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書評(平成18年11月29日)

『沼と河の間で—小説大田蜀山人』
(童門冬二著・毎日新聞社)

 大田蜀山人(直次郎)に関しては、一年ほど前に 平岩弓枝さんの『橋の上の霜』(新潮文庫) を読んだことがある。
 あちらと比べてみると、かなり内容も違う。平岩さんの本では、学問吟味は第2回目のみ受けたように書かれているが、こちらでは一回目も受けたが落第し、2回目にようやく合格したように書かれている(ただし御目見得以下では首席合格)。他にも色々。どちらが史実により沿っているかは私にはわからない。また2つの本は、話題として注目している点も、かなり違うように思う。

 平岩さんの方の『橋の上の霜』のコメントとして、私は次のような文章を載せている。
 「この小説は、主人公・大田直次郎が謹厳実直な性格でありながら、そんな艶福なため、女性との関係から生じる様々な問題や、息子など家族内の問題、彼を狂歌の師と仰ぎ慕う仲間らとの友情やその死などを通して、悲喜こもごもの人生を描き出しており・・・・」

 今回は、作家が元東京都庁の広報室長や企画調整室長を勤めた童門さんの本だけに、組織における人間関係やそこでの処世に、やはりより注目しているように思えた。そもそもこの本は、直次郎の狂歌師の時代は書かれておらず、松平定信が筆頭老中の時代となり、彼が狂歌や戯作との絶縁宣言をして、学問吟味への意欲を見せた時から書き始められている。

 それ以前の田沼時代は、その右腕ともいうべき立場にあった土山宗次郎が、戯作者や狂歌師たちのパトロンとしてあった。直次郎も土山の厚遇を受け、酒・女・狂歌にのめり込んだ。しかし政治主導者が変わり、直次郎が筆を折り学問吟味合格を目指すと、昔の仲間達や彼をそれまで支持してきた者たちから揶揄される。

 一度目の吟味では失敗したが、幼馴染で昌平坂学問所の教授でもある岡田寒泉などからも励まされたりした。岡田寒泉には、狂歌師として高名を得ていた直次郎を堕落した武士として考え、彼を評価しようとしない学問所の事務のトップ森山源五郎との間を取り持ってもらい、改心釈明の席を設けてもらったりする。

 第二回目の学問吟味で、直次郎は御目見得以下の首席をとる。そんな頃、巷で評判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶぶんぶと夜も寝られず」が彼の作だと噂されるようになる。前回の吟味の時も同じように噂された。いくら否定しても、認められない。

 そんな影響などもあり、しばらく同じ御徒歩組のまま無役。やっと勘定所へ配属が変わっても、毀誉褒貶の状態。また新たに評判をとった「白河のあまり清きにたえかねて 濁れるもとの田沼恋しき」も彼の作だと噂される。

 やがて新任の勘定奉行となり、彼の事を評価してくれ転機が訪れる。孝子節婦の表彰の提案が契機で、彼はその任に就く。彼は全国から集めた話を『孝義録』という文芸作品までに高め、上層部からもその功が認められる。念願の大坂銅座詰となるかと思われたが、彼の文書整理の能力に注目した奉行は、彼を勘定所内の反故となった文書の整理役を命じる。その仕事でも大いに力を発揮し、やっと念願の大坂銅座詰へ。・・・・・

 いかにも元役人であった童門さんらしい視点の小説だ。「小説 上杉鷹山」あたりは、結構評価できたが、どうもその後の彼の作品でとことん納得できる小説は少ない。例えば森山源五郎に、会って偏見を解いてもらおうとする場面やその他の色々な場面では、どうも役人的処世術色彩が強く私としては、馴染めぬものであった。やはり学問吟味などは最初の吟味の際に直次郎の考えの中にもあったように、公正に試験成績・能力だけで望むべきではないか。

 自分の意見を通してもらうために、ある人物に近づくという手段はあろう。しかしこの場合に当てはめれば、そのような状況はあくまでも、合格してからであろう。現代、こういう事がわかれば絶対に問題だし、場合によっては犯罪として裁かれよう。

 たとえ選考者(試験官)が偏見を持っていて、自分を落そうと悪意を持っているとしても、そのような行動は正当化できない。
 公明正大であるべき場で、そのような裏での接触行動に出ることを意義あるように書いている童門さんは、結局そのような世界にどっぷり浸ってきた人間ではなかったのかと疑ってしまう。こういうことがまかり通るなら不公正・不公平以外の何物でもない。
 ただし大田直次郎の人生に、こういう事件が実際にあったかどうかは私は知らない。

 林術斎に政治に対する意見を求められ、直次郎は、北辺問題を政治課題化した田沼時代も再評価すべきことを、意を決して述べ、左遷させられる。童門さんは、男として譲れぬ一線を貫いた点を強調することで、処世的な生き方をしがちな‘宮仕え'も、こういう場面があるのだと、そういう生き方を正当化しようとしているのかもしれない。だがこういうことは個人の生き方の問題であり、要は人間の品格品性の問題である。

 私は、別に大田蜀山人の生き方を否定しているのではない。その生涯に非常に興味があるし、この本の大部分でも共感できる。多分高潔な人物だろう。少し心に染まないのは、童門さんの考え方の一部に問題があるように思う。今後も、大田蜀山人関係の本は、色々読んでみたい。できれば日記など、彼自身が書いた本も読んでみたいと思う。

(この本は七尾市立田鶴浜図書館から借りてきた本です)

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