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赤蔵山の歴史(前半)

赤蔵山の歴史 (後半)

平成16年6月27日大幅改定

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(各建築物・史跡の説明)
 右の写真は、ちょっと見難いが、赤蔵山の名前の由来でもある御手洗池であります。再度赤蔵山の由来を詳しく書きます。この池は、昔聖武天皇の東宮(皇太子)の治療に使われたという霊泉です。また戦国時代に、戦いに敗れた武将が愛馬もろ共入水した底無し池と言われ、言い伝えでは元旦の未明に赤い鞍が浮き上がることかた「赤蔵」の地名が生まれたと語り伝えられています。
 (参考) 能登の民話伝説(中能登-No.2)赤蔵山伝説・午前の池

 悠久の年月を枯れることなく湧き出ている豊かな水は、赤蔵権現の御手洗池として、四季折々の姿を水面に映し漂わせながら、訪ねる人々の喉を潤し、安らぎを与えてきました。ここはそういう訳で、昭和60年に、全国名水百選にも選ばれています。
 ここから流れ出る水は「みなくち」と呼ばれる地点で三本の水路となり、更に分岐して付近の台地一帯に飲料水と灌漑用水に使用されてきました。一日600トンの水がココから湧き出ているとのことです。

 築堤年代や工法は、まだ調査をしていないらしく不明ですが、今もなお20数haの水田を潤す「命の水」として「赤蔵山」と共に大切に保全管理されています。
 またこの池の古さを傍証するかのように、土堤には、樹齢300年以上の榊があります。
 右の建物は、赤蔵神社本殿(奥の院)です。赤蔵山の社寺は、天正時代、上杉勢の能登攻略の際、兵火にあってほとんど焼失してしまった。寛文4年(1664)、長九郎庄衛門尉連頼により造立再建されました。コケラ葺流れ造りの三間社です。間口三間(5.6m)、奥行二間(3.6m)ですが、元は赤蔵山上一本宮寺の奥の院本社(本殿)でした。
 建物に取り付けてある山鳥、ぼたん、獅子頭は桃山式彫刻といわれています。この彫刻は焼失を免れたようである。現在は、最初に述べたように赤蔵神社本殿となっています。本殿の前に、ちょっと見える礎石(間口2間、奥行4間)は、説明板によれば、拝殿のあとのものということである。
 明治元年の神仏分離令によって、赤蔵山大権現本地釈迦牟尼仏は、本地仏堂に移され、その後、さらに宝物堂((元亀山天神社)に安置されています。
 また神仏分離令後の祭神は、大山津見命であるが、上屋(鞘堂)は大正9年(1920)に建築されています。
 左の写真は、拝殿前の敷地、拝殿からからみて右手前方・赤蔵山への参道の方へとつづくあたりの大木の下にあった3対の猿、というより、どうみても「みざる、いわざる、きかざる」の石像である。「見ざる、聞かなざる、言わざる」の三態は、「悪い余計な事は見たり聞いたりしないで、無駄なおしゃべりも慎め」との戒めとのこと。
 ガイド本によると、この猿は、元は赤坂小学校校庭に地元の石工中川吉太郎氏が寄贈したものだそうで、赤蔵小学校が昭和9年(1934)に田鶴浜小学校に統合されるときに、神社に移されたようです。
 この石の猿については、次のような逸話もあるようです。ある時、某地区青年団員が、三体のうち一体をこっそりと家に持ち帰り床の間に飾ったところ、一晩中猿が暴れて一睡もできず、恐ろしくなり、元に戻したと言われています。
 当時は、地面に直接置かれていたようですが、現在は写真のように台座石の上に固定されています。
 右の写真は景連堂である。裏参道を拝殿・奥の院に向かって行く登り口の脇、向かって左手に白い倉があります。その建物が、景連堂である。建物脇の「説明板には、長谷部信連の弟の景連の坐像(高さ約90cm・木像)を安置してあり、現能都町霊山寺からどんな理由で移されたかは不明である」と書かれている。しかし連景のことを宇出津棚木城主?とも書いている。どうも上杉方の武将で棚木城に拠った長景連と混同しているようだ!ガイド本をみると、この景連は、信連の弟ではなく、次男の長谷部景連であると書かれている。坐像は高さ90cmの木造で、不思議な笑みを浮かべ、両手には阿弥陀如来の印相(下品中生:げほんちゅうしょう)を結んでいるという。その坐像は、もともと鳳至郡山田村(現在の能都町瑞穂)の霊山寺にありましたが、後に榮春院、怡岩院に預けられ、村人が堂を造って安置したと伝えられています。現在の建物は、意外と古く、宝蔵として天明4年(1784)に建立されたものと書かれています。
 またこの景連像に触れると、たたりがあると言われています。
 右の写真は、真言宗高野派の寺院・榮春院(えいしゅんいん)である。戦国武将、長連龍の母、榮春院殿花渓樹盛大姉の菩提寺です。伝承では、本尊は観世音菩薩で持国天、多聞天とともに弘法大師作といわれています。
 この建物は、天正年間に上杉謙信が能登を攻略した折に、焼失しましたが、 石動山 より玉陽坊勝栄がやってきて再興し、初めは玉陽坊と称し、後に不動院と改めて、承応2年(1653)に榮春院となりました。
 またこの寺を能登国三十三所観音霊場の 当国第二十三番札所 とした書もあります。
 榮春院の裏庭は、現在ではかなり形が崩れていますが、江戸時代に造られたものといいます。

(参考) 田鶴浜地区の寺社
 右の写真は、真言宗高野派の寺院・怡岩院(いがんいん)である。七尾城の名将・長続連(長連龍の父)、怡岩院殿大雲良悦居士の菩提寺です。本尊は、不動明王で作者は不明ですが、非常に古いものです。
 榮春院と同じで、上杉謙信の能登攻略の折に、焼失しましたが、長連龍の招きによって、石動山より大聖坊祐栄が大聖院の号を以って再興し、長家の祈願所としました。正保2年(1645)に名を吉祥院と改め、承応2年(1653)怡岩院となりました。ここも榮春院と童謡、能登国三十三ヶ所観音霊場の一つとしている書もあり、ここは当国第二十二番札所となっています。

(参考) 田鶴浜地区の寺社
 左の写真は、天満宮跡への石段である。赤蔵神社の裏参道を榮春院の辺りまで降りてきて、そこで左手の新たな小高い丘へ登るような感じになっている。
 
右手の写真は、その天満宮跡の写真である。寺の額には「赤倉大権現」と書いてあった。天満宮というように、菅原天神を亀山天満宮跡であったが、明治28年(1895)に焼失した。同29年京都北野神社の分霊を勧請して再建されたものです。明治41年に、政府の一村一社令により、赤蔵神社に合祀されてから宝物殿として保存されています。これも本当は、壊されるはずだったといいますが、村人の願いによって、宝物殿として残されたようです。この建物は、また名匠柴田真二の作といわれています。
 宝物殿の内部には、赤蔵山大権現本地釈迦牟尼仏が安置されています。秘仏として17年ごとに、一般に公開されています。次は平成19年となります。

 写真の右・(宝物殿右横)に、見えるのは、鐘楼(釣鐘堂)である。釣鐘は、鐘に刻まれた銘によると、明暦2年(1656)長連龍の寄進で、浦野孫右衛門尉信秀の世話となっています。鐘堂は、建立されたのは、万治2年(1659)で、講堂(現赤蔵神社拝殿)と同じ年です。建立当時は、講堂に向かって右側にありましたが、明治元年、社務所付近に移され、さらに釣鐘(と釣鐘堂)も、宝物殿の横に一村一社令が出された翌年、明治42年(1909)移設されました。移設する際、七尾から万力を借りてきて吊り上げたといいます。ただし堂は平成14年に新築されたものだそうです。鐘の高さは、1.35m、口径0.75m、厚さ9cm、重さ500kgです。この鐘は今も、除夜の鐘として地区壮年団によって鳴らされています。また春と秋の祭りの際、お神輿の出発と帰りにならされるそうです。
 (宝物殿内の仏像など)   宝物殿には、次にあげる仏像が収められています。 
1.赤蔵大権現本地釈迦牟尼仏
(木造立像 丈1尺2寸 御光1尺5寸6分
外厨子 彩色塗金被金具付前口3尺5寸奥行2尺余り) 
2.将軍地蔵
(木造 丈10cm余り)
3.善女竜王
(木造 丈12cm余り)
4.十一面観音
(木造 丈15cm余り)
白山社の仏
5.虚空蔵(木造 丈18cm余り)6.不動明王
(木造 丈1m余り)
7.多聞天
(木造 丈1m余り)
8.持国天
(木造 丈1m余り)
9.弁財天
(木造坐像 丈20cm余り)
10.阿弥陀如来 木造坐像
11.浦野孫右衛門信秀の寄進による阿弥陀如来と物故厨子
12.仁王の首
(木造 現在の仁王の文字に、再彫刻は旧時の札を改めずとあり、榮春院の古文書に天正の兵火に仁王像は残ったとあるが、その首かと推定されています。)
13.焼残り鬼瓦
(裏に漆を塗ってあり、止め釘がついています)
14.大燈篭
(高さ1.5m対 鉄製)
 (その他かつてあった社跡など)
白山社跡
長氏建立の間口2間(3.64m)奥行2間半(4.54m)草槙材瓦葺(元は茅葺)で、小規模でしたが、綺麗なお堂でした。仏像は十一面観音、神は菊理姫命です。明治41年に一村一社令によって取り壊されました。宝物堂に安置されています。
神明社
長氏建立の間口1.5間(2.7m)、奥行2間(3.64m)。草槙材茅葺の小さな美しい神明造りの堂でした。
これも明治41年に取り壊され、祭神は赤蔵神社に合祀されています。
愛宕社(五社山)
祭神は迦具土神で、椎の木が残っています。明治41年取り壊されました。
波仁屋社(大塚山)
祭神は、手刀男神、八意思兼命、神日本盤余彦尊。
波仁屋社にあった摺り鉢状の相撲場が残されています。明治初期頃まで神事相撲が行われていたようです。神社は、明治41年の一村一社令によって取り壊され、社跡の一部が田鶴浜高校のプール敷地となっていますが、宮の前の地名が残っています(現在の字・三引は部)。建物は、高田八幡社に移築されましたが、現在は改築されています。
 上の左端の写真は、赤蔵山の北側・入口側麓にある天神山親水公園であります。写真の右奥が天神山です。
 親水公園は、その名の通り、ちょっとした池があり、夏には平家ホタル、源氏ホタルも見ることができるそうです。駐車場、休憩所、公衆トイレなども整備されています。

 上の真ん中の写真は、赤蔵山の第二展望台付近にある野口雨情の詩碑である。赤蔵神社の裏手(南側)のアスレチック広場を見下ろす高台にあります。左側の石には、『朝にゆうべに赤倉山は下に能登湾ひとながめ』という七七七五という雨情独特な詩が書かれています。
 その右側には、
「『朝にゆうべに赤倉山は下に能登湾ひとながめ』この碑に刻まれた詩は「波浮の港」や「七つの子」「赤い靴」などの作詞で知られる野口雨情が、昭和9年六月二十
六日に田鶴浜を訪れた際、赤蔵山周辺を散策し、山頂付近から眺めた印象を詠んだものである。
 田鶴浜町民の篤志によって、ここ雨情ゆかりの地に自筆の詩を刻み、国民的歌謡・童謡作家としての氏の功績と遺徳を偲びながら、文化の象徴として後世に伝えるものである。
 昭和六十三年十月吉日」と書かれた石碑がおかれています。
 
 一番右側の写真は、赤蔵山せせらぎ公園のものです。八橋が架かったお池尻溜池があります。この写真は、ちょっと小さくて見難いですね。その下の写真は、そのせせらぎ公園の池にいた白鳥です。この白鳥は、富山県高岡市の古城公園から贈られたものだそうです。夫婦の番(つがい)で贈られたとガイド本に書いてありましたが、この日は一羽しか見えませんでした。もしかしたら、どちらか亡くなったのかな・・・。
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(参考)
「赤蔵山ハンドブック」(田鶴浜町)

「田鶴浜町史」(田鶴浜町)
 

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