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書評(平成18年11月23日)

『吾器に過ぎたるか』(佐藤雅美著・講談社)

  ここで紹介する小説関係はこれで3冊連続、佐藤雅美氏の本となった。今回の作品は、大原幽学という名の自称元尾張藩の浪人が主人公の話。彼は「自分の行いを正しくする、そうすれば身を過たずにすむ」と農民などに道を説き、そのために自ら淫犯、飲酒、遊楽を厳しく戒め、門人の範となってきた。信州上田など各地で教えを説いたらしいが、何とはなしに渡った房総の地に居つき、多くの弟子を得て、性学と呼ばれるようにまでなり、また多くの寒村を再興させた。そのため腰を落ちつけた長部村の領主御三卿の清水家にも褒章されりもしたが、晩年八州廻りから思いもよらぬ因縁をつけられ、人生を捻じ曲げられる。 

 八州廻りといえば、先日も 佐藤雅美氏の「六地蔵河原の決闘—八州廻り桑山十兵衛」 を読んだ。あれは文政年間の頃の話だが、こちらはペリーが来航した前後の話。少し時代は下がっている。この本の中には、当時の八州周り(関東取締出役)として、中山誠一郎、関畝四郎、渡辺園十郎、吉岡静助の4人が出てくる。また江戸における取調べには、勘定奉行本多加賀守の他、勘定所の評定所留役・木村敬蔵及び評定所留役助・菊地大助という人物が、一件の吟味担当として登場する。私自身は詳しい事は知らないが、この作品は歴史的事件を扱った作品だけに、どうやらこれらの人物は全て実在の人物らしい。
 
 幽学が、何ゆえ八州廻りから目を付けられたかというと、20数ヶ村にも及ぶ一帯にお互い道友と呼び合う多数の弟子を得ていた上に、彼が落ち着いた長部村というところに、大きな普請の教導所を開き、改心楼と名付け、色々活動していたかららしい。人を疑う目でしか見ない八州廻りからすると、何とも胡散臭く見えたのだ。問題を起こされたからでは自分らの失態となるので、長部村とは近い土浦の佐左衛門という岡引に、幽学らの活動のあら(江戸へ引っ括って送れるような口実)を見つけるよう指示する。

 意向を受けた佐左衛門は、自分で調べたところ、地元の評判はすこぶる良く、実際幽学に会ってみても何の怪しいところも無い。教導所も、幽学に感服した弟子達がすすんで建てたもので、造りは大きいが質素なものだ。彼は、この八州廻りの指示がいやになり断ろうとするが、彼らの命令で、誰かを弟子に入れて内偵させることになる。

 内偵役と、彼に同行した地元のチンピラに近い2人の男は、性学の者達の実態を知るだけに、弟子入りによる内偵など、いつまで経っても怪しい点など見つけられぬと、弟子入りのために訪問した際、わざと騒動を起こす。この事件をきっかけに4人の八州廻りが現地へ乗り込み、俄か御白洲で尋問。そのうちこの事件の裏には、八州廻りが陰で動いているという噂を指摘され、紛糾する。4人の八州廻りも、江戸の御白洲でこのことが取り調べられ、自分らの仕組んだことが公になるのもまずいので、事件は内済で済ますことになるかにみえたが、結局事件は江戸の勘定書の御白洲で吟味されることになる。

 一件の担当となった勘定所留役の木村敬蔵は、この事件がどうやら八州廻りの捏造による事件と認識するが、幽学の出生(御小人目付・高松彦七郎の実弟で元尾張藩士の浪人の養子)の嘘(本当は無宿に過ぎない身分)を素直に認めない態度に、臍を曲げる。また出生を嘘で固めた上に、目付方の後押しも得て(目付方の面目にも関わることから)、勘定方に対抗するかのような強行な姿勢が見えてきたので、木村は、この一件を“店さらし”にしようと決め、意趣返しに出る。

 このような公事には、在の者は江戸への旅費や宿の滞在費など多額の出費を強いられるのだが、数度の御白洲での吟味の後、パタッと吟味は無くなり、事件はその後何と1500日も開かれずに・・・・・。最後は、武士らしくあろうとしたのだろう、見事な作法通りの切腹をし、無念の生涯を終える。

 私は、これを読んでいて、確かに幽学の生涯は無念なものではあるが、幽学にも落ち度が多々あったようにも思えた。父親が元尾張藩の浪人と自称していたとは言え、本当の浪人なら証明書というものがあるはずということも彼自身知っていた訳である。空想を膨らませ嘘を色々述べ、身分を偽っていた訳だ。当時の貧しい境遇の人間なら、このような事は仕方ないことなのだろうか。それぐらいの嘘は、まあ多くの浪人や農民がついていたとはいえ、このような事でこれほどの大騒ぎになったのは非常に珍しいことであり、それだけに可哀相なことだが、この彼の嘘が実際問題になってしまったのだから、身から出た錆ともいえる。

 ただし彼の業績は、それはそれと評価してあげた方がいいのだろう。彼は、合理的農業の為に耕地整理や農家の移動(農地への近くへの)を行ったり、農業協同組合である先祖株組合(せんぞかぶくみあい)を作るなど、農民が協力しあって自活できるように各種の実践仕法を行いました。これにより多くの村々が立ち直り、始めにも記したように領主(清水家)から模範村として表彰されたりもした。いわば時代を先取りしたような実践的指導者だったわけだ。

 この大原幽学に関しては、ネットで調べたところ「大原幽学記念館」というところが千葉県旭市にあり、 同記念館のホームページ もあるようだ。勿論、この本にも彼の行った仕法が色々と出てくるが、こういうことは彼の業績を顕彰しているこの記念館で調べる方がいいかもしれない。関東の方は、房総半島を周遊旅行したついでにでも立ち寄って、見てくるといいかもしれない。  

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