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書評(平成19年06月17日)

『感奮語録』(行徳哲男著・致知出版社)

  行徳哲男氏の名前は以前からよく知っていたが、単行本で読むのは今回が初めてだ。以前ネットで知り合った方から、雑誌「致知」を紹介してもらい、何度かその中で数ページの文章は読んだことはあった。安岡正篤先生亡き後、日本の政財界の師ともいわれていることも知っている。
 昨日(6月16日)近所の友人と飲んでいて、行徳哲男氏を知っているかと聞かれ、知っているがまだ本格的に読んだことはないと言ったら、是非お奨めの本ですからということで、帰りにその友人の家に立ち寄って、借りることになった訳である。
 
 色々いい言葉が載っている(本人の言葉か他人の言葉の引用かよくわからない箇所も多いけど)。私の知っている歴史上の話も幾つか載っていた。それらをうまく採り上げ、いい本に仕上がっていた。感心・納得・同感したりして気に留めた箇所など、少しピックアップしよう。(ただしこの本に全く同感した訳ではない。納得のいかない部分もある。それに関しては、 下の方に 書いておきましたので、興味ある方は、この太字をクリックしてそちらに進んで見てください。)

 「歴史に学ぶとういうことはそこにでてくる人物や出来事に没入することである。歴史の中に深く入り込み、歴史を今に手繰り寄せることができた人は、必ず奮い立つものだ。」同感だ。歴史の意義はこれだけではないが、大きな意義の1つであると思う。

 幕末に官軍が江戸に攻め入ろうとするとき、山岡鉄舟が幕府方の使者として命懸けで敵陣を突破して駿府におもむき、西郷をかき口説く。厳しいやりとりの末、西郷に「敵陣深く一人で乗り込んできて、その場で斬られたらどうするつもりだった」と聞かれ、山岡は「もとより覚悟の上です」ですと答えた。その一言を聞いて、西郷は江戸攻め中止を決める。
 先日、小栗上野介に関する小説「覚悟の人」という本を読んだが、覚悟ある人間がみせる、誠というか真実さは、力強いものだなと、思った。

 「志の吹き当て」なんていう面白い言葉も出ていた。吉田松陰は「志高ければ気おのずから盛んなり」という言葉もあげ、志とは法螺と同じで吹いた手前、やらざるを得なくなる。法螺に向かって頑張れる。頑張って遣り通してしまえば法螺でなくなると述べている。法螺は私はとてつもない法螺吹きの父親が身近にいるだけに嫌いである。しかし志が高いことは、確かに気を盛んにするのは事実だと思う。

 吉田松陰の「狂」というか狂愚のことも載っていた。司馬遼太郎氏も、『世に棲む日々』で松陰の狂について説明していたが、確かに何か困難な事をやり遂げるときには物狂いになるしかないのかもしれない。

 「統率者になるには情け、感動が必要である。感ずることは即ち動くこと、感じさせることは即ち動かすことである。知動も理動もないのは、知識や理屈では人は動かせないからだ。人を動かすのは感動であり、情動である。」
 「偉大なる思想は心情より発する。情け深い人でなければ真に正しい人間にはなれない。人間の最も本質的なものは理知ではなく心情なのである。」
 「イデオロギーとは野望の隠れ蓑にすぎない。真に偉大な思想というのは心情より発するものである」

 「地や理が感性を圧倒すれば危険である。想像(感性)の欠けた分析ほど危険なものはない。」「知は禍なり。博学にして要を失す。」「知性や理性はすべてを分析し、客体とする。自分でさえも。その結果、自分が自分から隔たり、自分に一体化しない。これが21世紀を襲う人間の最大の危機である。」

 「中国に「人がわかるというのは、自分が自分でわかった幅である」という教えがある。心理学でも、他社認識は自己認識の投影だという。人は自分の写しであるがゆえに、自分が見えない人間には、また人も見えないということである。」

 本の前半の紹介だけで、かなりのボリュームを費やしたので、疲れてしまい、後は、端ょってしまった。  <(^^;;
 とにかくなかなかいい本です。自分を励まし主体的に自らの人生を力一杯によりよく生きることを奨めており、そういう人生を生きる上での参考になります。お奨めの一冊です。

 ただし、上でも書きましたが、私はこの本を勿論全肯定しているわけではなく、一部納得いかない部分もありました。それに関しては下の方で書いておきましたので、興味ある人は、そちらを見てください。

   (源さんの納得のいかない点)

  先日、 行徳哲男の『感奮語録』(到知出版社) を読んで、なかなか得るところが多いと感じたので、書評のコーナーにちょっと紹介したが、実はどうしても納得いかない部分もあった。それは第5章の「紛れもない私を生きる」の中の「集中の世界」の文章だった。

 「感性とは集中・統合・統一機能である。それゆえ集中できなくなると感性は鈍る」→ここまではわかる。次に「集中するとは思考停止することである。千日行にしろ、滝壷修行にしろ、火中歩行にしろ、少しでも考えてしまうと命にかかわる。思考停止の行である。」→集中は集中であって思考停止でないと思う。色々な方面の感性を麻痺させて、ある一事のみし考えないことであると思う。

「どうすれば考えることをやめられるのか。その一つに半眼の世界をつくることがある。目を開けると考える材料が目から飛び込んでくる。目をつぶるとまた考えてしまう。ゆえにその真ん中をとる。それが半眼の世界である。」→これは間違いだと思う。現に私の知っている禅宗の僧侶は、目をつぶらないのは(目をつぶると考えてしまうからではなく)、目をつぶると眠ってしまって、いわば思考というか主体的精神の働きを停止してしまうから(それでは駄目なので)半眼にするのである、と云っている。

 座禅とは、只管打座というように、只(ただ)管(ひたすら)精神を集中して座禅を打ち自分の心を見つめることであるから、その心を見つめること以外はいかなる考え・感覚も向けないようにする訳である。考えではないかもしれないが、何も考えないというの言い方では、不適切である、じっと心をみつめるのである。

 行徳哲男氏は、偉大な思想や発明も、それらをなした偉人が、思考を停止したときそれらのヒントを得たようなことを述べていた。しかしかなり自分の説に都合よく単純化して言っているだけで、嘘とはいわないまでも、かなり事実を曲げていると思う。私が知っている限りでは、行徳氏があげた幾つかの例も、思考を停止したから思いついたり悟ったのではなく、考えに考え抜いて、思考が堂々巡りするぐらい何度も考え直し、それが他のことには全く注意が向かないほどの極度の集中を生み、ある契機でブレークスルーしてある偉大な発見をしたり、思想を生み出したり、悟りに到っているのである。

 行徳氏は、陽明学者として、知行合一の実践的思想の教えから、あまり考えすぎて、何かの判断をしないといけない時に、優柔不断となり判断できなくなることの心配からこのような事を述べているようだ。しかし何かの判断・決断をしないといけない時、堂々巡りしている場合どこかの時点で、集中して考えた後スパッときめることの重要性と、何か重要な思考を要する仕事で、集中してというか没頭して考えて考えて考え抜くことは、次元も違うし、意味合いも全く違うと思う。

 思うに哲学者ともいえる思慮深いはずの行徳氏が、こんな単純な括り方の発想をするのは、理系型人間でなく文系型人間だからだろう。理系的仕事は、どんなに何度も考え抜いても同じ答えしか見つからないような場合でも、色々少しずつ条件を変えてやり直してみたり、ステップを最初に戻って確認しなおしたり、そういう作業が非常に重要になる。集中しながら堂々巡りと思われるくらい考えて考えて考え抜くこともしばしば非常に大切なことなのだ。

 こういう批判めいたことを書くと、お前ごときが行徳氏に反論するとは生意気だ、などといわれそうだが、私は有名な人だからと言って無批判的に考えを受け入れるつもりは無い!
 これからもこういう本は、批判的試みを加え、自分なりによーく考えながら読書したいと思う。

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