このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

能登の仁王像(後 編)
及びその寺院の紹介

 
曹洞宗 粉川寺 輪島市横地町松尾平 1
↑粉川寺の入口。県道1号線を河原田川のところで東に少しそれて、河原田川と川渕の道路を挟んで立つ石碑。↑階段をあがって1分もかからないで、粉川の堂が見えます。仁王像は、門ではなく、堂の前に置かれています。
↑上の2枚は吽形の仁王↑上の2枚は阿形の仁王
↑粉川寺の前を流れる河原田川。ミズシ(この地で河童のことをミズシという)の伝説が伝えられ、毎年伝説にもとづいた「ツトナガシ」の行事が行われます。粉川寺の御堂には、「親子馬とミズシ」の絵馬が掲げられています。ただしミズシは猿として描かれています。「文政二年(1819青玉写」と記されており、輪島市の指定文化財(昭和50年12月25日)となっています。
 能登国三十三所観音札所第三十一番の札所の寺である。もともとは八峰背山にあって観音寺と呼んでいましたが、本尊を迎えて粉川寺と名を改めたといわれています。仁王像もその時、移したものと考えられています。
(参考)「粉川寺のミズシ」の伝説は、 「能登の民話伝説(奥能登地区-No.6)」 でとりあげました。よかったら、そちらも読んでね!
醫王山 願成寺 能登町字内浦字時長 6-12 
↑上の2枚は吽形の仁王↑上の2枚は、吽形の仁王。下の方の写真の垂れ下がった紐は、カメラのストラップが写ってしまいました。お恥ずかしい <(^^;;
↑願成寺の本堂です。↑願成寺の鐘楼。
真言宗高野山派の寺院。能登国三十三所観音札所第十二番札所の寺院でもある。
吼木山 法住寺 > 珠洲市宝立町春日野 83-15 
↑法住寺の仁王門です↑仁王門の屋根下にあった竜の彫物
↑法住寺の吽形の仁王像↑法住寺の阿形の仁王像
↑法住寺の仁王門をくぐった後、本堂のある境内まで行く途中にある階段です。右は上から見たもの、左は下から見上げたもの
↑法住寺の本堂と鐘楼↑法住寺の本堂及び寺務所
 正式には,吼木山(ほえぎざん)法住寺といいます。
 弘法大師・空海を開基(勿論伝説に過ぎませんが)とする真言宗高野山派の寺であり、開基年代は、大同元年に留錫(りゅうしゃく)、弘仁初年(810年)開創といわれています。
 寺の由来によると、空海は唐へ留学生として、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)のもとで、密教の修業をしていました。彼は恵果から、わずかの期間で密教弘法(ぐほう)の後継者として認められ、あまたの弟子の中から阿闍梨位を与えられます。その際、金剛界と胎蔵界の両部の伝法潅頂(でんぽうかんじょう)をうけ、密教伝来の三杵(さんしょ)を授けられました。入唐の目的を果たした空海が帰国しようと海岸に着いた時、空海を嫉む唐の僧たちが追いかけてきて、その三杵を奪い返そうとしました。そこで空海は東方を望んで「日域の地,密教有縁のところに湯来て、我を待つべし」と言って三杵を投げました。三杵は遠く飛び去り、そのうち五鈷杵は法住寺の桜の樹に、三鈷杵は高野山の松の樹に、独鈷杵は佐渡の小比叡山の柳の樹にかかりました。
 吼木山の桜にかかった五鈷杵は燦然と輝き、日夜朗々と法華経を唱えたので、当地の村人たちは大変不思議がりました。その後、空海が五鈷杵を求めて諸国を遍歴し、佐渡から船で能登に来る時に、今の見附島を目標にされて着岸されました。村人たちから不思議な桜の話を聞き、山中に分け入り当山のあたりで五鈷杵を見つけ、ここに一宇を創建されました。これが法住寺のいわれです。吼木山と号するのも、桜の木に掛かって経を吼えるように唱えていたことによります。
 山門の金剛力士像は、1996年の解体修理の際、体内の墨書銘から、1453(室町時代の享徳2)年に院派仏師の院勝と院超によって造像されたことが認められました。院勝と院超はともに京仏師と思われますが、おそらく造像後運んで来たものではなく、当地において制作されたと推察されてます。 
信光寺中能登町黒氏ヲ部169  
↑寺の門を西側の良川方向から撮ったもの↑寺を東側の一青踏切を渡った場所から撮影したもの
↑ ○○山 信光寺と書いてあるが、読めなかった <(^^;;↑ 門の内側に像というより絵で描いてあった。漆喰鏝絵かもしれない。
↑口を開けているところから判断すると阿形像の仁王であろう。↑口を閉じているところから判断すると吽形像の仁王であろう。
「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発刊)によると、信光寺については次のように書かれている。「大字黒氏ヲ部百六十九番地に在りて真宗本願寺派に属し上座二等なり。伝ふる處(ところ)によれば天文十九年(※)三野右近といふ者本願寺准如に帰依し名を道誓と改め、次で第四世・正誓の時(寛文二年(1662)十一月二十日)本願寺寂如上人より本尊及び寺号を賜り堂宇を創立せしものといふ。」

(※)これは天正19年の誤りと思われる。なぜなら天文19年(1550)はまだ顕如(本願寺第11代宗主)の三男であった准如(本願寺第12代宗主 1577年〜1630)はまだ生まれていないから。寂如上人は、本願寺第14世宗主のこと。
なお他にも仁王像のある寺があるよ、という情報がありましたら、 メール などでできたら御一報いただければ有難いです。

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