かれていました。
 「三室まどがけ古墳群   七尾市三室町上三室この遺跡は、今から約1400年前の豪族のお墓(古墳)です。円墳が3つあり、いずれも内部には遺体を安置するための横穴式石室があります。
 1993年、県道拡張工事に関連して県立埋蔵文化財センターが2・3号墳の二つの古墳を発掘調査し、その後、現在地に移設したものです。
 1号墳(6世紀後半)は正面の丘の上にあり、径約22m、1957年の七尾市による発掘調査で、長さ約9mの横穴式石室から豊富な副葬品や人骨が出土し、市の史跡に指定されています。
 2号墳(6世紀後半〜7世紀初頭)は復元径約12m、もとは1号墳と並んで丘の上にありました。石室内からは人骨の他、小刀、弓の飾り金具、鉄矢じり、鉄ヤス、耳環、琥珀製棗玉・銀製空玉、土器などが出土しました。
 3号墳(7世紀前半)は径、径12m平地にあり、山側だけを空濠で区画します。石室内からは人骨と耳環、土器が出土しました。石室の石材は、無数の貝の穴からも分かるように海から引き上げられたものです。2号墳の敷石には対岸の能登島から運んだ平らな安山岩も使われています。
三室町周辺では海に突き出した丘の上に10基以上の横穴式石室墳(6〜7世紀)があります。これらは、七尾南湾を本拠地として活躍した豪族の墓地であり、石室構造や副葬品の特徴から、葬られた人々が当時の政権や日本海沿岸の各地とも幅広い交流をもった武人・海人集団であったことをうかがわせます。
 この公園は、三室まどがけ古墳群が貴重な歴史的遺産であることから、三室町の協力を得て、石川県土木部の道路事業により、2・3号墳を移設復元して整備したものです。
 1994年12月
              石川県土木部
              石川県教育委員会
              七尾市教育委員会
   

↑三室まどがけ古墳群 2号墳、3号墳を並べて横から殺意した。向う(写真左上)に七尾湾と能登島が見えます。↑三室まどがけ古墳群の3号墳の露出した石室を撮影。
↑三室まどがけ古墳群 2・3号墳の後ろの1号墳があるあたりの藪の丘を撮影。2号墳の横にあった大きな石。石室の石と何か関係があるのだろうか。
七尾市内のその他古墳
七尾市内の徳田、西湊(津向)、高階、崎山(鵜浦)地区に三室まどがけ古墳群など、横穴墳が見られます。
散田金谷古墳
 
志雄町は能登半島の基部に位置し、古来、加賀、能登、越中の結節点としての位置を占めていました。散田金谷(さんでんかなや)古墳は、6世紀後半の古墳時代末期に造られた地元豪族の墓といわれ、子浦川に臨む丘陵端に営まれた能登で最大級の古墳です。明治36(0903)に地元の人に発掘されました。武具、馬具、須恵器などの出土品から6世紀後半に造られたものと推定されています。北陸地方最大級の全長約10mの「横穴式石室」と屋根に千木を載せたような形の「家形石室」を内蔵する重要な遺跡です。昭和57年1月16日に国指定史跡に指定されました。指定面積は633.97㎡。
 墳丘は、長径(石室主軸方向)21m、短径18.5mの長円形をなす「円墳」です。高さは4.7mを測る
円墳であります。内部に大きな石室を持つことから「前方後円墳」の後に続く豪族の墳墓と思われます。
 周溝は、墳丘の尾根側に幅3m・深さ0.5mの規模で馬蹄形に巡っています。埋葬施設は南西側に開口部を持つ横穴式石室です。入口(羨門)、通路(羨道)と墓室(玄室)からなります。羨道と玄室の境は、両側の立石で示されています。
石室の全長9.85m、玄室の長さ5.72m、同幅(奥壁幅)2.65m、同高さ2.76m、玄門部の幅0.88m、同高さ1.7mを測ります。石室の用材は花崗岩を主とし、一部に安山岩が用いられています。一方「家形石棺」の用材は、凝灰岩です。外形寸法は長さ2.3m、
幅1.1m、高さ1.27mで寄棟の屋根部に「千木」状の突起を削りだした蓋をもつ特殊なものです。
 石室の天井石落下や側壁崩壊の危険が生じたため、昭和59年から昭和63年の5ヶ年で保存修理工事が行なわれました。工事の内容は側壁上部のせり出した壁石の積み直し、天井石の再設置、失われていた壁石・天井石の補充、墳丘復元盛土、石棺の石室内設置などです。天井石は現在6石ですが、このうち補充した天井石は3石です。重さは最大の石で7トンです。復元後の墳丘径は約20m、石室入口からの墳丘の高さは4.7mです。
主な副葬品には、須恵器の杯・高杯・台付直口壺
・提瓶、馬具、直刀、鏃などがある。出土品の一部は、東京国立博物館に所蔵されています
↓この志雄谷には、他にも今は古墳公園として整備されている(石坂)鍋山古墳群などに10数基の円墳と5ヶ所の横穴古墳群がああります。左下は、石坂鍋山1号墳、右下は石坂鍋山2号墳です。
左下の写真は、散田金谷と隣接する古墳公園の中にある(石坂)鍋山古墳群のMapです。また右下は、古墳公園を、離れたところから撮影した写真です。
徳前・二宮古墳群(鹿島町)石動山山麓に所在します。
いずれも横穴式石室を内部主体とする。
徳前1号墳・2号墳からは直刀断片・刀子・鉄鏃・ガラス小玉・須恵器
が出土しています。
二宮2号墳からも直刀・須恵器が出土しています。
なお二宮1号墳は、行人(ぎょうにん)塚と称され、石室の一部が露呈
しています。
鳥屋町古墳公園・川田ソウ山古墳群(鳥屋町)
上の写真は、川田ソウ山古墳1号墳の説明板を撮影したものです。下左の写真は、同墳墓の前方部の頂上あたりから後方部の辺りを写したものです。下右の写真は同じく同墳墓の前方部を写した写真です。この近くに(同じ古墳公園の中に大池を挟んで)向山古墳群もあります。
七尾市(旧田鶴浜町)大津の大津古墳群下の左の写真は大津古墳2号墳の写真。石組みが見えるが2m四方位の石組みでした。近くに案内板がありましたが、横穴式石室だそうです。この古墳は古墳時代終末期(7世紀前半)に造られた円墳とのこと。大津湾に面した場所にあることや、その規模から、塩作りの人々を率いた長(おさ)とその一族を埋葬した墳墓と考えられています。
 同古墳群の1号墳は、(現在消滅)からは金銀の鍍金を施した耳飾5点、直刀4振、須恵器、鉄鏃が出土しているそうです。
 下の右の写真は、2号墳からほど遠くないところにあった何かの遺構。この古墳群がある斜面にはいたるところで、ごろごろと石がありました。他にも色々遺構があったのでしょうね。
七尾市(旧田鶴浜町)
垣吉A古墳群・垣吉A墳墓群
 左上の写真は、垣吉古墳群の案内板で、右上は遺跡のうち、公園整備された場所を撮影したものである。ここの位置を説明するなら、地元の人にはサンビーム日和ヶ丘のある丘の南側のあたりと説明すれば、ああ、あそこか、とわかるのではないか。ホームセンターヤマキシのある垣吉インターチェンジ(交差点)の、ヤマキシとは反対側である。分布図で確かめると、公園化された遺跡はほんの一部で、サンビーム日和ヶ丘と南北に走る道路を挟んで反対側にあるこんもりとした小さな山の辺りにかけてまでも古墳は分布していたようだ。
案内板に書かれていた文章をここで転記しておこう。
 「石川県遺跡番号31031
標高18m〜20mを測る丘陵の東側から南側にかけての先端部に築造。現水田と比高差は約15m〜17mを測ります。本遺跡は、七尾湾西側か(海岸部)から二ノ宮川に沿って邑知潟地溝帯(内陸部)に至る往来の重要な出入り口に当たります。
現在、方形周溝墓4基(弥生時代後期)、方形台状墓1基(弥生時代終末期)、円墳41基(古墳時代中期〜後期)・横穴3基が確認されています。弥生時代から古墳時代にかけて、二ノ宮川下流域を支配した首長一族の墳墓群と考えられます。
平成14年度において公園整備事業に伴い、第1方形周溝墓・第4方形周溝墓第1墓壙・33号古墳・43号古墳などの発掘調査を実施しました。」
上の写真は、垣吉A43号墳
案内プレートには「古墳時代後期に造られた円墳です。直径8m、周溝の幅1.5mです。既に畑地として開墾されており、古墳の高さや遺体を埋葬した場所については不明です。古墳をめぐる溝(周溝)の北西側に葬送儀礼に用いた須恵器(坏蓋・坏身)や土師器(はじき:坏身)が多数まとまって出土しました。」と記載されていました。
上の写真は、垣吉A 墳墓群(右上の写真は案内プレートに載っていた発掘時の写真)
案内プレートには「弥生時代後期〜終末期に造られた方形周溝墓・方形台状墓群です。方形周溝墓は溝で周囲を方形状に仕切り、その内側に遺体を埋葬した墓壙があります。墳丘の高さは定かではありませんが、50cmほどと推定されました。第4方形周溝墓の第1墓壙は長さ2.6m、幅1m、深さ0.45mです。第2墓壙もほぼ同じです。墓壙の上や周囲の溝から、葬送儀礼に使用した弥生土器が割れた状態で出土しています。」と記載されていました。
上の写真は垣吉A33号古墳(右上の写真は案内プレートに載っていた発掘時の写真)
案内プレートには「古墳時代中期に造られた円墳です。直径7m、周溝の幅1m、高さ推定1.5mです。古墳の中央部に、東南東—西北西を長軸とした箱式石棺が築かれていました。石棺は長さ195m、幅70cm〜80cm、高さ35cmあり、床全面に板状の石が敷かれていました。副葬品として刀子(とうす)と鉄鏃(てつぞく)が埋葬されていました。」と記載されていました。

能登のその他の古墳

能登のその他の主要古墳群(ただし▲印は横穴墓群)珠洲市・珠洲山岸古墳群▲珠洲市・珠洲横穴群
▲輪島市・
町野川横穴墓群
輪島市・
釜屋谷四ツ墳古墳群
穴水町・前並古墳群中島町・中島山岸古墳群鹿島町・
高畠経塚古墳
羽咋市・四柳ミツコ遺跡羽咋市・
四柳白山下遺跡(水田)
鹿島町・曽祢C遺跡▲志雄町・志雄横穴群押水町・宿東山古墳群
宿東山1号墳
冬野小塚1号墳
免田一本松遺跡
羽咋市・滝・柴垣古墳群志賀町・堀松古墳群鹿島町・高畠B遺跡鹿西町・
能登部下仲町遺跡
富来町・
東小室ボガヤチ遺跡
鳥屋町・羽坂丘陵古墳鳥屋町・向山古墳群輪島市・稲舟横穴墓群予備欄予備欄

(参考 1) 石川県関係の考古学のホームページといえば、まずなにより石川県埋蔵文化デンターでしょう。
   今回作成の古墳の表もそれを参考に作らせてもらっています。
   石川県埋蔵文化センターのホームページをみたい人はココをクリック!

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