このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  能登の民話伝説

 この頁に取上げた民話伝説は、中能登地区の話のうちNo.1〜No.5で取上げなかった鳥屋町、鹿西町、鹿島町に伝わる民話・伝説・昔話を取上げていくつもりです。
能登の民話伝説(中能登地区-No.7)

<鳥屋の昔話>
天狗の教え 参考:「鳥屋のむかしばなし」(鳥屋町教育委員会)
 とんと、昔、ある村に、お爺さんとお婆さんが、体の弱い息子と三人で暮らしておりました。お爺さんとお婆さんは、毎日朝早くから夜遅くまで、田んぼ仕事や、山仕事して精を出して働いていました。しかし、息子が、体が弱くて仕事の手伝いもままならないため、生活は貧しく、困窮した状態が続いていました。一人息子も家にいながら「お爺さん、お婆さん申し訳ない。そのうちきっと元気になって楽にさせてあげるから」と思って、何年か過ぎていきました。
 ある日、お爺さんとお婆さんが山へ薪拾いに出かけた後、息子はいつものように家の裏山に遊びにいきました。一匹の可愛らしい兔(うさぎ)を見つけて、その後をついて行くうちに道に迷ってしまいました。
 「どうしたらいいかなー」と思案しているうちに夜が更けてしまいました。息子は仕方なく夜露をふせぐ洞穴を見つけて、そこに一夜を明かすことにしました。
 何時間か過ぎた頃、眠っている自分の肩をトントンと叩く者がおります。眼を覚ましてみると、そこには鼻の高い顔をした手に杖をもった人が、その杖で息子の肩を叩いているのでありました。息子は、びっくりして、
 「あなたは誰ですか?」
と震えながら聞くと、
 「わしは、この山の天狗だよ。だが、小僧、こんな夜更けに一体全体、お前はこんな所で何しとる。」と不審げな眼差しで問いただしました。
 そこで息子は、恐る恐る、ここに至ったいきさつと、今までの自分の体の弱さのこと、お爺さんやお婆さんがそのため歳をとっても働いていること、それに自分が早く体を丈夫にして立派な人になり、お爺さんとお婆さんを楽にしてやりたいことなど話しました。
 天狗は、その息子が真剣に話すのを聞き終えると、
 「体が丈夫になりたいというが、どんな事でもするか。」と息子の決意が本当か念を押すように聞きました。
 息子は、
 「どんな事でもしますので、どうか私の体を鍛えてください。」
と地面に頭をすりつけて頼みました。天狗は、
 「よし、わかった。ではわしについてこい。」
と言って、山の奥深くに入って行きました。息子は、ぜいぜい言いながらも、天狗の後を必死についていくと小さな小屋へ着きました。それからというもの、息子は、そこを塒として暮らし、修行の毎日が始まりました。息子は天狗の指導のもと、毎日毎日、弱い体に鞭打って、剣術を稽古し、また勉強も教わりました。朝早くから夜遅くまでそれは続けられました。
 息子は、辛い修行に途中、どれだけ山を逃げ出そうと思ったかしれません。でもその度に、お爺さんとお婆さんのことを思い出し、一生懸命耐えて修行を続けました。
 何年経ったことでしょう。ある日、天狗はついに、その息子へ、
 「もう山をおりていいぞ。お前の腕で、お婆さんやお爺さんを幸せにしてやれ。」と言って、送り出してくれました。息子は、天狗に何度も何度もお礼を言って山をおりて行きました。山をおりると、しかし息子は、村へ帰らず、その足で京へのぼりました。そこである立派な大将の家来として取り立ててもらい、仕えているうちに、じきの間に、剣術の業と教養など修行の成果を認められて、その大将の片腕となりました。さらに忠勤に尽くしたので、その大将の娘婿となりました。
 息子は、そこで、田舎からお爺さんとお婆さんを呼び寄せ、その後は幸せにくらしたということです。

※「鳥屋のむかしばなし」(鳥屋町教育委員会)は昭和54年頃、鳥屋町のお年寄りや大人から聞いた話を小学生が聞き書きし、それをできるだけそのまま綴ったものです。この上の話は、品川由宏という当時小学4年生の男の子が父親から聞いて書いた話を、わたしが内容が大筋で変わらぬ程度にてを加え、書き換えたものです
きつねのお礼 参考:「鳥屋のむかしばなし」(鳥屋町教育委員会)
 とんと、昔、ある村にそれはそれは仲の良いお爺さんとお婆さんが住んでいました。
 ある日、お爺さんは、畑で作った野菜を、笈に入れて担ぎ、町に売りに出かけました。野菜は、見た目にも新鮮で美味しそうなので、帰途に着く頃までには全部売り切れてしまいました。帰り道、お爺さんの村の近くの原っぱまで来ると、村の子供たちが、5、6人で一匹の子狐を捕まえて、首に縄をかけて苛めているのを見かけました。
 お爺さんは、大変可愛そうに思って、町で売った野菜のお金を殆ど渡し、その狐を子供たちから貰い受けました。子供たちは、そのお金を分け合ってわーっと喜んでめいめいの家に帰っていきました。お爺さんはその後姿を見送り、少し経ってから狐の子に向き直り
 「もうこんな村へ出てきては駄目だぞ。」と優しく言い諭して、首縄を解いてやり、放ってやりました。
 狐の子は、おじいさんを潤んだ眼でじっとしばらく見つめていましたが、「コーン」と一声あげると、飛び上がって草むらの中へ入り、隠れて見えなくなりました。
 お爺さんは家に帰り着くと、空の笈を背中かおろし、野菜が残っていないのにお金が少ない訳を話すと、お婆さんは
 「お爺さん、かまわないわいね。一日や二日くらいなんとでもなるわいね。それより何といいことしたね。お爺さん。」
と少しも咎(とが)めません。お互い非常に心の優しい夫婦なのでした。
 それから2、3日後のことです。
 「こんばんは。こんばんは。」と言う女の人の声が家の戸口の外あたりでします。お爺さんとお婆さんは、こんな夜更けに一体誰だろうと思いながら、ソーッと板戸を開けると、そこには、若い綺麗な女の人と、可愛い男の子が立っていました。
 お爺さんとお婆さんは、吃驚して、
 「こんな夜中にどうしたんじゃ。なんぞ旅の夜道にでも迷って難儀しておるのか。」
と、心配そうに優しく問うと、その母親は、
 「いえそうではございません。先日はこの子が危ない所を助けていただき、有難うございました。何かお礼をしたいのですが。」と言うのです。お爺さんもお婆さんも、はて何のことかな?とお互い顔を見合わせ首を傾(かし)げて考えていると、その親子はコーンと一声あげたと思うとパッと、狐の姿になりました。
 おじいさんは、ようやく先日の事だと気がつくと、狐の母親も、再度「何かお礼を。」と言います。お爺さんとお婆さんは、それでも最初は
 「あんなこと何でもないわいね。それよりお子さんが元気でよかったね。」
などと言って遠慮していましたが、狐が是非ともというので、夫婦で相談して何か人に喜ばれるものはないか考えました。そして、村には医者がおらず、怪我人や病気の人が多いことを話すと、狐の母親は、お爺さんたちに、万病に効く膏薬の作りかたを教えてくれました。お爺さんお婆さんはお礼を言うと、狐の親子は、またコーンと一声あげて、夜の闇に消えてしまいました。
 翌日、村に偶然怪我人が出たので、お爺さんは、その膏薬を持って早速出かけました。そしてその怪我人の患部に、膏薬を塗った布を貼り付けました。その怪我人は、みるみるうちに直り、お爺さんのその膏薬は村の評判となりました。そして村中から病人怪我人が聞きました。そしてその評判がさらに広がると、遠い町や村からもお爺さんの所へ療治に来るようになり、この村は大変賑やかになったということです。

※この話も一つ前の話と同様、「鳥屋のむかしばなし」の中の話で、上記の子供がやはり親から聞いた話です。またわたしが内容が大筋で変わらぬ程度にてを加え、書き換えさせてもらいました。
地蔵様の夜番回り 参考:「鳥屋のむかしばなし」(鳥屋町教育委員会)
 昔々、羽坂(はざか)のあちらこちらでしょっちゅう火事が起こって、村人たちは、眠れぬ夜を過して弱っておりました。
 ある日、村のある者が眠っていると、夢の中に仏様が現れて
 「わしは、京都の火除け地蔵じゃが、そちらの羽坂というところへ行きたい。誰か迎えに来てくれんか。」と言われたそうです。
男は、翌朝その話を村の者達にすると、村人が多く集まって相談ということになり、
 「そんなら、誰か迎えに行かにゃ。」と言うことになりました。
 地蔵さんを運べそうな力のある者5、6人で出かけ、越前のとある村までやってきた時、反対の方から大勢で地蔵さんを運んでくるのと出会いました。不思議に思って、その人たちに聞いてみたら、
 「わしらは京都のもんやが、この地蔵様が『能登の羽坂へ行きたい。』とおっしゃるので、運んでいるところや。」と言います。それで、羽坂の村人は、
 「おらちゃ、羽坂から地蔵様を迎えに来たんや。」と言うと、皆は地蔵様のお告げは本当やったと不思議を有難がり、その場で羽坂の者は地蔵さんを譲りうけ、お互いまた踵を帰してもと来た道を帰っていきました。
 地蔵さんを羽坂へお連れすると、早速お堂を建てて、村人達は毎日お参りをしました。
 そうしたら毎日、夜遅くになると、どこからか「火の用心」と言う声と一緒にドスンドスンと誰かの歩く音が聞こえました。
 村人達は、「よんべ夜回りしたのは誰や。」と聞いてみても、心当たりの者は誰もおらんかった。「そんでは、地蔵様が夜回りしてくださったがや。」と思うようになり、それから村には火事がすっかりなくなったということです。
 そんなある日、一人の男が家の中で転寝(うたた)していたら「火の用心」と耳元で叫ぶ声に眼を覚ました。見ると薪の火が、炉の縁に燃え移って、大火事になりそうだったので、吃驚してあわてて水がめの水をぶちまけ、火を消し止めました。
 ‘これはきっと地蔵様が、知らせに来てくれたがや’ということで、それ以降村の者は皆一層その地蔵さんを大事にしたがやと。
 今も羽坂の辻で、この有難い地蔵様は、皆を見守っていると言うことです。

※この話は、羽坂では「火除け地蔵伝説」として有名な話らしい。京都からの伝来であることも事実らしく、鍋吊り金具に似た錫杖(しゃくじょう)を持つ石仏であるので、「鍋吊り地蔵」の異名もあるらしい。また幾つかの別伝もあるようです。
新宮の宮の太鼓 参考:「鳥屋のむかしばなし」(鳥屋町教育委員会)
 新宮の鎮守様である八幡さまの社の後ろには、鬱蒼(うっそう)と茂る大きな杉の木が2本立っており、そこに昔、天狗が住んでいて、夜中になると笛や太鼓で、にんがしいがに(賑やかに)お祭りをしとったそうや。そやけど、人の足音や話し声がすると、その笛や太鼓がピタッとやんだそうや。
良川の宮の太鼓 参考:「鳥屋のむかしばなし」(鳥屋町教育委員会)
 昔々、鼻の高い天狗様が良川(鳥屋町良川)におらっしゃったそうや。それが神様やったとい。この鼻の高い天狗様ぁ、たまたま子の刻を過ぎると(今で言う夜の12時過ぎになると、太鼓をたたいたとい。
 ほやけど、ウッカリ「あっ、太鼓の音がするっ、ほらっ。」などと言おうものなら、太鼓の音はすぐに聞こえんがになったそうや。今でも時々太鼓の音が聞こえるとい。
 これぁ良川の宮の話ゃぞい。」
日像の石  参考:「鳥屋のむかしばなし」(鳥屋町教育委員会)
 昔々、日蓮聖人が、佐渡へ流された時、日蓮と一緒についていった弟子に日像上人という人がいます。
 永仁2年(1294)4月、彼は、佐渡から京へ登ろうとしました。能登七尾に船で上陸し、能登の山岳宗教の中心であった石動山(鹿島郡鹿島町)へ登りました。そして、天平寺衆徒相手に日蓮宗の法談をしました。しかし天平寺をはじめとした石動山の寺坊は皆真言宗に属していました。衆徒たちは、日像はわが宗派の敵だと言って彼を殺そうとしました。日像はそれを察知して石動山から逃げおりました。
 しかし石動山衆徒たちは「日像を成敗しろ」と言って追っ手を差し向けました。この時、日像に帰依した西馬場(にしばんば)の加賀太郎、北太郎という兄弟二人が上人の急を救わんとして追っ手を防ぎ、濁(にご)り川(長曽川上流)土手道の徳前川原で戦いましたが、相手が多勢に無勢で破れ、良川境に近い西馬場の「鉾木(ほこのき)畷(のうて)」まで退却してきて命を落しました。時に北太郎享年32歳、加賀太郎享年35歳でした。一足先に逃げてきた日像上人は、西馬場(鹿西町)に近い「早稲田畷(わせだのうて)」の道端の石に腰掛けて一服され、朗々と法華経を唱えられたということです。その石が今でも良川早稲田畷に残されているといことです。
 上人は加賀太郎兄弟のお陰で逃げ延びることが出来、(羽咋市)滝谷の妙成寺へ入って、その住職であり住持でもあった日常という人の庇護を受けました。
 加賀太郎兄弟の討死の六年後の正安2年(1300)に二人の七回忌の法要を行い、その菩提寺として西馬場に本土寺を建てることになりました。寺の建立には、日像の弟子で乗純という日常の弟にあたる坊さんが担当して開山になりました。
 なお加賀太郎・北太郎は農民でしたが、後に法華信者から祐乗・道乗の法号を持って尊称され、その木造が本堂左後ろに連接する開山堂に、日像上人像の前方両脇に安置されています。兄は薪の上に腰を下ろして鍬を持つ姿、弟は鋤を小脇に抱え、歯を食いしばって左手を横にあげている姿だそうです。命日の4月22日には開山忌として法難会が営まれます。

※この話は、かなり史実を反映しているが、一部史実と異なるところや誤伝などもあります。日常という人物もおそらく名前の誤伝で、石動山天平寺の座主・満蔵法院(乗微)で後の改宗後、日乗と名乗り妙成寺の基である法華堂を建立した人物のことと思われる。詳しくは私の 「羽咋の歴史」「日像と法華教団」 をご覧下さい
長曽川の狐 参考:「鳥屋のむかしばなし」(鳥屋町教育委員会)
 昔々、良川の長曽川の土手のあたりは、沢山の木が茂っているところがあって、昼でもなお暗かったそうです。そこには狐が棲んでいて、よく人を騙したそうです。
 ある時、こんな事があったそうです。ある夜、一人の大工の男が近くの飲み屋で一杯引っかけ、少しほろ酔い加減で、その長曽川の土手道を歩いていたら、目の前に太った大きな男がいました。その男は、相撲をとろうというので、男も酒を飲んで気も大きくなっていたし少し腕力にも自信があったので、よしわかった、と相撲をとり始めました。ガップリ四つになっては押しあいますが、相手は、腰が重くなかなか決着がつきません。そのうちにだんだんと夜が明け朝になってしまいました。
 ふと気がつくと、その男は、一晩中、大きな木と相撲をとっていたのでした。そしてその木の後ろには、狐が尻尾を振っているのが見えたという話です。
かわうその話 参考:「鳥屋のむかしばなし」(鳥屋町教育委員会)
 良川がまだ寂しい村であった時の話です。お百姓さんが、お米の取り入れも終わって、今年も豊作だと喜んでいました。ある家でお嫁さんが決まり、皆で結婚式を祝いました。豊作なので、結婚式も飲めや歌えやの大騒ぎです。
 またご馳走も沢山あって、式によばれたある家のお父さんは、一人で食べ切れなかったので、家に待っている子供たちに持って帰ろうと思いました。そこで風呂敷にご馳走を包んで帰ることにしました。
 もう夜中をとっくに過ぎていました。昔は、道に外灯もついていないから真っ暗です。ご馳走を手提げ、大きな川の傍の田んぼ道を歩いていくと、女の人がいて「お疲れでしょう。お風呂に入ってください。」というので、そのお父さんは「ありがとう。」と言ってお風呂に入りました。お父さんは気持ちよくなって、そのままそこで寝込んでしまいました。
 気がつくと、そこは田んぼの水の溜まっているところでした。そして結婚式でもらった沢山のご馳走も、なくなっていました。
 騙された男やそれを聞いた人々は、これはきっと川獺に騙されて全部ご馳走をとられたのだと言い合いました。
 それで昔から、ご馳走を持って夜道を歩く際は、かわうそに気をつけよ、と言い伝えられています。
<鹿島の昔話>
小田中(こだなか)の太郎 参考:「穂のいでずつっぱらめ」(坪井純子著・七尾市立図書館友の会)
 昔々、まだ小田中(鹿島郡鹿島町小田中)の西側のあたりが羽咋の方から入り込んでいた入江に面していた(つまり海に面していた)頃の話です。太郎というそれはそれは気分のいい若者がおりました。太郎は、「入江の左近」と呼ばれていた分限者(金持ち)の家の使用人でありましたが、どんな辛い仕事も、明るい顔で楽しく仕上げるのでありました。それで皆は、彼といるだけで楽しい気分になるので、彼と一緒に仕事をすることを好みました。
 なかでも、彼(太郎)が、‘ゆんべ(昨晩)は、こんな夢、昼寝にはこんな夢を見た’と、夢の話をするのを聞くのが、皆の何よりもの楽しみでした。
 ある日のこと、近くの山へ、仲間と一緒に仕事に行って、一仕事した後の昼時、いつものように、寝るのに適当な草むらにごろりと転がり、昼寝をしました。
 いつもは、ほんの一休み程度の間で起きるのですが、この日は、一眠りが二眠り三眠りにもなり、すやすやと眠りこけて、起きてきませんでした。「仲間が、さあ仕事だ」とゆすっても、叩いても眠ったままでした。仲間たちはいつも太郎のおかげで楽しく仕事させてもらっているので、まあたまにもいいかと、そのまま好きなだけ眠らさせました。ようやく帰る夕方頃になって、太郎は、大きな欠伸をしながら目を覚ましました。
 「あーいい夢だったな。」
と言うと、仲間がいつものように太郎のもとに集まり、早速、
 「さあ、その夢話せ、話せ」
とせかします。いつもの太郎なら皆を見回してから、間を見はかり、やおら話出すのですが、今日はどうしたことか、
 「いやじゃ、今日は話せん。」
そういきなり言い出しました。それを聞いて皆は、
 「なんじゃ、なんじゃ。話せんとはいったいどういうことなんじゃ。」
と太郎をせめたてます。そこへ主人である入江の左近が、使用人たちが、わいわい騒ぎたてているのを聞きつけてやって来ました。騒ぎの原因を知ると、太郎に
 「よっぽど良い夢か」
と問いました。
 「そりゃーもう、いい夢で、いい夢で、話すのがほんとうにもったいないくらいの夢で。」
太郎は、相手が主人なのに澄まして、笑って言いました。入江の左近は、
 「ふむ、そんないい夢なら、その夢、わしが買うてやるぞい。」
と言いました。
ところが、太郎は、売らん、しゃべらん、誰にもあかさんと、強情を張り、頑として首を横に振りました。
 左近は、自分の所の使用人なのに、主人の言いつけを聞かないことに腹を立て、
 「主人の言いつけを聞かない奴は、うつぼ船に乗せて、海に流してしまうぞ。」
と脅かしました。それでも太郎は首を横に振り続けました。堪忍袋の緒を切らした入江の左近は、とうとう本当に、太郎をうつぼ船に乗せて、近くの入江から海に流してしまいました。
 仲間の皆は、
 「やれやれ、どうしてあそこまで強情を張ったのやろか。可愛そうに、途中で沈んで、海の藻屑となるかもしれんなー。」
と太郎の強情さを憐れみました。
 さて海に流された太郎ですが、実は、ここまでの経緯は全て夢で見た内容通りでした。
 「これからもやっぱり夢の通りやろか。」
と少しは心配しましたが、それでももともとお気楽な性格です。波に揺られ流されるにまかせて、海を見て楽しんでいました。そしたら、一匹の大亀が近づいてきて、船の下にもぐったかと思うと、太郎が乗ったうつぼ船を自分の甲羅の上に載せて泳ぎ出しました。そして船は、どこへとも知れぬ国の岸辺まで運ばれました。
 その国では、王様のたった一人の娘が、原因不明の難病に罹り、もう何日も飲まず食わずの日が続き、明日をも知れぬ状況にありました。王様は、愛娘がなかなか治らない病気にかかったとわかった時点から、国中にお触れを出して、
 「わが娘の病気を治してくれたものには、この国の王様にしてやるぞ。」
とまで宣言していました。それを聞きつけ、何人かの医者や修験者のような人がやって来て、珍奇高級な薬や祈祷など色々試しましたが、さっぱり効果はあがりませんでした。それで王様はすっかり、落胆して萎れていました。
 そこへ太郎がやってきました。
 「わしのような旅の者でもよかろうか?」
と聞くと、旅の者でも、王様の娘を治してくれさえすれば一向に構わないというので、さっそく、お姫様の所へ連れて行かれました。
 その部屋には、小さな蒼い顔をしたお姫様が、死んだように寝ていました。
 誰も彼も息を潜めて、成り行きをみまもっていました。
 太郎は、お姫様のもとへ近づくと、耳元に自分の顔を寄せ、やさしい声で、ただ
 「わしが、太郎じゃ。ようやっと、参りもうした。」
と短く囁き、顔を起こしました。
 ところが、どうでしょう。それっきりしか言っていないのに、それ以外何もしていないのに、青白い顔に、ぽうっと薄桃色が注したと思うと、お姫様は、みるみる顔色がよくなり、それからしばらくして目が開き、
 「ようこそ!」
と言って、太郎に小さな手を差し出しました。
 お姫様は、日に日に元気になり、やがて太郎と目出度く結婚しました。国中のものが三日三晩、お祭りのように歌って踊ってお祝いしました。
 その後、太郎は王様になり、子供が生まれました。この国でも、太郎はいつも機嫌がよく、国中の民から慕われました。そして何不自由なく暮らしました。ここまでも、やっぱり全てが夢の通りでした。
 それでも日が経つにつれて、太郎は、だんだんと小田中が恋しくなりました。やがて、帰りたくて帰りたくて仕方なくなり、それでお妃に訳を話すと、それも仕方ないと、来た時太郎が乗った船を導いた大亀を呼び寄せて、また、太郎を船に載せ、小田中まで送り届けてくれました。
 小田中へ帰ってからの太郎は、遠い国での暮らしぶりの話を皆に聞かせました。小田中の長者と言われて、その後幸せな余生を送ったそうですが、それも、昼寝の夢の通りやったという話です。
 太郎の墓は、親王塚と呼ばれて、いまも小田中にあります。
狐と狸と団子の話 参考:「穂のいでずつっぱらめ」(坪井純子著・七尾市立図書館友の会)
 昔々、ある日、狐がとぼとぼと石動山麓の山すその曲がりくねった道を歩いていると、その歩いて行く先に団子が落ちているのを見つけたと。`わあ、もうけたわい’と思い、駆け寄ってすーっと手を伸ばしたら、同時に目の前にもう一つ別の手が、ヌーッと出てきたと。
それは狸の手で、
 「この団子はおらのもんじゃい。」
と狸はそう言うたと。相手は化かしの好敵手の狐だけに、狸も負けず
 「とんでもない、先に見つけたのはこのワシやがい(このわしだぞ)。」
と言いました。お互い口をとんがらして、しばらく`俺が先に見つけた’と言い合っていました。
 そこへ猿が通りかかりました。話に分け入ってきたので、狐と狸は猿が知恵者だけに、仲裁しに入ってくれたのだろうと思い猿の意見を聞くことにしました。
 「諍(いさか)いの種は、この団子かね。それならこの俺が、怨みつらみの残らんように、きっちり半分にしてやろうかいね。」
そう言うたので、狐と狸も、それしか解決の方法は無かろうと思い猿に任せました。
 そこで猿が団子を、まずはじめに二つに割ると、
 「あれっ、こっちがちょっとデカイかな?」
そう言うと、右手団子をちょびっと齧りました。そしてまた見比べて、
 「あっ、こんどはこっちの方がデカくなってしもうた。」
と言って、今度は左手の団子を齧りました。
 そのあとも、次々「あらっ」「あれっ」「ありゃ」といいながら、右、左、右、左と齧っとるうちに、団子はだんだんと小さくなり、猿は、最後にちょこっと残った団子を、パクッと自分の口に放り込むと、
 「なかなかキッチリ半分にできんもんやわ。まあほんでも諍いにならなんだから、もうけもんや。よかった、よかった。」
そう言うと、あっと言う間に、道脇の木に駆け上り、木々を伝って山へ駆けて行ってしもうたと。
 けんけんぼっとり、うまのくそ。
屁売りの爺様  参考:「穂にいですつっぱらめー七尾・鹿島の昔話」(坪井純子著) 
 昔々、真っ青な空の秋日和のある日、鹿島郡のある在所で、爺様と婆様が、かんしょ(便所)の屋根を藁で葺き替えていました。
 そんな時、爺様は、穂無しの藁ばかりと思っていたところ、藁の中に稲穂が混じっているのを見つけました。そして他にもないかとよく見てみると、脱穀が煩雑だったのか、ところどころに稲穂が残っているのを見つけました。
 「もったいない、もったいない。」
そういいながら一粒一粒丹念に取りました。 
 とった米粒は、石臼に挽いて、いりこにして、ぺろりぺろりと爺様が舐めました。
 しばらくすると腹の中が、何かむずむずとしてきて、ぷうすこぷうすこと屁が出始めました。
五つこいても、七つこいても、その屁は連なって止まりませんでした。
あまりのうるささに婆様は、となりにぺたんと座って屁をこき続ける爺様に
 「ああやかまし、その屁の音、なんとかならんがんかいね。」
と言いました。しかし爺様は、屁をこきながらも何か思案顔で
 「待て待て、今ちぃーとばかし考えとるところじゃけ。」
と言い、止める気すらないようです。婆様は、からかい半分に
 「屁をこきながらの考え事なら、くさい話じゃなかろうの。」
と言いますと、
 「なに、こりゃ臭いどころかうまい話じゃ、ちぃと待たんせ。」
そして爺様は、鼻をつまんだり、腰をひねったり、息を詰めたりしはじめました。最初は、屁の音が、
 「ぷっぱらぴーーーっつぷぷぷっつぷっぼーー」
ととても聞ける音ではありませんでしたが、そのうちに、屁の音は「ぷうすこ」と出鱈目に鳴るばかりではなくて、高い音やら低い音、プップップッツと短い連続音になったり、ぶぅおーーーっと長くなったり自由自在に音を出せるようになりました。そして終いには、祭り囃子や、牛追い歌などの調べをならせるようにまでなりました。
 「どうじゃ、婆様、屁といえども、こうなったらただで鳴らすのはもったいない。町というとこは、何でも売り物になるというぞ。わしゃ一つ、屁を売りに行ってくるわい。」
そういきまきました。婆様はそんな爺様を
 「あんた、いかな、なんでも、屁を売るなんぞ、そんな事、やめとかんせ。」
と止めましたが、いいだしたら聞かない爺様は、意気揚々と所口の町まで出かけてゆきました。

 町につくと爺様は、
 「えーー。いらんけ、いらんけ、珍しい屁をひとこきいらんけ。」
そう言うて触れ歩きました。
 ほとんどの町の者は、`何考えとるんやこの爺様は’という顔で横目に見て、通り過ぎていきましたが、中には物好きで道楽に少しくらいは金を使っても、屋台はびくともしないような商家の主もいて、
 「屁を売りに来るとは、厚かましいやっちゃーなー(奴だな)」
と思いつつも、ひとつ冗談に買うて笑い種にするのも面白かろうと考える酔狂者もいました。
 「これ、そこな爺様、わしがその屁を買うてやるぞ。」
とその店の主は、その爺様を呼び止めました。
 爺様は店の前まで来て主人に挨拶すると、往来に向き直り
 「ほんなら、滅多に聞かれん屁をいっぴきこいてやろか。まあ、誰彼言わず、集まらっしゃい。」
とさんざん客寄せ口上を述べ、物珍しそうに集まってきた観客を前に、やおら腰を捻り、首を振り振り踊るように屁をこいたと。
 「ぶいすここい、ぶいすここい、じいじの宝のチーンチョ、チンチョ。」
そんなとてもおかしい節の唄を、屁が歌うのでした。
唄が続いている間、みんなは魂消たらしく声も出ないようでした。
 爺様はそんな観客を横目に見て
 「もう一つおまけじゃ、ほれ出て来い。」
と言って腰を振り振りすると
 「粟がら稗がらスッポンスッポン。こごめのザクザク、ペンペンペン。」
とまた一節屁を鳴らしました。
観客は、しばらくじっとしていましたが、我に返ると一斉に拍手が沸き起こり、大爆笑とやんややんやの歓声です。
まわりからお金をつつんだ御捻りが爺様の下に沢山飛んできました。その日一日、爺様の行くところは、まるで祭り騒ぎのように人だかりが出来、お陰で爺様は、懐一杯金で膨らませて帰ってきたということです。
 けんけんぼっこり、なんばみそ。

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください