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  能登の民話伝説

 ここに取上げた伝説は、主に「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発刊)など古い書籍に書かれていたものを、私(畝)が、解りやすく書き改めたものです。現在、伝説の対象となっている建物、人物、物などが残っているかどうか、また同様の現象や行事があるか否かは定かではありません。あしからず。
能登の民話伝説(中能登地区-No.2)

<椀貸穴伝説>
椀貸穴 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:七尾市)小田中にある親王塚の墳丘の頂に小さな穴があります。この村の貧しき人々が必要な時に、膳椀衣装類を借りて使用したのだといいます。入用の場合は、その前夜に穴に向かって頼んでおけば、明朝その品が穴の中に取り揃えてあるのである。しかし借りたまま返さない者もあったあったため、遂に貸し出ししないこととなってしまいました。神職能登部家には、借用した衣装についていたという管玉が所蔵されていると伝えられています。
物貸石 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (七尾市)池崎より(七尾市)直津に行く所に、横打(よこうち)と云う畑地があるが、昔、そこの大きな石があった。この石を物貸の神様といいます。村の人が、この石に所用の品を頼む時は、膳や椀は勿論、金銭までも貸し与えられたが、天正年間の頃、石動山の僧がやって来て種々の物を借りていったが、そのまま返さなかったので、物貸の神様も怒って、遂に貸し出しをしなくなってしまった。
貉(むじな)の居 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:田鶴浜町・現:七尾市)吉田より羽咋郡加茂村(現在の志賀町加茂)に至る山中に貉の居と称する洞窟があります。入口は狭くわずかに身を入れることが出来る程度の大きさだが、洞窟の内部は約1坪の広さがあり、数人くらい入れる大きさであった。洞窟内は古くから多くの貉が棲んでいたので、貉の居と称したのであった。
 昔、吉田の某家に、饗応の用事があったが、家具が不足していたので、家人は夜中、洞窟の前にやって来て、膳・椀、その他、望みの品々の貸与を請い願ってみた。そして翌朝行ってみると、前日頼んだ件(くだん)の器物が取り揃えてあった。それ以来この地方の人々は、膳・椀その他望みの品々を借りたいときは、ここにやって来て借りたのでした。しかしある時、心得違いの者がいて、この洞窟から入用の品々を借りたのに、それらの物を返さなかったので、その後は、如何に懇願してもそれらの品々を貸与することはなかったということだ。
弥三平狐 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (七尾市)石崎寺山の東堂ヶ谷という所に、昔、村人から弥三平狐と呼ばれている老いた狐が棲んでいた。村人がこの狐の穴に到り、家具の借入を頼んでおいて、一たん去ってから、後ほどもう一度穴の前に行ってみると、頼んでおいた家具が数を揃えて穴の口に出し置いてあったそうである。
<抜穴伝説>
高原の抜穴 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:七尾市)西馬場の高原に陣の穴があった。今は崩れてしまったが、昔は石動山の御前に通じ、行き来が自由であったという話である。
二穴の雌穴 (参考:「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発刊),ケーブルテレビななおのHP他)
 (七尾市能登島二穴町)二穴の西南海岸の絶壁に2箇所の大きな洞窟があります。二穴の村の名は、これに因んで付けられたもので、大きな洞窟を雄穴、小さな穴を雌穴と言った。あるいは、昼静かな時は左穴(西側の雄穴)より光が出、夜静かな時は右穴(東側の雌穴)より光が出るので、雄穴を日穴(ひあな)、雌穴を日穴とも言った。

 雄穴は、なかに入ることができ、奥の方に水がたまっています。雌穴の奥には、水を大量に湛えその深さはわからないと言われているが、穴は遠く輪島まで通じているという話である。二穴の村民が家具や漆器など食器が要る時、この穴に礼を尽くし願えば、頼んだ数だけ水上に浮かび出たとの言い伝えられています。

 この穴には神の力がやどっていると伝えられ、水穴とも呼ばれています。
 昔旱魃があった際、まともな川すらない島のこと、村人の大切な飲み水がなくなりました。困った村人は水穴に祀られた観音様にお願いしました。すると間もなく上空に黒雲が生じ、雨が降って村人は救われたそうです。

 翌年またもや日照りが続きました。今度は観音様に祈ってもなかなか効き目があらわれません。田んぼはカラカラに乾いて地割れし、稲も枯れかけてきました。そこで困ったある村人が、月夜を利用しこっそりと丸木舟に乗って水穴へ行き、自分の田んぼに入れようと思い水穴の水を舟に積みました。

 「これくらいで、十分だろう。」と思い船を返そうとしましたが、どうしたわけか水を積んだ舟は、一向に動きませんでした。これは水穴の観音様の怒りにふれたのに違いないと思い、水を汲み出し元に返すと舟は動き始めたそうです。

 このように、昔からその水穴(二穴の雌穴)に不思議なことが起こるのは、その水穴には仏様が修行をしておられるのだと伝えられています。
陣の穴 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:中能登町)井田の岡の山の西麓の一隅に、陣の穴(壙穴を全て陣の穴と呼び、上杉勢乱入の際、人々がここで難を避けたといわれ、或いは大昔、火の雨を避けた蹟であるともいわれています)があります。越中(富山県)の氷見の唐島に続いていると伝えられています。
<沈鐘伝説>
妙観院の鐘 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 七尾町の西郊の湾に臨む海岸べりに妙観院(七尾市小島町)という古刹があります。巨岩を穿(うが)ちて、その間に洞門を通じ、海よりの岩の上には大悲殿鐘楼が築かれております。風景は絶景にして七尾名所の一つでありました。

 伝説では、昔、妙観院の鐘を鋳造して鐘楼に吊るしたが、ある夜、うなり声を立てて鐘は鐘楼を抜け出て、崖下の水の中に深く沈んでしまいました。このようなことが一度ならず何度かあったので、これは釣鐘の吊る部分が龍頭であるので、龍となって海の中に入るものであるといわれました。

 その後、新たに鐘を鋳造した際、龍頭(鐘を吊る部分)を龍の頭ではなく、竹と虎のデザインに替えたが、今でも妙観院の鐘の龍頭は竹と虎のデザインとなっている。そして海の水が澄んでいる時は、海の中に沈んだ鐘があるのを確認することができたといいます。又、松百橋(七尾市松百町)でも、妙観院へ奉納しようとした鐘が、運ぶ途中、水の中に沈んでしまったと言い伝えられています。

 ここまでは『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊)を現代文に書き改めただけで、そのまま紹介しました。この本が書かれた昭和3年に海際にあったこの寺も、今では周囲を埋め立てられ、海から100m以上離れてしまいました。

 この伝説に関しては別伝では、鐘が海に引きずり込まれる理由として、約300年前、願いがかなわず入水した女性が龍に化け吊り鐘を何度も海へひきずり込むのだというものがあります。その話の方がよく知られています。竹と虎の吊り手も、全国にただ1つのものだそうです。

 この竹と虎の吊り鐘の話は、地元では“妙観院七不思議”として知られる話の一つで、他の6つは「底なし池の不思議」、「観世音菩薩像の不思議」、「弁財天の不思議」、「夫婦岩の不思議」、「獅子岩と鼓岩の不思議」、「そうめん不動尊の不思議 」で、また機会があったらここで紹介します。

 さらにこの寺の説明を付け加えておきましょう。真言宗高野山派の寺で、井上靖なども北陸の名刹として紹介しています。また快慶が作ったと考えられている仏像や、最近亡くなった地元出身の流行時代小説家・戸部新十郎の墓などもあり、小さな寺ながら訪れる者が多い観光スポットとなっています。
<赤蔵山伝説>
御前の池 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:田鶴浜町・現:七尾市)三引の地は周囲に小高い丘をめぐらし、赤蔵山がその中央に聳えています。赤蔵山は、別名・御前山といい、山腹に郷社赤蔵神社があり、またその社の後ろには、御池または御前の池ともいう古い池があります。その池は底なし池と言われており、深さがどれほどあるのか全然わからないとの話です。天正の昔、山の上に畠山氏の城砦がありましたが、上杉謙信が一武将を派遣してこれを攻めさせました。守備兵は防戦に尽力しましたが、衆寡敵せず敵の猛攻に耐えられず城砦は遂に陥落してしまいました。守将某は、力尽きて自刃しようと山を下り、それから人馬諸共御前池に身を投げたということである。正月元旦のまだ夜が明けぬ時刻に、池のあたりを窺がえば、甲冑馬鞍などが水面に浮かび出てくると言われています。しかも神官意外これを見ることはできないとも言われています。
杉の堂 引用:赤蔵山ハンドブック(田鶴浜町・平成14年8月3日、北國新聞社)
 いつの時代からか、この地に一体の木で出来た仏像が置かれてありました。大きな杉の木のの下で雨露を忍んでおりました。ある年、これを見かねて、村人達が寄り集まって、この仏のためにお堂を建立しようと相談しておりました。ところがある晩、村人で信心深い人の夢に、この仏が現れて、仏の言うには「お堂を建ててくれるなら、七間四方(赤蔵神社の大きさ)のお堂を建ててくれるように。それならば移ってもよいが、そうでなければ、この杉の木の下に今までどおりおります」と言われました。早速この夢の話を村人に話しました。村人は毎晩毎晩、このことで、相談しましたが、余りにも大きな堂であり、とうとう堂を立てることが出来ませんでした。そのため、この木造の仏様は、今でもなお、朽ちながら、この大杉をお堂として外に立っております。
 またこの大杉は、弘法大師が能登を廻られた時に、手にしていた杖をこの地に立て、そのまま去られたが、やがてこの杖から芽が出てきたといいます。また杖の木が逆さにさされていたために、今でも枝が地に向かって伸びているので、村人はこの大杉を「逆さ杉」と呼び大切にしているということです。
蹴落 引用:赤蔵山ハンドブック(田鶴浜町・平成14年8月3日、北國新聞社)
 永禄年間の昔、能登の守護であった畠山大納言義則が自慢の名馬に乗って赤蔵山に参拝したことがありました。大納言が足並み悠々と今の降橋のところまで来た時、ピタリッと馬が止まって動かなくなりました。これは妙だ、と思い、大納言は、いささか馬術にかけては誇るところがあるほど得意としていたので、ケチがついたようで、不快になりました。元来が、短気な性質(たち)でしたので、忽ち馬に一鞭くれてやり、馬を強引に走らせました。ところが、しばらく走ると、また、ピタリ!と、不合理な感じで、突然足を止めました。
 そのため大納言は鞍の上で一回転しました。怒り心頭です。「ううううう・・・」かろうじて馬にしがみついた大納言は、髪を逆立ち目を剥(む)いて、怒りながら叫びました。 「何奴なるぞ!余が馬を止めたるは、当国の大納言義則なるぞ」ブルブル身震いしました。
 とその時、足下の草むらの中から「ハハハハ・・・・・俺だ、俺だ、そう怒るなよ」と平気で笑うものがありました。
 (義則)「誰だッ!」、(仏)「俺だよ、このところに居る仏だよ」慈悲円満な声でした。
 「ウヌッ!余の地面を借りて居る奴が、不届き千万なことを言う奴である。これッ!」と言うや否や、仏様を谷底へ蹴落としてしまいました。
 現在でも杉の堂の上を「けおとし」と村の人が呼んでいます。
<龍蛇伝説>
池中の毒龍 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
  石動山本道はもと(鹿島町)武部より通じていた道であるが、途中の山中に池があり、深い碧色の水を湛えており、その池の中には龍が、棲んでいて、時々人を捕らえて食ったりしたので、人々は遂に、二宮の山道より登り杓子峠で本道に出るようになった。毒龍退治のため、天平寺の衆徒が17日間供養し、大木に経典を写し書きして池の底深くに埋めたところ、毒龍が遂に、佛果を得て、天に昇ってしまったという。旱魃の日が続いて池の水が減った時には、今もなお、写経された大木が現れ、目認することができるということだ。
蛇の池 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊) ※関連伝説: 「芹川原山の大池」
 河上家の先祖は天正年間、上杉謙信に随従して越後の国から来て、(鹿島町)芹川原山の地に居を定めた者であるが、ある夜、神人が現れて「両3日の間に、ここから退去せよ。決して疑うことがないように。」と告げた。目覚めてみると、枕元に一つの宝珠があった。よって住居を他に移したが、俄かに山嶽が鳴動し、土地が陥没して、大きな潴(みずたまり)の池が出来てしまった。これが、今の(芹川)原山の大池であり、池の水深は深く、荒山峠の地底にまで達し、大蛇を池の主としていると言われています。
報恩講の雨 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿西町・現:中能登町)能登部の乗念寺の報恩講が開かれる3日間のうち、一日だけ、大抵は聴衆で満座の日に雨が降るのが恒例となっています。これは、「しいなの池」に潜む大蛇が参詣するためといわれています。ちなみに(旧:鹿島町・現:中能登町)尾崎明泉寺の報恩講にも、大蛇が参詣するため、雨を降らせるといわれています。
八田の蛇の池 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 八田川(七尾市徳田地区を流れる)の源に、蛇の池があります。数個の池が連なりあって、樹木が池に影を映じ、幽邃を極め、道も嶮(けわ)しく、その奥を究め難いということだ。池の主である蛇がいて、池の中に石を投げ入れる者がいると、かならず大雨になったと伝えています。
八田の蛇池(別伝) 参考:「穂にいですつっぱらめー七尾・鹿島の昔話」(坪井純子著)
 ある年、能登は大層な旱魃におそわれました。田畑は涸れて地面が裂け、作物はとてもできる状態ではありません。能登のあちこちで、雨乞いの祭りを行いましたが、一向に効き目がなく、一滴の雨も降りませんでした。ただ雨乞い太鼓があちこちから聞こえてくるのみでありました。
 七尾近在の人々も色々試してみましたが、うまくいかないので、再度相談し、今度は「飯川(いがわ)の光善寺の法印さんなら、法力がありそうだ」ということになり、飯川の彼のもとまで出かけお願いしました。
 法印さんは、引き受けましたが八田の蛇池の傍に櫓(やぐら)を組むよう指示しました。櫓ができると法印は、その上に登り、数珠をじゃらじゃら鳴らしながら、経文を高らかに唱え出し、雨乞いを始めました。一日、二日と何の変化もありませんでした。満願の三日目のことであります。どうしたはずみか、法印の手元から数珠がポーンと跳ねるように飛んで、蛇池に沈んでしまいました。
 法印は、櫓の上から池の中を覗き込み、
 「ありゃ、取ってこにゃなるまいの。」
と言うと、「数珠をとって来る」と行って、村人が止める間もなく池の中に入ってしまいました。法印は、池にしずんでからしばらく上がってきませんでした。皆がまだかまだかと心配して見守っている中、我慢しきれないほど時間が経った頃、法印が、数珠を手にして上がって来ました。
 村人が法印を取り囲んで、「いったいどこまで潜ったのですか」と聞くと、法印はカラカラと笑って
 「蛇池の主と会ってきたわい。池の中に階段があっての。とんとん降りていくと、それがでっかい大蛇の背中での。木の頭と思っとったんが、大蛇の頭やった。その喉元にこの数珠が引っかかっておったわい。」と言います。それで・・・・と村人がその後を促すと、法印は、
 「わしは、その大蛇と睨みあっておったが、負けてたまるものかと睨みつづけておったら、とうとう大蛇を祈伏させることができたわい。」
法印さんはそういうと、何事もなかったかのようにまた櫓の上に登り、経文を唱え始めました。
すると、どうだろう、先ほどまで雲ひとつ無い晴天が、俄かに掻き曇り、あたりが急に暗くなってきました。そして、ポツン、ポツンと雨が降ってきたかと思うや否や、盥の水をひっくり返したような大雨となりました。 
これにより能登中の田んぼや畑は生き返りました。
 皆は、蛇池の主が法印さんに睨み伏せられて天に昇り、雨を降らせたのだと言いあいましたとさ。おしまい。
<河童伝説>
河童の詫び 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 昔、(七尾市)池崎の太郎兵衛という者が、夕方、川で馬を洗っていたところ、河童が馬の鞍綱をグルグルと自分の体に巻きつけ、馬を水中に引きこもうとしたが、馬が驚き、一目散に駆け出して厩に逃げた。河童は力が及ばず、厩まで引っぱられ来てしまった。太郎兵衛は、「おのれ、河童の奴、一打ちに殺してやる」と、棒を振り上げたところ、河童は「お願いです、命ばかりは赦して下され」と、涙を流して哀願した。それで池崎の物に限り、以後決して捕ることはしないと河童に条件をつけて約束させ放免した。これ以降、池崎の者で、この主(河童)に捕られるものは1人もいなかったということである。
勘助池 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:中能登町〜羽咋市)曽称に勘助池という池があった。昔、勘助という者がいてこの池で投身自殺したので、この名が付けられたのであった。この池に年取った池の主がいて、3年、7年という年忌の数にあたる年には必ず人を捕らえて食うと伝えられています。
<入蛇伝説>
芹川原山の大池 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)  ※関連伝説:龍蛇伝説の 「蛇の池」
 (旧:鹿島町・現:中能登町)芹川原山に河上某という旧家があった。屋敷の後ろに、ささやかな下水溜りがあったが、月日が経つうちに自然と広がってきて、いつしか小池となり、幾年か後には驚くほど大きな池となってしまった。ある日、河上家の当主が池の畔に立っていると、何処からともなく1人の若者が現れ、「我はこの池の主である。何卒、貴方様の娘を嫁として賜りたい、そのかわり家の繁栄を守ることを誓いましょう」と請い願ってやめなかったので、主人は仕方なくこれを許した。それを聞き、覚悟した娘は、支度が整うとすぐ、池の中に飛び込んでしまった。その後、河上家は次第に富み栄えたが、池の傍らにある人家(河上家)は、50年くらいに一度改築しないといけないと言われるように今も蛇の池は年々その水の量を増していると言われています。
<地界伝説>
てんぼ大須古(おおすこ) 
参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
    (日本の民話 21)「加賀・能登の民話」(清酒時男編)

   「石川の民話」石川県教育文化財団)
 昔、(旧:鹿島町・現:中能登町)久江に大須古という名の大地主がおりました。
 ある晴れた日、谷内へ畠仕事に行き、昼食をしようとして弁当を広げたところ、握り飯1個を取り落とし、握り飯は、転がって畠の隅の鼠の穴に入ってしまいました。
 男は、その鼠の穴を掘り返し、握り飯を探し求めたけれども、ついに見つかりませんでした。

 仕方なく残りの握り飯を食べて、草の上に転がって午後の一休みしていると、
 「大須古さん、大須古さん」
と自分を呼ぶ声がします。はてな誰だろうと立ち上がって周りを見回しても誰もいません。

 座りなおすと、また同じ声がするので、今度はじっくりとその声の方をみてみると、一匹の鼠が呼んでいるのでした。そして、
 「先程は、握り飯を頂きましたが、誠に美味しかったです。何かお礼をしたいと存じますので、何卒、私共のところへお遊びにお出で下され」
というではないですか。

 大須古は、
 「行ける物なら行きたいが、でも鼠の小さな家へどうやって行くのかの。」
と返事をしました。すると、
 「では私に背中に負んぶしてください、そしてお目をつぶって下さい。私が良いと言うまで決してお目を開けてはいけません。」
というので、言われるままに、
 「それでは行って見ましょうか。」
目を閉じて鼠に負われました。

 しばらくすると、やがて「もう着きました」と言う声である。それで目を開いてみれば、日も出ていないのに、あたりは真昼のように明るく、目の前には壮麗なる御殿造りの屋敷が建っていました。
 鼠らは、門の前に居並び「ようこそ」と、喜び迎え、上を下への大混雑となりました。
 大須古は、そのまま奥座敷へ通されました。

 「ただいま、白御飯を差し上げますから、少々お待ちください。」
と言い残して、鼠たちは米搗き部屋へ下がりました。一匹の鼠が、米搗(つ)き部屋でとんとんと米を搗いていたが、杵に和して「鼬(いたち)かちかち猫さえおらにゃ鼠この世は極楽さ」と歌い囃しました。周りの鼠もそれにあわせて合唱しだしました。

 大須古は、それが妙におかしい調子なので、もともとむらっけの多い男だった事もあり、ちょっとイタズラ心を起こしました。これは1つ驚くかもしれないと
 「ニャオオ〜ン」
と猫の鳴き声を一声真似てみました。

 するとどうでしょう。猫まねの声をするやいなや、鼠らは慌てふためくざわめきとともに、ドカドカドッカーン、バッターンと大きな物音がし、あたりは急に真っ暗になってしまいました。
 そのため大須古は、ただ1人暗くて冷たい穴にとり残されてしまいました。

 鼠たちは、どこに隠れ潜んでしまったのか、と思い、大須古は
 「どうしたんかい。誰か来てくれー」
とあたりを呼びますが、も何の返事もありません。もと来た道も探して求めましたが、道も穴も見つかりませんでした。

 仕方なく、素手で地上へと頭上の土を掘り、穴を穿(うが)ってようやく這い出しましたが、爪は勿論、指までする切れてなくなり、とうとうてんぼ(手の爪も指もなく、手首だけの様を「てんぼ」という)になってしまった、ということです。

 師走23日の朝、春祭りの宿に当たる家で、一椀の小豆雑煮を供えますが、この日は必ず雨が降るといわれ、これを大須古の跡隠といいます。古い古謡に「曾冨騰大須古能登の人生れ在所は久江の谷内なり(かつて冨栄えた大須古は能登の人、生まれた在所は久江の谷内であ)」とあります。
<境界争い伝説>
黒椀の山土 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 48の谷をもって、水の豊富さを誇る(旧:鹿島町・現:中能登町)久江の黒髪谷は、山の中腹に(旧:鹿島町・現:中能登町)小竹との山境があるが、久江と小竹の境界争いは、実に長い間、係争問題となっていた。盗まれたとか、奪われたとかいった声によって二村の確執は、年を追って益々激しくなったが、その河水を飲み水としている久江の宵祭の日、小竹村が、一村総出の江浚い(川浚い)を行ったのは、小竹の久江に対する一種の報復手段と見るのが適当であろう。境界争いの最後の解決は、遂にお奉行様を煩わすこととなってしまった。お裁きの日、両村の村役人はじめ、「きばり」と称する多人数の者がこれに随従した。両村の主張はそれぞれ道理にかない、実地に臨んだお奉行様も、裁きかねたようである。
 その時、小竹の役人・惣左衛門という者が、恐る恐るお奉行の前に進み出て、「他村の土は食べにくいものであるが、我村の土に限り、いくらでも食うことが出来ると聞いたことがあります。土の食い比べにより、それを証拠にお裁きしてもらいたい」と願い出ました。お奉行は、この願いを許しました。大きな黒椀が持ち運ばれ、両村の代表は、お奉行の前に跪いた。人々は固唾を呑んで勝負の成り行きを見守った。一椀、二椀、久江の代表は二椀で頭を垂れてしまったが、死を賭した惣左衛門は、三椀を食べ終わっても平然としていた。このようにして勝ったのは小竹村であった。能登部との境界である「かんめん」より小竹の枯木谷の峠を見通し一直線に両村の山境は定められた、と。小竹より(鹿島町)尾崎に通ずる道の傍らに杉の木に蔽われた草むらの中に、誰が弔うでもない一基の墓があった。これは遺言によってここに築かれた惣左衛門の遺骨が埋葬された地であった。

(同じ話を紹介した本)
「日本の伝説12・加賀・能登の伝説」(角川書店)P96
騎馬の牛背 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 羽咋郡上棚村(現志賀町)は、四隣の村々と比べて、最も広い山地を占めている村であった。上棚村と下後山(現鹿西町)の山における境界を定めるあたって、その話し合いの翌朝、時刻を計って各々の村から牛に乗って出会った箇所を境界としようとお互い約束した。下後山の村の方は、約束を守り、牛の背に揺られ遅々とした足取りで西に向かったが、上棚村の方は、約束を違え馬上から牛を煽り、しかも黎明の時間帯に駆け出させたので、遂に今のような(上棚村の占める範囲が多い)山境となってしまった、と伝えられている。同じ下後山に饅頭山と呼ぶ地域があるが、これは徳丸(現鹿西町)の戸屋に、饅頭一重を与えその代償として得たものといわれている。ちなみに高持ち(多くの石高の田を持っている家)が、かえって難渋していた昔、土地を譲ろうとしても貰い手もないので、4石、五石といった大きさの田地に濁り酒を添えて強いて他人に譲渡したこともあった。娘を嫁がせるのに衣料の代金として山林田地を与えた者もあった。飛地の中にはこのような経緯で出来たものも少なくなかったといいます。
<英雄伝説>
大呑六合の長者(熊淵の長者)
 参考:「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発刊)、
     (日本の民話21)「加賀・能登の民話」(清酒時男編)、
     「穂にいでずつっぱらめ」(坪井純子著・七尾市立図書館友の会刊行)
 昔々、大呑の(現在の)熊淵の近くの山中に、とても大きな荒熊が棲んでいました。熊は山野を我が物顔に、のしのし歩き回り、田畑を荒らしたり、家畜を襲って食べたりしました。機嫌の悪い時など人間にも襲いかかるなどして、それでその辺りの村の人々はいつもびくびくして暮らしておりました。

 冬が近づき、熊も冬眠に備えて食物を腹いっぱい詰め込もうとしだし、それにつれ近隣の村への被害がさらにに増えだしました。村人は、ついに堪りかねて、弓の名人でもある村の長者の所へ何とかしてください、と頼みに来ました。長者も、その時、これといった思案はありませんでしたが、村人の難儀を見ていると、頷(うなづ)く他無ありませんでした。

 なかなかいい方法が浮かばず幾日かが過ぎ、長者が、釜の辺とか釜前(かまさき)と呼ばれる浜辺へ出て塩を焼きながら、あれこれと熊退治の思案をめぐらせていると、海の方から、「おーい、おーい」と自分を呼ぶ声がしました。はて誰かなと目を凝らしても、海しか見えません。もう一度呼ぶ声がするのでもう一度じっくり見ると、小さなそれはとても小さな船に乗った人が、浜辺に近づいてきました。
スクナヒコナが上陸したといわれる海岸の近くにある(七尾市黒崎の)宿那彦神像神社の写真


 「わしはスクナヒコナじゃ。お前にはなんぞ、心配事でもあるのか。」
と聞いてきました。
 「実は、わたしが住む村に熊が現れ害を与えるのです。どうか助けてくださいませ。」
そこでスクナヒコナは、良い思案を親切丁寧に教え授けました。長者は、スクナヒコナが水平線の向うに消えるまで見送った後、早速、村へとんで帰り、村人を集めて、急いで熊退治の準備を始めました。近くの川を堰きとめ、まず深い淵を造ったり、できた淵脇の狭くなったあたりの崖の上に隠れるところを作ったり・・・・。せっせとはげみました。

 いよいよ熊退治の当日です。スクナヒコナにからかわれいきりたった熊が奥山から出てきました。長者を見つけると、猛然追いかけてきました。長者は淵脇を必死に逃げます。熊に追いつかれる間際に、狭くなった通路の上から、熊めがけて石や丸太が落とされました。熊はたまらず淵に落ちてしまいました。アップアップして必死に岸に這い上がろうとするところを、長者をはじめ、人々は、一斉に弓矢を射り、槍や石を投げつけました。さすがの熊も、怪我で弱り、淵の中で溺死してしまいました。

 熊淵川の生出(おいで)付近の写真その後、この退治劇にちなみ、熊を落としたあたりを熊淵と呼び、その川の名もを熊淵川と呼ぶようになったようです。また熊が棲んでいてスクナヒコナの神がからかいながら誘(おび)き出したあたりは生出(おいで)と呼ばれるようになりました。(釜前という名も、おそらく塩水を釜で焼いたことと関係があるのでしょう。)
 村人は、大喜びし、それからは安心して、暮らせるようになったそうです。
 
 この長者の噂は、四方に広がりました。ある日、熊淵から北へ二里ほどいった海岸地帯の集落からの使いが、長者を訪ねてきました。
 「長者さま、助けてくさんせ。おらちゃの村にゃ、ムカデに似た大蛇くらいの毒虫が一匹おって、危害を加えてどうにもならんのでござんす。」
その毒虫の通り過ぎた後は、草木も枯れ、また毒気にあたると、動物や人間もバタバタ倒れてしまうのであった。
 使者の頼みを聞いて、長者は捨て置けぬと思い、特にまだ思案はなかったが、
 「おらにできるかどうか。まっ、やってみましょう。」と引き受けました。

 返事はしたものの、名案はなかなか浮かばず、またスクナヒコナに会えぬものかと釜前の浜へ行って見ました。すると運良くまたスクナヒコナの神が現れてました。話を聞くと、スクナヒコナは、
 「それなら、倒した熊の胆(きも)(五臓六腑)と、頭陀袋二つぶんの唐辛子を用意しなさい。」
とまず指示し、そのあとの策を懇切丁寧に授けました。
 長者は、それを聞き終えると、またスクナヒコナが見えなくなるまで見送ってから、その足で、使者が来た村へ向かいました。

 村人に毒虫退治の準備させ、完了すると、翌朝、長者は、腰に鉈をぶら下げ、二袋の唐辛子を背負うと、広場の松の大木に上り、木の茂みに身を隠しました。そして松の木の下には、熊の胆を置き、毒虫をじっと待ちました。
 しばらくすると、熊の胆の臭いを嗅ぎつけて、毒虫が現れました。毒虫がじっと近づくのを待ち、胆に喰らいついた瞬間、長者は、木の上から唐辛子を毒虫めがけて雪の如く撒き散らしました。

 毒虫は、これにはたまらず、涙を流してのたうち回っていると、木の上から長者が飛び降りて、首のあたりや顔に、メッタギリに鉈で斬りつけました。とうとう首を切られ、毒虫は死んでしまいました。
 これを傍で隠れて見ていた村人は、広場に出てくると長者を胴上げし大喜びしました。
 そしてこの毒虫がでたあたりの集落は、この話にちなんで虫崎(蟲崎)(むっさき)と呼ばれるようになりました。

 ところが、ほっとする間もなく、今度は虫崎からさらに北へ一里ほど進んだ海岸の集落から、またまた使者が着ました。その使者が言うには、拡げた羽が数丈もありそうな大きい真っ白な悪鳥が、伊掛山から飛んできて、村人に害を与えるといいます。収穫間近の田んぼや畑を食い荒らしたり、赤子を攫(さら)ったり、相手は空を飛ぶので手に負えないとのこと。長者は、やはり名案はすぐには思いつきませんでしたが、これまた何とかしないといけないと思い、またまた退治を引き受けました。

 長者は、弓には自信があったので、とりあえず矢(箭)を箙(えびら)に入れて背負い、自慢の弓を持ってその村へ向かいました。その白い悪鳥が出てくるのを待っていると、確かに現しました。狙いをさだめて矢を何本か射ってみましたが、相手は大きすぎて効き目がありません。長者は、がっかりして、逃げ戻ってきました。帰り着いてから、あれこれと何か他に退治の方法はないかと考えてみますが、いくら考えても、やっぱり名案が浮かびません。今度もまた釜前へ行ってスクナヒコナの神に、
 「どうか、また悪鳥退治の名案を授けてくださいますように。」
と祈りました。

 すると、今度もまたまたスクナヒコナの神は沖から近寄ってきて、長者の願いを聞きました。
 「その悪鳥を退治するには、五人引きの弓で、毒矢を放つよりほかあるまい。」
そしてまたその方法を長者に詳しく教え授けました。
 長者は、大弓と大きな矢を作ると、先に殺した毒虫から毒を抽出し、甕に溜めました。そして、悪鳥が出る集落から少し離れた場所に庵(小さな小屋)を設け、悪鳥を5、6人の屈強の村人と一緒に待ち受けました。

 次の日の真昼時、悪鳥が、見かけぬ庵を見つけて上空を旋回しだしました。長者は、悪鳥に見つからぬよう気をつかいながら、矢を毒甕に突っ込み矢尻にたっぷりの毒をつけると、村人と一緒に、弓を持つものと矢を引き絞るものに分かれ、空飛ぶ悪鳥めがけて狙いを定めました。悪鳥が少し下りてきて、過たず距離まで近づくと、頃合を見計らって矢を放ちました。仏島

 狙い違わず命中し、ギャァーーと悲鳴を上げました。長者たちは、二の矢をさらに射り、三の矢も射ようとするので、悪鳥は、矢が刺さったまま、残る力を振り絞って、逃れようと舞い上がりました。よろよろと海の上を飛びながら、やがて力尽き、有磯の浦の足姫ヶ崎の波打ち際、仏島(石川県と富山県の県境になっている沖合い数十mにある小さな島・右の写真)の辺りへ、ばっさりと落ちて、倒れました。
 村人の歓声をあげ、大喜びをしました。

 この白い大きな悪鳥が現れた村は、この話にちなみ白鳥と呼ばれるようになりました。
 大呑の村々の人々は、村々の難儀を取除いたこの長者を熊淵の長者と呼び、大変尊敬しました。その後、長者が亡くなると、沢山の人々が集まって葬儀が行われ、長者の亡骸は山崎の霊夢山というところに祀られました。そこが現在の阿良加志比古神社ということです。
 
阿良加志比古神社(参考)
 この大呑六合というのは、集落名でいうと山崎、花園、熊淵、大泊、東浜、黒崎、佐々波、江泊、大野木、上湯川、岡、須能、管沢、麻生、清水平、小栗、柑子山、外林、澤野、殿にあたるといいます。「鹿島郡誌」の神社の項では、この大呑六合の長者とは阿良加志比古神で往古、この地がまだ未開の時にこの地に住んでいた老翁であるといいます。
 この話にまつわる阿良加志比古神社(左の写真)は、長者がなくなった後、現在の山崎にある霊夢山(りょうむざん)というところに祀られ出来た神社といわれ、北大呑・南大呑地区の43社の中心社となっています。また智恵を授けたスクナヒコナノミコト(少名彦命・宿那彦神)は、その来着したと言い伝えられる地(黒崎)を、いわゆる巌の磐境(いわくら)と斎定して、大石を御霊代として宿那彦神像神社として祀られています。スクナヒコナは、能登で大国主命に協力して、能登国平定に尽くしたといわれています(→平国祭)。
小祠の怪物 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 白鳥(七尾市庵町字白鳥)と百海(七尾市庵町字百海)との間に、海岸に沿った場所にタブノの木に蔽われた小さな祠があった。いつからか解らないが、この地に一種の怪物が現れ、地元の人々を悩ませていた。庄屋である重造が所用があって庵へ赴いたが、その帰途、夕方の頃、この地を通りかかったところ、件(くだん)の怪物が現れた。重造は腰に佩びた刀を鞘から抜き放ち、怪物に斬りつけた。怪物を退け危難を避けた重造は家に帰って刀を検(あらた)めてみたところ、鮮血が※淋漓(りんり)として刀を染めていたといいます。この怪物は時々海に入り鯨となって人を誑(たぶら)かしてきたという。今は廃れてしまったが、毎年6月20日に山崎の大畠家よりこの小さな祠まで歩き、怪物の害を防ぐために弓を射る神事があったそうである。

※註・淋漓(りんり):血、水、汗などが滴り落ちるさま
<義民伝説> (参考)私のHPの能登の歴史関係のコンテンツ 「浦野事件-鹿島半郡の義民たち-」
太らぬ杉 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 西三階(七尾市)の高田往来の左、田の中に三坪足らずの芝生が生えた小高き土地の上に一本の杉があった(その杉は耕地整理の際、伐採され今は跡形もないとのこと)。枝も繁らない痩せ細った状態で百年その姿を留めたが、この太らぬ杉の下には昔、検地の際に使った竿切と丈縄の切れ端が埋めてあったといいます。浦野事件の首謀者の1人園田道閑の一味であった西三階の池島宗閑は、ある日、道閑と共に酒井(現羽咋市酒井)に至ったが、道閑の検地竿を踏み折ると、竿切と丈縄を奪って家に逃げ帰り、人に知れないように、土の中に埋めてしまい、一本の杉を植えて目印とした。万一、検地が中止させられない場合は、道閑に代って再挙を図ろうと、宗閑はその夜、密かに越後に奔った(逃れた)と伝えられています。
(参考)「石川縣鹿島郡誌」に書かれている註↓
「宗閑が越後に追放されたのは事実であるが、西三階の縄埋地は、享保検地の際、賜った丈縄を検地記念のために、十村であった平内(源五)が、これを土の中にうめ、その目印として杉を植えたものであって、全然道閑事件に関係ないものである。」
川切高 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 酒井(羽咋市酒井町)の永光寺川に沿っている旧高30余石の土地を川切高といいますが、寛文年間の検地において竿を入れた田地であって、竿をこの地に入れるや否や、道閑はその竿を踏み折り、遂に検地が中止となった土地であった。その土地は至って耕作するには辛いところで、維新前までは、寄合い田とされ、それで漸く耕作が行われた田地と伝えられている。
(参考)「石川縣鹿島郡誌」に書かれている註↓
「川切高の伝説は、元禄11年の竿入を誤解したものであって、酒井の組合頭與四郎(与四郎)が、前年に行った検地が粗雑のため土地の評価に不公平な点があるとして、命を懸けて訴人したために、與四郎は一年半牢獄に繋がれてしまった。遂に認められ酒井村の竿入役となって70石の増高をみたが、この伝説はその事実を誤って伝え、全てを道閑事件にこじつけている。」
蛍と日一期 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 久江(旧:鹿島町・現:中能登町)付近は、蛍の多い土地であり、その季節となると、蛍合戦と言い、数団の蛍火が八谷口より現れたものである。地元の人々は、その蛍をみて、道閑の亡霊でがさまよっている、といった。
 5月の半ば頃、里の川の流れにそって目や口も開けられぬほど、数多くのフタヲカゲロウが飛び交います。そのカゲロウのことを俗に「日一期」と呼び、それは同地の蛍と同様、道閑の亡霊であるといわれていました。カゲロウは、近年著しくその数を減らしてしまったが、蛍も年々減少し、蛍合戦のような状況は、今(昭和3年当時)では、全くの昔話に過ぎなくなってしまいました。
<猿神退治伝説>
山王社の人身御供  出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 昔、七尾の山王社では、毎年、美しい町内の娘を人身御供として献上していました。ある年白羽の矢が、某の一人娘に立ちました。娘の父は、何とかして娘を救う道はないものかと、娘可愛さに、我を忘れて、ある夜社殿に忍び入った。そして息を殺して様子を窺がっていると、丑満刻(うしみつどき)と思われる頃、何者ともわからぬが、声のするのに聞き耳を立てていると、「若い娘を取り喰らうこととなる祭りの日も近づいてきたが、越後のしゅけんは、まさか私がここにいるのを知らないだろうな」と言っているのであった。
 娘の父は、娘を助ける手がかりが得られたと、夢でも視ているかのように大変喜びました。社から戻ると、しゅけんの助けを借りようと、急いで越後へ出かけました。しかし、越後についてから、しゅけんの名をあげて、あちこち探しまわったのでしたが、何らの手がかりも得られなかったのでした。今はもう望みも絶たれてしまったと、泣く泣く引き返そうと思いはじめた頃になって、ある山にしゅけんと呼ばれているものがいると聞きつけた。せめてもの心残りに(これが最後)と、その山に分け入ったところ、全身真っ白の一匹の狼が現れました。そして「この私がしゅけんだが、何用でやってきたのだ」と問うので、娘の父は、喜びの涙に声震わせながら事の次第を語り、何卒娘の命を救って欲しい、と願ったのでした。
 しゅけんは、強く頷き「かなりの以前のことであるが、越後の国の外から、この国へ三匹の猿神がやっ来た。そして人々に危害を加えたので、私が退治に乗り出し、その内の2匹まで噛み殺した。しかし私は最後の一匹取り逃がし、その猿神は所在を晦ませてしまった。その残りの一匹が、越後からそれほど離れてもいない能登の地に、隠れていたとは、私は夢にも思わなかった。いざ出向いて退治してくれん、」と承諾してくれたのでした。娘の父は、さらに「しかし祭りの日は、実はもう明日と切迫してしまった。どうしよう」と嘆き悲しんだが、しゅけんは、「悲しみなさるな、私が明日、御身を伴い行きましょう」と言った。しゅけんは、翌日その娘の父を背中に乗せ、波の上を飛ぶ鳥のように駆けぬけ、その日の夕方には、七尾に着いてしまった。
 このようにして、しゅけんは娘の身代わりとして、人身御供の献上用の唐櫃に潜み、夜になってから神前に供えられたのでした。暴風雨の中での祭りとなったその夜、猿神としゅけんの格闘の凄まじい音を立てて行われ、社殿も砕けてしまいそうなほどであった。
 嵐と格闘の音が止んだ翌朝、人々は如何なる結果となったのかと、恐る恐る連れ立って、山王社へ行き、状況を確認してみると、相当年齢を生きてきたような大猿が朱に染まって仆れているのであった。そしてしゅけんもまた冷たくなってその骸(むくろ)を横たえていたのであった。
 こういうわけで、人々はしゅけんを厚く弔って葬った上で、後難を恐れ、人身御供の形代(かたしろ)に三匹の猿にちなみ三台の山車を山王社に奉納することになったのだといいます。車が人を食う(轢き殺してしまう、という意味?)と言われる魚町の山車は、この山王社に人身御供を献上させていた猿にあたるものと伝えられています。

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