このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

田鶴浜地区の寺社

新・七尾市の誕生を記念して、新たな七尾市の風景となった田鶴浜の古刹など紹介してみることにしました。今後もう少し寺社など追加していくつもりです。

龍翔山 東嶺寺
↑東嶺寺の山門↑東嶺寺山門横の門に入る手前右側にあるお稲荷さん
↑東嶺寺山門を入って右側にある庫裏らしき建物。↑東嶺寺の本堂
↑東嶺寺の山門の仁王像(吽形)↑東嶺寺の山門の仁王像(阿形)
 曹洞宗もと総持寺五院、如意庵(長連龍)の開基、實峯(目三梵和尚)が草創の羽咋郡西穂村洒見(富来町)、「竜護寺」の分派で、実相院と号していました。もともとは七尾(旧七尾市)にあったといいます。天正5年(1577:七尾城が落城した年) 長連龍 (長家の21代当主で、中興の祖:如庵君)の母を葬るために、その戒名花渓栄春大姉の中の2文字をもって、花渓寺と改め、天正八年(1580)田鶴浜に移転したようです。その後、連龍の子・長連頼(長家23代当主)が、連龍の菩提を弔うために、堂宇を改築後で、連龍の33回忌にあたる慶安4年(1649)に連龍の法要をして、その法号「東嶺良■庵主」をとって「東嶺寺」と改称し、龍翔山と山号を付したのです。改称当時、悦叟寺が隣りにあり、両寺併せて、「龍翔山東嶺寺」と号していたようです(ただし後、悦叟寺が移転)。墓所は境内左側の小さいがそれでも、鬱蒼とした樹林の中にあります。
 ところで、慶安3(1650)年、長連頼が東嶺寺を再建した際、尾張の国から二人の指物師を招き戸・障子・欄間などを製作させました。 この二人の優れた技をみた村人たちがその習得に競って弟子入りしたことが、この地域が建具の町となりました。
  
瑞松山 悦叟寺
  この寺の以前の名は、十輪寺とも中興寺とも言い、何れが本当かは不明だが、元は赤蔵山にあったといいます。上杉謙信能登侵攻の際の天正の兵火にあって、堂宇はことごとく焼失しました。長連龍が、天正8年(1580)田鶴浜へ移転し、堂宇を再興し、七尾城の戦いで亡くなった兄綱連及び一族7人の菩提所と定め位牌を安置しました。初め山号は、萬手山とい言ってたのを、綱連の戒名、瑞松院殿悦叟良喜居士の名を以って、「瑞松山 悦叟寺」と改めました。東嶺寺第4世太嶺祖椿和尚を以って、開基とします。移転当初は、今より少し高台にあったといいますが、3度の火災に遭い、現本堂は、元禄16年に長大隈守尚連の袂金によって仮本堂として建てられたものといいます。第14世活宗和尚が現在の庫裏を建て、彰徳館と名づけてこれを開放し、託児所などの社会事業に貢献したといいます。 
 
鶴洞山 亀源寺
 曹洞宗の寺院で、永徳2年(1382:南北朝時代の京都方の年号)、現在羽咋市酒井町にある永光寺の明峰素哲の高弟・珠岩道珍が閑居のため草創したという寺伝があります。
 天正の兵火で焼失した後、永禄2年(1559)に東嶺寺の第3世、古用慶徹和尚が再興し、東嶺寺の末寺として長家の祈願所となりました。これ以前、能登の国主畠山氏の幼息亀鶴をここに葬ったので、「鶴洞山 亀源寺」と称したと伝えられています。
 この境内には、天正6年より、慶長19年までの間の14回の合戦で討死した(長家一族の者のほか家臣の)九十五士の霊牌が安置されているといいます。また、長家の有力家臣であった浦野孫右衛門家19名の位牌も安置されているといいます。
 
↑亀源寺を入口の方から撮影
榮春院
 
↑赤蔵山の参道入口の方から見た榮春院↑門の下から見た榮春院
↑正門入って、向かって右側の堂宇の中に石像が沢山並べられていました。↑榮春院の裏手の山林(赤蔵山の一部)。赤蔵山の合戦当時、この裏手の方に吉見氏の本陣があったという話である。
 この建物は、真言宗高野派の寺・榮春院です。天正年間に上杉謙信が能登を攻略した折に、焼失しましたが、悦岩院の再興された翌年に石動山より勝栄というお坊さんが玉陽坊として再興し、後に不動院と改められました。その後、戦国武将・長連龍の母親の菩提所であった花渓寺(現東嶺寺)が連龍の三十三回忌を迎えるにあたって改築され、連龍の母の菩提所が承応2年(1653)この寺に移され、法号「花渓栄春大姉」から栄春院と改められました。
 伝承では、本尊は観世音菩薩で持国天、多聞天とともに弘法大師作といわれています。また裏庭は、かなり形がくずれていますが、遠州流の古いものだそうです。
怡岩院
 
 ↑赤城山への参道横からみた悦岩院↑参道入口側から見た悦岩院
↑上の建物は、真言宗高野派の寺・悦岩院です。天正年間焼失以降、赤蔵山に再興された一番最初の寺だそうです。長連龍の招きで、石動山より来る大聖坊祐栄が、大聖院の号を以って、これを再興し長家の祈願所となった。三代幸保の時、今となっては原因不明だが、「難有りて梟首」とあり、その2年後の正保2年、吉祥院と号を改めた。その後、九年にして承応2年(1653)悦岩院と改め、現在に至っております。
 本尊は不動明王にして、非常に古いもので、作者や年代は不明ですが、この時代の世相や古記録などを見ても分かることですが、何かあったり住職が変わったりすると、簡単に改号や、寺を替えたりしているところから、昔、この近くにあったといわれる不動院の本尊かと(田鶴浜町史)では推察しています。
(参考リンク)
 ● 赤蔵山の歴史

(参考)
「田鶴浜町史」(田鶴浜町史編さん委員会発行)
「赤蔵山ガイド」(田鶴浜町発行)

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