このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

畠山満慶(はたけやまみつのり)(1372〜1432)

(1999年9月18日作成、28日更新)

室町幕府の管領を務めた 畠山基国 の次男。初め、左馬助と称していた。以来、能登畠山の嫡子は、4代の義元に至るまで、代々それを襲称した。満慶は、応永13年(1406)、父の基国が死去すると、畠山氏の家督を相続し、修理大夫の官途を受領すると同時に、河内・越中・能登・紀伊4ヶ国の守護職に補任された。これは早くから父基国の後継者的活動を行っていた兄の 尾張守満家 が、先に足利義満(前将軍・太政大臣)の勘気を蒙っていたため、義満の命令によって、弟の満家がその地位についたものであった。
だが、応永15年(1408)、足利義満が死去すると、満慶は畠山家の家督と4ヶ国の守護職を兄満家に譲ったため、満家もこの弟の芳志に感謝し、改めて畠山分国のうちの能登一国の守護職を満慶に与えることになった。当時の人は、この兄弟愛を「一世の美挙」として賞賛した。ここに満慶を始祖とする管領畠山家の第一の庶流=能登守護職が成立し、当時満慶が修理大夫を名乗っていたことから、この家は、その唐官名によって「畠山匠作家(はたけやましょうさくけ)」と通称された。よって、畠山満慶は、初代能登畠山当主である。守護代には、南北朝時代初期から管領畠山氏の執事として活躍した遊佐氏から、遊佐祐信を起用した。遊佐氏は、もともと出羽国飽海郡遊佐郷にすんでいたが、畠山氏が奥州探題の時、仕えるようになったもよう。
満慶は、畠山宗家相続の直後に、剃髪して修理大夫入道道祐と号しており、庶家能登畠山氏に独立した後も、宗家の兄満家を助けて、畠山一族の発展に寄与した。満家が、再度、室町幕府の管領の地位に就いた応永末年度(1420年代)には、将軍の御相伴衆(幕閣の最高権力者グループ)に列していたが、永享4年(1432)6月27日、病気の為、死去した。享年61歳。法名は勝禅寺殿真源道祐大居士という。菩提所勝禅寺(廃寺)は、後年、能登国で創建され、戦国期には能登畠山家の庶子の入寺も知られる。
また、兄満家は、晩年長く病床にあったが、弟満慶の死にあたり、その落胆ぶりには絶するものがあったという。満家は、翌永享5年、弟の後を追うかのように、この世を去っている。なお、満家・満慶兄弟は当時の資料に同じ年齢と見えるが、満家は、庶子であり、つまり満家とは腹違いなのであり、同じ年であることは充分ありえることである。

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