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赤蔵山の歴史(後半)

赤蔵山の歴史 (前半)    

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平成16年6月27日大幅改定

  赤蔵山は、田鶴浜町の郊外にある標高110m(公図上にある赤蔵山の標高179mは、ここより1kmほど離れた字吉田地内にある三角点です。)の小高い山です。地元では、山を御前山(ごぜんやま)、または大御前(おおごぜん)と呼んでいます。赤蔵神社は、田鶴浜町三引の赤蔵山に鎮座し、明治元年(1868)神仏分離令により大山津見神(おおやまづみのかみ)を主神として、他に五社の祭神を合祀しています。元赤蔵山(山号)上一本宮寺の講堂を拝殿としています。合祀されている五社は、神明社、白山社、波仁屋社(はにやしゃ)、愛宕社、亀山天神社です。
 『能登名跡志』に「霊山にして石動山に準ずる山なり」とあるように、古くは神仏習合の霊場として栄えており、通称「あかくらごんげん」と称して仰がれてきた旧社であります。

 『赤蔵山縁起』によると、「聖武天皇天平2年東宮眼を患い給い、当山に祈願して癒え給うによって、五里の地を社領として定められた」とあります。『赤蔵山大権現本地仏縁起』も併用して敷延すると、天平2年(730)に、聖武天皇の皇子(東宮)が眼病を患った時、皇太子の母・つまり后の夢に、老人が現れ、能州赤蔵山に霊験不思議な大権現があるので、祈りなさい、必ず直ります、とお告げがあった。早速そのことを天皇に申し出たところ、天皇は臣下の中納言・藤原諸末(もろすえ)に祈願を行うよう命じました。諸末が、大和多武峯(やまととうのみね)の有名な定惠法師の高弟・愚淵法師をはじめとした約30人の僧侶を伴い能登赤蔵山にたどり着き、堂を建て、祭壇を設け法華会(ほっけえ)という法要をおこなって祈願したところ、たちまち効果が現れ、病気が癒えました。天皇は諸末に命じて、諸堂を建立し、五里四方の地を社領としたと伝えています。また愚淵法師がそのまま赤蔵山に留まることになったということです。大権現とは(本地垂迹説による考え方で)、仏教が日本に伝来してから、仏(本来の仏教の神である仏の姿・本地)が民衆を救うため日本の神に姿を変えて(垂迹して)、この世に現れたという信仰です。

 また近世の『貞享二年由来記』という由緒書には、「推古天皇の御代の創建にして、別当寺院百二十坊、社領一里四方であった」と伝えており、推古天皇の御代、つまり6世紀末期の創建と説き、往時は社僧120坊を数え、勢威を誇ったことを伝えています。後白河天皇の御世の時には、神殿を建て替えて、三引村の田畑を寄進し、社僧120坊をおいて、赤蔵山上一本宮寺(じょういちほんぐうじ)と言いました。
 また中世には、赤蔵大権現と称して、その別当の赤蔵寺は、南北朝の争乱期の観応の擾乱の際には、足利尊氏党の吉見氏頼に組みし、足利直義の越中の桃井軍と戦ったことが古文書にみえます。その際、多くの社堂が焼失しました。
 (参考) 吉見太平記〜忘れられた能登守護家・能登吉見氏〜(観応2年-赤蔵山の戦い)
 さらに天正年間の上杉謙信勢の兵乱で、社堂は灰燼に帰したとも伝えています。
 近世に入ると、赤蔵山は、 長連龍 が当地(鹿島半群領)を領有するに至って、祈願所として再興しました。『式内等旧社記』(承応2年:1653)に、「赤蔵神社、三引保、赤蔵山鎮座、称赤蔵権現、或云赤蔵山本宮権現、祭神大己貴命」となっています。祭神が、大山津見神でなく、大己貴命(つまり大国主命)となっているのは、地主神ということであろう。赤蔵山本宮寺の権現であると解釈したのだろうと、現在の研究者は推測しています。
 その後、長連頼(つらより)は、寛文元年(1661)社領として61石6斗を寄進しています。その時、仁王門、講堂、奥の院、鐘楼、白山社、神明社、天神社がその時再建されました。現在の本殿(旧・奥の院)、拝殿(旧・講堂)、仁王門はその頃の造営と伝えられています。
 明治元年の神仏分離令により、大権現は明治2年に新築した本地仏堂に移され、仁王像、講堂の仏像、釣鐘その他も本地仏堂に移されました。さらに明治41年(1908)には、一村一社による、天神社を宝物堂として許可を受けて大権現と他の仏像も、宝物堂に安置されています。仁王像は、なぜか仁王門に戻りました。

スギ、モミなどの巨木が鬱蒼と繁った山内には、寛文4年(1644)の長氏再建にかかる本殿をはじめ、元講堂であった拝殿、仁王門、白山社跡、神明社跡、塔屋敷跡や石畳の参道、国の名水百選に選ばれた御手洗池(みたらしいけ)などが残っています。

 600mにわたる参道の石段と伏石は、昔、能登島の善男善女の信者が運んだと伝わっています。仁王門の脇からスギ・アテ・タブノキなどの大木の多い水平参道は途中で分かれ、直進すると御手洗池があり、そこは年中枯れることなく、縁起と関係しての話かと思いますが、眼病に効くとの伝承があります。この山の名の由来は、実は御手洗池で、昔、敗軍の将が馬もろとも入水し、池に元日の早朝、赤い鞍が浮くことから、「赤鞍=赤蔵」の名が生まれたといいます(別の林道を登ると、現在は三角点の展望台があるところに出ます。詩人・野口雨情も、ここに来遊したらしく、眼下に広がる絶景に感動した詩碑があります)。 山麓の裏参道の両側に現存する怡岩院、栄春院をはじめとする社僧坊跡が連なり、亀山と呼ばれる小丘には天神堂と称する釣鐘堂が建つなど、かつての神仏習合時の霊山の姿を色濃く残しています。
 
明治42年(1909)無格社5社を合祀。大正5年(1916)郷社に昇格。例祭及び春祭4月10日、秋祭10月10日。式年祭(赤蔵権現現本地仏の御開帳)が33年ごとに行われています。

(各建築物・史跡の説明)
赤蔵神社の鳥居 左の写真は、赤倉神社の鳥居である。古いものでなく、戦後に建てたものである。鳥居の石柱には、東京オリンピックの年・昭和39年(1964)の建立と書いてあります。地区出身の大橋てつさんの寄進によるものだそうです。立替前は、朱塗りの権現造りの大鳥居であったが、腐朽が甚だしく、景気上向きの当時、信仰に篤い人の寄進でおこなわれたのでしょう。
 また標柱は、昭和5年(1930)3月17日建立されたものです。寄進者は、丹後国(現京都府)峰山町・中江栄三郎妻と刻印されています。
 右と右下の写真は、左の鳥居をくぐって、150mほど行ったところにある仁王門である。仁王像の写真も撮影したのであるが、暗くてうつりが悪いので、掲載を諦めた。説明板には、宝暦11年(1761)の造立。間口三間半、奥行二間。欅材平屋造。神仏混交時代の名残である。仁王の丈、七尺五寸。昔、井田の明泉寺住職力量の秀でたる僧貌を模して彫刻したものと伝えられる・・・などと記してあった。ガイド本によると、最初は、長家により後白河時代の柱2本を使用し、寛文4年(1664)建立されたようである。そののち、宝暦11年に再建されたらしい。また安政6年(1859)に修復されたようである。この際、目玉がガラス玉に取り替えられたようです。
 また仁王像であるが、ガイド本によると、平成13年に、仁王の足の痛みがひどいかったので、京都市の財団法人美術院で修復しました。仁王像の胴内に大同元年(806)に開基した寺の仁王像を再彫刻したと書いてあり、万治2年(1659)3月、長左金吾蔚長谷部連頼、家臣浦野孫右衛門と仏師原馬衛門の名前が確認できたとあります。また筆者は、栄春院三世栄編(えへん)とわかりました。
 また堂内にある草鞋は、三引区民全員の願いを書いた布を縄に巻き込んだもので、長さ75cm、幅30cmです。

 下の二対の仁王像は、左下が門の向かって左手にある吽形、右下が門の向かって左手にある阿形の像である。
 左の写真の右奥の光を受けた建物は、拝殿の写真である。近くで見ると(右の写真)、かなり立派なな建物であった。万治2年(1659)長連頼に建立され、間口七間(12.72m)、奥行七間半(13.63m)で、草檜造りの建物であります。元々は赤蔵山一本宮寺講堂であったが、明治元年の神仏分離の太政官布告により赤蔵神社の拝殿となった。明治28年に屋根を瓦葺に改修しています。祭神は、大山津見命である。この社の右へ100mほど行くと榮春院があり、また手前にちょっと参道が見えるが、この参道を左へ行くと、本殿(奥之院)へと続く。この建物が、講堂であった名残りとして、廊下の柱の上に、文化4年(1807)、寛政15年の祈祷札や護摩札が残っています。また拝殿の右側に釣鐘堂がありましたが、現在は天神山の宝物堂の横に移築されております。

 
 左端の写真は、拝殿から本殿(旧・奥の院)に向かう参道の途中にある中の鳥居である。木造朱塗りの権現造の控柱のある鳥居です。鳥居の高さは、4.5m、幅は3.6mです。現在ある鳥居は、平成元年に、翌年の開帳を前に建直したものです。大正13年(1924)、昭和32年に改築されていますが、それ以前も33年ごとに行われる開帳の時に改築されているようです。
 
 右端の写真は、参道の写真である。赤蔵山には、石の鳥居から仁王門をくぐって拝殿に至る表参道と、怡巌院・榮春院の前を通り拝殿にいたる裏参道があるが、これは2つの道が拝殿で合流した後の、本殿に向かうまでの参道である。幅約2.5m、延長約600mの石の道です。参道が出来た年代は不明ですが、「ふせ石は、昔、島の路(能登島)の男女持ち運び、積みとして、おびただしきことなり」との文書もあり、能登島の人々によって寄進されたとの伝えられています。ある古い書類によれば、能登島は17世紀半ば頃までその全てが赤蔵山領であったといいます。これは、現在、ちょっと研究者の間では疑問がついていますが、一部が赤蔵山領であったことは十分考えられます。

拝殿から参道を50mほど歩くと、三重の塔跡(左から2枚目の写真)がある。享保2年(1717)に奉納された祭礼の額には、そ三重の塔の絵が描かれているから、そのころはまだあったのだろう。しかし残念ながら基礎石は残っておらず、ま建築などの記録も残っていません。そして、その三重の塔跡からまたほんの少し歩くと、今度は白山社跡がある。長氏建立による間口二間、奥行二間の草槇材瓦葺の堂であったらしい。明治41年(1908)一村一社の令のため取り壊され、赤蔵神社に合祀された。本尊は十一面観音善女竜王が安置されていました。祭神は、白山社なので、菊理姫命であった。
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(参考)
「赤蔵山ハンドブック」(田鶴浜町)
「田鶴浜町史」(田鶴浜町)

 

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