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畠山義忠(はたけやまよしただ)(?〜1463)

(1999年9月18日作成、21日更新)

畠山満慶 の嫡男。初め、左馬助といい、応永末年頃には阿波守を称している。2代目能登畠山氏の当主である。永享元年(1429)の将軍足利義教の元服に際しては、理髪役を務めていた。永享4年(1432)の父満慶の死後、家督を相続し、能登守護となったが、それに先立つ同2年(1430)頃には、すでに守護としての執務が知られる。当時病床にあった父の代行を果たしたらしい。守護代としては、譜代の遊佐忠光を起用している。
永享6年(1434)、将軍の御相伴衆に加わって幕閣に参与し、翌7年には、修理大夫の官途を受けたが、嘉吉年間(1441〜44)に至り、剃髪して修理大夫入道賢良と号した。しかし、その後、畠山一族の内紛の深刻化によって、義忠の政治的立場にも退潮が見られ、享徳4年(1455)には、孫の義統に家督を譲ってその後見人となった。寛正初年、洛中の大炊御門(おおいみかど)富小路の能登畠山邸から洛外の大原来迎院に栖居し、寛正4年(1463)8月21日、一門の行く末を憂いつつ、この世を去った。法名は、竜興寺殿芳彦賢良居士。
また、義忠は、若くから和歌をこよなく愛した。室町幕府の和歌会には必ず列席し、自邸でもたびたびそれを催しており、当代歌壇の第一人者である常光院尭孝・飛鳥井祐雅・冷泉為之・招月庵正徹との交流は、その晩年に至るまでも続けられ、ひときわ親密なものがあった。義忠は他に、早歌(そうか)の名手としても知られ、蹴鞠や※松囃(まつばやし)などの芸能にも関心が深く、当時、幕府に居並ぶ守護大名の間では、夙(つと)に風雅の士として令名が高かった。

※松囃子(または松囃):南北朝、室町時代の正月芸能。村人、町衆、侍衆がそれぞれ組を作り、美しく装って歌い舞い、諸邸に参入して祝賀の芸を演じたものだが、詳細は不明。将軍邸には、唱門師(しょうもんじ)が参入するのを例としたが、後には猿楽と変り、観世大夫などが務めた。

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